時空タワーを見下ろすクレーターの縁で、ワイリーは美しい星の瞬きを見上げていた。
ネットワークが縦横無尽に張り巡らされている大都会とは対象的に、クレーターとその周囲に広がる風景の何と薄暗い事か。現在の人類が持てるもの全てを注ぎ込み建設した時空タワーは暗闇の中で静かに佇み、役割を果たす時が来る瞬間を待っている。
敢えて人目を拒むかのように。
バレル大佐の自宅で熱斗、炎山に黒いPETを渡した後、ワイリーは何を差し置いてもこの場所に急行すると決めていた。
今日という日を迎えるまで、20年の歳月を待った事になる。その間を短いと思った事など一度もない。
しかし、遂にこの日が来る。
約束の時が来るのである。
昼のうちに、バレル大佐の墓参は済ませておいた。自分の知っている事も、これで全て熱斗達に話してしまった。残る自分の役割といったら、ポケットの中にあるものを再会する相手に渡す事しかない。
保護フィルムに包んでおいた小さなチップは、ワイリーが造ったチップの一枚。そして、最後の一枚でもある。
世界でただ一人、ここで再会すると約束した彼の為にとワイリー自らが造ったものだった。時空タワーと共に、チップの役割もこれから始まる。
一人のアメロッパ軍人とその仲間達が、地球消滅を回避し人類の未来とやらを守る為に、このチップもまた時が来るのを待っている。
「ふっ…」
ワイリーはつい、自嘲気味に笑った。世界の破壊と混乱を望んでいた筈のWWW創設者が、昔馴染みの軍人一人との約束をこうも律義に守っている事を知れば、あの光正の息子は笑うのだろうか。
クレーターの中は、奴の領域になる。ワイリーは、なるべくその中にまでは近づきたくなかった。
20年という時間を、ワイリーがどのような思いで過ごしたのか。正の息子に知る資格などない。
スペクトルを成す双璧の一つ、ワイリー・プログラムを持ってアメロッパ軍に出向いたあの日。ワイリーは、科学者という自分が如何に無知であるかにさえ気づく事ができなかった。
デューオによって人知を越えた科学技術をその身に取り込んでいるリーガルとユリコを手元に置き、調査・分析の限りを尽くした時も同じだ。
ワイリーは世界でただ一人、自分だけが地球外生命体の超越的な科学力を手にする事ができ、有頂天になっていた。正を越え、一人世界の水準の数歩先を歩いている事が楽しくてならなかった。
そして、考えたのだ。得たものを使って一体何をしようか、と。
今にして思えば、WWWという組織の目的自体が、歩みが遅く寄り道も多い人類に対するワイリー一人の苛立ちを晴らす事だったのかもしれない。短気なのだ、老いても尚。
その自分が。同じく老いた一人の男と対面し、自身の無知を嫌という程思い知った。
人類最先端の科学技術も、デューオから掠め取った超科学も、車椅子に身を預ける一人の男の知性と状態の前には沈黙し、その無力ぶりを晒け出した。
彼こそが、バレル大佐。20年前に、ワイリー自身がKA222から未来に向け送り出した友人、その人だったのだ。
20年前。当時のバレルが言うままに、ワイリーはKA222で廃棄を待つワイリー・プログラムを稼働させ、未来に行きたいというバレルの身を電子データに変換した。そして、彼から説明を受けたパスト・トンネルに送り込んだ。
一体誰が、未来でバレルのデータを回収するか。その経緯をも全く知らずに。
バレルの時空移動は、合計3回にも及ぶ。正直なところ、20年後へと意図的に送り出したバレルが生きているなど。たとえ生きていたとしても五体満足であるかなど、まず有り得ないとワイリーは思っていた。
しかも、30歳の彼を送り出した筈だというのに、目の前にいるこの老いた男の姿は一体どういう事なのか。
