いのち短し忍べよニンジャガール 作:欠落したオートメーション
青いセダンが警察に取り調べされてるのを遠巻きに見る。ガラス越しではあるが、セダンの運転手と警察官たちのやりとりは手に取るようにわかる。
一体、何について調べているのだろうか。名も知らない運転手に対してご愁傷様と心の中で手を合わせて、僕はガラス越しの外形から視線を逸らす。
「お待たせしました、アイスコーヒーになります」
若い女性店員の、人の心の突起に当たらない、滑らかで柔な声に、目の前に座る彼女は「ありがとう」と微笑む。
結露によって水滴が撫でるコリンズグラス。そのグラスに挿さったストローを使って上品にアイスコーヒーを飲む。
「どう、りみは。迷惑かけてない?」
ある日唐突に僕の前に現れたニンジャガール、もとい同居人の名前を口にした彼女の名前は牛込ゆり。りみの姉であり、僕の元カノだ。
「……たまにマジで頭おかしいって思うこともあるけど、まあ、根はいい子なんだなっていうのはわかる」
「ならよかった」
安心したように一息ついて、再びストローをくわえる。
「……なんで僕のところにしたわけ?」
「ん?」
僕の問いに、ゆりは長い睫毛を揺らして目蓋を開く。宝石のような、けれどどこか憂いを感じる瞳はあの頃のままだ。
「あなたの顔が、真っ先に思い浮かんだから」
いたずらに髪を弄りながら、店員に最初のドリンクを注文するかのような声で言う。
そんな字面だけならロマンチックな、その実中身は皮肉に小さじ一杯分の回顧を混ぜた言葉に、僕は冷静に「はあ?」と返す。とても男女2人きりの席から汲み取れる冷たさではない。
「なに、未練でもあるの?」
「いいえ、まさか」
世界記録を狙えそうな即答に思わず髪をぐしゃり、と掻く。ワックスが手につき、少しベトベトした。
「それ、悪い癖よ」
「え?」
僕を見ることなく彼女はそう呟いてみせた。
「なにか嫌なこととか、心が揺さぶられるようなこと。そういうのがあると、髪をグシャーってするの」
そう言われながら、僕は僕の手が頭に届いていることに気付いた。
「昔からそういうのがある。せっかくセットした髪が台無しよ」
完全なる図星だ。気を紛らわせるように、そして言い訳を述べるように布巾でワックスのついた手を拭う。やけに冷たく感じて、気持ちの悪い感触の拭えなさが肌に残った。
昔から。
そんな何気ない前置詞が脳にこびり付く。自転車のチェーンに生まれた錆のようなその言葉は、僕の全ての歯車を狂わしてるように思えた。
「そんな、昔話をするために呼んだの?」
「まさか」
わざとらしく驚いた表情をする。僕の口元にストローがあったら、子供のように強く噛んでいただろう。
「まさかってわけじゃないだろう。こんな所に呼び出して、さっきも言ったように、まるで未練が残ってるみたいじゃないか」
「未練?それを言うのは私じゃなくて、あなたじゃないの?」
ストローを強く噛みたかった。噛みちぎってしまうほどに、強く。
「未練?まさか」
まるでギャング同士の銃の撃ち合いだ。似たもの同士、けれど質の違う弾を放ち合う。誰に当たれど止むことのない雨だ。
「まさかなわけじゃないと思う」
アイスコーヒーはまだ残っていた。氷の溶ける音がやけに耳に残る。
「現にあなた、ラインのブロック解除してないじゃない」
髪を乱暴に掻きむしりたい手はどこにも行けず、ようやく見つけた口元を強く摩った。
「ブロック解除をしてないことと未練、何の関係が?」
「ありまくりよ。あなたが私に対して何も思ってないなら、ブロックの解除なんて簡単でしょ?」
「そんなことはない」
「そのあなたが無意識のうちにとっている行動は、まだ未練が溜まっている証拠よ」
ゆりは僕の反論なんか聞きたくないと言わんばかりに言葉を放ち続ける。僕も負けじと反論しようとするけど、言葉が見つからない。心のうちには言葉の輪郭も見えない。見つからなかった。
まるで、あの時みたいだ。
「まあ、あなたに未練が溜まっているならそれでいいし、ブロックを解除しないっていうならこうして定期的に会うだけだからいいけど」
その言葉を聞き届けた時にはもう、僕は立ち上がっていた。
「久しぶりに会ってこんな会話だなんて、したくなかったな」
そんな僕のことを、ゆりは意にも介してないといわんばかりに、アイスコーヒーを飲んでいた。
「りみと違って、君は性根が腐ってるみたいだな」
そんな残酷なことを言えてしまえるぐらいに、僕の心は冷え切っていて、どうしようもなく絶望していた。
