【完結】鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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上手くまとめられずめちゃくちゃ長くなってしまいました。


不死鳥のように美しい君に

 僕の口から、間の抜けた声が漏れた。

 

「べんぬ」

 

 仕方ないと思う。

 夜雀、青鷺火、鳳凰、八咫烏。ここまでは、まだ和風で揃っていた。

 

 そこへ突然のベンヌである。

 急にカタカナ。急に海外。急に世界史資料集の端っこで見たことがあるような響き。

 

 僕の脳内鳥類図鑑は、和綴じの古文書からいきなりエジプト神話コーナーへ飛ばされてしまった。

 ちょっと情緒が追いつかない。

 

「佐鳥さん。もう、大丈夫です」

 

 鷺里さんは迷いなく、凰佳と美烏の間へ刀を向けた。

 

 灰白色の翼が、夜の境内を覆っている。

 その輪郭をなぞる青白い火が、夜明け前の景色みたいにすべてを淡く照らす。

 

 凰佳の炎のように熱を押しつけるものではない。美烏の闇のように光を塗り潰すものでもない。ただそこにあるだけで、荒れ狂っていた空気を鎮めてしまうような、静かな火だった。

 

「私が全て終わらせますから」

 

 その一言で、境内が沈黙した。

 

 炎が揺らぎ、闇が止まり、風が御神木の葉を鳴らす音だけが残る。

 

 鷺里さんは、本当にこの戦いを終わらせられる。

 それが分かった。

 

 この場にあるすべてを、彼女は力でねじ伏せられるのだ。圧倒的な格で、圧倒的な武力で。

 

 僕には、ベンヌがどれくらい偉い鳥なのか、正直よく分からない。

 

 ただ、鳳凰である凰佳が黙り、八咫烏である美烏が動きを止め、夜鳥さんまでも表情を忘れている。それだけで十分だった。

 

 頼もしい。とても、頼もしい。

 

 けれど。

 

 それでは、何も変わらない。

 

 凰佳の檻から出て、鷺里さんの翼の下に入るだけ。僕はいつまでも、誰かの力で救われるだけの存在になる。

 

 それじゃ駄目なんだ。

 逃げ回るだけじゃいけない。それは疲れるし、煉獄さんの勝ちだ。

 

 僕は震える足で、一歩前へ出た。

 玉砂利が、じゃり、と鳴る。

 

 神話級多めの鳥たちの視線が、一斉に僕へ注がれる。

 怖い、死ぬほど怖い。なんなら、さっき鷺里さんの背中に乗って飛んでいた時より怖いかもしれない。

 

 でも、口は勝手に動いた。

 

「やめて! 僕のために争わないで!」

 

 静寂。

 

 神社の境内に、僕の声だけが虚しく反響した。

 

 凰佳が固まり、美烏が瞬きを忘れ、鷺里さんが困惑し、夜鳥さんが録音しておけばよかったという顔をする。

 僕も、今すぐ自分を埋葬したかった。

 

 でも仕方ない。勢いで口から出たものは戻せない。戻せるなら、僕は人生で吐いた余計な一言を百個くらい回収している。

 

「……あの、佐鳥さん?」

 

 鷺里さんが心配そうに僕を見つめる。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ではないです。羞恥で今すぐ賽銭箱の下に潜りたいです」

「必要でしたら、後ほど」

「優しさの方向性が物理的なんですよ」

 

 少しだけ、空気が緩んだ気がした。

 その隙に僕は息を吸う。

 

 焦げた木の匂い。玉砂利の乾いた匂い。古い神社特有の、湿った木と土の匂い。その全部が、僕をここに繋ぎ止めてくれる。

 

「黒羽さん」

 

 まず、無表情な後輩に向き直る。

 

 背の小さな八咫烏。周囲に漂っていた黒い羽は、ベンヌの顕現によって勢いを失っている。美烏は、僕だけをまっすぐ見ていた。

 

「君が、あの日の僕の言葉を聞き届けたこと。実行犯として、僕の罪まで全部背負おうとしていること。全部、分かった」

「はい」

 

 短い言葉とともに、赤い瞳がわずかに伏せられた。

 

「先輩に罪はありません」

「あるよ」

「ありません」

 

 今度は僕の言葉が終わるより早かった。

 抑えた声だった。

 けれど、その奥には、黒い羽よりも硬い意志がある。

 

「実行したのは私です。先輩の言葉を形にしたのも、その結果を罪として背負うべきなのも、すべて私です」

 