車椅子で不自由そうに体を扱う、一見力のない老人。風貌は変わり残す面影も微かだが、老いて尚澄んだ双眸にワイリーは、20年前と全く変わらないバレルの魂の色を見た。
体の老化が異常に早いのか、或いは心の老いが極端に遅いのか。再会した時、ワイリーはまずスペクトルによる身体データの破損を疑った。
しかしバレルは、全く別の事情があるからとスペクトルの件を否定し、心を痛めるワイリーに笑いかけた。
ワイリーに対する気遣いではなく、まるで本当にそうであるかのように。
科学者として誰よりも先を歩いていると自負するワイリーも、とうとうここで両手を挙げた。
人は、余りにも無知だ。
そしてバレルの老いが、どうしてスペクトルによる身体データの損傷ではないとバレル自身に言えるのだろうか不思議に思った。
20年前、ワイリー・プログラムの実験をKA222で行った時。バレルは無謀にも、最も空間共鳴の激しい場所に自ら飛び込み、未来に行ったという。そして、密かに何かを為し、帰ってきた。
しかし帰還の際に、ワイリーの恐れていた事態が起きてしまった。バレルの体に過度な負荷がかかり、全身に深刻なダメージを負ってしまったのだ。
原因は複数考えられるが、最も大きな要因は、スペクトルの稼働状況が非常に不安定だった事が挙げられるだろう。
元々スペクトルは、ワイリーの作ったワイリー・プログラムと正の作ったヒカリ・タダシ・プログラムの両方が完璧に揃って、初めて本来の稼働環境ができあがる。ワイリー・プログラム単体では、本来人間を電子データに変換し、それを再び元の人間に戻すところまで実行する事ができない。
変換した身体データを元の人間に戻す役割を担っていたのが、ヒカリ・タダシ・プログラムの方だからだ。つまりバレルは、不完全なスペクトルに未来間の一往復を委ねてしまった事になる。
ましてや、帰還先を未指定にしての移動。
帰路で事故が起こる危険は、ある意味避けようがなかった。
バレルの体をワイリーに治療する事ができたのは、リーガルとユリコを人として扱わなかったあの研究の成果なのだから皮肉なものだ。引き取った者達に愛情を注がなかった行為が、全く別の人間を再生させる事に繋がったのだから。
ワイリーの元にいたリーガルが、バレルの持っている紋章のデータに魅かれたのは、同種の臭いを嗅ぎ取ったからなのかもしれない。そして、それを持ち出したのは、ワイリーとバレルに対する面当ても含んでいたのだろうと、今にして思う。
あの時ワイリーは、持ち去られた紋章のデータが後々大きな意味を持つところまでは予想だにしなかった。
そして、完治したバレルが再び未来に行くと動き出した時、データが奪われた事とどのように結びつくのかも推測する事ができなかった。
デューオの持つ科学力を得ても尚、ワイリーは一科学者以上の何者にもなる事ができなかったのだ。
それが人としての限界なら、それでも構わないとワイリーは思った。
神になどなりたくはない。
好奇心のみを友として何かを探り、為し遂げたい。そう思ってしまう時点で、ワイリーは宿命的に科学者以外の何者になる事も欲してはいないのだ。
たとえそれが、悪事という領域に入る行為だとしても。
その神の領域を覗いた者が、人類にいる。
リーガルとユリコがそうであったように。いや、むしろそれ以上に、バレル大佐は人と神の境界線を大きく踏み越えてしまっていた。
しかも、彼は未だ大胆な歩みを止めるつもりがないようだ。20年前に身体的ダメージを負い、この異常な老化をも受け入れた上で。
それをワイリーが確信したのは、バレルとの挨拶を交わした後だった。
「あなたに頼みがある」
彼の話を聞く前から、拒む事などできないとわかっていた。
他ならぬ『不死身のバレル』の個人的な頼みとあれば。
そして、WWW総帥としてバレルと向き合い二人三脚を始める事も、ワイリーにはできなかった。
