6月,7月は事もなく過ぎていく。8月末,ヒカルが駒込を訪れた。まず,2階を案内する。ボクのささやかなダイニングキッチンであり,将来のヒカルのクリニックの待合室になる部屋。
「椅子が2つあるのね」
「うん」
それ以上,何も言わないけど,ヒカルはボクの気持ちを分かっている。
3階に上がる。二段ベッド,パソコンの置かれた机,小さな本棚。
「物が少ないのは,相変わらずね」
そう言って笑いながら,ヒカルは狭い部屋を横切って,奥の間口いっぱいに作り付けられたクローゼットを開ける。半分以上,空いている。
「服がほとんど増えていないじゃない。わたしの仕送りはどうしたの?」
「ほとんどそのまま残っている。ヒカルの開業資金の足しにしよう」
ヒカルはまた笑った。
「ここを診察室にするとしたら,ベッドは当然どけるよね。机はそのまま診察机として使っていい?」
「うん,いいよ」
「その脇に小さなエコーくらいは置けるね。中古なら何十万で買えるし・・・・クローゼットはいろんな備品を保管するのにちょうどいい。院内処方するなら,薬も置けるし」
などと語りながら,ヒカルは真剣に診察室のレイアウトを考えている。本気になってくれているのがうれしい。
「・・・・カヨコさんが,『度胸と意地と見栄だけじゃなくて計算も要る』という話をしたのは,年が明けてからのことね?」
「うん。そうだよ」
急に話題が変わったので,ボクは戸惑った。
「その時には,もう遺言書を書いていたんだ・・・・この家をロミーに譲るという遺言書を書いて,それから,開業のコツをロミーに伝授した・・・・」
「ああ・・・・」
カヨコさん,そこまで考えていたのかな? 考えていたのかもしれない・・・・。
そして,1階の部屋に入った。
「ほんとうに,小さなバーなのね・・・・この写真は,ひょっとして」
「カヨコさんだよ。ここを開店した頃,30歳頃の写真」
「ふーん,こんな人だったのね。ドレスに着負けしない美形ね」
ヒカルはしげしげと見ている。それからボクの方を見て,
「今日は,営業は?」
「今日は営業しない。土曜日と日曜日だけ。最初は土曜日だけだったけど,けっこう人気があって,先月から日曜日も開けてる。土曜日は7時から。日曜日は4時から」
「4時って,まだ日が高いじゃない。そんな時間から酒を飲む人がいるの?」
「いるんだよねえ」
と言いながら,ボクはカウンターに入って,サイフォンでコーヒーを淹れる。出来上がるちょっと前に,ボク用のカップにミルクを半分入れ電子レンジで加熱しておく。コーヒーが出来上がると,ヒカルのカップに入れ,次にミルクが半分入ったボクのカップにコーヒーをつぎ足した。カウンターから出て,ヒカルの隣の椅子に座る。
「ボクもカフェオレは飲めるようになったんだよ。少しは大人になったでしょう」
「そうね」
二人は笑いあい,乾杯するようにカップを触れさせあった。しばらく二人とも静かにゆっくり自分の飲み物を飲んでいる。そしてヒカルがポツリとつぶやいた。
「いいわね。こんな時間」
「うん」
またしばらく静かな時間が流れた後,
「隠れ家的なバーの上の隠れ家的なクリニック,悪くないわね」
「ヒカルもそう思うでしょう」
「うん・・・・特に精神科は,受診を知られたくないとか,クリニックに入るところを見られたくないという気持ちが患者の側にもあるから。婦人科も多少その傾向はあるかな・・・・ただ,そうなると,ドアに表札程度の表示は付けるにしても,外壁に大きく看板なんか出さない方がいいわけで,それだと,存在が知られるまで,当分の間は開店休業だね」
「そうでもなさそうだよ」
「そう?」
「クリニック・アンジュの受診者にも,婦人科関係の相談はけっこうあるし,メンタルを病んでる人もいる。精神科を受診している人もいるけど,そこで自分の仕事のことを話せるとは限らないから,そういうことをオープンにして受診できるクリニックの需要はあるよ」
