≠゛`/ 夕 々 作:吉田太極
「やーい
「……」
「おい、返事しろよ白髪~」
「……」
「……なんだよ、つまんねぇヤツ」
「……」
「けっ、死んだ魚みたいな目しやがって」
タタタ、と少年が駆け去っていく。
そんな後ろ姿を、ぼんやりと……生気の無い目で見つめる少年が一人。
坂田銀時。
それが、少年の名であった。
いつの頃からだろうか。
銀時がここ"松下村塾"に拾われてすぐの頃には、その少年はいなかったはずだ。
否、いたかもしれないが、銀時に関わりのない場所で、不真面目に遊び惚けていたのかもしれない。
とにかく、ほとんど寝ているとはいえ寺子屋内にはしっかりいる銀時と顔を合せなかったのだから、相当な放蕩具合だったといえるだろう。
無論、銀時が眠っている間だけ寺子屋へ足を運ぶような──そんな、奇跡のようなニアミスをしていた可能性はゼロではないのだが。
もしそれが真実だとすれば、偶然ではなく必然──狙っているのだと思ったほうがまだ確率は高いだろう。
それくらい、顔を合わせない存在だった。
それが最近になって、少年は銀時に何かとつっかかるようになった。
突っかかると言っても、実害の無い罵倒だけ。手を出してくることはなく、仲間を引き連れてくる事もない。ただ銀時の身体的特徴を揶揄して、馬鹿にして、こちらが反応しないと知ると去っていく。
自身がまだ子供であるという認識はあれど、逆に言えば"あれほど子供じゃあない"という自尊心にさえ繋がるほど、幼稚なからかい。
これが不思議な事に、気持ちよく眠っている時に少年が来ることはなく、目覚め切った微睡の、それさえも晴れてきたぼーっとしている時間に来るものだから、銀時の中で少年のあだ名は"目覚まし時計"になっていた。
本当の名は知らない。
知る機会がなかったし、知ろうとも思わなかったし、声をかけてやるつもりもなかったからだ。
自身を棚に上げて言うなら、学ぶ気も、強さを求める気もなく、何故ここにいるのか。
銀時と同じように拾われたという理由だけで、毎日遊び惚けているのか。
そもそも何故それを、"あの"吉田松陽が許しているのか──。
「別に、許しているわけではありませんよ。
これでも手を焼いているのです。あの子は私が近づいたことに気づくと、途端に逃げてしまいますからね」
「……松陽」
手ごろな大きさの松の木──その枝の上で寝転がっていた銀時に、声をかける存在があった。
いや、声をかけたのか、独り言か。そもそも銀時が声に出していないことをどうして読み取れたのかは全く以てわからないが、そのニコニコと笑みを浮かべる人物は、まさに今名を出した、吉田松陽。
この"松下村塾"における塾長、そして銀時を拾った侍である。
「アイツは、松陽の言う"ハンパ"じゃねーの?」
「さぁ、どうでしょう。
彼が"ハンパ"であるかは、私ではわかりません」
「……なんで?」
吉田松陽は暖かく、そして少しだけ悲しそうに笑っていた。
「彼の名も知らぬ君には、まだ教えてあげられませんね」
「……別に、そんなに知りたくはあだだだだだだ!」
興味を放棄して再度眠ろうとした銀時の頭が、いつのまにか掴まれていた。
アイアンクロー。松陽が力を込めている様子はないのに、銀時の頭はミシリミシリと悲鳴を上げる。
そのまま首値を掴み、引きずり始めた。
何故なら、他の者は皆、寺子屋で勉強中だから。
サボリは許されない。
「……俺はダメで、アイツはいいのかよ」
「よくはありません。
必ず授業は受けさせますよ。君を机に座らせてから、ですけどね」
そのまま、無抵抗で引き摺られていく銀時。
別に構わなかったのだ。
松の上で眠っていようと、松下村塾で勉学の話を聞いていようと、彼にとっては変わりのない事だから。
ただ。
「……」
「彼が気になりますか?」
「別にあだだだだだ!」
遠く。
遠く。
小指の先ほどもない大きさの、杉の木の上に立って、銀時たちを見つめている。
その少年の──何かを羨ましがるような瞳が、何故か脳裏を消えなかった。
「彼が気になりますか?」
それは同じ質問だった。
唇を読んでいたから、その言葉は覚えていた。
この辺り近辺で一番高い一本杉。
その木の上の、一番高い所だというのに、
夜。
月の大きな夜だ。
月の大きな、広い夜に。
「あぁ、ここは見晴らしが良いですね」
「なんか用? センセ」
見晴らしが良い。
それは同意見だった。
ここに上ると、世界が見える。世界が広く見える。
つまらなくて、ちっぽけで、何の価値もない世界が、美しく見えるのだ。
それが好きだった。
この世界には価値があるのだと、そう教えてくれているようで。
「そんなにイヤですか?
