ロミーVer.1:第2部-悲しみの向こう   作:松村順

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第9話

 木曜日の朝,診察室に入るとピーターのウェスタンブロット検査の結果報告書が机に置いてあった。封を開くと,「陽性」という文字が目に飛び込んだ。

 午前中,ピーターは来なかった。〔結果を知るのが怖いんだろうな。ひょっとして,もう来ないかも〕というのは余計な心配で,午後もかなり遅い時間になったけど,ピーターはやって来た。ボクはできるだけ笑顔を見せて,

「座って」

と,患者用の椅子を指した。ピーターは座った。ボクが,どのように話を切り出すか考えていると,

「やっぱりエイズだったんだね。先生の態度で分かるよ」

と言われてしまった。ボクはうなだれるようにうなずいた。それから顔を上げ,ピーターの目を見ながら語りかけた。

「絶望しなくてもいいんだよ。今では,HIV感染は死ぬ病気じゃないんだよ。ウイルスの活動を抑えて,エイズが発症しないようにする薬が開発されている。それを毎日きちんとのんでいれば,発症せずに,ふつうに生きていけるんだよ」

ピーターは,ボクの説明を聞いて寂しそうに笑った。

「せんせい,ボクはもう仕事できなくなるんだよ。仕事ができないということは,お金を稼げないということで,つまり,生きていけないということなんだ」

「そんなこと言わないで。ほかに仕事はいっぱいあるじゃない。HIV陽性でも差し支えない仕事はいろいろあるよ」

ピーターはまた寂しく笑う。

「何もできないよ。今の仕事のほかは,ボクは何の能もないんだ・・・・読み書きもろくにできないんだよ。ひらがな,カタカナくらいは書けるけど,漢字なんてほとんど読めもしないし,書けもしない。こんな人間に,なにができるというの?」

ボクは,びっくりしてピーターを見る。

「ろくに学校に行かなかったんだ・・・・いじめられて・・・・」

ピーターはしばらく黙ってボクを見ている。

「オンナ男とかオカマって言われた・・・・同級生から強姦されたこともあったよ」

ボクは,思わず目を見開いてしまった。

「信じてくれる?」

「もちろん,信じるよ」

「ありがとう,せんせい。・・・・親は信じてくれなかった」

 ボクは何も言えない,言葉を口に出せない。ただ心の中でつぶやくだけ〔どうして,キミなんだ? どうして,ボクじゃなくてキミが,そんな過酷な運命を担わされたんだ? どうして,ボクじゃなくてキミが,そんな残酷な目に遭わされたんだ?〕こう問いながら,ボクはその答えが分かっている。ボクにはヒカルがいた。ボクを愛し,守ってくれる人がいた。ただ,それだけの違い・・・・。

「ピーター・・・・生きていてほしい。ボクにできることは,何もないかもしれないけど・・・・生きていてほしい」

「せんせい・・・・」

とつぶやいて,ピーターはしばらく黙っている。

「・・・・いい人だね。ボクのこと,本気で心配してくれてるんだね」

「医者が患者のことを心配するのは,あたりまえじゃない」

と答えながら,ボクは自分のウソを自覚している。ボクがピーターに寄せる気持ちは,医者が患者を心配する気持ちを遥かに超えている。ボクはピーターに対して「薄情」になれない。しばらく,といっても,1分か2分くらい,お互い黙ったまま目を合わさず,うつむきあっている。

「・・・・ピーター,医者というのは,患者をえこひいきしちゃいけないんだ。でも,わたしはどうしてもキミのことをほかの患者よりずっと心配してしまう。これは,良くないことなんだ・・・・」

ピーターは不安げな表情でボクを見ている。

「かと言って,ピーターのことを心配しないという選択肢も,あり得ない。だから,医者と患者という関係ではなくて,友達になろう。友達なら,わたしがピーターのことをどんなに心配しようと,気に掛けようと,誰にも文句を言われる筋合いはないからね」

「えーっ,せんせい,ボクの友達になってくれるの?」

声が急に明るくなった。

「うん。だから,これからは,ここに来てはいけない。別の場所で会うようにしよう」

「つまり,ボクとデートしてくれるんだ。いつ? どこで?」

ピーターはハイテンションになりかけている。確かに,こういう状況では偽ハイテンションとでもいう状態はあり得るかも。それはそれで,仕方のないことかも。

「場所は,わたしのバーにしよう」

「せんせいのバー?」

「ほんとうのバーじゃないけどね。ちょっとそんな感じの部屋があるだ。ちょうどここくらい」

と,ボクは診察室を指す。

「これくらいの広さの部屋で,カウンターがあって,小さなバーみたいになっている」

「せんせいの部屋なの?」

「まあ,そうだけど,住まいではないよ」

「ほかの人も来るの?」

「今日は,誰も来る予定はない」

「じゃあ,今日ね! 今日,初デートだよ。約束だよ」

この一方的に言いまくる感じはいつもどおりだな。でも,今日は何でも許す気になっている。

「じゃあ,今日,仕事が終わってから・・・・駒込駅,知ってる?」

「知ってるよ」

「駒込駅の北口。池袋からなら,後ろの方の出口だね。時間は6時半・・・・だいたい6時半には来れるけど,ひょっとしてここの仕事が長引くと10分くらい待たせるかもしれないけど」

