音もなく、黒に染まった邪神はかき消える。そこに居たはずの誰か達はドロドロに溶かされて命としての形を失った。
用意された血濡れの王座に深く腰掛ける。魔神との契約は此処に完了し、死人の緑はいとも容易く拭い取られた。
「………フリン」
「どうなされましたか、主殿。さては持病の花粉症でも患いましたか。」
「………いや鼻水は垂らしてない、垂らしてはいな
いやそれはこっちの台詞だ、何そんな涙我慢して鼻水ダラダラ垂らしてるんですかもう」
「そ、それは私にも言える事だがな……わたしにも、その気の使い方を、ずびっ」
白く、美しい花と化した魂が揺れる淵の底。緑の亡霊と黒の男、そして、小さな子供は泣きじゃくりそうな顔で、しかし涙を出さないように堪え、そので損ねた涙が鼻水として溢れて皆一様に醜い様を見せていた。
どこからともなくティッシュを取り出せば、皆それで鼻をかむ。
しばらく、雑音が響いた。
「…あー………鼻に優しいやつにすればよかった」
「むぐっ……」
呆れたような風が吹いた。
物理法則は基本的に、歪められてはいない。世界はまだまっさらな初期の状態、かつての世界と同じまま働いている。ちん、と鼻をすする音。
「主殿」
「ん?」
「これより、どうなさいましょうか」
しばらく涙目のまま唸りもあげず、放心しているナバールの後ろ姿を見ていると、思いついた、というよりは。それをずっと考えていたかのように口に出した。
「法則を、力を、歪めたいんだ。
今わかった。人が、人としていると、観測の力は必ず産まれる副産物的なものらしい。俺は、ただ、みんなに、人として生きてほしい。
だから……その観測の力に制限を課したい。」
「———制限?」
共にあり続けた緑の亡霊がその言葉に疑問を口にする。
「ああ。観測対象に、その観測の結果を受け入れるのかの選択肢を与えるんだ。そうすれば悪魔になる、ならないが委ねられる。自由にその権利が齎される。
……ダグザみたいに、悪魔になりたくなかった存在だってもしかしたらいるだろうからさ。
そして、悪魔が基本的に現実に顕現できないようにマグネタイトの入手手段は人間からの承認が前提とする。そうして、心の底から現実に這い出れるようにすればいい。
そうすれば、まず……こういうことには、悪魔が人を振り回すようにはならない筈だから。」
「主殿、それは…」
「はは、わかってるよフリン。俺がやってるコレは、結局は問題の後回しに近い。もし、力を抑制してる俺が居なくなれば、制限はなくとも、人間そのものの、大きな意思達が暴走して……最悪、世界に悪魔が再び蘇る。
そして俺は、かつての神性にその首を狙われているとも。」
それに何か、納得したように、ずっと側で憑いてきたからこそその苦悩と方向性の違いを知り、その上でこの地獄の連鎖を最後まで見届けると誓った彼は、ナバールは言う。
「……フリン、それでも彼は、……ナナシは夢見たかったのだよ。悪魔がもし居ないならの、世界を。悪魔と本当の意味で寄り添うことの出来る、どちらもとれてどちらもとれない道を。こんな形になっても、心が、折れても。
……ナナシ、私は……」
此方へ伸ばされた小さな手のひらから目を背けた。強引に、話を逸らして、自らの罪に、己の後悔に目を背ける。
「……フリン、いや———不動燐也さん。本当は俺、恨んでるんですよ」
向き合ってから、カラカラと恨んでなさそうな笑いで、口にする。
本当は笑えもしないくせに。
「わかってましたよ。貴方がずっと、記録を持ってた事も。
この黄泉孵りは、元いた枝のあった座標に俺たちの意志の欠片を飛ばし、元いた世界を無に還して擬似的な世界のリセットを行なっていた、ということくらい。……貴方が、かつて虚無を望んだ貴方の後悔の思念が、世界の停滞を観測した事で抗えぬ滅びを確立させた事も。」
わかっていたのだ。最初に出会い、共にあった友は、仲間は、もう居ないと。
彼らは、かつての夢に似た別の夢であったと。
目の前の彼は、ソレを行った彼自身ではなくとも。その恨みを誰かにぶつけたかった。
それなのになんなのだろう、この虚無感は。
「……それでもですね、燐也さん。俺は、貴方を否定はしない。それはきっと、俺もやっていたでしょうから。こんなの認めないと、無意味に繰り返していたでしょうから。」
「……アキラ」
彼、フリンは———不動燐也は、彼の名前を呟いて、呼ぼうとして、そこで名前が最早彼を縛り付ける鎖ではなくなった事に気がつく。
目の前にいる彼は正真正銘の言葉そのもの。言葉でありながら、言葉に縛られる事の無い本物の神性へ至ったのだと。
黄金に輝く目から、人としての名残は見られない。もう、それすらも放棄する道を選択させてしまったのだ、と。
口の中がカラカラに乾いて仕方ない。
「……断ち切られた因縁も、元に戻しました。もう、主従の関係などではないです。
………俺を、殺しますか?」
「なっ、ナナシ?!」
「……それを僕に聞くのかい」
目を閉じた。
自分がやった所業は、あの幼い子を、まだ少年の彼を大人として歩ませるような事だったのだろう、と。今も、かつても。全て自分がきっかけであったのだと、噛み締める。
「酷い事を、まぁ……いや、僕が先にやったのか。殺しなんて、しないさ。コレも、僕の罪で、罰なんだから。わかるだろう?
最後までどうか共に付き合わせてくれ、———。」
そう。
コレは罰だ。
本来起き得ぬやり直しを求め全てを犠牲にした傲慢さ。自分が、世界の創世をしたかったという、嫉妬のなり損ない。
自分は、此処で、終わりを見届けて……また次に来る者のために備えなければならない。
「……本当に、貴方も酷い人ですよ。」
わかっているとも。これが、罰とは言い難いものという事など。
結局はこれも皆自己満足。残ったとしても、これは、彼へ対する冒涜にしかならない。
だがしかし、止められなかった。止まらなかったのだ。
あの時と同じように、手を差し伸べた。歪な椅子の上、永劫に孤独な子どもに、うまくできてるかはわからないが笑いかけた。かつてのように、されど、致命的な程の立場の差がありながら。
虚ろな口から息が溢れる。
「行こう、ナナシ。」
——ああ、もし。世界に滅びが来ないように人がもっと強ければ。
——自分達が強くあれるのなら。
強くなりたい。
その手は、背中は、いつだって彼の希望だった。
己すら無くした彼は手を掴む。
そうして世界は再び巡り出した。
それは、本来あった形とは異なる形。別世界の後悔を産みながら神は殺されるのか。ただ一人の絶望に俯瞰されながら消えゆくのか。
なんであれ、その最期は訪れる事になる。
小さな世界に花は光り輝く。
その花の群れの中に、小さな黄金の蛹はあった。