短篇集   作:りーる

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しあわせ

 ここはどこだろう。

 頭上を流れる朱色の雲。

 目の前には地平線の彼方まで広がって、最果てが見えない山吹色の草原。

 足元を見ると影法師が一つ伸びていた。

 吹いたそよ風は髪を撫で、小さな白い花達が足首をくすぐる。

 

「三玖?」

 

 誰かが私の名前を呼ぶ。後ろを振り向くと黒い影がこちらに歩いていた。顔は逆光でよく見えない。

 でも発せられる声はどこか聞き覚えがあって。気分が安らいでいくのを感じる。

 

(……またなんだ)

 

 淡くてとても優しい夢。何度見ただろうか。

 はっきりと詳しい回数は覚えていない。だけど両手の数は越しているのは間違いない。

 自然に足が影に歩み寄っていた。

 何度も見た夢だから、これから自分がしようとしている事も分かる。

 私が自信作を渡して、影が感想を話してくれる。

 私と影しかいない空間。他の誰もいない、二人だけの空間。

 真っ白な回答欄を黒く染めるみたいに、日々私の中で大きくなっていった存在。

 ああ。とても、とても素敵な夢だ。

 

 

***

 

「あなたは今しあわせですか?」

 

 どこかの駅で宗教に勧誘する年配の女性が発するような台詞。

 柔和な笑みを顔に浮かべて、長い年月が刻まれたしわくちゃな手には『貴方は神を信じますか?』などと大きい文字で書かれたチラシを握っている。

 そのつぶらな瞳に良心が捕まったら最後。信者になるまで延々と信じている神様とやらについて説かれる。

 以前の私なら返事の代わりにヘッドホンをつけてそのまま通り過ぎていた。

 けれど、もしも今聞かれたら私はどう答えるだろう。

 

 しあわせ。しあわせとはなんだろう。姉妹達に聞いてみた。

 

 「うーん……皆でいる時かな?」

 「どうしたのよ急に……そうね、好きな人といる時が一番じゃないかしら」

 「体動かしてる時!」

 「美味しいものを食べている時が一番ですね」

 

 皆でいる時。好きな人といる時。運動している時。食事をしている時。多種多様の答えが返ってくる。

 しあわせと感じる時が人それぞれに違うのだから、答えも違う。

 雇っている家庭教師にも聞いてみた。暫し沈黙した後「……勉強かな」と。

 しあわせを感じる瞬間が勉強とは彼らしいと言えば彼らしいのだが。

 

 

 そもそもしあわせの定義とはなんだろうか。

 膨大な情報が流れている電子の海に潜っても納得できる答えは出なかった。

 自分が笑顔でいられる瞬間。自分が心の中で決める事。

 曖昧な言葉の羅列の中で多くはこう記されていた。

 これに当てはめると、私が笑顔でいられる時が幸せとなる。

 思い返すと、戦国武将と姉妹達の事が私には該当していた。

 しかし最近はそれだけでは満ち足りていない自分がいる。

 確かに笑顔にはなる。おそらく戦国武将の話を始めたら止まらないだろう。もしかしたらその長さで次の日の朝日まで望めるかもしれない。

 姉妹達もそうだ。誰かが嬉しいと私も嬉しいし、誰かが笑うとその笑みは私にうつる。

 だけど、表現できない『何か』が心の中で渦巻いている。

 私が知っている言葉では上手く口にする事ができない。

 喉まで出かかっているのに。そこから先が出てこない。まるで誰かに口を塞がれて発する言葉を止められているみたいだ。

 

 原因は分かってはいる。私達の家庭教師だ。

 最初は勉強が出来るだけの男の子だと思っていた。けれど次第に彼に惹かれている自分がいた。彼の表情を浮かべるだけで胸の鼓動は早くなるし、声を聞くだけで気分は上がる。ふとした仕草一つとっても彼の事を目で追ってしまう自分がいる。

 しかし相手は難攻不落の城のような人物だ。堅い城を攻略するには強力な武器が必要なのは歴史が証明している。しかし、私にはそれがなかった。武器がないなら策を練ればいいがそんなに都合よく策が思いつくはずもない。

 攻める武器も、落とす策もない。ましてや城自体を攻める勇気すらもない。

 そんな私に、募る思いを告げる事は出来なくて。

 

『独り占めしたいから、これに尽きる』

 

 以前一花に変装していた時に告白してきた男子が言った言葉。

 もしも自分だけが独り占めできるのが許されるなら。

 儚い幻想を夢見た。けれど現実はそうじゃない。

 五人は皆平等。それは家庭教師との関係も同じ事。その中で私だけが特別扱いなんて平等じゃない。私だけ彼を独占はできない。でも積みあがったこの思いは変える事はできない。嘘の言葉で蓋をしても、いつかは崩壊する。

 

 『やっぱり最終日のダンス、代わろっか』

 

 一花からの提案だった。でも私は首を振った。

 クラスメイトから聞いた伝説。林間学校の最終日、キャンプファイヤーのダンスで手を繋いでいたカップルは生涯を結ばれる。

 私達は皆平等だ。私じゃなくて一花が踊ればいい。

 だけど本当の気持ちは違う。フータローと踊りたい。でもそれは無理だ。変装(一花)の時、この人と踊ると言ってしまったから。

 