「待ってるよ。せんせいなら,1時間でも2時間でも待つよ」

「そんなには待たせないよ」

ボクも笑いかけた。

「じゃあね。駒込駅の北口。6時半ね」

 ピーターは明るい態度で診察室を出て行った。HIV精密検査で陽性と言われた人には見えない。でも,1時間もしたら,30分もしたら,また落ち込むんだろう。こんなことを考えていると,笠原さんが入ってきた。

「ピーター,どうしたんですか? ずいぶんルンルン気分で帰っていきましたけど」

「ああ,それは・・・・」

ボクは事情を説明した。笠原さんは納得したように笑顔になった。

「まあ,そういうことなら,分かります・・・・これからずっと先生とデートできるよう,治療して長生きしようという気持ちになってくれませんかねえ」

ああ,ボクは,そこまで思いつかなかった。

 

 仕事がちょっと長引いて,駅に着くのが6時35分くらいになった。階段を駆け上がり改札口に向かっていると,ピーターの後ろ姿が目に入る。改札口を出て声を掛けた。

「ピーター,待った?」

「ボクも,今来たばかり」

「じゃあ,こっちの方だよ」

と言って歩きだしたボクにピーターが語りかける。

「待ってる時に,へんなオヤジから声かけられたの。初めは無視してたんだけど,あんまりしつこいから『ボクはエイズだよ』って言ってやったんだけど,信用しないの。それで,この検査結果の紙を見せたんだ。そしたら,びっくりしてすっ飛んでったよ。この紙,お守りになるんだね」

ピーターは軽い口調で語る。でも,「今来たばかり」と言ってたけど,オヤジにちょっかいかけられるくらいの時間は待ってたというわけだ。まあ,問い詰めるようなことではない。

「遠いの?」

「すぐそこだよ。歩いて2~3分くらい・・・・そうだ,一つお願いというか,約束してほしいことがある。バーでは『せんせい』と呼びかけないで」

「じゃあ,なんと呼べばいいの?」

「ロミー」

「ロミー?」

「そう,子供のころからのあだ名だよ」

「ふーん・・・・ロミー,ロミー」

ピーターは何度か繰り返した。

「ロミー,いい名前だね」

 

 1階のドアを開け,中に入り,照明を付ける。ピーターは中を見回している。

「ほんとうに,小さなバーみたいだね」

「うん」

ボクはカウンターの中に入る。

「ピーターはコーヒー飲める?」

「だめ・・・・せん・・・・ロミーは飲めるの?」

「ストレートでは飲めない。カフェオレにしている」

「カフェオレなら,砂糖を入れて飲めるよ」

「じゃあ,カフェオレを2人分作るね」

「せん・・・・ロミーが作ってくれるの?」

「もちろん」

「わー,すごいぜいたく」

 ボクは慣れた手順でカフェオレを作り,カウンターに置き,自分もカウンターを出てピーターの隣に座った。ピーターは砂糖を2杯入れている。

「ロミーは砂糖入れないの?」

「うん」

「大人だなあ」

ボクは思わず笑った。

「まあ,もう25歳だからね」

「ふーん・・・・ボクはいくつくらいに見える?」

「さあ・・・・20歳は過ぎてると思うけど」

「ふふふ・・・・実は27歳。ロミーより年上なんだ・・・・でも,中身はぜったいロミーの方が年上,大人だよ」

「それはどうだか・・・・来年の1月で26になるから,差が縮まるね」

「残念でした,ボクも来年の2月で28になるんだ」

 こんな他愛もない話も途切れて,二人,だまってカフェオレを飲んでいる。飲み終わる頃,ピーターは体をボクにもたせかけ,頭をボクの肩に乗せた。ボクも頭を傾ける。頬の皮膚がピーターの髪に触れる。ごく自然に,ボクはピーターの髪を指でくしけずるように撫でる。この感覚,このシチュエーション,覚えがある・・・・医学部の4年目,ヒカルが初めてクラスの飲み会に出るから帰りが遅くなると話した時。ボクはヒカルの肩に額をうずめ,ヒカルは頭を傾け,頬をボクの髪に付け,指でくしけずるように撫でてくれた。あの時,ボクは悲しかった。でも,今のピーターはそれよりずっと悲しいはず。そしてボクは,そんなピーターの悲しみに,何もできない。せめて髪を撫でるくらい・・・・そんなことを考えると,ボクの目に涙が溢れてきた。頬をつたい,ピーターの髪を濡らす。