誰かの目がある時に、私と話すのは」
「別に、そんなイヤじゃあないよ。
ただ、嫌いなだけ。良い子ぶってるセンセを見るのが嫌いなだけ」
風が吹く。
強い風だ。
けれど、杉はしなるだけで折れはしない。強いから。強く、長いから、風への対処法を知っている。
「それは、手厳しいですね」
「両親の仇だもん。妹の仇だもん。そりゃあ手厳しいよ。
でも、それだけ。それだけなら、こうして親し気に会話することだってできる」
「……そう、ですね」
吉田松陽は、顔に影を落とす。
月明かりはなおも俺と
それだけが救いだった。
それがなければ、暗い感情がふつふつと湧いてきてしまいそうだったから。
「彼が気になりますか?」
また。
同じ言葉を呟く。聞いてきている。問いかけだ。
「……まだ子供だ」
「君だって、そうでしょう」
「センセにしてみれば、そうでしょ。誰だって。誰でも。
俺にとっても、アイツは子供というだけ。センセの基準と一緒にしないで欲しい」
一瞬。
一瞬、月に雲がかかった。
光が遮られ、吉田松陽の顔が翳る。
「では、何故君は、彼をずっと見ているので?」
「センセを殺しそうだから。仇を奪うヤツを張っておくのは、当然」
月明かりがまた差した。
そこには、少しだけ驚いたような──そして、プレゼントを前にした子供のような。
瞳を輝かせる男が、そこにいた。
それは一瞬で鳴りを潜めてしまったけれど。
それが高鳴りであることなんて、言葉に出すまでもない。
どこまでも高く。
どこまでも広く。
「何故君は、高い所に上るのですか?」
「馬鹿とケムリは高い所が好きなのさ」
「君はどちらでしょう」
「……ケムリかな。昇って行って、昇って行って……最後には泡のように消える」
だから高い所に上って、準備をしておくのだ。
いつ、その時が、来ても良い様に。
「夜は短いですよ。そして寒い。
今日はもう、戻って眠りなさい。明日、また上ればいい」
「……もう少し、ここに居させて。
センセに邪魔された、一人の時間を楽しみたい」
ふぅ、という溜息が聞こえた。
枝葉の一つも揺らさずに、隣の気配が消える。
そのまま、音もたてずに、吉田松陽は消えていった。
風が吹く。
先ほど翳りを齎した雲は、たった一つだけ、東の空へと舟を漕いでいく。
目を瞑る。
周囲の音を聞く。
ゆっくり、ゆっくりと。
一番高い所から、広く広く広く広くを──まるで、手中に収めるように。
耳を澄ませる。
そしてそのまま、
「……」
手を離し。
背中から──落ちる。
仰向けになって。落ちる。
落ちた。
そのまま。
止める者もいないままに、首から地面へ突撃した。
落ち葉の絨毯など何のクッションにもならない。
頭蓋は拉げ、首は折れ、胸は潰れ。
それでも意識があった。
それでも──俺は、瞬きをした直後には。
「……はぁ」
怪我の一つもない。
血痕の一滴さえもないその体で、溜め息を吐くのだった。
「おい、白髪。知ってるか、若いうちから白髪のヤツは、将来禿げるんだってよ、お前、チビだから、そのままいけばハゲチビだな。良いとこなんもないなぁ~!」
「……」
「加えて死んだ魚みたいな目だ。っていうかソレ、墨で描いただろ。目蓋に。実は寝てるだろオマエ~」
「……」
「……なんとか言えよな」
「ナントカ」
「──……」
「おい、なんとか言ってやったのに無視ですかバカヤロー」
「──……」
「おーい、赤茶髪ー? イボ痔の奴のうんこ色の髪が似合ってるぞー」
「──……」
「おい、なんとか言えよ」
「ナントカ」
「……」
「……」
これが、二人の──坂田銀時と、