犬吠埼家に産まれたかったぜ…!
バシャバシャと水が顔を叩く音が絶えず聞こえてくる洗面所。そこではひとりの少女?が解せぬといった顔で鏡を見つめていた。
「……夢であってほしかった…」
そう一言呟く。
先ほどまで頑なにベッドから出てこようとしなかった割にはすんなり理解したように見えなくもないがそうではない。
ただ現実を受け入れた––––正確には必死に受け入れようとしているところなのだ。
少し耳をすませばリビングの方で自分を起こしに来た少女とおそらく母親であろう女性の会話がちょくちょく聞こえてくる。
会話の内容自体は別段珍しくもない、違和感などないはずの日常会話。第三者から見たら微笑ましいものですらある。
だか、今の俺にとっては違和感がないことが違和感なのだ。
「…………」
バシャ
なんとなくまた水で顔を洗い、もう十分水でビショビショの顔をさらに濡らす。
この水の冷たさが心までも冷たくしていくようだった。
「可愛いのは可愛いけどさ…」
ビショビショになった顔さえたしかに可愛い女の子だった。
でもこれ以上ビショビショにするのもなんだか気が引けてしまったので観念してタオルで拭くことにする。
柔軟剤の優しい香りがどこか懐かしかった。
人間は受け入れたくないことや認めたくない時に無理やり変なことを言ったり、変にテンションを上げようとするみたいな話を聞いたことがある。
………まるっきりそれだな。
先ほどの少女に言われた通りなら顔も洗ってその目的であるはずの目覚ましもできているからリビングの方に戻ればいい。
…やだなぁ。
心の中で素直にそう思ってしまった。
状況も何もない、まるっきり意味がわからないのだ。
自分がどこの誰でここがどこで先ほどの少女が誰なのか–––––考えれば考えるほど頭の中がごちゃごちゃになって仕方がない。
なんか変に体が軽い気がするし、肌も白くてすべすべでもちもちだ。
手を見てみる。手をにぎにぎしてみる。
「ちっちゃい……」
とりあえず少しでも一人でいる時間を得たいのでピョンピョンと可愛く跳ねている髪を直すことにする。
幸い目の届く範囲に櫛があったらのでそれでとかしてみる。
「うわぁ…こんなにサラサラしてるんだ……」
それはゴワゴワでもなく変な硬さもない違和感ありまくりの髪、霧吹きをしなくとも櫛が抵抗なく通っていく感覚は悪いものではなかった。
「むぅ、なかなか手強いな」
ただそれで寝癖がさらっと直ってくれるかどうかは別問題であり、いくつかの寝癖はこれだけではダメそうだ。こんな時、それこそ男だったら直接髪を水で濡らしてみたいな方法もあるにはあると思う。
だが今の俺は否が応でも女の子の姿であり、それでいてそんなワイルドな方法は取りたくない。……説明のつけがたい罪悪感にとらわれるのだ。
「えーっと…霧吹き霧吹き…」
いわゆる寝癖直し水?ウォーター?があったのでそれを拝借する。
「おぉー」
予想以上の効果にちょっと興奮した。
だがこれでやることがなくなってしまった。いつまでも洗面所にいるわけにはいかない。
なにせ終わったら早く来てねと言われてしまっている。
鏡に映る自分が苦い顔をしている。そんな顔をしていてもなお可愛いのはすごいと思うけど…
「………………………………」
「っ…………はぁーーーーー」
よし!戻ろう!
これ以上重々しく考えてても埒があかない。当たって砕けろバンザイ!(砕けてはいけません)
きびすを返しつつゴクリと生唾を飲み込む。
「あ、樹ようやく戻ってきた」
リビングに辿りついたところで席に座ってもぐもぐとご飯をほうばっている少女。いい食べっぷりだ。
「えーっと……寝癖がなかなか直らなくて」
「あら樹ったら自分で直してきたの?」
母親らしき人が台所に立ちつつ視線も変えずに一言。
あ、あれ…?なんかおかしかったかな?
「うん、…なんとなくそんな気分で」
「樹も明日から小学一年生だものね。えらいわよ」
てことは俺の年齢は6歳ってことか……6歳かぁ…
「別にアタシがやってあげるのにー」
「風もそろそろ妹離れしなくちゃかもね」
「えーーー。お姉ちゃんが妹の面倒をみるのは当たり前なんだよ?」
この少女の名前はふうちゃんというのか。えーっと風でいいのか?
名前で風ってあんまり聞いたことない気がするけど活発そうな彼女には合っている気がする。
「はいはい。風は樹のことが大好きだものね」
「大好きだよ〜樹〜!」
「うひゃ!?」
心臓に悪いからいきなり抱きつかないで!!ただでさえ精神が安定してないんですよ!?
