カヨコさんが退院してしばらくした頃,クリニック・アンジュで笠原さんから相談を受けた。
「ここには,ニューハーフの風俗の子も何人か検査に来ています。そのうちの1人から,ここでホルモン剤,女性ホルモン剤を扱ってくれないかと言われてるんです。『女の子にピルを売ってんだから,ボクたちにホルモン剤を売ってくれてもいいでしょう?』という理屈なんですけど」
ボクはちょっと笑った。
「まあ,一応筋は通ってますね。それで,なんというホルモン剤を希望なのですか?」
「ええっと・・・・プロセキソールというお薬が希望だそうです」
笠原さんはメモを見ながら答えた。ボクの知らない薬だった。
「まあ,その子たちがふだん使っている薬なら,そんな危険な薬ではないと思うから,ここで売ってもいいと思いますけど,一応どんな薬なのか調べてみますね」
ボクはさっそく調べてみた。エチニル・エストラジオールを1錠に0.5mg含んでいる錠剤。その適応が「前立腺ガンの治療」と記載されているのが目を引いた。たいていの女性ホルモン剤は更年期障害とか月経困難症とか不正出血を適応にしているけど,ガンの治療に使われるというのは,それほど強い薬なのか? だけど,エチニル・エストラジオールの名前はよく知っている。低用量ピルに使われている卵胞ホルモン剤。確か1錠あたり0.35mg含まれている。さほどの違いじゃないけど・・・・と思って念のため低用量ピルを調べたら,1錠あたり0.035mgと記載されている。一瞬〔たいした違いじゃないけどなあ〕と思いかけて,数字を見直した。〔1桁違ってる!〕
プロセキソールという薬には1錠あたりピル14錠分くらいのエチニル・エストラジオールが含まれているのだった。〔あの子たちは,こんな薬を使ってるのか?〕こんな薬をここで取り扱うなんてとんでもない,と思いかけて,考え直した。ここで売らなければ,あの子たちはどこかで買う。現に使っているというのは,どこかで買っているということだろう。ならば,ここで売ることにして,きちんと使い方を注意する方がいいのでは?
ボクは自分の考えを笠原さんに伝えた。
「先生は,ほんとうに優しいですね」
「甘いってことですか?」
「そういう意味じゃありません。ニューハーフの子たちの体のことをまじめに心配してくれているから」
「医者が患者の体ことをまじめに心配するのは,あたりまえじゃないですか?」
「まあ,そうなんですけど・・・・その薬を買いたいと言ってるのは今のところ約1名です。その子に伝えておきますね。木曜日か金曜日か土曜日に受診するようにって」
1週間ほどして,診察室にピーターという名の,もちろん芸名,この世界では源氏名というのか,ともかくピーターという名のニューハーフの子が入ってきた。
「プロセキソールを売ってくれるんだよね。ありがとう」
「ああ,キミでしたか。ちょっと時間ある? いくつか説明というか注意しておきたいことがある。ここに座って」
患者用の椅子を指すボクにちょっとふくれっ面しながら,ピーターは言われたとおり椅子に座った。
「毎日1錠のんでるの?」
「そうだよ」
「それは,どう考えても多すぎるよ。卵胞ホルモンが,低用量ピルの14錠分くらい含まれているんだよ」
「14錠分だと,死ぬの?」
「いや,すぐに死にはしないけど・・・・だから構わないってわけじゃないんだ。確かに,エチニル・エストラジオールを毎日0.5mgずつ服用し続けるとどうなるかなんて研究はないと思う。そんな研究をしている人はいないと思う。ただ,直観的に1日1錠は多すぎる。不自然なことはしない方がいい」
ボクの説明を聞いて,ピーターは笑った。
「先生,ボクたち,思いっきり不自然なことをして生きてるんだよ」
「それはそうかもしれないけど・・・・」
ボクは困ったような表情でうつむいた。そのボクの顔を,ピーターはのぞき込む。ボクは顔を上げて説明を続ける。
「薬というのは,どんな薬でも,効き目の上限というのがあるんだよ。そのレベルに達したら,それ以上どんなにたくさんのんでも,効き目が強くなることはない。ただ副作用が増えるだけなんだ。エチニル・エストラジオールの効き目の上限がどのへんなのか,ボクには分からない。だけど,ふつうのピルの14倍というのは,直観的に考えて多すぎるよ。もともとこの薬はガンの治療に使う薬なんだ。ガンの治療ならかなりの副作用は覚悟していい。でも,キミたちにそんな危険なことはさせたくない。1日あたり0.5ミリグラムのエチニル・エストラジオールを毎日のみ続けるなら,肝機能障害のリスクも高まるし,血栓のリスクも高まる。危険なことだよ。毎日1錠のむなんて無茶なことはやめなさい」