 境内のどこかで、炭になった注連縄が小さく崩れた。

 

 火の粉がひとつ、僕と美烏の間を落ちていった。反射的に目で追ってしまいそうな光。

 けれど彼女の視線は動かない。瞬きも少ない。

 まるで、答えの決まった裁定を読み上げているかのようだった。

 

「先輩は何もしていません。手を下していない。命じてもいない。ただ、限界の中で言葉を零しただけです」

「でも、その言葉を吐いたのは僕だ」

「言葉だけで罪になるのなら、それごと私が持っていきます」

 

 美烏の赤い瞳が、まっすぐ僕を射抜く。

 

「罪が必要なら、私が持ちます。罰が必要なら、私が受けます。先輩は何一つ背負う必要はありません」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 どうしようもなく、優しかった。

 

 でも同時に、ひどく乱暴だった。

 

 僕の罪悪感を否定して、過去を切り離して、何もかも自分の名前で塗り替えようとしている。

 

 黒羽美烏は、僕を救おうとしている。

 実行犯として、すべての罪を自分のものにすることで。

 

 僕が、あの日の願いを自分の罪だと思わなくて済むように。僕が、もう自分を罰しなくて済むように。

 

「……黒羽さん」

 

 美烏は、僕のために罪人であろうとしている。僕が罪から逃げられるように、自分が罪そのものになろうとしている。

 それは、確かに救いなのかもしれない。

 

「――それでも、罪はあるよ」

 

 そう言った瞬間、美烏の瞳がほんの少し揺れた。

 

 彼女はすぐに何かを言おうとしたけれど、僕は先に言葉を続ける。今止まったら、また誰かに自分の過去を預けてしまいそうだった。

 

「あの日、僕は本気で願った。あんな親、帰ってこなければいいのにって。実行したのが君だとしても、その言葉を吐いたのは僕だ」

「先輩」

「分かってる。あの時の僕が、ただ誰かを傷つけたくてそう願ったわけじゃないことくらい」

 

 胸元に手を当てる。

 そこにはもう、あの万年筆はない。

 

 父の形見。僕が自分に課した罪の象徴。

 美烏が持ち去った、銀色の鎖。

 

 でも、手の中から消えたからといって、あの日の言葉まで消えるわけじゃない。

 

「だからって、全部君のものにはできないよ。僕は抱えて生きる。両親が最低だったことも、僕が救われたいと思ったことも、その結果、死んだことも。全部、僕の過去だから」

 

 美烏の周囲に浮いていた黒い羽が、一枚、また一枚と落ちていく。

 玉砂利に触れる前に、夜へ溶けるように消えていった。

 

「でも」

 

 僕は少しだけ笑った。上手く笑えたかは分からないけれど。

 

「君が一人で全部持っていくんじゃなくて、半分一緒に背負ってくれるなら。共犯関係としてなら、ちょっと嬉しい」

 

 美烏は黙っていた。

 

 境内に降る火の粉だけが、二人の間をゆっくりと落ちていく。

 白衣の袖口が、夜風にかすかに揺れた。

 

 やがて、小さく口を開いた。

 

「共犯」

「うん」

「つまり、特別な関係ですね」

「そういう言い方をすると、治安が悪くなるね」

「報酬を要求します」

「早い」

 

 美烏はいつもの無表情のまま、じっと黙り込んだ。

 

 祈っているようにも見えた。神様に問いかけているのかもしれない。

 この哀れな男子高校生から、何を奪えば一番効率よく幸せになれるのかを。

 

 神様側がそれを考えるな。

 

「本日の肌着を」

「共犯関係は解消で」

 

 即答した。

 共犯関係、寿命およそ三秒。あまりにも儚い関係だった。

 

 美烏は袖の中で指先を小さく動かした。

 落ち込んでいるのかと思ったが、たぶん違う。あれは次の候補を探している仕草だ。

 

「では右足の靴下で妥協します」

「何を妥協したのか教えてくれる……? しかも右足だけ」

「では、今後先輩が使用した消しゴムのカスを定期納品してください」

「サブスクみたいに言わないで」

 

 美烏は無表情のまま、ほんの少しだけ頬を染めた。

 

「大切に保存します」

 

 美烏の周囲に浮いていた黒い羽は、さっきほど鋭くはなかった。刃物みたいに張りつめていた輪郭が、夜気に滲むように少しだけほどけている。

 僕から何かを引き剥がすためではなく、落ちてくるものを受け止めるためにそこにあるように見えた。

 