そしてそんな後悔に似た感情を腹の中で煮やしてしまうほどに、僕はまだ今日に希望を持ってしまっていた。
「また手紙を出すわ。次に会うのは、まあ、来年になるわね」
「さようなら」
あの時の君みたいに、僕は吐き捨ててみせた。
「またね」
あの時の僕みたいに、君は応えてくれた。
帰り道の途中、年越しまで1日しかないことにようやく気がついた。
街中は活気に溢れていたが、どこか遠慮めいたものも感じた。
厳かを美とする日本らしい帰り道だった。
ポケモンGOを開きながら歩いていると、玄関前でナエトルが出たので捕まえた。と、りみもちょうど帰ってきたらしく、可愛らしい赤のセーターを着込んだ姿で僕に「おかえりなさいませ」だなんて鳥肌が立つほど気持ちの悪い、改まった言葉を投げかけてくる。
「アニメ見た?」
「くらべんけーの家でメイドがギャングを倒すアニメを見た」
「なにそれヤバい」
「あのメイドの動き、どうなっているのか気になった」
よくわからないが、その動きを模倣するなら家の中じゃなくて公園にしてほしいものだ。
「む……どうした?」
「え?」
怪訝な表情を浮かべて、僕の顔を覗き込む。
「顔色が悪い。何か拾って食べたのか?」
「そんな食べるわけないじゃん。君じゃないんだから」
「栗か?それとも椎の実か?」
彼女の行動パターンがわかってしまった。
「まあ、アイスコーヒーを飲みに行ってた」
「冬なのにホットじゃなくて?」
「ホットだと熱すぎるからね」
よく理解してないりみに頷いて、玄関を開けた。
理解してなくていいし、理解しなくてもいい。
ゆりみたいに変に心配をするぐらいなら、理解せずにアイスとホットの違いを考え続けてくれてた方が2人を重ねて見ずに済むから。
家の中に入っていのいちに暖房を点ける。温風が部屋を包むまで時間がかかるので、その間にお風呂の湯を沸かす。りみは僕の背後で手を洗って3分ぐらいうがいをしていた。潤いを通り越してもはや水一杯になってそうで解剖したくなる。
「年末はどうするのだ?」
湯が張るまで、にわかに温まり始めたリビングのソファの上でバイトの給与明細を吟味していた僕に声をかける。
「特に何も。昨日で仕事納めだったし、家にいるかな」
「寂しっ」
「僕には友達がいるんだ。やあ、友達のトニーだよ」
人差し指を動かして裏声でトニーとして挨拶をする。「やあ、元気かい?」と満面の笑みを浮かべていると伝わるように人差し指の躍動感を最大限に出す。
「……」
「……」
「……」
「…黙んないでよ」
ニンジャにドン引きされるのは結構くるものがある。
風呂から出て、タオルで濡れた髪を拭きながらリビングでテレビをつける。年末特有の、大型特別番組のオンパレードでちょっとうんざりした。1番マシなこの年の報道特集という番組にして、ソファに腰掛けたところで、テレビの脇にあるスーパーファミコンの姿が目に入った。
このスーファミはゆりが持ってきたもので、僕の傷心モノリストに入っているものの1つだ。彼女は意外にもゲーム好きで、それも最近流行りのスマホゲーだったり綺麗な映像流れる壮大なゲームとかではなくて、レトロなドット絵ゲームを好む。1番好きなタイトルはスーパーボンバーマン3らしい。
少し横に目をやると、花の生けてない透明なガラスの花瓶。これもまた、ゆりからの贈り物。確か半年記念日のものだ。お互いに何も考えずに、とりあえず綺麗な花だということで黄色いバラを選んで生けた記憶がある。
花瓶に連なって、家の玄関に置かれた鉢も思い出した。あれは僕が元々持っていたもので、ある日鉢に気づいたゆりがチョコレートコスモスの種を植えて世話を始めた。
––––––チョコレートコスモスって名前、良いじゃん
マグカップで水を注ぎながら、白い歯を見せて彼女は笑った。
花言葉とかあるの?確か僕はそう聞いた。
––––––あるよ。知らないけど
陽が沈んで月が顔を出すみたいに、彼女はサラリと言った。
––––––今の時代、知ろうと思えば何でも知ることができるじゃん。例えば花言葉。例えば料理のレシピ。例えば記念日のプレゼントの選び方
まだ芽の出ない鉢に目をやりながら語る。
––––––なんでも知ることができるなら、知ろうとしないって選択もアリなんだと思うんだよな
彼女はいつだってそうだった。世の中の常識を疑って、舐め回すように眺めた挙句に、頬をつねるような反抗を起こす。
有益も実害もない、無意味が服を着たような細やかな反抗。どうしようとなく子供っぽいが、抗いようがないほどに彼女をより魅力的にしていた。