「ロミー,泣いてるの? ロミーが泣かなくてもいいんだよ」

ああ,このシチュエーションも覚えがある。

「でも,ボクのために泣いてくれるのは,うれしいよ」

それだけ言って,ピーターは黙り込む。ふだん,診察室ではあんなに饒舌なピーター。今日,ここでは,ほとんど何もしゃべろうとしない。ただ,体をボクにもたせかけている。

「ずーっと,こうしていたいね。ずーっと,ずーっと,死ぬまでずーっと」

ぽつりと語っただけ。

 バーの中を静かな時間が流れている。どれくらいそうやっていたのだろう。そろそろ切り上げる時間だと思って,

「ピーター,今日はここまででおしまい」

と声を掛けた。駄々をこねられるかと思ったら,素直にピーターは席を立った。そのままドアに向かって歩きだそうとして,足を停めた。

「ロミー,エイズはキスくらいじゃうつらないって,ほんとう?」

「ほんとうだよ」

「じゃあ,キスさせて」

「・・・・」

「心配しなくていいよ。ディープキスなんかしないから,唇をそっと合わせるだけだから。ねっ?」

「別に,そんなことを心配してるんじゃないよ」

ボクは目を閉じた。

「だめだよ,ちゃんと目を開けてて」

「わがままだね」

と言って笑いながら,ボクは目を開けた。ピーターの顔が近寄り,ほんとうにごく軽く,唇が触れた。

「ありがとう。ボクのわがままをきいてくれて。さよなら」

そう言って,ドアを出て行こうとする。

「駅まで送ろうか?」

「だいじょうぶ。道は分かるから」

 

 翌日,笠原さんが

「先生,朗報です。新しい院長が決まりました。来週の月曜日から勤務してくれます」

と知らせてくれた。

「ずいぶん,早かったですね」

「ええ。前々から話を進めていたドクターなので・・・・ただ,ひょっとしたら,また近いうちに交代するかもしれないけど,とりあえず藤原先生の負担を軽くしないといけないと思って・・・・」

「何か,問題がある人なんですか?」

「あっ,いえ,問題というほどでは・・・・」

いつもの笠原さんらしくなく,歯切れが悪い。ボクも,敢えて突っ込まなかった。

 その翌日の土曜日,新院長がわざわざあいさつに来た。中尾ヒロコという,ボクより10歳くらい年上の女医さん。もともとの専門は神経内科。

「なぜ,こんな畑違いのクリニックに転職するかは聞かないで」

と先回りして言われた。それから,

「このお話をいただいてから,それなりに性病関係の本を読んで勉強していますが,本に書かれていない臨床のコツとか,このクリニックで仕事する上で知っておいた方がいいこととか,藤原先生は1年半ほどの経験の中で蓄積しておられると思います。それらを,暇なおりでよろしいですから,文章にしていただいて,土曜日の帰り際に机に置いておいていただけないでしょうか。わたしにとってとても参考になると思います。まとまったものでなくていいです。メモ,走り書きみたいなものでもよろしいですので」

と頼まれたので,

「分かりました。できる範囲でご要望にお応えします」

と答えた。「まじめで誠実な人」というのがボクの第一印象。

 この日のほかは,勤務日が別々だから,顔を合わすことはなかった。笠原さんは予防線を張っていたけど,1ヶ月,2ヶ月,3ヶ月と勤務している。土曜日の夜,ボクがメモを書き残していると,翌週の木曜日の朝には,お礼と,時にはボクのメモの内容についてさらに突っ込んで知りたいことや疑問点などを書いたメモが置かれている。「まじめで誠実」という第一印象はさらに深まった。スタッフに訊いても,特に問題なく仕事をこなしてくれるらしい。笠原さんは何を心配していたんだろう。

 

 ピーターは,あの日の後も毎日やってきた。6時半か7時くらい。ボクの帰りが遅くなって,ドアの前で待ってることもある。初めの頃は,土曜日にほかの人が入ってくるとそそくさと立ち去ったし,日曜日の6時半頃にほかの人がいると中に入るのをやめて帰って行ったけど,やがてほかの人たちにもそれなりになついて,しばらくは居残るようになった。この頃になると,土曜日と日曜日,カウンター席がうまって,ボクはカウンターの中の椅子に座り,ピーターが入口そばの一番端の椅子に座るパターンが多くなった。〔まるで,「小石」でのボクの立ち位置と一緒だな〕ちょっと,おかしかった。

