年が明けて,ボクはカヨコさんの部屋を訪れた。きちんと片付いている。
「要らないものをどんどん処分してるからね」
と語るカヨコさんは,こたつに入り,レコードプレーヤーをこたつの上に置いて音楽を聴いていた。
「ロミーさんもおいで」
ボクは一緒にこたつに入り,音楽を聴く。
「ミカン食べる?」
「はい」
「一人で1個食べきれないのよ」
そう言ってカヨコさんは1個のミカンを剥いて,半分をボクに渡してくれた。傍目には,おばあちゃんと孫がこたつに入って,ミカンを食べながら,おばあちゃんが愛した音楽を一緒に聴いている,ほほえましい図なのかもしれない。
カヨコさんは半分のミカンをゆっくり食べ終えた。
「ちょうどいい機会だから,ロミーさんに話しておきたいことがある」
そう言われて,ボクは身構えた。
「そんなに身構えなくてもいいのよ。大した話じゃない」
カヨコさんは笑いながら,話を始めた。
「以前,自分の城を持つ話をした時,『度胸と意地と見栄なのよ』って話したことがあるけど,もちろんそれだけじゃなくて,計算も要るわ。わたしはわたしなりに計算したのよ。店の経営を圧迫するのは,売上げがどんなに少なくても払わないといけない固定費。固定費がゼロなら,よほどのことがない限り潰れはしないだろうって。そして,固定費で一番大きいのは家賃と人件費。だから,自分の持ち家で,人を雇わず,自分一人で切り盛りすれば,自分の食い扶持を稼げばいいだけなら,潰れないって計算したの」
カヨコさんはここまで話して,黙った。ボクは,まだ続きがあるのかと待っている。
「これで終わりよ。もっといっぱいあると思った? これだけ,話したかったの。ロミーさんの参考になるんじゃないかって」
そう言って,穏やかな表情でレコードプレーヤーから流れる音楽を聴いている。
カヨコさんは,もうカウンターの仕事はできなくなり,食も細くなったけど,部屋で静かに過ごしている分にはまだ重病人という感じではない。在宅医療の主治医は週1回往診に来る。看護師はそのほかにもう1日やって来る。まだ介護は頼んでいない。細々した症状はそれぞれの薬で抑えながら,痛みはオピオイドで抑えながら,身の周りのことはまだカヨコさんが自分でやれている。ボクが代わりに買い物に出かけるくらいのことはあるけど。でも,いずれほとんど床に就くようになる。そうなったら,できればボクがずっと一緒にいてあげる方がいいのだけど,〔ボクがこの部屋に寝泊まりする?〕それはさすがに,ボクにとって不便に思えた。そして,1つのアイデアが浮かんだ。
「カヨコさん,これからのこと,話してもいい?」
カヨコさんは穏やかにうなずく。
「今はまだ,自分の身の周りのことを自分でやれているけど,やがてほとんど寝ているようになる。そうなると,ボクがいつもそばにいてあげる方がいいんだけど,ボクがこの部屋に泊まり込むのは,正直言って,ボクにとって不便なんだ」
「そりゃあ,そうね」
「それでボクが思いついたのは,そうなったらカヨコさんが1階に寝泊まりすること」
「バーに?」
「うん。カウンターは幅が60センチくらいなんだけど,素晴らしいことに椅子の背もたせの高さがちょうどカウンターと同じなんだ」
「うん,そうなの。そのようにしたの」
「だから,椅子をふだんとは反対向き,通路向きというのかな,そっちに向けて,カウンターから20センチくらい離して並べて固定してもらうと,カウンターと背もたせの列の上に幅90センチくらいのベッドは置ける」
「あそこがわたしの死に場所になるの?」
「いや?」
「とんでもない。本望よ・・・・」
カヨコさんはしばらく黙っている。ボクも黙っている。それから,カヨコさんがボクに尋ねた。
「ロミーさんは,あの世とか天国とか地獄とか死後の世界とか,信じている?」
「いえ。信じてません」
「そうね。お医者様は科学的だからね」
「・・・・まあ,医者の中にもクリスチャンや仏教信者はいます。そういう人たちは信じていると思いますよ」
彼女はまたちょっと間を置いて,ボクに尋ねた。
「人は,死んだらどうなると思ってるの?」