 そう見えたのは、僕の都合のいい解釈かもしれないけれど。

 美烏が白衣の袖を胸元に寄せて小さく頷いたから、今はそれでいいのだと思う。

 

 問題はその対価として、僕の貴重なケシカスが定期納品されることになった点である。

 共犯関係、意外とランニングコストが高い。

 

 さて。

 

 次は、今回の神話級大惨事を企画・演出した、だいぶ悪質な夜雀である。

 

 僕が拝殿脇の木陰へ視線を向けると、夜鳥さんは最初からそこにいた観客みたいな顔で、いつもの軽さを口元に浮かべていた。

 

「夜鳥さん」

「はいっ」

「おすわり」

「わんっ!」

 

 夜鳥さんは、お利口に玉砂利の上で正座した。

 実行が速い。痛くはないのだろうか。いや、今そこを気にする場面ではない。

 

「君ね、神話級の戦いを策略するのはよくないよ」

「言い方が学校の先生くらい軽いね」

「黒羽さんも、凰佳も、僕にとって命の恩人で……大切な存在なんだ」

 

 凰佳は何も言わなかった。

 ただ、黒く煤けた石段の上で、つま先だけがわずかにこちらを向く。

 

 美烏の黒い羽も、僕の言葉を聞き逃さないみたいに、空中でぴたりと止まった。

 

 反応としては小さい。

 でも、この場の鳥類たちは、感情表現のスケールが危険物なので、小さいくらいがちょうどいい。

 

 夜鳥さんは、困ったように口元を歪めた。

 いつもの軽さを残そうとしているのに、視線だけがほんの少し逃げ場を探している。

 

「君が僕を助けたいと思ってくれたのは分かる。あの時の雀だったことも、僕のことをずっと見てくれていたことも」

「うん」

「でも、全然僕を分かってない」

「えっ」

 

 夜鳥さんの表情が、分かりやすく固まった。

 凰佳や美烏なら、同じことを言われても怒るか、無表情で受け止めるか、こちらの言葉を都合よく解釈するかもしれない。

 

 けれど夜鳥さんは違った。

 僕に「分かっていない」と言われたことが、思っていた以上に深く刺さったらしい。

 

 さっきまで余裕そうに揺れていた口元が止まり、玉砂利の上で正座したまま、彼女は瞬きも忘れたように僕を見上げている。

 

「本当に僕を理解しているなら、僕が誰かに傷ついてほしくない人間だって分かったはずだよ。まだまだストーキングが浅いね」

「私の、ストーキングが……浅い……?」

 

 夜鳥さんは、神話級の炎を前にした時よりも深刻な顔をした。

 

 そこまでか。そこまでなのか。

 人には、いや、夜雀には触れてはいけない誇りがあるらしい。

 

「なので罰として、寝落ちもちもちの権利を剥奪します」

「ごめんなさいでした」

 

 夜鳥さんの身体が、ほとんど残像を残して折り畳まれた。

 

 次の瞬間には、彼女は玉砂利の上で見事な土下座を決めていた。

 額が砂利に触れる直前でぴたりと止まっているあたり、無駄に身体能力が高い。使いどころはかなり間違っているが。

 

「佐鳥くん、それだけは駄目。本当に駄目だよ。寝落ちもちもちは夜雀の生命維持装置なの」

「安っぽい生命維持装置だな」

 

 夜鳥さんは土下座の姿勢のまま、じりじりと僕の方へにじり寄ってくる。

 

 怖い。謝罪の姿勢で移動しないでほしい。反省とホラーが同時に迫ってくる。

 

「反省しますから。神社の人にも謝る。美烏ちゃんにも謝る。小鳥遊凰佳は……ちょっと無理だけど! どうか一日一もちだけでもお願い……っ!」

「すごい。凰佳を除け者にした反省文で許しを請うている」

「だって無理なものは無理だもん!」

 

 夜鳥さんは玉砂利に額をこすりつけたまま、開き直ったように言い切った。

 

 謝罪姿勢としては最低点である。

 ただ、そこまで正直に嫌がられると、逆に少しだけ感心してしまう。凰佳への敵意は本物らしい。

 

 僕はしばらく、土下座したまま動かない夜鳥さんを見下ろした。

 このまま放置すると、たぶん三日くらいこの姿勢でいる。そして四日目くらいに「佐鳥くんに見下ろされるのも悪くないね」とか言い出して、何かに目覚める。

 

 よくない。教育上、非常によくない。

 そもそもこれは教育なのか。

 