 『後悔しないようにしなよ』

 

 分かっている。分かっているのに。

 胸が締め付けられる。こういう時、どうしたらいいんだろう。

 私の知識では正解が出せない。出ない答えを求めて、何度も考える。

 もう、よく分からない。ぐるぐるとループしていく。次第に自分が自分でなくなってしまいそう。

 

 『公平に行こうぜ』

 

 そんな折だった。彼に救われたのは。

 彼にとってはただの遊びの話だった。でも私にとっては違う。

 平等もいいが、そこに至るまでの努力を否定しちゃいけない。

 何かがカチリ、と嵌ったような気がした。絡まっていた平等という名の鎖が解かれていく。

 ああそうだ。平等じゃなくてもいいんだ。凍り付いていた思いが溶けていく。

 

 『私はフータローが好き』

 

 その宣言はライバルに向けての言葉でもあり、自分に言い聞かせる言葉でもあって。

 決意する。負けない。一花にも誰にも。

 

***

 

 今一度、思い返す。彼を振り向かせるにはどうするのが最適なのか。

 彼は教師、私は生徒。教師は生徒が何をしたら喜ぶのか。

 一番は良い成績を取る事だ。赤点だらけの生徒が急に高得点を取ったらどうだろう。

 もし私が苦手な科目で高得点を出したなら。勉強好きの彼なら喜んでくれるに違いない。もしかしたら褒めてくれるかも。

 よし、私は姉妹一番の生徒になる。そして自信をもって彼の生徒を卒業するんだ。

 そうしたら、この思いを彼に伝えよう。

 

『フータロー。私……』

『一花も赤点なかったんだ』

『合計何点だったの?』

『えーっとね、二四〇点』

 

 でも真実は残酷で。私の願いは聞き入れてもらえなかった。

 姉妹の中で私は二位。一位は一花だった。

 たった二点の差。その差が、私には何よりも重くて。

 何も小細工も不正もなかった。公平だからチャンスは私だけではなく、一花にもあった。

 とても悔しかった。目の前が真っ暗になった。

 

 思いが揺らぐ。私は彼の生徒を本当に卒業できるだろうか。

 あれだけ頑張っていたのに、結果はついてこなかった。

 ならいつまでもこのまま?心の中を引っ掻き回される。

 

 

 ―――ならこの縁を断ち切ろう。心の奥底から声がする。低く重い声。

 変わらない繋がりならもういいじゃないか。声は続ける。

 甘い誘いだ。『あきらめ』の四文字が心に広がる。

 

『この関係に終止符を打ちましょう』

 

 私は声に従った。予想していた通り、彼は狼狽した。彼が受けた依頼は私達が卒業するまで。いきなりパートナー解消という話を聞いて戸惑うのは当たり前だった。

 心残りは五月の恰好で伝えた事。ありのままの自分の姿で言えればよかったのだが、おじいちゃんの前ではそれは叶わなかった。

 彼の事だ。何故解消なのか、私達に聞いて回るだろう。そして見つけ出したら問い詰めるに違いない。どうしてだ、理由を話せと。

 でも普段通りでさえ見分けがつかないのに探せるのだろうか。彼がどんなに諦めが悪くても無理だと思う。

 

『お前は一花だ!』

 

 ほら。やっぱり分からない。もしかしたらと期待していたかすかな希望が潰える。半年の付き合いなんかで私達の見分けが出来るはずがないんだ。もう戻ろう。帰える準備をしなきゃ。

 

『三玖か?』

 

 なぜ当たったのか。理由は分からない。愛なのか。はたまた偶然なのか。もしかしたら私を見捨てた神様が最後の最後で拾ってくれたのかもしれない。

 「なんで?」と問うた。今まで見分けられなかったのに。私以外の名前を指名したのに。

 

『いや何故だか一瞬……お前が三玖に見えたんだ』

 

 瞬間、私は彼に飛びついていた。

 理由なんて必要ない。見つけてくれただけで十分だった。

 教師と生徒。それは確かに変わらないのかもしれない。

 でも変化するものはある。それは微々たるものなのかもしれない。私が気づいていない間に変わっているのかもしれない。

 

 それでも私に自信をくれたのは確かだ。

 もう一度きっかけがあれば、卒業できるかもという自信を。

 その時期は、意外にも早く来る事になる。

 

***

 

「さあ!修学旅行ですよ!」

 

 放課後。いつも集合している図書室に、大きな声が響く。

 その声に周りの生徒が訝しげな眼を向ける。

 何度も注意されているのに、当の本人は変えようとはしない。

 図書室担当の目はなかったのが幸いだ。

 

「うるさいぞ四葉」

「すいません!居ても立ってもいられなくて!えへへ!」

「全く……」

 

 四葉の言葉にフータローが溜息をつく。

 模試も無事に終わり、フータローの家庭教師解雇の件も白紙になった。普段の、いつもの日々が戻ってきた。

 

「だって修学旅行ですよ修学旅行!楽しみじゃないですか!?」

「楽しみだよ」

「でしょう!林間学校があんな風に終わっちゃいましたが、今度こそ!」

「確かに心残りはあるがな……」

「ならなおさらですよ!今回は絶対後悔がない修学旅行にしないと!」

 