「人は,死んだら,物質に戻る。原子に戻り,水や二酸化炭素やその他の化合物になって,地球の物質循環に戻るんだと思ってます」
ボクは,いつかこの種の質問をされると予期していた。だから,淡々とふだん考えていることを語る。
「水になって,雨や雪になって大地に降り注ぎ,植物や動物に取り込まれたり,川に流れ込んで海に注いだり,二酸化炭素なら植物に取り込まれて,それを食べる動物や人間に取り込まれるかもしれない」
「じゃあ,わたしが死んだ後に降る雨にはわたしの体の一部も含まれているの?」
「かもしれません。大気は地球規模で循環するから,この近辺だけじゃなくて,ヒマラヤやアルプスに降る雪,アフリカのサバンナに降る雨にも,カヨコさんの体にあった酸素原子や水素原子が含まれているかもしれない。ボクが食べる野菜や肉にも,ボクが飲むコーヒーやミルクにも,カヨコさんの体にあった炭素原子や酸素原子が含まれるかもしれない」
「あら,わたしの体の一部がロミーさんに入るの? だとしたら素敵だわ」
「その可能性は十分にあります。カヨコさんの体にはおよそ3x10の27乗,つまり・・・・3000兆の1兆倍くらいの原子が含まれているから,そのうちの1個や2個がボクの体に取り込まれても,ぜんぜん不思議じゃありません」
「3000兆の1兆倍,そんなにたくさん・・・・そんなもの,計算できるの?」
「できますよ。そんなに難しくありません。説明しましょうか?」
カヨコさんは笑った。
「いいわよ。ロミーさんの『そんなに難しくありません』は,わたしたち凡人にとっては・・・・」
ボクも笑った。確かに,この場でそんな説明をする必要はない。
「ともかく,そうやって物質は永遠に循環し続けるんです。少なくとも,この宇宙が存続する何兆年かの間は」
カヨコさんは,またちょっと笑った。
「何兆年とは,何とも壮大な話ね」
「宇宙の話をする時は,何億年とか何兆年というスケールになるんですよ。地球の生命進化の話なら何万年,何百万年ですけど」
「それでも壮大な話よ・・・・でも,それはそれでロマンチックね」
翌日,ボクはさっそく職人さんを手配して椅子を固定してもらった。そして在宅クリニックに連絡し,介護ベッドを入れてもらった。
1階の準備は整っているけど,カヨコさんはまだ自分の部屋で暮らしている。この頃になると,医師の往診のたびに溜まった腹水を抜いてもらうようになった。痛みはまだ経口剤のオピオイドで対処できている。食は細くなったけど,まだ飲み食いできる。経管栄養は不要と伝えてある。
「人間,自分の口からものを食べれなくなったら,死に時よ」
とカヨコさんは剛毅に語る。そんなカヨコさんも,しだいに食事もベッドで摂り,ベッドを離れるのはトイレに行く時だけという状態になった。オピオイドは内服だけでなく貼付薬も使うようになった。そして,2月中旬,引っ越すことになった。
カヨコさんの部屋からバーまでストレッチャーで運ぶ。南関東の冬らしい晴れの日。両側に2~3階建ての家屋が建ち並ぶ狭い路地の上の小さな空をカヨコさんは見上げている。
「いい天気だねえ」
バーのカウンターに据えられた介護ベッドに寝かせられたカヨコさんは,天井を見上げている。そして,
「ここで死ねるなんて,本望よ」
とつぶやいた。一緒についてきた在宅医療クリニックのスタッフは,
「ベッドのすぐそばに流しがあってお湯が出るなんて,便利だわ」
と語っている。
その日の夜,夜中に目が覚めてしまった。どうしても1階のカヨコさんのことが気になって,寝付けない。仕方ないから,見に行った。足音を忍ばせて階段を降り,そっとドアを開ける。カヨコさんの希望で,室内は真っ暗にせず,天井のライトを2つ,光量をごく絞って点けたままにしてある。ドアをそっと閉めて1歩,2歩近づくと,
「ロミーさん,どうしたの?」
と声をかけられた。
「起きてたんですか?」
「うん,まあ,うつらうつらしてたけど,ドアが開いたから,目が覚めた」
「ごめんなさい。睡眠の邪魔をして」
ボクはそう言いながら,椅子に腰掛けた。ベッドを支えるのに4つ使い,1つ残っている。