「なるほど・・・・確かに,そういう仕事をしているとメンタルを病むこともあるでしょう」
「まあ,そうだけど・・・・」
「そうだけど?・・・・」
「ボクも,最初の頃はそう思ってた。でも,いろんな人の話を聞くうちに,むしろ逆のケースの方が多いことが分かったよ」
「逆のケース?」
「つまり,メンタルを病んだから風俗の仕事をしているというケース」
「・・・・?」
「まあ,そう言われてもすぐには分からないよね。たとえば,メンタルを病んでいる人,うつ病やパニック障害の人の中には,その日の朝起きてみないと,その日ちゃんと仕事ができるかどうか分らない人もいる。そういうヒトにとって,『かたぎ』の仕事を続けるのは難しいんだ。風俗の仕事でも,急な欠勤はマイナス評価になるけど,それでも最悪,当日の朝『今日はお休みさせてください』と言って休ませてもらえる。そもそも,メンタルを病んだ原因が,仕事がらみのことも多いからね。睡眠時間が削られるほどのオーバーワーク,ぎすぎすした人間関係,上司からのパワハラや顧客からの意地悪・いやがらせとか・・・・傷つきやすい人から脱落していくよね」
「つまり,風俗の仕事がセーフティーネットになっている・・・・」
ヒカルはちょっと考え込んでいるふうだった。それから,
「それで,ロミーは持ち前のエレガンスでそんな子たちを癒やしてあげている」
「うーん,それはどうだろう・・・・あまり深く踏み込まないようにしてるんだ。踏み込めない,と言う方が正しいかな。ボクは,人の気持ちが分からない。心を理解できない」
「人の気持ちなんて,簡単に分かるものじゃないわ。人の気持ちが分かると信じ込んで,ズケズケ人の心に土足で入り込む方が,よほど有害かも。『しょせん,人の気持ちは分からない』と達観して,患者が実際に困っている具体的な症状や状況に対応する方が,うまくいくと思うよ。思い入れてはいけない。・・・・医者は薄情な方がいいかもね。わたしみたいに」
「ヒカルが薄情なんて・・・・」
ボクは思わず憤慨したような口調になった。ヒカルはそんなボクの髪をクシャクシャさせながら,
「ほんとうに,わたしのことになるとムキになるんだから」
と言って笑う。
「まあ,薄情というのは言い過ぎかもしれないけど,適度な距離感が必要なんだよね」
「その距離感が,分からない」
ボクはちょっと考え込む。
「ヒカルが卒業する時,医者としてもヒカルよりボクの方が優秀と認められるはずだって話したよね。知識も推論・思考能力も手技も,ボクの方が優れているって。でも,医者の資質はそれだけじゃないんだ。人との係わり方,患者さんとの関係の作り方,距離の取り方,そういうスキルも必要なんだよ。ひょっとしたら知識や技能より重要かもしれない。そしてこの点では,ヒカルの方がボクよりずっと優れてるよ」
ヒカルはボクに優しい笑みを投げる。ボクはちょっと間をおいて話を続ける。
「・・・・そう言えば,カヨコさんも似たようなこと言ってた」
「カヨコさんって,ここのママさんだったカヨコさん?」
「うん。水商売も情が薄い方が向いているって。薄情という意味じゃないんだけど,お客に惚れちゃあ仕事にならないし,特別ひいきの客を作ってもいけない。どんなお客にも平等にていねいに,お客に『自分のことを気にかけている』と思わせる程度には心を込めて,だけどのめり込まずに,接客できないといけない。こんなこと話してた」
それを聞いてヒカルはパチンと指を鳴らした。
「じゃあ,ロミーはこのバーで,人との距離感の取り方を学ぼう。医者として絶好の修行だよ」
こう言って笑いかけるヒカルに,思わずボクも笑顔を返した。
和んだ雰囲気の中で,ボクは最近の体験談を語った。
「1週間くらい前の受診者なんだけど,風俗の仕事とは関係ない男性が『1か月くらい前に外国旅行して,まあ,そういうことをしたんですが,1週間前に熱が出て,翌日には引いたんですが,3日前にまた熱が出て,それも1日で治ったんですが,今日また熱が出てて,気味が悪くて,ひょっとしてエイズかと思って』と心配そうに話すんだ。まあ,HIV感染直後の症状として,あり得ないパターンではないけど,外国旅行はどこに行ったのか尋ねたら,インドだって」