「おー!」と座っていた席から立ち上がり、手を高々と上げる四葉。トレードマークのリボンも上下に揺れる。

 

「気持ちだけ受け取っておくわ」

「修学旅行……」

「気抜いてんなよ。模試が終わったとはいえな」

「分かってる」

 

 楽しみで仕方ないのか、いつもは厳しい家庭教師の声も弾んでいるように聞こえる。

 足をしきりに組み直して落ち着かない様子なのも、旅行を心待ちにしているからか。それとも彼の持っている病気が既に発症しているからか。

 かくいう私も、口では素っ気なく言っても自然と顔が綻ぶ。旅行の班が決まってからずっとだ。四葉みたいに元気よくはしゃいだりはしないけど、いつもより落ち着きがない自覚がある。

 

「上杉さんは修学旅行どこか行きたい所ありますか?」

「……清水寺だな。三玖は?」

「迷ってる。確かに清水寺は外せないけど。でも私は信長の遺骨が納められてるといわれてるお寺も行きたい。北野天満宮と二条城。あと金閣寺と銀閣寺も。それと伏見稲荷大社が」

「お、おう……」

「高台寺っていう所も行きたいかな。秀吉の奥さんのねねが作ったお寺なんだけど」

「三玖が生き生きとしてる!」

「駄目だこいつ話聞いてねえ。……おーい!三玖!戻ってこい!おーい!」

「………はっ」

「三玖って歴史好きなんだねー」

「う、うん……」

 

 四葉の指摘にバツが悪くなる。悪いクセだ。私は歴史が好きだ。正確には戦国武将だが。

 修学旅行先の京都は武将達に関連する場所が数多くある。どこも魅力的な場所だ。それを想い人と周る。考えただけでも楽しそうだ。

 

「でもそんな回り切れないよ。少し絞らないと」

「とりあえず修学旅行の話は後回しだ。さっさと課題を終わらせるぞ」

「うん」/「はい!」

 

 

***

 

 楽しみに待っている程、時は早く流れる。

 いつのまにか、日付は旅行の前日になっていた。

 

 バイトの帰り道。夕日を浴びてオレンジ色になった携帯を触りながら、行き先を再度確認する。

 四葉の話だとフータローは旅行のしおりをボロボロになるほど読みこんでいるらしい。

 林間学校も予定を暗記していた。旅行で行く場所も調べ上げているはず。

 

 

「三玖―!」

「四葉」

 

 携帯から目を離すと四葉がいた。

 

「珍しい。帰りが一緒になるなんて」

「うん、部活の助っ人!」にぱーっと笑う四葉。

「いよいよ、だね!」

「うん」

「明日の為に頑張ってきたんだもの、最後まで応援するよ!」

「……ありがとう」

 

 腕を大きく上げてガッツポーズをする四葉。

 そう、いよいよだ。大丈夫。恐れる事なんてない。変わらない関係には終止符を。

 ありのままの姿で。今度こそ。

 

***

 

 そして待ちに待った修学旅行当日。

 荷物をホテルへと預け、私達は軽快に歩き出した……ったはずだった。

 

「上杉さーん!置いていっちゃいますよー!」

「…………ちょっと待て。ちょっと待て」

「三玖もー!頑張ってー!」

「は……はやい」

 

 私達は坂道で息を整えていた。

 自慢ではないが、私とフータローは体力がない。ここの坂もそこまで急ではないのにもかかわらず、息を切らす。今いる場所が京都の伝統的なショッピングエリアなのに目を向ける余裕すらない。京都土産、陶器屋、着物貸し。きっと見ているだけでも楽しいのに。うん、これからは少しは体力をつけよう。せっかく来ていたのに見物の余裕もないのは味気ない。後悔が押し寄せるが時はすでに遅い。

 

「体力無さすぎますよ二人共」

「……お前が歩くのが早すぎるんだよ。もう少し遅く頼む」

「これでも二人のペースに合わせてたんです。もー」

「私もキツイ……」

「んー、休憩しましょうか?」

 

 四葉が心配そうな表情をフータローに向ける。私としても少し休憩を挟みたい所だ。

 しかし。当の本人は。

 

「何言ってやがる……」

「えっ」

「せっかく来たんだ。遊び倒してやる」

「目が怖い」

「行くぞ!」

「ちょ、ちょっとー!」

 

 そう言うと足を進ませるフータロー。『徹夜明けのテンションみたいだわ』と心の中の二乃が溜息をついた。

 

「大丈夫、三玖?歩ける?」

「……頑張る」

 

 

 フータローが頑張っているのに、私だけ弱音を吐いていられない。止めていた足を前へ出した。

 

***

 

「ふう……」

 

 目的地の一つである清水寺。明日の団体行動でも来るのだが、どうやらここでフータローがどうしても買いたい物があるらしい。本堂に着いた途端に人混みの中に消えていった。

 私はといえば、特に買う物もないので舞台端の方で体力回復に努めていた。

 

「すごいなあ」

 