「いいのよ。夜眠れなければ,昼間寝てればいいんだから。それよりも,ロミーさんこそ,明日仕事でしょう」
「そうですね・・・・カヨコさん,痛いとか苦しいとか,ないですか?」
「大丈夫よ。今日,注射器を取り付けてもらって,とても楽」
今日,持続皮下注入器がカヨコさんの胸に取り付けられ,オピオイドが持続注入されている。ガン末期の倦怠感を軽くするためにステロイド剤も処方されている。この期に及んでステロイドの副作用など気にしなくていいのだろう。
「それはよかったね。痛みや苦しい症状には,いろんな対応があるから,そういう時は遠慮しないで何でも言ってね」
「うん。ありがとう」
ボクはそれから5分くらいカヨコさんのそばにいて,自分の部屋に戻った。ボクも安心したのか,すんなり眠れた。
1階に移ってきて10日目くらいだったか,ボクが入ると,彼女は化粧して椅子に座り,歌っている。
- 忘れそうな思い出を そっと抱いてるより 忘れてしまえば・・・・
悲しそうな言葉に 酔って泣いてるより ワインをあけたら・・・・ -
歌い終わって,
「今日は具合がいいんだよ。もう1曲ね」
- そんな話をしてくれる コーヒーショップのマスターも・・・・
・・・・時の流れを見つめてる・・・・ -
歌い終わってベッドに戻る時,ボクがカヨコさんの体に手を添えた。思ったより軽かった。これが,カヨコさんがトイレ以外でベッドから起きだした最後だった。
3月に入ると,ほぼ寝たきり状態になったけど,まだ意識は保たれている。意識を保った状態で痛みをコントロールできている。カヨコさんは
「ロミーさん,何か歌って」
とリクエストする。ボクはカヨコさんから聞き覚えた歌を歌う。『セーラー服と機関銃』,『ワインレッドの心』,『コーヒーショップで』・・・・
「こんないい男を独り占めできるなんて,女として最高のぜいたくね」
なんて冗談を言う元気も残っている。でも,もうほとんど何も食べなくなっている。冷やしたゼリーで喉を潤すくらい。
別の日には,
「ロミーさん,あのドレス姿,見せて」
と頼まれた。ボクは2階でドレスを着て戻ってきた。部屋の照明を明るくした。カヨコさんは,ワンショルダードレスを着たボクをしみじみ眺めている。
そして,とうとう,どれほどオピオイドを使っても取れない痛みが続くようになった。主治医を交えて3人で話し合って,深鎮静に踏み切った。意識が落ち,安らかに眠っている。
「数日のうちに枯れるように静かにお亡くなりになるでしょう」
という主治医の言葉どおり,5日後に死んだ。
その日,ボクはクリニック・アンジュの勤務日。朝出かける時はちゃんと息をしていた。帰ってきたら,呼吸が止まっていた。
ボクは,あらかじめ調べておいた手続きを始めた。まず主治医に知らせて,死亡診断書を書いてもらう。それを添えて死亡届を出すと,火葬許可がもらえる。それから,あらかじめ手配しておいた葬儀屋に連絡し,死体を運んでもらう。カヨコさんは「仰々しい葬式はしなくていい」と言ってるから,火葬してもらうだけ。
葬儀屋が来るのを待つ間,ボクは死んだカヨコさんに化粧した。ファンデーションを塗って,痩せこけた頬に頬紅をさし,落ちくぼんだ目にアイシャドーを塗り,しわの寄った唇に口紅を塗る。翌日も仕事だけど,この夜はカヨコさんを見守って1階で過ごそうと決めた。徹夜するわけではない。椅子に座ってうつらうつら仮眠しながら過ごす。夜が明ける頃,葬儀会社が死体を引き取りに来た。
翌週の月曜日,「死んだら,ここに連絡して」と言われていた公証人役場に電話したら,遺言書を預かっているとのこと。さっそく,出かけた。
遺言書には,家をボクに遺贈し,残っている預貯金は医療援助を行なっているNPOに寄付すると書かれていた。遺言書に添えられた遺書(遺言書と遺書との違いを初めて知った)には,
「1階はこれからもバーにしてほしい。ロミーさんがやってほしい。できる範囲でいいから。週1日だけでもいいから。どうしても無理なら,ほかの誰かに貸すのでもいいけど,それでもいくらかでもロミーさんが係わってほしい」