思わぬ再会の時に着ていたWWW総帥の服。ワイリーにとって、それは正装にも等しい服装ではあったのに、バレルの前で着る勇気がない。
その後、事情もあり、アメロッパ国内を動き回る時にはなるべく地味な歳に合ったものに袖を通している。カーネルの改造と過去へのデータ転送の為、度々バレルの自宅を訪れていた時もまた。
高みに立った科学者として、恋だの友情だの家族愛だのに現をぬかす者達を見下ろし笑っていたつもりが、今では自分も彼と再会する喜びに胸ときめかせている。
自分が特別かけ離れた人間ではなかったのだと自覚し、ワイリーは頭を掻いた。
今はただ、無性に会いたい。20年前、時空の狭間に霧散したものと決めつけていた命と。
老いた彼が再会を段取りづけてくれたこの場所で、20年前のバレルと。
「ん…?」
時空タワーが高出力の光を真上に放ち、1本の直線をその頭上に描いた。
いよいよ始まったようだ。
しかも、ワイリーの立つ場所をも包み込むように、半球状のディメンショナル・エリアが展開する。
遠くを見て、ワイリーも納得が行った。青く輝く満月の下、虹色に彩られた空間境界の外でアステロイドの大軍団が行進をしている。
この時空タワーを目指し。
敵も理解しているのだ。最後にこの場に到着する者こそ、13個目の紋章の持ち主であり、13人の中では最も強力な存在である事を。
ワイリーは用心深くクレーターを滑り下り、時空タワーに近づいた。
少し急いでやらねばなるまい。
歩き続けるワイリーの目前に、光の粒が集まり始める。
ワイリーは、にやりとした。ヒカリ・タダシ・プログラムの実行する最終工程が正常に進行している証だ。
やがてその光は薄暗がりの中で一つにまとまり、地上に一人の男の姿を形成して四散する。
現れた男の影は肩で息をし、最初すぐに動き出す事はできなかった。
ああ、こうして時空移動は成功したのか。ワイリーの胸の中で、言葉にならない思いが膨れ上がる。
長い黒髪と、シルエットだけでそれとわかる軍用防寒着を着た長身の姿。全てがあの日、密かに未来へと送り出したバレル大佐そのものだった。
彼にとっては苦痛を伴う一瞬が、他の人間にとっては20年間をかけて過ごした時間なのだと、今彼は理解できるのだろうか。
できる筈だ、それがバレル大佐という男なのだ。
暗がりから、彼の名を呼ぶ。
「バレル大佐、待っておったよ」
「…ドクター・ワイリーか?」
あの時のままのバレルが、ワイリーを見つめ少し驚いた様子をした。
無理もない。この20年間、ワイリーの身には様々な事が起きた。齢を重ね、人相が変わる程辛く不愉快な思いもしている。
20年前に見たワイリーの顔を今日の記憶としている彼が、一瞬でも迷うのは、自然な事だった。
それでも変わらぬ、大佐の声。
ワイリーは、保護フィルムを外したチップを「ほれ」とバレルに投げ渡した。
「戦え大佐、クロスフュージョンで」
左手で受け取ったバレルが、手の平にあるチップの正体にすぐ気づく。
そして、全てを理解した輝く眼差しで「感謝する、ドクター」と礼を返した。
仲間達の元へと走り出すバレルを、ワイリーはにやりとした笑顔で見送る。
バレルとワイリー、これで二人共にそれぞれの約束を果たした。
最早、ワイリーがバレルの為にも、地球消滅を回避する為にも、してやれる事など何一つない。後は、バレルの決意と彼が信じる仲間達に委ねるだけだ。
間もなく、ワイリーの造ったシンクロ・チップがバレルとカーネルのクロスフュージョンを支援する。功績としては名の残らないそのような小さな行為が、今のワイリーには奇妙な程小気味良かった。
正の息子ではなく、自分の造ったシンクロ・チップが、バレルとカーネルを更に強く結びつけるのだから。
「第6話 カーネル」 に続く (全7話構成)