 感嘆する。行くと決まった時から何度も調べていたが、実物を見ると圧倒される。

 深い歴史がある建立物。つい最近に修理があったらしいが、全くその様子を感じさせない。

 十二メートルもの高さがある舞台。ビルに換算すると四階建てに相当する高さから見る景色は圧巻だった。下で手を振る外国人がとても小さい。私達と同じ修学旅行生が写真を撮っている姿も見える。祖母と孫だろうか、おばあちゃんが子供に手を引かれていた。

 それを桜が彩る。惜しむべくは桜が満開でない事だ。もし葉桜でなければ桃色のカーペットが敷かれていただろう。

 

「すまん、待たせた」

「買えた?」

「無事にな……四葉は?」

「トイレだって。どんなの買ったの?」

「……教えない」

「なんで?」

「なんでもだ」

「そう言われると気になる」

「そんなじっと見つめんなよ……怖いから……ほら」

 

 渋々といった様子で袋から取り出したのは赤い筒のお守り。

「学業成就のお守りだ」フータローがつっけんどんに言う。

 たくさんあるお守りの中で学業を選ぶのはフータローらしいというか。それにしても……どこかで見たような形だ。

 

「これって……」

「ああ、確かお前達もこれ持ってるんだよな」

「確か五年前くらいだったはず」

「それ、誰から貰ったかどうかって覚えてるか?」

「ううん」

「……そうか」

「フータロー?」

 

 一瞬、表情が曇ったのは気のせいか。

「なんでもない」と彼はそっぽを向く。

 

「写真撮ろうぜ、らいはに頼まれてるんだ」

「そ、そうだね……どこで撮る?」

「人沢山いるからな……」

「あのー」

 いつのまにかフータローの隣に女性が立っていた。「よければお撮りしましょうか?」ニコニコと笑顔を浮かべる女性。見ると袖には京都観光ガイドと書かれている。

 

「お願いします」

「どこで撮られますか?」

「ここでお願いします。かなり混雑してますし」

「分かりました。それでは失礼しますね」

 

 

「はーい。彼女さーん。もう少し近づいて下さいねー」

「…………か、彼女」

 

 彼女と彼氏に誤解されてる。前にもあった。花火大会のインタビューの時。

 あの時、フータローは赤の他人だと言っていたが、今ではどういう風に見えてるんだろう。気になる。……が、今はそれどころではない。

 

「彼氏さんも近づいてくださーい。それだと見切れちゃいますよー?」

「こ、こうか?」

「…………ち、近い」

「んんー。もう少し近づけませんかー?彼女さん、もう一歩左に行きましょう!彼氏さんももう一歩、右に!」

「……うそ」

 

 肩と肩が触れる。さっきまで汗かいてたけど、大丈夫だよね。カーディガンの袖口で鼻をかく。制汗剤もっとつければよかったかな。

 横顔が近い。真っ黒で艶のある髪。目つきが悪い瞳。制服の襟から覗く白くて太い喉。

 目を奪われていた。このまま、時が止まってしまえばいいのに。ありもしない妄想を抱く。

 

「彼女さーん!彼氏さんに見惚れていないでカメラ見て下さーい!」

「は、はい!すいません!」

 

 ガイドさんに言われて我に返る。

 うう、恥ずかしい。じわじわと顔に火がついていくのが分かる。ぱたぱたと手で煽って冷やそうとしたけど全然意味がない。

 

「はい行きますよー!お二人とも笑って下さい!はい、チーズ!」

 

 

 

「あっ!上杉さん!お買い物終わりましたー!?」

「お、終わったよ。お前待ちだ」

「わわっ!それはすいません……ってなんだか顔赤いですね?」

「気のせいだ。……早く行こうぜ。三玖が行きたい所だろ、次」

「……うん」

「三玖も顔赤い!なんでですかー!?」

「なんでもないよ」

 

 フータローも顔が赤いという事は、少しは意識して……いたのかな……?

 

***

 

「ここ」

「地主神社か」

 

 なんとか顔の火照りを冷ました後、私が来たかった神社に着く。

 フータローも治まったようで、普段通りの表情へ戻っていた。

「はい!」と四葉のリボンが揺れる。

 

「三玖はここのお守りが欲しいんですよ!」

「清水寺じゃダメなのか?俺が買ったやつとか。最強といわれている幸守とかもあるらしいぞ」

「だめ。ここのがいい」

「そんなむくれなくてもいいだろ……」

「それだけ欲しいって事で!よーし、行きましょーう!」

 

 境内の中の人混みは清水寺の時よりも少ない。ただ、心なしかこの神社の一番の御利益に関するからか女性の方が多かった。

 

「これ何ですか?」

「これはだな……」

「なんだか見た事がある」

 目の前にいるふくよかな像。七福神をモチーフにしていて顔にはにこやかな笑みを浮かべていた。

「撫でるとご利益がもらえるらしいな」フータローが手に持っているパンフレットを読み上げる。

 右手には大きな福袋、左手には小槌。どうやら撫でる箇所によって貰えるご利益が違うとの事だ。小槌は良縁開運。お腹は安産子宝といった具合に。

 

「受験必勝と成績向上なら頭を撫でるといいみたい」

 

 私の言葉にフータローが頷いた。

 

「そうか、四葉。重点的に触っておけ」

「分かりました!」

「手なら勝運と芸事も」

「四葉!」

「分かりました!」

「福袋なら」

「四葉!」

 

***

 