 ほかの人がいる時はほとんど何もしゃべらず,ほかのお客たちの会話を聞いている。月曜日から金曜日まで,二人だけでいる日も,あまりおしゃべりはしない。それでも,思いついたようにポツリポツリと自分のことを語ってくれる。

「13歳の時に家出して,ウリセンの店長に拾われたんだ。もちろん,13で仕事はできないけど,部屋に置いてもらって,食べさせてもらう代わりに,いろんな雑用をやった。料理も作ったんだよ。15歳くらいから,裏で客を取るようになったんだ。表だってはできないからね。18歳で晴れて風俗デビュー。もうこそこそ隠れなくっていいって,安心したよ。仕事だけじゃなくて,親や警察に見つかっても,もう無理やり連れ戻されずに済むでしょう,18なら・・・・」

「店長は優しかったよ。当たり前だよね。売り物の商品だもん。大切に扱ってくれるよ。学校の先生なんかより,ずっと優しいよ。親よりも・・・・」

ボクは,そんなピーターの語りを黙って聞いている。そして,心の中でつぶやいている〔もし,ヒカルがいなかったら,そして頭が良くなかったら,ボクもピーターと同じような人生をたどったかもしれない。ボクは,ピーターから見たら「神様のえこひいき」と思えそうな幸運に恵まれたから,今こうして生きている・・・・〕口にはしなかった,できなかった。

「ロミー,ボクの話ばかり聞いてないで,自分のことを話してよ。ロミーのこと,知りたいんだ」

「ボクのこと?」

「うん」

ボクは戸惑った。ボクのこれまでの人生は,ピーターから見れば,恵まれすぎている。自分が味わった苦労をぜんぜん知らないボクのこれまでの人生を聞かされて,どんな気持ちになるだろう? ボクは正直にこの気がかりを語った。

「ボクの子供時代は,ピーターから見れば幸せすぎると思う。そんな話を聞かされて,ピーターは自分の境遇と比べて悲しくなるんじゃないかと・・・・」

「そんなことないよ」

ピーターはクビをブンブン振って否定する。

「聞きたいよ。ロミーの幸せいっぱいの子供時代。話して! 話して!」

そうせがまれると,話さないわけにはいかない。ボクは話した。ボクを心から愛し慈しみ,この世のあらゆる悪からボクを守ってくれたヒカルのこと。夕焼けの散歩。二人で丸かじりしあったリンゴ。二人で着回した服。祇園山笠の夜祭り。ダンス教室・・・・。ピーターは目を輝かせて聞いている。別世界のおとぎ話のように受け止めているのだろうか。聞き終えて,ポツリと語った。

「だから,ロミーはこんなに優しいんだね」

「ピーターだって,いい子だよ」

ピーターは,はにかむようにうつむいた。

 

 バーを始めて半年以上が過ぎ,お客も少しずつ増えている。笠原さんの友達,友達の友達,そのまた友達・・・・というふうに。そんな客たちにとって,カウンターの隅で静かにしているピーターは気になる存在らしい。時おり,ピーターに話しかけることがある。

「ニューハーフさんなの? すごいきれい」

「名前はなんていうの?」

どこまで本気か分からないけど,ピーターを口説きにかかる人もいる。そんな時ピーターは

「ボクを口説こうとしたって無駄だよ。ボクはロミーのファンなんだ。ロミーに首ったけなんだ。ロミーしか見てないんだから」

と答える。

「わーっ,あつーい。それでロミーはピーターさんのこと,どう思ってるの?」

ボクは何とも答えようがない。代わりにピーターが答える。

「もちろん,ボクのこと好きだよ。相思相愛なんだ」

こんなふうに,時おり,むかしの,診察室に来ていた頃の,饒舌なピーターが復活する。それもほほえましい。

 

 正月は実家に帰る。それは父との約束だし,約束を違えたくはない。大晦日の夜,ボクはいつものようにやって来たピーターに説明した。

「つまり,お正月の間は,ロミーに会えないんだね」

寂しそうにピーターはボクを見る。そう問われると,辛い。

「ほんの4~5日だよ。『正月は帰ってくる』ってお父さんとの約束なんだ」

ピーターはうつむいたまま

「お父さんとボクと,どっちがだいじ?」

と問いかけて,顔を上げ,ボクを見つめる。その質問には答えようがない。

「ピーター,ボクを困らせないで」

ボクもピーターを見つめる。ピーターの瞳が潤むけど,涙は流れない。

 

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