1回目の黄泉孵りは困惑から始まった。
そりゃあそうだ。天上で足掻いた末が、うまく天使どもを利用できなかった末が、このもう一度の特典だ。何処かの神が利用しようとしているのか、とふつふつとこみ上げた怒りと憎悪に小さな身体は反応する。*1目をぎょろりと動かして自分を見れば、倒れ込んでいた身体は小さくみすぼらしかった。生存本能の芽生えた死にぞこなった小さな身体で、孤独に飢えながら何のために生きているのかも解らずに地面を這いずり回る。訳もわからず駅を転がり、誰にも見向きもされず隅の隅に行ったとしても、呼吸の音は小さく、虫の息のまま。
何故こうして生きているのかわからなかった。駅のホームの隅、薄汚れた肉体で血の色が染みついた壁にもたれた。
「……!オヤジ!あの子!!」
「は———」
子供の声。元気いっぱいのそれが、緊張感に溢れて、張り上げたような声でうるさく、なんとなくいやだと思った。キンキンとしていて、死にかけの自分と対照的だとうるさかったのが半分、何も知らず、覚えずに生きている者に対する嫉妬が半分あったのかもしれない。
動くのも億劫だが、目を向けた。それをした理由はわからなかったが、この声が優しい思い出を思い出させてくれるようで、なんとなく、聞いたことがある気がした。
ああ。
———あの人に会った。それは紛れもなくあの人で、でもあの人ではなかった。だが、この髪は、あの目は。老いたかつての今でも記憶の中にあった。声からまず忘れたが、その面影までは忘れた訳ではなかったのだ。
当然だった。あの人は天使から救う為に天使を襲った、その時の自分には救う手段が一切無く、そのまま繭の中で息絶えてしまったのだから。その繭の中には悪魔の因子が混ざっていて、あの人の肉体はその因子に耐えきれず熟れ落ちていた。外道種、ならまだよかったのだろう。だが、悪魔にすらなれず、孵化もする事なく眠っていた。
なら目の前の彼女はきっとあの人ではない。姉さんではなく、きっと、自分のようにまた生まれ直して自分とは違って記憶を持たないで生まれた別人なのだろう。
「
姉として見るのをやめた。
その子供はきらきらと輝いていた。親からの愛を一身に受けとめ、こんな状況下でも可愛がられてきたのだろうというのがその振る舞いから伝わる。
自分へと差し伸べられた小さく、暖かな人の手に力の入らない腕を上げて、その柔らかな掌に救われた。
あの人。姉さん……いいや、あいつ、アサヒは親父さんと一緒に暮らしているらしい。何よりだと思った。前は、家族はみんな悪魔の腹のなかだったから。あるいは繭の中か。なんだっていい。どっちだって同じでしかない。どうだってよくなった。
ああ、きっと、自分はアサヒに関わるべきではないだろう。当然だ。仲間に希望を持たせるだけ持たせながら、道半ばで殺された愚者。その旅は世界へと至らず、審判など迎えようもなかった。*2
なによりもう、身近な家族があんな風になるのを見たくはない。自分といたらまた、天使に、あるいは悪魔に。攫われて、殺されてしまう。自分は悪魔との戦いをやめて、後方でのうのうと生きる気はしなかった。
……歳をとって、変に臆病になったのだろうか。自分ではアサヒを守れないだろう、など。今思い返すと不思議な気分になる。ああ、しかし自分が言っていたコレは正しかった。
ただ、その時の自分にわかるのは世界に定められたかのように俺はあいつと居なければならない、という事だけだった。そして、喪失も同じくであるということだろうと誤認していた。拾われた自分は同じように育ち、そして今。血まみれの状態で横に倒れてる。極彩色の悪魔が命を弄び、こちらを見下す。
耳は鼓膜がもう機能していない。耳鳴りが鈍い痛みと共に乱反射する。目の前は白くチカチカしているようで、グラグラ世界が揺れていた。
自分は悔いるべき事を考えていた。
『一緒に逝けるのなら、また生を掴んだ意味がある』、と。
……あの時は疲れ果てていた。自分がして来たことの無意味さを。東京の、現状に。焔が身体を溶かして、燃やして、黒焦げの物質にして。懇願するような想いを叶えるかのように身体の全体が痛みを訴えた。
昏い底へ落とされる。それはかつてと似ている。
黄泉路を渡り、改札を通る。
紡ぐべき事はもう、ない。ないんだ。蘇りなど、今まで殉職してきた者らへの冒涜だ。だから、もういいだろう。行かせてくれ。物言いたげな魔神の横を通り過ぎる。どうしようもなく臆病な自分は逃げたかった。
中庸の道など、既に破棄された。人々は秩序に従い、混沌に蹂躙され、今あるのは混沌と秩序の入り乱れた世界でしかない。
———でもこんなの、いやだ。こうして逃げる自分なんて、自分ではない。
黄泉孵りは疑問から始まった。
否定した選択肢を掴めと言わんばかりの世界。体を無理やり立たされたかのようで不快だった。ぐわんぐわんと腹のなかが揺れ動き、手をばたつかせても世界への拒絶の手ははたき落とされた。
同じ言葉、同じ瞳。
「ナナシー?何見てるの?」
「アサヒ、やっと来たのか……朝早くに起きたんだろうに、なってねぇな」
「む、女の子には用意に時間がかかるものなんですー。
…ああ、フリンの動画見てたの?凄いよね、仲魔と一緒にこんな戦って………
でもさ、フリンももう少し装備は考えるべきだと思うの」
「おいちょっと待てデモニカスーツを愚弄するなよ」
「えー、デモニカスーツ可愛くないじゃあん」
「え?」
「え?」
「……ナナシのこのセンスは一体何処から来たんだ……?」
それらは、どうやらよほどの事でもないと変わる事がないらしい。よほどの事とやらには一度も出会った事が無いから、実質変わらないのと同じだ。いくら繰り返しても、その形は、ありようは。むーと頬を膨らませるアサヒのその頬を軽く摘む。柔らかく伸びた頬を見ながらゆるりと笑う。
自分にはどれもがデジャヴを感じるもので、選択を変えても同じように続く世界に偽りすら覚えた。それでもこの世界は何処までも現実で、いつまでも地獄だった。
……魔神の声がする。
黄泉より帰る、その甘言が心を揺さぶる。
もし、此処で。違う選択をしたならば。続きを選んだなら。
……アサヒと、あの子と生きたら。どうなるのだろうか。
差し伸べられてもいない、手のひらを幻視した。男の、戦う人の手だった。
誰かの呟きが聴こえる。
その呟きは、聞き逃してはならないだろう。
繰り返し見た夢の内容を思い出しながら、夢の内容に対して誰かがつぶやいていた事を日記の端に書きとめる事にした。