「……」

「……」

 

 ちらりと四葉と視線を交わした。親指を立て、「上杉さーん」と大黒様に夢中になっているフータローを止める四葉。

 今だ。私は人混みの中に紛れ込む。ここに来た目的の一つを達成する為に。

 

「………あった」

 

 ひざ下にある一対の石。石と石の間を目を閉じて到達すれば恋が実るという伝説が残る石。一回で辿り着ければ恋の実りも早い。けれど回数を重ねるとその分障害が多くなって遅くなる。フータローを知る前の私だったら、こういった類の伝説など興味はなかっただろう。でも今は違う。その伝説にあやかってでも、叶えたい。彼と一緒になりたい。

 

「……ふー」

 

 大きく息を吸い込んだ。心を決める。視界が暗くなった。

 もう一度深呼吸。そろりとまず一歩。大地を踏みしめる。

 一歩。写真を撮る音。

 一歩。子供の泣き声が聞こえる。

 一歩。カランカランと鈴が鳴った。

 一歩。一歩。一歩。足を動かす。

 あとどのくらいだろう?手を振るが何も当たらない。短いはずなのにとても長い道のりに感じた。途端、不安の種が生まれる。それは歩いていく毎に大きくなって。

 進む度に種が発芽していく。

 

「三玖!そっちじゃないよ!」

 

 声だ。暗闇の中射す微かな光のような声。どこから?

 

「もう少し右!」

 

 四葉の声だ。心配で見に来てしまったのか。分からないけど、指示に従って進む。

 

「行き過ぎ!左!」

「……」

「後ちょっと!」

「……」

「そこだよ!」

 

 パン、と乾いた音がした。

 目を開けてみると、そこにはお目当ての石があった。

 

「見に来ちゃった!」

 

 辺りを見回す。にししと笑う四葉がいた。

 

「四葉……フータローは……?」

「あ」

「お前ら」

 

 背後から声がした。

 

「…………」

「えーっと…………」

「…………あの、ね」

 

 いつもなら烈火の如く怒る彼なのだが、今日は静かだ。その静かさがやけに不気味に感じる。

 はぁ、と溜息をついた。

 

「勝手にどこか行くんじゃねぇよ……心配すんだろうが。せめて一言残せ」

「ご、ごめん……」/「すいません」

 

 背中を九〇度曲げる。全く、とフータローがさらに溜息をついた。

 

「……後悔無い修学旅行にするんだろ」

「はい!」

「…………」

 

 そうだよ。後悔が残らないように。

 勝負の瞬間は、刻一刻と近づいていた。

 

***

 

「上杉さーん!お守り買いましょうー!」

「……沢山ある」

「どれにしましょう!迷っちゃいますね!」

「おい四葉。お前にピッタリなのがあったぞ」

 

 フータローが手にしたお守りは二つ。

 一つは白を基調にした赤と緑の模様が入ったお守り。もう一つは青く『勝』と白い刺繍がされているお守り。

 両方共、受験に関係しているお守りだ。

 押し付けられた四葉は「もっと可愛いのがいいです!」と抗議の声を上げる。

 

「こういうのとかどうですか!」

「そうか……ってお前これ賢い子供に育ちますようにって書いてあるぞ」

「ええーっ!」

 

 どうやら四葉が選んだのは子供のご利益を願ったお守りだったらしい。

 渋々と元の場所に戻して他のお守りとにらめっこをする四葉。

 

「三玖はどうするんだ?」

「これ」

「お、受験必勝守か」

「うん、今年受験だから、受かりますようにって」

 

 私が手にしていたのはフータローが手にしていたお守りと同じ白をベースにしたお守り。

 だけど細部が違う。私のは桜色の模様が入っていて、中央には大きく金字で受験必勝御守と書かれている。

 

「フータローはどうするの?また買うの?」

「俺も三玖のにしようか……それともこっちにするか?……家庭の厄除けのお守りもあるのか……。お、御神札なんてのもあるのか……しかし値段が千円……」

「決まってないんだね」

 

 購入する気はあるようだ。家庭が貧しいフータローにとって旅行なんてめったにいけないだろう。

 

 その分、お土産選びにも慎重になる。懐が厳しくても出来るだけ購入していきたいのだろう。

 今いる神社の社務所のお守りを一つとっても、様々な色やご利益がある。

 成績向上、受験必勝、子供知恵、厄除け、健康。彼が目移りするのも仕方がないだろう。

 他のクラスメイト達には只の修学旅行。その気になったらいつでも来る事ができる。

 しかし彼は違う。いつでも自由に、なんて事は家庭の環境が許さないはず。

 

「親父に健康のお守りなんてのもいいな……」

「これはどうですか?幸福の鈴!」

「センスはいいが値段が高い。これはどうだ?」

 

 四葉も加わり、二人でうんうんと首を捻る。あれがいい、これもいいと取捨選択の繰り返し。まだまだ決まらない様子だ。なら先に買ってしまおう。今ならここでのもう一つの目的も達成出来る。

 

「すいません、お願いします」

「はい、五百円になります」

 

「――――あ、あと」

 

 

***

 

「……満足」

「…………そりゃよかったよ」

 

 ついにフータローの足が限界を超えた。持っている持病で気分は上がっても体力は補えないらしい。私も膝が笑っている。

 