 いや、違う。寝落ちもちもちの権利剥奪についての話だった。

 話題が特殊すぎて、途中から自分でも何の裁判をしているのか分からなくなる。

 

「じゃあ、週一は?」

「死んじゃう!」

 

 夜鳥さんが勢いよく顔を上げた。

 額には玉砂利の跡がくっきりついている。わりと痛そうなのに、本人はそれどころではないらしい。

 

「週一で死ぬ生命体、だいぶ燃費が悪いね」

「夜雀は繊細なんだよ。夜と暗がりと佐鳥くんの寝息で生きてるの」

「三つ目が混ざったせいで急に不審者になったな」

 

 夜鳥さんは、両手を膝の上に置いたまま、上目遣いでこちらを見てくる。

 

 反省しているように見えなくもない。

 ただ、あの目はたぶん、反省より交渉の目だ。

 

 僕はため息をついた。

 

 ここで甘やかすのはよくない。

 よくないが、完全に取り上げると屋根裏あたりに潜伏されそうで、それはそれで怖い。

 

「……隔日」

「ありがとう神様!」

「この場に本当の神様がいるけどね」

 

 美烏が無表情で小さく頷いた。頷かないでほしい。

 

 夜鳥さんはようやく土下座を解除すると、額についた玉砂利をぱっぱっと払った。反省しているようにも見えるし、隔日もちを勝ち取って満足しているようにも見える。

 

 判断に困る。

 とりあえず、今はそれ以上追及しないことにした。

 

 これで、黒羽さんとは共犯関係になり、夜鳥さんには一応の説教を終えた。

 状況だけを並べると、倫理委員会に提出した瞬間、赤ペンで紙面が真っ赤になりそうである。

 

 けれど、まだ終わっていない。

 境内の空気は、むしろさっきより重くなっていた。

 

 拝殿の前に残る炎の残光が、黒く煤けた石段を照らしている。

 そこに立っているのは、僕の幼馴染だった。

 

 小鳥遊凰佳。

 

 ずっと隣にいてくれた人。

 その隣以外を、僕から奪っていた人。

 

 最後に向き合わなければならない相手が、まだそこにいる。

 僕は、凰佳の方へ振り返った。

 

「凰佳」

「なに、ほーすけ」

 

 黒く煤けた石段の上で、凰佳は小さく首を傾げている。

 その仕草だけ見れば、昔から隣にいた幼馴染が、ただ僕の返事を待っているだけのようにも見えた。

 

「夜鳥さんから聞いたよ」

 

 凰佳はすぐには答えなかった。

 

 ただ僕を見る目が、ほんの少しだけ細くなる。

 怒ったわけではない。焦ったわけでもない。間違いを指摘された顔ではない。どこまで見つかったのかを確かめる顔だった。

 

「僕を孤立させたこと。噂を流したこと。僕が君に依存するように、ずっと仕組んでいたこと」

 

 境内の音が、すっと遠のいた。

 煤けた鳥居から立ち上る細い煙が、夜風にほどけていく。

 

 凰佳はしばらく僕を見つめて、それから納得したように小さく笑った。

 

「そっか。ほーすけ、全部知っちゃったんだね」

 

 ポツリとこぼれた声には、焦燥も懺悔の震えも一切混じっていなかった。

 ただ、見つかった事実を受け入れるような軽さだけがあった。

 

「ああ……うん、怒るよね。軽蔑するよね。だって私、ほーすけから全部奪っちゃったんだもん」

 

 一歩、また一歩と、凰佳が僕との距離を詰めてくる。

 

 石段を降りるたび、彼女の足元で小さな火の粉が跳ねた。

 その足取りは驚くほど軽やかで、謝りに来る足取りではなく、裁かれに来る足取りでもない。僕がどんな顔で壊れるのか、間近で覗き込みに来る足取りだった。

 

 桜色の髪は、金色の光を受けて橙色に染まっている。制服の裾が熱で揺らぎ、その影が石段に細く伸びていた。

 凰佳の琥珀色の瞳は、僕の絶望を期待して熱っぽく潤んでいる。

 

 僕が崩れるのを。泣くのを。恐ろしいほど綺麗な顔で待っていた。

 

「ほーすけには、私しかいないんだよ?」

 

 甘く、鼓膜にへばりつくような声。昔なら、それだけで安心できた。

 でも今は、耳の奥に指を差し込まれるみたいに息苦しい。

 