「ほら風お行儀悪いわよ。樹も早く席につきなさい」
「はーい」
「う、うん」
机にはすでに出来立ての美味しそうな朝食が並んでいた。どうやらこの家は朝からしっかりと食べる家庭のようだ。
とりあえず食べるか。どれまずは味噌汁から––––
「こら樹。ちゃんといただきますでしょ」
「あ–––––いただきます」
「はい、よくできました。樹は偉いね〜なでなで」
風の少し樹よりも大きい手が優しく樹の頭を撫でる。幼少期や児童期のコミュニケーションやスキンシップの有無で人格の形成は決まるって聞くけどそれは本当なんだなぁと実感する。
こんな状況であってもこうやって人に笑顔で頭を優しく撫でられたら嬉しいらしい。体の中に暖かく穏やかなものをじんわりと感じた。
–––––––いいお姉ちゃんなんだな。
「んっ…くすぐったいよ…」
「えへへ」
満足そうに笑って再び食事を開始する風––––お姉ちゃん。
姉に習って俺も元気よく食べますかね。
とりあえず味噌汁を一口。
「…美味しい」
そしてご飯をパクリ。炊きたてでまだ湯気が出ている。
「美味しいなぁ…」
机に置いてあった明太子を使うとさらに美味しい。
焼き魚やらほうれん草のおひたしなんかもつまんで食べる。
あーこりゃお姉ちゃんが隣でばくばく食べるのも納得だ。食欲が刺激されるとはまさにこのこと。
「風は明後日から新学期でしょ」
「うん、次は三年生だからもう中学年だよ」
一年生と三年生ってことは二つ違いでお姉ちゃんは8歳か。
「新学期の準備とか大丈夫なの?」
「えーっとね、鉛筆が足りないかも」
「じゃあ後で買ってきなさい。お店はわかるわよね?」
「うん、平気ー」
「………………」
これが家族の会話ってやつか……!
あ、熱いお茶美味い。やっぱ日本人は緑茶だなって。
「ごちそーさまでした!」
「ごちそーさまでした」
姉妹揃って両手を合わせて食後の挨拶。挨拶は基本だ。古事記にもそう書いてある(ちょっとふざける余裕が出てきた気がしなくもない)
さて、食器でも片付けますかね。
自分の食器を重ねて持っていこうとすると俺の手が届く前にお姉ちゃん……今更ながらちょっと恥ずかしいな。お姉ちゃんであるのは確かなはずだから何も問題はないんだけど、こう…気持ちの問題というか、ね?(何がだ)
「アタシがやってあげるからいいよ?」
お姉ちゃんの手が自分の食器と合わせて俺の食器も手際よく重ねて台所に持っていこうとしていた。
「そのぐらい自分でやるよー」
「だーめ。樹はまだ一年生にもなってないんだから怪我したら大変でしょー」
食器持って行くだけでそんな心配されます…?というかそれぐらいのことだったら三年生も一年生も変わらんって。
あぁ…!ほら食器カタカタしちゃってるし。全く、どっちが危ないんだか。
俺は食器のバランスが不安定になっている部分をそっと持つ。これで危なげなくなった。
「この方が危なくないよ。お姉ちゃん♪」
「…………」
……もしかして気味が悪い笑い方でもしてた?
石像のように固まったまま動かなくなって石像のようになってしまったお姉ちゃん。はて、どうしたものか。
「お姉ちゃーん、お姉ちゃんー?」
「…………」
呼びかけても返答がない。ただのしかばねのようだ…後6歳児の腕力だとこれだけの食器持ったまま待機ってのも結構きついんだよなぁ。
母親へのヘルプも視野に入れるべきか……でもまだ母親にさらっと話しかける勇気はないっす。
純粋に樹ちゃんが母親のことなんて呼んでるのかわからんし。ん?風お姉ちゃんはなんでわかったのかって?
––––––––さぁ?
「樹…!」
「うわっ!びっくりした!」
めっちゃ素の反応しちゃった!
すると先程までただのしかばねのようだったお姉ちゃんは妙にニヤニヤした顔をして
「あんたは本当ッに可愛い子だねぇ!!」
「おばあちゃんかよ」
は!?またやっちまった!こんな冷静にツッコミをする6歳児がどこにいるってんだよ…!
「樹がお姉ちゃん思いで可愛すぎて生きるのが辛い!」
「そんな元気よく生きるのが辛いとか言わないの……ほらはやく持っていこ、お姉ちゃん」
「妹よぉ〜」
どんな返事してんだ。
「〜〜〜」
なんか機嫌良さげだし。
––ったく、可愛いシスコンお姉ちゃんじゃねーか。悪くない。
朝食はちゃんと食べた方がいいと思う派です。
感想やら評価やらどしどしくれちゃってください。
すげー喜びます!(迫真)