「三玖!ここでお昼にしようよ!景色もいいし!」

 

 四葉が大きく手を広げる。私達は今公園にいた。

 綺麗に整地が行き届いている芝生には、色とりどりの花が風に揺れている。

 目の前の時計はお昼過ぎを示していた。ホテルを出てから小休止はあっても、何かを食べるという事はなかった。いや、わざと食べなかった。ある事の為に。

「そうだね」と返す。「でしょー!」と四葉。

 

「上杉さんもいいですよね!」

「……どこでもいいから休みたい」

「もー!風情がないなぁ!」

「まさかお前に風情を説かれるとは思いもしなかった」

 

 息も絶え絶えなフータローが石の椅子に腰を下ろす。

 その横で私も一息つく。四葉はまだ動き足りないのか、座っても体を振り子のように揺らしていた。

 

「まだ体力有り余ってるのかお前は」

「えへへ……バレました?」

「バレバレだよ。……体力ナシコンビと組んでるからな」

「ごめん……」

「大丈夫だよ!」

 

 胸の前で大きく横に手を振る四葉。その様子にフータローはならいいんだが、と呟く。

 

「……あ、飲み物がねえ。買ってくるから先に食べててくれ」

「じゃ私が買ってきますよ!」

 

 「任せてください!」と四葉が胸を叩く。

 

「いいのか?」

「大丈夫です!ささ、遠慮なんてしないで!何が飲みたいですか?」

「…………じゃ麦茶で」

「三玖はー?」

「緑茶」

「おっけー!」

 

 財布を片手に走る四葉。去り際に私に軽くウインクをして。

 しっかりと口にはしていないけど、まるで頑張れという言葉を残しているようで。

 心の中でありがとうと言う。四葉がいなければ、こんな風にはならなかった。

 恐らくこの先どんな事があっても、私はずっと四葉には頭が上がらないだろう。

 こんなに応援をしてくれて。感謝しかない。

 

「本当にあいつの体力は底なしだな」

「そうだね」

「三玖も体力ついたんじゃないか?」

「気のせいだと思う」

「でも俺よりは体力あるだろ」

「それは否定しない」

 

 二人きり。心臓が脈打つ。二人きり。この言葉が頭を支配する。

 いつもどんな会話していたっけ。頭が混乱してくる。

 遠くで子供達が遊具で遊んでいるのが視界に入った。

 

「じゃ、俺らも買いにいくか。この公園には確か売店があったろ」

「…………」

「三玖?」

「ひゃ、ひゃい!?」

「大丈夫か?」

「う、うん……大丈夫……大丈夫」

「本当か?まだ疲れてんなら休んでろ。俺だけで買ってくるから」

 

 「行ってくる」とフータローが背中を向ける。だめ。行ってしまったらもう言い出せない。

 

「……三玖?」

 

 勝手に指がフータローの袖を掴んでいた。

 

「じ、実はね。ふ、フータローに渡したいものがあるの」

「渡したいもの……?」

「…………これなんだけど」

「……クロワッサン?」

「きょ、今日の為に作ってみたから……食べて……ほしい」

 

 石の上にも三年という言葉がある。つらい事でも辛抱強く続けていけばいつかは成し遂げられる。

 私は三年もの長い期間はかけていないけれど、この日の為に毎日ずっと特訓した。

 まだまだ売り物にもならない食べ物。でも不器用な私には会心の出来だ。

 そんなとっておきを食べて、彼はどう反応するのか。パンをしげしげと見つめるフータローを横目で見る。

 

「これ三玖が作ったのか?」

「うん。毎日練習した」

 

 彼の表情は変わらない。いつもと同じ、家庭教師を務めている時の顔。

 ……何か変な所でもあったかな。

 

「……本当に三玖が作ったのか?これ」

 

 がん、と頭を殴られたみたいな衝撃が走る。期待していたのとは違う言葉。

 何でここでそんな言葉が出るのか。

 デリカシーが欠片もないのは知ってたけど、手作りを貰って本当に作ったのかなんて聞かないと思う。

 

「いや、その。すまん。なんというか、その。信じられなくてだな……」

「食べなくていいよ。その……私の作ったの美味しくないから」

「えっ」

 

 視界がぼやける。咄嗟に顔を覆った。あれ、おかしい。

 なんで?なんで熱い物が頬を流れているの?

 熱いのが止まらない。私そんな脆くないのに。なんで止まらないの?