「インド?・・・・」
「うん。本人は『危ないですよね。分かっちゃいたんですけど』って恐縮するんだけど」
「マラリアかも」
「そう思うよね。インド渡航歴があって3日ごとの間欠熱と聞けば,HIV感染の前にマラリアを疑うよね。それで,HIVの迅速検査を受けさせて,陰性だと確認してから,『状況からマラリアが疑われます』って説明したら,『ああ,エイズじゃないんですね』って,安心したような態度なんだ。マラリアだって,安心していいわけじゃないんだけどね。ボクは指定医療機関を探して,国際医療研究センター宛に紹介状を書いて,『今日のうちに必ず受診してください』ってくどいくらい念を押したよ。たまにこんな受診者がいるから気が抜けないよね」
ヒカルはうなずいた。
「それにしても,その人,三日熱マラリアでよかったね。熱帯熱マラリアだと,今頃死んでるかも」
「うん・・・・今の日本ではエイズが圧倒的に有名だから,熱帯地方を旅行して,特に『そういうこと』をした人が,帰国後に体調が悪いと,まずエイズの心配をするんだね。ほかにも怖い病気はいっぱいあるんだけどね」
「そうね。まさかエボラ出血熱はないと思うけど,デング熱とかトリパノソーマ症とか」
「そうだね・・・・これまでHIV感染を心配して検査を受けに来た人はたくさんいるけど,陽性だった人は1人もいないんだよ」
「でも,そろそろ1人目の出現に心の準備をしておかないとね」
「うん。一応,想定問答集は作っているんだ。文書にしていないけど,頭の中に」
ヒカルと話していると,結局は医療や病気の話に行き着く。でもそれは,ボクにとって少しもいやじゃない。 その夜,ヒカルは昔の習慣どおり二段ベッドの下段に寝た。翌日,もう1日いて,ヒカルは帰って行った。
ヒカルが帰ってから2ヶ月近くが経った10月下旬の火曜日の夕方,電話が鳴った。出ると,笠原さんだった。
「先生,明日,何か用事がありますか?」
「いえ,特に」
「では,臨時でクリニックの診療をお願いできませんか? それと,重ね重ね勝手なお願いですが,来週とひょっとしたら再来週も,月曜日から土曜日まで診療をお願いできませんか?」
ボクは事情が推察できた。
「いいですよ。院長をクビにしたんですね?」
「そうです。あまりに目に余ることだったので」
「もし,差し支えなければ,簡単でいいので状況を話してくれませんか?」
「はい。わたしもお話ししようと思っていました。HIVで陽性の結果が出たんです」
ボクは一瞬,身が引き締まった。
「ふだんのHIV検査はスクリーニング検査なので,陽性の場合は精密検査,ウェスタンブロット検査を勧めることにしています。その説明を院長にしてもらったのですが,受診者に『自業自得だ』みたいなことを言って」
「・・・・」
「あとで,わたしたちが一生懸命フォローして,なんとか精密検査は受けてもらいましたけど,その場で解雇を申し渡しました」
「当然です」
「前々から,いろいろ問題を起こしていたので,いずれこういう日が来ると思っていて,求人はずっとかけています。候補者はすでに上がっているので,そんなにお待たせしないはずです。来週か,再来週のうちには次の院長を決めますので,それまで,藤原先生にがんばってほしいんです」
「分かりました」
「・・・・それと,もう1つ,先生にお伝えしないといけないことがあります」
ここで笠原さんの言葉がちょっと途切れた。
「・・・・その,HIV陽性の受診者というのが,ピーターなんです」
「えっ?」
「ウェスタンブロット検査の結果は木曜日に出ます。木曜日に来るはずです。フォロー,お願いします」
HIV陽性が出た場合の対応についていろいろ想定問答を考えていたけど,陽性者がピーターであることは,想定していなかった。