––––––だから花言葉は知らない。ただチョコレートコスモスって名前が気に入ったからってだけ。なんか美味しそうじゃん
そう言って実際に咲いたチョコレートコスモスを目にして「思ってたより凛々しい色だね」って笑った彼女の横顔は忘れようにも忘れられない。
この世の全ての出来事に笑って、時に冷静な目で見て、そして中指を立てて笑う。牛込ゆりという女性の笑顔は、こうも記憶にこびりつくのか。
「もう、全部大嫌いなのにな」
記憶は人の手から逃れている。
彼女の横顔、睫毛の長さ、唇の柔らかさ、手の大きさ、髪の艶やかさ、鼻腔を優しく撫でる匂い、全てが僕の感情を無視して身体に焼き付いてしまっている。
このスーファミを、花瓶を、鉢を、この部屋から近所の誰かの家の庭に向けて投げて壊してしまえば、いくらかは薄らいでくれるだろうか。
「…ただの近所迷惑じゃん」
そんな頭のおかしな行動を起こさないほどには、僕はまだ冷静さを保てていた。でも、この記憶は忘れ去りたい。できれば今年のうちに。
「何を浸ってる」
背後から風呂から出たらしいりみが声をかける。僕は前をスーファミを見たまま「んー」と答える。
「浸ってはないね。どちらかというと、はらわたを煮やしてた」
「バイトのミスでも思い出していたのか」
「もっと個人的なこと」
「中二の頃の記憶か」
「残念。正解はスーファミです」
スーファミに指をさして答え合わせをする。りみはスーファミを興味深そうに持って、「蔵にありそう」と訳のわからないことを呟く。
「ゲームだよ。もうやらないけど。やってみる?」
「カービィはあるか?」
「ボンバーマンとドラクエぐらいしかない」
「じゃあいい」
好きなタイトルがないことで興味を失ったのか、スーファミを元あった所に置いて洗面台に戻っていった。
使命を終えたスーファミと2人きりになる。食器棚を開ける。中には彼女が持ってきた皿やカップが綺麗に整頓されて置かれているが、そのどれもに愛着が湧かない。いや、湧かなくなった。
愛着のないものなんて、ただの置物だ。壊す以外になんの用途があるというのだろう。
「売るか」
決めた。
彼女との記憶を薄れさせてみよう。成功率は、きっと高い。
翌日、寝る前に段ボールに詰めた皿やカップやスーファミやチョコレートコスモスが咲いていた鉢をリサイクルショップに持って行った。何故かりみも付いてきて、ニンジョをBGMに鑑定結果を待っていた。
「何故あんなに大量のものを売ろうなどと思ったのだ?」
リサイクルショップの自転車コーナーで、試乗可能な自転車に跨った彼女が聞く。スタンドで後輪だけ上がっていて、ペダルを漕いで後輪を動かしてはブレーキで止めるを繰り返している。
「断捨離」
「今年最後の日にか」
「そ。あれぐらい捨てても困らないしさ」
事実皿やカップはまだある。彼女が修行と称する不規則な動きをして大量に割らない限りは生活をするに困らないほどある。
「どれが1番高く売れるのだろうか」
「スーファミじゃない?」
「10万ぐらい?」
「わお、今年最後にすごい臨時収入」
「その時はアンプ買って!」
「ニンジョ?」
「マジニン」
ニンジョってことにしておこう。
「逆に売れないと思うものはなんだと思う?」
「売れないとかあるのか?」
「あるよ。価値がつけられないって言って」
「じゃああの黄色い皿」
黄色い皿とは、ゆりがパンのキャンペーンで手に入れた熊のキャラクターが描かれた黄色い皿で、ごく稀に焼くパンはこの皿に乗せてる。
「理由は?」
「この前ゴキがそこに乗ってた」
「ニンジョ?」
「マジニン」
本当でもニンジョって言ってほしかった。
と、鑑定完了を知らせるアナウンスが流れる。レジ横に設けられているカウンターの椅子に座る。
眼鏡をかけた少し太った中年の男性が僕が渡した段ボールの中に詰め込まれた物たちを1つずつ手に取って値段を言う。スーファミは2000円だった。
「じゅ、10万…」
「まあこんなもんでしょ」
買取価格なんてどうでもいい。売るのはただの媒介であって、目的は処分なのだから。
黄色い皿は限定品ということも手伝ってから1000円の価値がついた。
「そしてこちらなのですが」
店員の男性が最後に鉢を差し出す。
「こちら状態が少々悪くてお値段の方をつけられなくて」
チョコレートコスモスが咲いていた鉢だ。
価値がつけられないのか。
あんなに凛々しい色で半径40センチごと彩っていたのに、この鉢には価値が無いのか。
「処分をされるのであればこちらで引き取りますが」
「はい、そちらにお任せします」
そう答えると、りみが「待った」と手を挙げた。