 フータローに見られたくない。お願い。止まって。止まってよ。

 

「ち、違うぞ?不味いから食べないんじゃなくて、というか、元々三玖の料理は不味くねえし……だから泣くなって!な!」

「いいよもう……」

 

 フータローがおろおろしてる。ああ、またフータローに迷惑かけちゃった。

 いつもダメダメだね、私。ちょっと自信ついちゃったからって。食べてもらえると思ってた。そうだよね。私の 作った料理、美味しくないもんね。見た目も変だし。だからそれを私が作ったって思われなくても仕方ないよね。

 

「ああもう!」

 

 フータローの言う通りだった。フータローと班が同じになって、一緒に同じ場所を観光して。浮かれてたんだ、私。自分が嫌いになる。消えてしまいたい。

 

「……美味い」

「え?」

 

 耳を疑う。今、なんて言ったの?顔を上げると、パンを口にするフータローがいた。

 

「美味いぞ、コレ」

「ほ、ほんと?」

「ああ、本当だ。美味い」

 

 声が高くなる。その言葉は他のどんな綺麗な言葉よりも嬉しくて。思わず小さく手を握る。やった。美味しいって言って貰えた。

 

「お、おかわりもあるよ……食べる?」

「はべふ……」

「…………」

 

 フータローの手が私の手と重なる。私の手より二倍くらい大きくて、ゴツゴツと骨ばった男の子の手。再びパンを手にすると、口に運んで食べ進めるフータロー。そんな彼を私はしばらく見ていた。

 

「んぐ。……ごちそうさん」

「…………うっ……ぐすっ」

「とりあえず涙拭いてくれ。そろそろ周りの目がキツイ。ほら」

「……ありがと」

 

 フータローからハンカチを受け取る。黒いチェックのハンカチだ。ほのかに洗剤のいい匂いがする。熱い眼頭を拭いた。それでも涙は止まらない。

 

「し、しかし三玖が特訓してたなんて知らなかったぜ!かなり大変だったんじゃないか?」

「……うん、大変だった」

「だよなあ!俺もそういうの上手くできなくてさ!!ははははは!!!」

「……そうなんだ」

 

 でも苦じゃなかったよ?だって好きな人のタイプが料理上手なんだから。だから頑張れた。勉強だって。パン作りだって。

 

「……フータロー、覚えてる?」

「な、何をだい!?」

「恋バナ。フータローの知り合いの」

「………………え?」

 

 一瞬沈黙する。瞳を真っ直ぐ見据えた。

 

「その後何か進展あったの?」

「何故今それが出てくるのかが疑問なんだが……」

「聞きたいと思って。どうなったの?」

「俺の発言聞いてたか?」

「女の子を泣かせたんだからそれぐらいは責任とって」

「いや、それは本当にすまん……悪かった……」

 

 困った声を出すフータロー。

 

「……いいよもう。許してあげる」

 

 食べてくれたから。一番言って欲しい言葉を言ってくれたから。今日の所はお咎めなしだ。さっきまで泣いていたのに、口角が自然と上がってしまう。複雑だと思っていたのに、我ながら単純な性格だ。

 

「でも話さなかったらフータローに泣かされたって皆に言うから」

「ええ……」

 

「全く……」と前髪を触り始めた。顔にはどうしたものかとありありと表れている。

 

「……特に聞いてねーよ。多分なかったんじゃないか」

「そう」

「そうだ、三玖の知り合いはあったのか?進展は」

「………」

「三玖?」

 

 

 頭が真っ白になる。胸は今にも爆発しそうだ。呼吸はいつのまにか荒く、顔はまた点火した。汗が噴き出る。握った拳はぐしゃぐしゃだ。彼がまともに見れない。喉がはりついて、練習していた言葉が出ない。

それでも、ここで伝えたい思いがあるから。後には引けない。大きく息を吸って。顔を上げて。勇気を出して。

 

 

「…………あのね、フータロー」

「なんだ?」

「言いたい、事があるの」

 

 この時を。この瞬間を。どれだけ待ち望んでいただろう。何度も何度も頭の中で想像した。お風呂の中でも。夢の中でも。四葉にも練習相手になってもらった。だから。今。

 

 

「――――実は」

 

***

 

 トースターがチン、と鳴いた。それを合図に、準備していたお皿にこんがりと焼かれた食パンを移動させる。

 フライパンから跳ねる肉汁が私を呼ぶ。少し黒ずんでいるが、問題ない。焼きすぎて少しカリカリしているくらいのが彼の好みだから。

 きつね色をしたトーストが二枚、旬の野菜を使ったサラダ。それと焦げ目がついたベーコンエッグ。今日の朝食だ。

 まだまだ二乃みたいには上手く出来ないな、と軽くため息をつく。彼は大丈夫だというけれど、作る側としては、美味しさはもちろん、見た目も綺麗な料理を食べさせたいのが本音だ。

 簡単なのは調理できるようになったが、師匠からのお墨付きをもらえるのは程遠い。

 

「よし……」

 

 朝食をテーブルへと運び終わり、空気を入れ替えようと窓を開ける。途端、冷たい空気が入り込んできた。思わず体が震える。今は春先だというのに、冬の足音はまだ残ったままらしい。

 

「……んーっ」

 

 大きく後ろに伸びをする。とても気持ちのいい朝だ。雲一つない空からは、鳥たちのさえずりが聞こえる。

 さっきテレビから流れていた天気予報によると、今日は天気の崩れはないらしい。

 鼻歌を歌いながらキッチンへと戻る。久々にお布団でも干そうか。近くの公園を散歩してみるのもいいかもしれない。自分の分のベーコンを焼きながらのんびりと思う。

 

「……おはよう」

「おはよ」

 

 壁時計の時刻は六時半を示していた。普段の彼が起きてくるにはまだ早い時刻。

 

「今日は早いんだね」

「後輩がちょっとやらかしてな。それの後始末だよ」

「前来てた子?」

 