「悪い噂を流したのも、クラスで孤立させたのも、ぜーんぶ私。みんなから嫌われちゃったほーすけに、どこにも居場所なんてないの。私しか、いないの。だからほら、私の手を取って?」

 

 凰佳は、手を差し出した。

 その仕草があまりにも自然で、一瞬、胸の奥が昔の形に戻りかけた。

 

 困った時は凰佳を見る。

 

 迷った時は凰佳の声を聞く。

 

 ひとりぼっちになったら、凰佳の手を取る。

 

 ずっとそうしてきた。

 そうすることで、僕はどうにか自分を保ってきた。

 

 けれど今、差し出された手の向こうで、焦げた石段が黒く沈んでいる。拝殿の鈴は震えたまま止まらず、金色の光に照らされた凰佳の影は、僕の足元まで細く伸びていた。

 

 あの手を取れば、きっと楽になる。

 何も考えず、何も選ばず、ただ凰佳に飼われているだけでいい。

 

 でもそれは、救いではなく檻だ。

 ようやく、その名前を間違えずに呼べた気がした。

 

「――ごめん、凰佳。僕は君の操り人形にはならない」

 

 言葉にした瞬間、凰佳の笑みが止まった。

 

 境内から、音が一段遠ざかる。玉砂利を踏む自分の足裏の感覚だけが、妙にはっきりしていた。

 

「どうして?」

 

 凰佳は、本当に分からないという顔をしていた。

 

「私しかいないのに。なんで、私の言うことが聞けないの?」

「君がいてくれたから、僕が今日まで立っていられたのは本当だよ」

 

 声が震えないように拳を握ると、爪が手のひらに食い込んだ。その痛みのおかげで、熱に滲む境内の中でも、自分の輪郭だけはかろうじて見失わずにいられた。

 

「感謝してるよ、ずっと。そこは嘘にしたくない」

「なら」

「でも、君に壊されていたことも本当だ」

 

 凰佳の瞳が、わずかに揺れた。

 

 悲しみではなかった。怒りとも、少し違う。理解できないものを見つけた子供が、どうして答えが合わないのか分からずに首を傾げるような、そんな色だった。

 

「僕はこれから、痛みも罪悪感も、自分のものとして抱えていく。君の檻の中で、可哀想な顔をして生きるのは、もう終わりにする」

「……そっか」

 

 凰佳は、ゆっくりと首を傾げた。

 

 その仕草は昔と同じだった。分からない問題を前にした時、彼女はよくそうやって首を傾げていた。けれど今、彼女が見ているのは問題集ではない。僕だった。

 

「変に歩ける手足が生えてて、外の世界なんか見えちゃうから、間違えちゃうんだね」

「凰佳!」

「なら、もう何も触れられなくていいし、どこにも行けなくていいよ」

 

 背後の金色が膨れ上がり、拝殿の屋根瓦を赤く染めた。石段に残った焦げ跡はさらに濃く沈み、僕たちの影が逃げ場を失ったみたいに足元へ縮んでいく。熱の向こうで、凰佳の輪郭だけがゆらゆらと滲んでいた。

 

 それでも、彼女は笑っていた。鳥肌が立つほど、壊れた顔で。

 

「手も、足も、ぜんぶ、私が代わりになってあげる。安心して? ほーすけはただ、私の顔だけ見て、私のご飯を食べて、息をしてるだけでいいんだよ」

 

 甘い声だった。

 

 優しい声だった。

 

 地獄みたいな声だった。

 

「私が一生……介護してあげるから」

 

 その瞬間、炎の翼が跳ねた。

 

 槍みたいに伸びた炎が、一直線に僕へ向かってくる。速い、と思った時には、もう視界は光で埋まっていた。身構えたところで足は動かず、逃げるという選択肢だけが、頭の中で真っ白に燃え尽きる。

 

 けれど、熱は来なかった。

 僕の前に、灰白色の翼が広がっていた。

 

 鷺里さんだった。

 

「佐鳥さんには触れさせません」

 

 静かな声。

 けれど、それは絶対だった。

 

 青白い火が、灰白色の羽の輪郭をなぞる。凰佳の炎はその手前で裂け、左右へ散った。玉砂利に落ちた火の粉が、じゅ、と小さな音を立てて消え、焼けた木の匂いだけが濃くなる。

 

 凰佳は眉をひそめた。

 

「どいてよ、ベンヌ」

「どきません」

「これは私とほーすけの問題だよ」

「ええ。ですから佐鳥さんがご自身で向き合えるよう、お護りしているのです」

 