ボクは,なんとか説得を試みた。そんなボクをピーターは意外そうな表情で見ている。
「先生,ありがとう。難しいことは分からないけど,ボクのことを本気で心配してるんだね。先生が初めてだよ。ボクのこと,そんなに真剣に心配してくれる人」
「医者が患者のことを真剣に心配するのは,あたりまえじゃない」
ピーターは,今度は,はにかむように笑う。ボクは話を続ける。
「だから,1日1錠は多すぎる。1日おきに半分ずつ,つまり4日で1錠のむように」
この言葉を聞いて,ピーターは笑みを残しながら不満そうな顔をする。
「それじゃあ,ぜんぜん足りないよ」
「キミの体のこと考えているんだよ」
「別に,長生きしたいなんて思っていないよ」
「ピーター!」
ボクは思わず,相手の名前を呼び捨てにして呼びかけた。
「分かったよ。じゃあね,毎日半分ずつのむことにするよ。ボクも妥協するからさ,先生も妥協して」
「両方がお互いに妥協するって,そんな問題じゃないよ」
ムキになってるボクがおかしいのか,ピーターは明るい表情でちょっと笑いかけた。
「それにさ,もし先生が4日で1錠しか出してくれなくても,ボクはよそでももらうことができるし,個人輸入もできるんだ。でも,そんなことしたくないんだ。先生にはウソつきたくない。先生を騙すようなことはしたくないんだ。ボクのことを本気で心配してくれている人だから。そんな人を裏切りたくないんだよ。だから,先生も妥協して」
〔その『だから』はいったいどんな論理なんだ〕と言いたくなるのをこらえた。冷静に考えれば,ピーターの言うことは事実なのだ。抜け道はいくらでもある。ならば,ボクが一元的に管理する方がまだましかも。もちろん,ほかで薬をもらわないというピーターの言葉が信用できるなら,のことだけど・・・・ボクが信用しても,信用しなくても,ピーターはその気になれば自分がほしいだけの薬を手に入れることができる。どっちにしても同じなら,信用しよう。
「分かった,1日半分ずつ。1ヶ月分として15錠だね」
「うん。お願いね」
「ここだけだよ。ぜったい,よそで薬をもらわないようにね」
ボクは念を押した。ピーターはボクをじっと見ている。つい先ほどの明るい表情が消えていく。
「先生,ボクを疑ってるの?」
心の中で〔シマッタ〕と叫んだ。信じると決めたら,素直に単純に信じればいいのだ。余計なことを言わずに。
「疑ってなんかいないよ。信じているよ。『先生を騙さない,先生を裏切らない』という言葉,心から信じているよ。ただ,つい,医者の習性で,念を押してしまった。それがキミを傷つけてしまったのなら,謝るよ。ごめんね。疑ってたわけじゃないだよ」
ボクは真剣な表情で語りかける。ピーターの表情にまた明るさが戻ってくる。
「先生は信じてくれるんだね。ボクのことを信じてくれるんだね」
ボクは深くうなずく。
「先生だけだよ・・・・家でもそうだった。お兄さんが『ピーターがやったんだ』と言えば,親はボクの言うことなんか聞かずにボクを叱りつけた。学校でもそうだった。他の子が『ピーターのせいだ』と言えば先生はボクの言うことなんか聞かずにボクのせいにされた・・・・先生は,藤原先生は,ボクを信じてくれるね?」
ボクはもう一度深くうなずく。ピーターの表情に笑みが表れた。安心したような笑みを浮かべて席を立ちながら,先ほどの軽く明るい口調に戻って,話しかけた。
「先生,すごい美人だけど,男だよね。ボクたちの同類?」
この状況で予期していなかったことを言われて,ボクは戸惑った。でも,ピーターはそんなボクの表情を誤解した。
「ごめんなさい。怒らないで。お医者様がオカマのパン助の同類なんて,とんでもないことだよね。ごめんなさい」
涙声でそう謝って,急いで立ち去ろうとするピーターに,ボクはあわてて声をかけた。
「ピーター,自分のことをそんなふうに言っちゃだめだよ」
ドアノブに手をかけたピーターは一瞬こちらを振り向き,びっくりした表情を見せ,そしてすぐに背を向けて診察室を出た。
それ以来,ピーターは毎月,検査とあわせてプロセキソールを処方してもらうため,診察室に顔を出すようになった。ピルなど,毎回同じ薬を同じように処方する場合は,お互いの手間を省くために診察室に入らなくてもいいことにしているけど,ピーターは必ず診察室に入って,何かおしゃべりをしていく。医学的な質問のこともあるけど,たいていはどうでもいい無駄話。でも,そんな話をしたいのなら,拒絶することはない。
