4月の中旬,ボクは九州に出かけた。ヒカルに会いたかった。会って,いろんなことを話したかった。カヨコさんが死んで1ヶ月あまり,ボクも旅行をする気力と心の余裕が戻ってきた。
夕方,実家の診療時間が終わる頃に着いたボクは,父にあいさつし,ヒカルに声をかけ,ヒカルの部屋で待っている。〔もう診療は終わったはずなのに,来ないなあ〕と思って待っているうちに,
「ロミー,お待たせ。はいっ!」
と言って自分の部屋に入りながら,ヒカルはボクにリンゴを差し出した。
「好きでしょう?」
「うん。でも,この季節にリンゴがあるの?」
「ニュージーランド産よ。南半球だから,季節が逆なの」
「ふーん」
そう言って,ぼくはその小ぶりなリンゴを受け取って,2~3口丸かじりしてヒカルに渡す。ヒカルも2~3口丸かじりしてボクに渡す。そうやって二人で食べ終わったリンゴの芯を手に持って,ボクはぼんやり眺める。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
しばらく,そのまま黙っていた。
「・・・・ロミーは,貴重な体験をしたね」
「うん」
カヨコさんのことは手紙で知らせてある。ただ,遺言書のことは伝えていない。
「・・・・ホスピスの医者は,ああいう人を何人も何十人も同時進行でケアしてるんだよね。すごいなあ・・・・ボクには無理・・・・カヨコさんのケアを始めた頃,『これから経験することを生かして,将来ホスピスで働こうか』と思ったけど,カヨコさん1人だけだから,そしてボクが友達という立場だから,やれたんだなと思う」
「まあ,医者として係わるのは,また別よね」
また,しばしの沈黙。
「ヒカルは,自分が診ている患者が死ぬのに立ち会ったこと,ある?」
ヒカルは首を振る。
「末期になると,たいてい入院させるからね。うちは,在宅で看とれる体制じゃないし」
「ヒカルは今,おもにどんな患者さんを診てるの? 以前来た時はメンタルの患者さんも診てると言ってたけど」
「今も診てるよ。そのほか,内科一般の患者さんも診てるし,去年手紙に書いたように女医だということで婦人科関連の相談をされることもある。内診台がないから本格的な婦人科診療は難しいけど,それでも,エコーで,経腹プローブで子宮を見るくらいはできるんだよ」
「できるんだ!? 経膣プローブでなくても」
「うん。膀胱にある程度尿があれば,それをエコー・ウィンドーとして子宮を見れる。昔は,経膣プローブがない頃は,そうやってたらしい」
「ふーん。すごいね,ヒカル」
ヒカルはちょっと照れたように笑う。
「それと,両方,メンタルと婦人科が重なりあってるケースも意外と多いよね。月経前症候群とか更年期障害とか。あと,結婚や妊娠,出産,育児に係わるストレスでメンタルが不調になる場合とか」
「確かに,そういうことはわりと多いかも」
「それを仕事にしてみたい気持ちもある」
「・・・・?」
「つまり,婦人科と精神科の境界領域というか,婦人科の悩みと精神科の悩みを抱えた患者をトータルに診るというか・・・・」
「いいじゃない。そういうニーズはきっとあるよ」
「うん。ここみたいな小さな街では無理かもしれないけど,それなりの都会ならね。ただ,どんな求人を見ても,婦人科は婦人科,精神科は精神科なのよね」
それを聞いて,ボクの中でひらめいた。
「開業すればいいじゃない。ヒカルが東京で開業するんだよ」
「ロミー,本気?」
「もちろん,本気だよ」
ボクは,カヨコさんの遺言書のことを話した。あの家がボクに遺贈されたこと。そして,カヨコさんがこたつでミカンを食べながら話してくれたこと。
「固定費がゼロなら,よほどのことがない限り潰れはしない。これって,クリニックも同じじゃない? 自分の家で,自分だけで人を雇わずにやれば?」
ヒカルはまじめに考え込んでいる。
「・・・・でも,そうしたら,『1階をバーとして使い続ける』というカヨコさんのたっての希望を無視することになるね」
「違うよ。1階じゃないの。2階と3階をクリニックにするの。2階を待合室,3階を診察室。ボクたちは,学生の頃みたいに小さなアパートを借りればいい。学生の頃みたいにつつましく暮らすなら,ボクの収入だけでも二人暮らせるよ。しばらくの間,ヒカルのクリニックが開店休業状態でも」