 鷺里さんは刀を下げなかった。その背中は細いのに、不思議と境内全体よりも大きく見える。

 

 凰佳が、もう一度手を振る。

 

 今度は三枚の炎の羽が、別々の軌道で僕へ向かった。上から、横から、足元から。逃げ道を塞ぐように走る金色の刃を、鷺里さんの刀が音もなく迎え撃つ。

 

 一閃、二閃、三閃。

 

 遅れて音が来た。

 

 裂かれた炎が夜空へ散り、御神木の葉が熱風に煽られてざわめく。境内に落ちた火の粉は黒い羽に触れて消え、美烏も、夜鳥さんも、どちらも息を呑んだまま動かない。

 

 誰も踏み込めない。

 これはもう、凰佳と僕の問題だった。

 

 ただ、僕が一人で焼かれないように、鷺里さんがそこに立ってくれている。それだけだった。

 

「どうして邪魔するの」

 

 凰佳の声が、幼くなる。

 

「ほーすけは、私のものなのに……」

「違います」

 

 鷺里さんが言った。

 

「佐鳥さんは誰のものでもありません」

 

 その一言に、凰佳の炎が荒れた。境内の空気が、びり、と震える。

 

 僕は息を呑む。

 

 怖い。今でも、凰佳が怖い。

 

 けれど、怖いだけではなかった。このまま彼女を止めなければ、凰佳は僕を焼く。僕を閉じ込めるために、僕の手足を奪おうとする。

 そして、その時に一番壊れるのは、たぶん凰佳自身だ。

 

 それは嫌だった。

 

 許せないから止める。怖いから止める。大切だから、止める。

 

 その全部が、胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まっていた。

 

 凰佳の金色が、また膨れ上がる。

 

 拝殿の軒下に残っていた影が押し潰され、石段の縁が赤く滲んだ。熱を含んだ風が頬を打ち、玉砂利の上に散った火の粉が、小さな虫のように跳ねる。

 

 それでも、鷺里さんは一歩も退かなかった。

 

 灰白色の翼を広げたまま、白鞘の刀を低く構え、凰佳の前に立ちはだかっている。

 その佇まいは静かだった。なのに、金色の炎は一筋も届かなかった。

 

「……佐鳥さん」

 

 ふいに、鷺里さんが僕の名を呼んだ。

 

 戦いの最中とは思えないほど、落ち着いた声だった。けれど、そこにはさっきまでの穏やかさとは違う、何かを確かめるような響きがあった。

 

「鳳凰は――『鳳』が雄を、『凰』が雌を指すとされています」

「え、今ですか?」

 

 思わず変な返事をしてしまった。

 

 いや、仕方ないと思う。

 

 炎と羽と神話が飛び交う境内で、急に鳳凰の解説が始まったのだ。

 状況判断能力が高い人ほど混乱する場面である。僕はそこまで高くないけれど普通に混乱した。

 

 鷺里さんは、刀を下げないまま続ける。

 

「小鳥遊凰佳に宿ったのは、すべてを焼き尽くす金色の炎です。ですが、鳳凰が鳥類の王であるというなら、その権能まですべて彼女に渡ったわけではないのでしょう」

 

 言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。ただ、空気が変わったのは分かった。

 

 美烏の黒い羽が、空中でわずかに向きを変える。夜鳥さんの影が、石灯籠の足元で小さく震える。凰佳の炎でさえ、僕の呼吸に合わせるように、一瞬だけ輪郭を乱した。

 

「佐鳥鳳介さん」

 

 鷺里さんが、ほんの少しだけ僕を振り返る。

 

「その名の通り、貴方には『鳳』の権能が渡っているようです」

「……僕に?」

 

 自分の声が、ひどく間抜けに聞こえた。

 

 鳥類の王。

 

 今の僕に、あまりにも似合わない言葉だった。

 

 足は震えているし、手のひらは汗で湿っているし、さっきからずっと逃げ出したい。王というより、玉座にこうべを垂れる村人Aである。

 

「私は本来、佐鳥さんをこの場に連れてくるつもりはありませんでした。鳳凰と八咫烏の決戦の場など、あまりに危険すぎますから」

 

 青白い火が、鷺里さんの翼の輪郭を細くなぞった。

 

「しかし、佐鳥さんに神社へ向かってほしいと頼まれた時、私は不思議と、その願いを叶えなければならないと思ってしまった。危険だと分かっていても、止めるべきだと分かっていてもです」

 