「そうだよ、全く面倒だぜ」と欠伸をしながらボサボサの頭を掻く。

 

 冷たい物言い。でもなんだかんだ面倒見がいいのは過去の事例が証明している。

 実際件の後輩が家に食事に来た事があった。その際に「先輩は何かと声かけてくれて……ぐすっ……ミスした……時とか……一緒に謝ってくれて……」と涙ながらに言っていたのは記憶に新しい。学生時代からのお節介はまだ続いているみたいだ。

 

「遅くなりそう?」

「かなり。飯はどこかで食べてくるから、いつもみたいに起きてなくていいから」

「分かった」

「……本当に起きてなくていいからな」

「分かった」

 

「いただきます」と彼は言って食卓につき、トーストを頬張る。

 勢いよく頬張ったのが仇になったか、途端に咳き込み始める。「しょうがないなぁ」と背中をさすってあげた。

 

「そんな慌てて食べなくても逃げないよ」

「…………すまん」

「はい。これ飲んで落ち着いて」

 

 彼の対面になるように私も座って話を続ける。

 

「ありがとう……って珈琲か。砂糖は?」

「ないよ」

「何故」

「苦手は直さないといけないってどこかの家庭教師が」

「誰だその家庭教師は……顔が見てみたいもんだ」

「鏡使うと見えるかも。使う?」

「使わない。ところで鼻水は」

 

『入ってない』

 

 互いに笑って、熱い珈琲を口につける。香ばしい匂いが鼻腔に満ちていく。

 石田三成の逸話。二人の間では毎日のようにこの話が出る。まるで二人だけに通じる合言葉のように。

 はぁ、と息を吐いて手元を見る。ハリネズミの絵が描かれた桃と青のマグカップ。

 『二人で買った』という誰にも汚せない思い出が入った品物だ。百均で買った安物。きっと探せば全国どこにでも売っている。そんなありふれた物なのに、彼と一緒に選んで購入したというだけで特別な宝物のように見える。

 

「やっぱり無理だわ」

「飲んで飲んで飲んで」

「イッキコールはやめなさい。いつまでも学生じゃねぇんだぞ」

 

「少しずつ。少しずつ飲むから」とコップを机に置く。

 

「ねぇ」

「なんだ」

「減ってないように見えるのは気のせい?」

「……気のせいだ」

 

 会話はおしまいだと言わんばかりに新聞に隠れてしまう彼。

 負けず嫌いで、何に対しても子供みたいに意地を張って素直にならない所。そこが彼の可愛い所でもあるけれど。付き合うようになってから彼をよく知るようになった。好みも、弱みも。

 好きな食べ物、嫌いな食べ物は何か。得意な事は何か。苦手な事は何か。今ではスラスラ言える。以前はほとんど知らなかったのに。彼がほとんど話さないのと、私が自分の事で精一杯で聞けなかったというのもあったけど。

 

「そういえば、聞いて欲しい事があるんだ」

「どうした急に?」

 

 話す新聞。読み終わったのか、一枚ページがめくれた。

 

「夢の話なんだけど」

「夢?」

「うん。夢でとある人と会ったんだけど。誰だと思う?」

「分かった。好きな戦国武将と会ったんだろ。武田信玄あたりだとみた」

「残念。半分はずれ」

 

 指でバッテンを作る。新聞が揺れた。

 

「半分はずれ?どういう事だよ。俺の記憶が確かならはずれに半分もないはずだぞ」

「どういう事だろうね?」

「なぞなぞかよ……。答えは?」

 

 ついに新聞を閉じた彼が私を見つめる。黒い瞳からは少しの不満が見えた。ぷくっと膨らませた頬。面白くてつい吹き出してしまう。私も変わったけど、大分彼も変わった。以前の彼なら、頬を膨らませて抗議するなどしなかっただろう。とんでもない口撃を仕掛けられていたはずだ。

 

「何が面白いんだよ」

「だって、そんな顔すると思わなかったから」

「誰かさんに似たんだろうよ」

「そう……だね……」

 

 彼の後ろにある傷だらけの棚。ここに彼と暮らし始めてから購入したものだ。もう何年も経つ。買った時の綺麗な面影はもうほとんど残っていない。

 

 でも月日が経っても変わらないものがある。

 

 棚の上に飾っている二枚の写真。一枚は皆に祝福された時の写真だ。

 純白のドレスに身を包み、膝裏と背中を彼に抱き上げられた私が写っている。それはさながら物語の中のお姫様のようで。タキシードを着た彼も王子様のように努めてはいるけれど、少し困ったような顔をしている。でも二人共笑顔だ。

 

 もう一枚はまだ距離感が分からなかった時の写真。

 肩と肩が当たるか当たらないかの距離。さっきの写真とは違い、二人共笑いが薄い。しかも私に至ってはピースがぎこちない。後から「リンゴみたい!」って四葉にからかわれたのを彼は覚えているかな。

 

「それで、答えはなんだ?」

「……それはね」

 

 あの日のもう一つの買い物も宝物の一つとして写真の隣に置いている。

 赤いお守り。中央に縫われている金色の文字は開いた窓から届く朝の光に輝いていた。

 そしてその文字は、さながら今の私の気持ちを代弁しているかのように、こう記されている。

 

 ―――しあわせと。

 


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