ヒカルはさっきよりもまじめに考え込んでいる。それから,ふっと笑った。
「ロミー,子供の頃,ロミーが家の図面を真剣に描いていたの,覚えてる? 二人でヨーロッパで一緒に暮らすための小さな家」
「覚えてるよ」
「ちょっとばかり,似てるね。つまり,ロミーが家を用意して,わたしを迎えてくれる」
「ヒカル!」
ボクはうれしかった。とてもうれしかった。そんなボクにヒカルは微笑みかける。
「ロミーが喜んでくれるのはうれしいんだけど,今日,明日ってわけにはいかないよ。それは,分かるよね?」
「それくらい,ボクだって分かる」
「ここを辞めるための準備もだけど,わたし自身の準備というのかな,開業となればほんとうに自分一人で誰にも頼らずに患者さんを診るんだから,それなりの準備をしておきたい。今でもまじめに診療してるつもりだけど,これからは開業を見据えて今まで以上に真剣に取り組むよ。1年くらい,待っててちょうだい」
「待つよ」
と,うれしそうな声で答えて,ふと現実的なことを思いついた。
「ヒカル,開業したら当面は一人でなんでもこなすんだから,今から看護師さんに頼らない診療スタイルを身につけておく方がいいよ」
これを聞いてヒカルは笑った。
「実は,今でもそうなの。うちの看護師はほとんど父付きの看護師だから,わたしの診療はあまり手伝ってくれないの。だから,たいていのことは一人でやってる。採血もできるようになったよ」
「それって,けがの功名だね」
二人して笑いあった。それから,ヒカルは真面目な表情に戻った。
「ロミー,ごめんね。卒業する時,あんなひどいことを言って。こんな優しい弟,わたしのことを気遣ってくれる弟に向かって,あんなひどいことを言って。ほんとうに,ごめんね」
ヒカルの目が潤んでいる。
「いいんだ。ヒカルが戻ってきてくれるなら,ボクはうれしいんだ」
ボクはヒカルの肩に顔を埋める。ボク髪をヒカルの指が滑る。くしけずるように。
翌日,夕食を父を交えて3人で摂ることになった。久しぶりにボクが準備した。たいしたものではない。できあいのサワラの西京漬けをガスレンジで焼いて,やはりできあいの筑前煮を添えて,冷蔵庫にある野菜でサラダボールを作って,お味噌汁を作って,ご飯は朝炊いたものを電子レンジで温め直した。
テーブルのこちら側にヒカルとボクが座り,向かいに父が座る。昔からの習慣。
「ヒロミの手料理なんて久しぶりだな。何年ぶりだろう」
「手料理というほどではないけど・・・・高校を卒業してからだから,7年ぶりかな」
「もう,そんなになるか・・・・昔は,たまに二人でこんなふうに夕食を作ってくれたものだな」
こんなしんみりした空気の中で夕食が終わりかけた頃,ヒカルが口を開いた。
「お父さん,この場の雰囲気を壊すようで,申し訳ないけど,話しておかないといけないことがあります。そのために,ヒロミを交えて3人で夕食を摂ることにしたんです」
ヒカルはここで一息入れる。
「2年前,わたしがここで研修を始める時,『ここを継ぐつもりはありません。研修をさせてほしいのです。それでいいですか?』と言ったけど,その気持ちは今も変わりません」
父は軽くため息をついたようだった。
「出て行くのか?」
「来年の今くらいを考えています」
「そうか・・・・勤め先のあてはあるのか?」
「はい」
「そうか・・・・まあ,お前の人生だ」
父は,しばらく思いに沈んでいるようだった。
「やっぱり,この街は窮屈か?」
ボクたちは,声を出して答える代わりに,ゆっくりうなずいた。父は,またしばらく黙っている。
「・・・・とりわけヒカルは,大学を出て戻ってきて,2年暮らして,生まれ育った土地の窮屈さをつくづく感じているのだろうな・・・・」
それからまた間を置いて,
「せめて正月くらいは帰ってこい。二人とも」
夕食後,ヒカルの部屋で語り合った。
「お父さん,昔のような威圧感というか,一緒にいて窮屈な感じがなくなったね」
「まあ,年も取ったし・・・・それと,やっと諦めがついたのかもしれない」
「諦め?」