 そうだ。思えば妙だった。

 

 鷺里さんは止めることもできたはずだし、むしろ普段の過保護っぷりを考えれば、僕を押し入れにでも隠して、一人で飛んでいく方が自然だった。

 

 なのに、彼女は連れてきてくれた。僕の言葉を、聞いてくれた。

 

「これまで佐鳥さんが『鳥に好かれやすい体質』だと思っていたものも、偶然ではなかったのでしょう。鳥は、貴方の声を無視できない」

 

 境内を満たす羽が、かすかに震えた。

 

 八咫烏の黒い羽。

 

 夜雀の影。

 

 鳳凰の金色の翼。

 

 ベンヌの灰白色の羽。

 

 それぞれ色も形も違うものが、僕の鼓動に耳を澄ませている気がした。

 

「その王命は、鳥であれば背けない。たとえ鳳凰であっても、例外ではありません」

 

 王命。鳳凰すらも従わせる力。そんなもの、僕には似合わない。

 

 誰かを支配するのは嫌だ。誰かの意思を奪うのも嫌だ。凰佳にされたことを、今度は僕が誰かにするなんて、冗談でも笑えない。

 

 けれど何も言わなければ、凰佳は止まらない。

 

 僕を閉じ込めるために、僕を焼く。僕の手足を奪い、外へ向かう目を塞ぎ、僕が息をしているだけの人形になるまで、きっと優しく壊し続ける。

 そのたびに、凰佳自身も壊れていく。

 

 ほーすけのため。ほーすけには私しかいないから。

 

 そう言い聞かせながら、僕を傷つけるたびに、彼女は自分の中に残っている大事なものまで焼いてしまう。

 

 それは嫌だった。

 

 僕は凰佳のものにはならない。彼女の檻には戻らない。

 だからといって、凰佳をこのまま怪物みたいに終わらせたいわけじゃない。

 

 僕を助けてくれた手が、僕を閉じ込めるためだけのものになってしまうのは嫌だった。

 

 朝ご飯を作ってくれたことも、帰り道に隣を歩いてくれたことも、僕が泣きそうな時にそばにいてくれたことも、全部を嘘にはしたくなかった。

 

 凰佳は間違えた。たぶん、取り返しがつかないくらいに。

 

 それでも僕は、彼女が僕のためと言いながら、僕ごと自分を焼き尽くしていくのを見たくなかった。

 

 命令なんて呼び方は、嫌だ。

 誰かを従わせる力なんて、今でも欲しくない。

 

 だからこれは――凰佳を支配するための力じゃない。

 

 壊れかけた幼馴染を、繋ぎとめるための言葉だ。

 

 これ以上、僕を理由にして間違えないように。

 これ以上、僕のためという形で彼女自身を焼かせないように。

 

 鷺里さんの翼の影から、一歩前に出る。

 玉砂利が、じゃり、と鳴った。

 

 足は震えている。膝も笑っている。けれど、その音はやけにはっきりと耳に残った。

 

「凰佳、聞いてくれ」

 

 僕の声に境内が静まった。

 炎の残光の向こうで、凰佳が僕を見る。

 

 怒りそうな顔で。泣きそうな顔で。

 それでもまだ、僕を自分のものだと信じている顔で。

 

「僕は、自分の罪を一生背負って生きていく。決して忘れない。許されるとも思わない。でも、それでも生きる」

 

 言葉を吐くたびに、胸の奥が軋む。格好いい覚悟なんかじゃない。

 

 たぶんこれからも、何度も後悔する。何度も間違える。何度も、誰かに全部預けて楽になりたいと思う。

 

 それでも。

 

「君の檻がなくても、僕は僕のまま生きていける」

 

 凰佳の瞳が揺れた。

 その揺れが悲しみなのか、怒りなのか、執着なのか、僕にはもう分からなかった。

 

 でも、分からないままでも言わなければならない。

 

 僕は息を吸った。

 

 焦げた木の匂いがした。玉砂利の乾いた匂いがした。古い神社の湿った土の匂いがした。

 

 そして僕は、全力で叫んだ。

 

「だから、ごめんなさい! まずは友達からでお願いします!」

 

 境内から、音が消えた。

 

 焦げた鳥居も、ひび割れた石段も、夜空に散った火の粉さえも、今の一言をどう受け止めればいいのか分からず固まっているようだった。

 

 またやった。

 僕はまた、人生でかなり重要な場面を、全力でラブコメ空間に引きずり込んでしまった。

 