という文面があった。遺言書と遺書の作成日は去年の12月25日。この時点でもう死ぬ準備をしていたんだ。
帰宅して,ボクは1階に入った。しばらくぼんやり座っていた。それから,〔そういえば,カヨコさんは時々,酒に弱い客のためにサイホンでコーヒーを淹れてた〕と思い出し,サイホンを探すと,すぐに見つかった。小型のコーヒーミルもあるけど,コーヒー豆はない。ボクは近くのスーパーでコーヒー豆と牛乳を買ってきて,自分用にカフェオレを作り,カウンターでゆっくり飲んだ。ボクがここでバーをやるなんて・・・・何をどうすればいいか,ぜんぜん思いつかない。〔まあ,あわてなくてもいい〕と自分に言い聞かせた。
翌日も,夕方,1階のカウンターでのんびりカフェオレを飲んでしばしの時を過ごした。やがてそれが習慣になった。仕事のある日は,仕事を終えて帰宅してから,仕事のない日も同じくらいの時間帯に,1階でカフェオレを作って飲む。そしていつの間にか,サンドイッチなどを買ってきて,軽い夕食を摂るようになった。サード・スペースというのかな,住まいでも仕事場でもない空間。カヨコさんを看取ったこの空間が,いつの間にかボクにとって憩いの空間になっていた。
4月になって,ボクは笠原さんに相談した。1階の使い道について。カヨコさんとのことをおおざっぱに説明し,1階をバーとして使ってほしいと遺言されていること,今現在は何となく自分のサード・スペースになっていることを話した。
「そんな体験をなさったんですか」
と,ボクをいたわって,ちょっと間を置いて「実は・・・・」と語り始めた。
「風俗の子たちが気楽にくつろげる場所。特に,自分の仕事を隠さずに気楽にくつろげる場所があるといいなあと思っていたんです。その1階のバー,そういう場所として使えないでしょうか? 使わせてもらえないでしょうか?」
「ああ・・・・」
なるほど,それはいい使い方かもしれない。
「具体的に,どのように?」
「それはこれからゆっくり考えましょう。あわてなくてもいいですよ。部屋がなくなるわけではないから。それまでは,藤原先生がご自分専用のサード・スペースとして使っていてください。ただ,一度その部屋を見せていただきたいのですが」
「それは,もちろんかまいません。いつがいいですか?」
「それでは・・・・」
彼女は手帳で予定を確認する。
「今週の土曜日,ここの仕事が終わってから。たぶん,7時くらいになると思います」
「じゃあ,駒込駅北口に着いたら電話をください。迎えに来ます。駅のそばなんですが,ちょっと路地を入ったところにあるので」
土曜日,ボクは駅から笠原さんを案内した。ドアの前に立ち,彼女は
「ほんとうに,こんな所にバーがあるなんて,知ってないと分からないですね。まさに隠れ家ですね」
と感心したようにつぶやいた。それから室内に入る。
「中は,小さいけれど,ふつうのカウンターバーですね」
「そうなんですよ・・・・お酒類はどうしましょうか? ウィスキー,焼酎,日本酒,ビールくらいは用意しましょうか。それに,水とソーダ水くらい。その他の飲み物や食べ物は,各自好きなものを持ち込むということで」
「ああ,それがいいですね。持ち込んだ物がなくなったら,コンビニに買いに行けばいいんだから・・・・それなら,自分の部屋で飲むのとあまり変わらないかもしれないけど,でもやっぱり,こういうカウンターバーで飲むのは,雰囲気が違うでしょう」
「サード・スペースですね」
「そうです」
笠原さんは楽しそうな表情になっている。
「ところで,笠原さん,酒は飲める方なの?」
「ふふふ・・・・けっこう飲めます」
「そうなんだ」
「藤原先生は?」
「わたしはほとんど飲めません」
ここで,ボクはふとあることを思いついた。
「ところで,ここではわたしを藤原先生と呼ぶのはやめてくれませんか。クリニックじゃないんだから」
「確かに・・・・じゃあ,何とお呼びすれば?」
「ロミー」
「ロミー?」
「子供の頃からの,わたしのあだ名です」
「そうなんですか・・・・ロミー・・・・さん。何だか言いにくいなあ」
「ここでは,それに慣れてください」
「はい,分かりました」