「つまり,ロミーもわたしも藤原医院の跡を継ぐつもりがないということを割り切れるようになったということ。人口が減り続けている街で個人医院を継がせるのが子供にとって幸せな選択ではないということは,お父さんだって前から分かっていたと思う。理性では分かっていても,気持ちが割り切れなかった。それがやっと気持ちも割り切れるようになって,子供の選択を受け入れるようになった。諦めとともに,と言ってもいいけどね」
ヒカルはここでちょっと間を置いて,話を続けた。
「わたしも多少は心残りというか,済まない気持ちはあるんだ。でも・・・・わたしの人生だからね」
この時,ボクの心にも,たぶん生まれて初めて,父に対して「済まない」という気持ちが湧いた。
5月になって,土曜日だけ1階をバーとして使うことになった。最初の日は,笠原さんが友人2人と一緒にやってきた。
「お酒は,ウィスキー,焼酎,日本酒,ビールがあるけど」
「わたしは焼酎」
「わたしはビール」
という声が挙がった。ボクは焼酎のボトルと水と氷,それにビール,そしてグラスを3人分,彼女たちの前に並べ,
「では,あとは自分たちで自由にやってください。ビールはカウンターの冷蔵庫に入ってます」
と言って,いつもの自分の席,一番入り口に近い席に戻った。
彼女たちは3人で盛り上がっている。時おり,ボクに話が振られる。ボクは気楽に答える。〔この雰囲気,この立ち位置,「小石」の時に似てるな。お客が高齢の男性でなくて若い女性であるのは違っているけど・・・・そして,カウンターの中にカヨコさんがいないのは,違っているけど〕
彼女たちは2時間くらいそうやって楽しんでいてから,席を立った。
「おいくら払えばいいかしら?」
ボクは焼酎のボトルの減り具合とビールの空き瓶の数を見て,
「1人千円」
「そんなんでいいの?」
「たぶん,赤字にはなりません」
「わー,安上がりいー,毎週通い詰めようかな」
「もちろん,かまいません。ただ,しばらくの間は,一人だけじゃなくて,友達づれで来てください。この場所で二人っきりというのは,ちょっと気詰まりなので」
3人とも笑っている。
「それは,こっちも同じよ。ロミーさんみたいな美形と二人っきりだと,苦しくなりそう」
彼女たちが出て行った後,ボクはカウンターを片付け,コーヒーを淹れ,カフェオレを作って,ゆったり飲んだ。〔今日みたいな雰囲気をいつも作れるといいな〕
5月半ばのある日のクリニック・アンジュ,ボクは受診者を採血していた。たまにやらせてもらう。すると,隣の検査台にピーターがやってきた。
「あれ,藤原先生,注射もするの?」
「うん,たまにね。正確には注射じゃなくて採血だけど」
「それなら,ボクも採血してよ。ほかの人だけなんて,ずるいよ」
ほかのスタッフが笑っている。
「ほんとうに,ピーターさんは藤原先生のファンなのね」
「そうだよ。悪い?」
「誰も悪いなんて言ってません」
スタッフがまた笑った。ボクが採血を終わり,受診者が出ていくと,ピーターはすぐにボクの検査台の前に座り,腕を伸ばした。ボクはその腕を見て思わず,
「血管が細いなあ」
とつぶやいた。
「そうなんです。ピーターさん,ほんとうに若い女の子みたいに血管が細いんです。わたしもたまにしくじるんです」
と別のスタッフが話す。ボクはピーターの腕に駆血帯を巻き,慎重に血管を見据えて針を刺したけど,シリンジに血液が逆流してこない。ちょっと血管を探ってみたけど,ぜんぜんだめ。駆血帯を外し,針を抜き,刺したところに絆創膏を貼った。
「えーっ,失敗したの? 先生,ボクに意地悪してるの?」
「まさか! 意地悪なんかしないよ。さあ,こっちの腕を出して」
そちらも腕も,血管は細い。だけど駆血帯を巻いて慎重に触っていると,1本,血管が触れてきた。そこをめがけて針を刺すと,血液がシリンジに逆流してきたので,慎重にピストンを引いた。ホッとした。
「さあ,終わったよ。次はホルモン剤の処方だね」
「うん」
この日,ピーターは診察室でふだん以上に饒舌だった。そしてこの日以来,毎月の検査で採血はボクがやるようになった。
饒舌の中で,ピーターは時おり自分のことを語る。
「女の人には年を取っても熟女って商品価値があるけど,ボクたちにはそんなもの,ないんだ」
「ゲイボーイさんたちって,えらいよね。話だけで人を楽しませるんだから。ボクにはとてもできない」