ある時,1枚の写真を見せてくれた。
「ピーターの写真だよ」
「・・・・?」
「先生,知らないの? 池畑慎之介の別名」
「そもそも,イケハタ・シンノスケという人を知らない。テレビをぜんぜん見ないから」
「そうなんだ・・・・勉強ばかりしてたんだね。尊敬するよ・・・・ピーターのデビュー当時の写真なんだ。すごくきれいでしょう。子供の頃のボクの神様だった」
「だから自分の名前にしたんだ」
「そうだよ」
「ピーターも・・・・キミも,同じくらいきれいだよ」
「ありがとう。先生はお世辞を言う人じゃないから,本気でうれしいよ」
「ピーターはもっと自信を持っていいんだよ。頭のいい人が尊敬されるんなら,美しい人だって尊敬されていいんだから」
「じゃあ,先生はダブルで尊敬されるね」
「・・・・」
「冗談だよ。先生,冗談にまじめに対応するからおもしろい・・・・ごめんなさい。気を悪くした?」
「別に,そんなことないよ」
「ほんとうに? ほんとうに,怒ってない?」
「ほんとうだよ」
ピーターはほっとした表情。とても親しげな口をきくかと思うと,急に怯えたような態度を見せる。
笠原さんと語り合ったことがある。
「医者は,特定の患者に特別な関心を持ってはいけない。すべての患者に対等に接しないといけない。というのは臨床倫理の基本なんだけど,どうしても,ほかの人より気にかかる患者って,いるんですよね」
「まあ,お医者様も人間だから,多少は仕方ないでしょう・・・・ピーターのこと?」
ボクはうなずいた。
「えこひいきはしないよう気をつけているんですが,逆に気をつけすぎて,辛く当たっていないかと,それも気になって」
* * * * * * *
その年の12月中旬,「小石」の店内に
「今年いっぱいをもって閉店します。長年のご愛顧ありがとうございました」
という張り紙が出された。ガンが進行して働き続けるのが辛くなったということは,お客には話さない。だから客たちは
「とうとうママも,寄る年波には勝てないか」
と冗談を言いながらも,閉店を心から惜しんでくれた。閉店記念というか,長年にわたって自分たちに居心地の良い隠れ家を提供してくれたママに感謝するパーティーでも開こうかという話も出たけど,カヨコさんが断った。
「小石は静かに転がって消えていくの」
ボクはヒカルに手紙を書いた。お正月に帰るという約束を果たせないことを知らせるために。カヨコさんの状況を説明した。書き綴るうちに,ボクはピーターのことも書きたくなった。
1週間もしないで,ヒカルから返事が来た。
- もちろん,このお正月は,これからの何ヶ月かの時間は,カヨコさんのために使って。わたしもそうしてほしいよ。そんな優しいロミーが好きなんだから・・・・残された時間,悔いのないようにね。ロミーも,カヨコさんも。
ピーターという少年,もう少年じゃないのか,そんな仕事をしてるんだから,でもロミーの文章からは少年をイメージしてしまう。ともかく,ピーターはロミーになついているのね。そしてロミーはそんなピーターを慈しんでいる。まあ,特定の患者を気にかけるのは医師として問題と言えば問題だけど,その程度は許されるんじゃないのかな。・・・・「ボクが信用しても,信用しなくても,どっちにしても同じなら,信用しよう」というのは,いい発想ね。ロミーと話してると,性善説を信じる気になる。
それにしても,ロミーはいい人に育ったね。子供の頃,周りから嘲られ,からかわれ続けて,ぐれてもおかしくなかったのに。 -
それは,ヒカルがいてくれたからだよ。ヒカルがボクを守ってくれたからだよ。ヒカルがボクを心から愛してくれたからだよ。ヒカルは自分がボクのためにしたことの大きさを分かっていないのかな。
大晦日の夜。いつものように12時に店を閉める。前もって閉店を予告してあったから,なじみの客たちのほとんどはボトルを飲みきっていたし,飲み物や食材の在庫をなくすよう,数日前からタダで振る舞っていたけど,それでも少しは残り物がある。
「ロミーさん,よかったら飲み食いして。嫌いなものは捨てていいから」
そう言ってカヨコさんは除夜の鐘を聞きながら後片付けしている。ボクも手伝った。
この頃には,もうオピオイドが処方されるようになっていた。