「それ、ウチがもらう」
「なら」と店員が鉢をりみに手渡す。鉢の中を見下ろすと確かに状態は悪かった。
「なんで?」
自然と言い方が厳しくなってしまう。声音だけでも優しくしようとするが、変に震えた虫の羽音みたいな声になってしまう。
「ウチの部屋に彩りを加えたい」
鉢を持った彼女はそう宣言する。確かに彼女の部屋はベースとアンプと布団とカラーボックス以外に何もなくて、年頃の少女の部屋にしては彩がなさすぎる。
彼女もニンジャとはいえ1人の16歳の少女だ。部屋に彩りを加えたいという彼女の要望も感情も理解できる。
「……わかった。すいません、これは持って帰ります」
店員からお金を貰って店を後にする。
帰りにタネを買いに行きたいと彼女の要請に応じてホームセンターに立ち寄る。彼女にお金を渡して、僕は車の中で待つ。
本当に、これでよかったのだろうか。
りみに鉢を渡したのは、僕のゆりへの諦念を妥協した、中途半端な関係の完結になってしまっているのではないか。いいや、もうなっている。どんな形であれ、ゆりの所有物があの家に存在するのは、まだゆらがあの家の中で凄んで揺れているのと同じことだ。
こんなんじゃ、記憶は薄らぐどころか根を張り続けて、切っても切っても生え続ける雑草のようにずっと残り続ける。
ルームミラーで背後のここから少し離れたところに停まっているシルバーのワゴンに目をやる。段ボールで梱包された人の肩ぐらいまである大きな物を積もうと2人が手順を確認しあっている。
僕とゆりが別れた時、あんなに話し合っていたっけな。
覚えているのは短いやりとり。
またねとさようなら。
熱帯夜の空気のような生温くて苦しい言葉と、冬の朝の霜のように冷くもどこかソフトな言葉がホットコーヒーの入ったマグカップの上で交差した。
かつてチョコレートコスモスを咲かしてホットコーヒーを飲み合っていた僕らは、気がつけば仕事で飛び交う最低限の会話よりも口数が少なくなっていたのだ。その真実が痛快なようだったけど、鳩尾に入ったようにジワジワと後味が残る。
と、買い物を終えたらしいりみが窓をコンコンとノックする。オープンセサミの意だ。
「何買ったの?」
「スズラン」
種が入っている袋を出して見せる。
「彩って言ったのに白なの?」
「白だって立派な色だ」
確かに白だって立派な色だ。りみの言っていることはもっともで、何も言えなくなる。
「じゃあ、なんでスズランにしたの。時季じゃないでしょ、確か」
スズランは春の到来を知らせる花だ。今はまだ冬で、それも年が明けてもいない。咲くとしたらずっと先だ。
「なんとなく。なんだか名前の響きが良いから」
シートベルトを締めたりみは沈みかけている夕陽を見て言う。「ランで終わるところとか」と付け加える。
––––––チョコレートコスモスって名前、良いじゃん
夕陽を眺めるりみの横顔は、ゆりに似ていた。ゆりと違ってまだ幼いし、ゆりに比べて目が大きい。けれど睫毛はゆりの方が長くて、鼻筋もゆりの方がハッキリしているし、声だってゆりの方が低くて紡ぐ言葉全てに説得力を持たせる。
パーツも声も違うのに、こんなにも牛込ゆりに似ている。
「花言葉とかは、あるの?」
あの時よりも、少し弱々しい声でそう聞く。夕陽は見れない。りみは夕陽を見ている。
「知らない」
夕陽から目を背けずに、りみはそう答える。不思議と、いつもよりも凛々しくて通った声に聞こえた。
「あ、あとこれにした理由もう1つある。なんか美味しそうだから!」
その言葉を聞いて、僕はようやく夕陽を見ることができた。
そうだ。あの鉢に植えられるのはあの時のチョコレートコスモスでもないし、植える人間は牛込ゆりでもない。
牛込りみが、スズランを植えるだけだ。
スズランの種を植えた瞬間から、あの鉢は置物じゃなくてスズランが植えてある鉢になる。壊す理由なんてどこにも無い。
エンジンをかけて帰路に着く。もう立ち寄る場所は無い。家に着くだけだ。
「年越し蕎麦はあるのか?」
「無いよ。ラーメンならあるけど」
「年越しラーメン!味噌?」
「残念醤油」
夕日は沈みきって、今年最後の夜が訪れた。
あいにくと星の見えない中途半端な夜だったけど、肩は軽かった。
「それと、スズランって毒あるんだよ」
「えっ。デンプンは!?」
「そこ?」
「見た目お米だから炊けるんじゃないのか?」
「どうだろう。食べたら感想教えてね」
「お主にもお裾分けする!」
「ニンジョ?」
「マジニン!」
今年最後のニンジョは本当に起こったら洒落にならなそうだった。