 けれど、撤回はしない。

 

 恋人にはなれない。君のものにはならない。

 でも、敵として終わらせたくもない。

 

 凰佳が差し出してきた檻を、僕は受け取らない。

 

 その代わりに、どうしようもなく頼りなくて、間抜けで、けれど僕たちがまだやり直せるかもしれない言葉を差し出した。

 

 友達。

 

 それは、愛を止めるには軽すぎて、罪を許すには都合がよすぎて、執着をほどくにはあまりにも弱い言葉だった。

 

 でも、怪物になりかけた幼馴染に、僕が差し出せる唯一の人間らしい名前でもあった。

 

「ほーすけと、友達……」

 

 凰佳は呆然と、自分の口元に触れた。

 たぶん、本当は別の言葉を続けたかったのだと思う。

 

 私のもの。閉じ込める。逃がさない。

 

 そういう、友達関係の説明書にはまず載っていないタイプの言葉たち。

 

 けれど、それらは喉の奥で絡まったまま外へ出てこない。代わりに残ったのは、あまりにも軽くて、あまりにも頼りない『友達』という二文字だった。

 

 絶対命令。王の権能。

 

 僕の言葉は、凰佳の愛を消したわけじゃない。狂気も、執着も、たぶん何一つ消えていない。

 ただ、その全部に『友達』という名札を貼ってしまった。

 

 名札一枚で解決する感情ではない。絶対にない。

 でも少なくとも凰佳はもう、その枠から外れて僕を檻に入れることができない。

 

 それが正しい使い方だったのかは、まだ分からない。

 けれどあのまま凰佳を焼け落ちるところまで行かせるよりは、ずっとましだと思いたかった。

 

「……まずは」

 

 凰佳が、震える声で言った。

 

 さっきまで境内を焼き尽くそうとしていた金色の翼は、今は彼女の背中で小さく縮こまっている。火の粉はまだ散っているのに、そこに先ほどまでの暴力的な熱はなかった。

 

「まずは、友達から」

「うん」

 

 僕が頷くと、凰佳は何度か瞬きをした。

 

 その顔には、まだ納得なんて浮かんでいない。受け入れたというより、僕の言葉に縛られて、それ以外の形を選べなくなっているように見えた。

 

 それでも、凰佳は必死に考えている。

 

 友達。

 

 その枠の中で、どうすれば僕の隣にいられるのか。

 考えた結果、彼女は顔を上げた。

 

「じゃあ、友達として毎朝ご飯作りに行くね」

「枠内ギリギリを攻めてくるな」

 

 早い。友達という枠に収まったはずなのに、もう内側から境界線の位置を測っている。

 

 凰佳は指先で自分の髪をいじりながら、さらに続けた。

 

「友達としてお揃いのペンも使ってね」

 

 お揃いのペン。

 その言葉に、一瞬だけ心臓が嫌な跳ね方をした。

 

 あのペンは、夜鳥さんにすり替えられた。

 今ここでそれを言えば、たぶん友達という枠が導入初日で爆発する。具体的には神社の修繕費がさらに増える。

 

 僕は全力で口を閉ざした。沈黙は金。

 場合によっては命綱でもある。

 

「友達として、他の女を見る時は事前申請してね」

「それは友達の域を超えてるね」

 

 即答すると、凰佳は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。

 けれど、それ以上は踏み込めない。

 

 見えない線が、彼女の足元に引かれているみたいだった。どれだけこちらへ来ようとしても、友達という言葉が、凰佳の想いをその線の内側へ押し戻している。

 

 やがて凰佳は、ゆっくりと息を吐いた。その目に、少しだけ涙が浮かんでいる。

 

 さっきまでの熱っぽい期待とも、僕を閉じ込めようとする狂気とも違う、もっと小さくて、どうしようもないものだった。

 

「そっか。私、フラれたんだ」

「友達からでお願いします」

「強制フラれじゃん」

 

 凰佳はそう言って、困ったように笑った。

 いつもの完璧な笑顔とは違う。

 

 綺麗で、歪で、寂しそうで、それでもようやく、人間の顔に戻ったみたいな笑顔だった。

 

「ごめん」

「いいよ」

 

 凰佳は涙を拭わなかった。

 金色の光に照らされたその雫は、頬を伝う前に、熱で消えてしまいそうに見えた。

 

「友達だから、許してあげる」

 

 重い。友達の概念が重い。広辞苑に載せたらページが破れてしまいそうだ。

 

 けれど、その重さはもう、僕を檻に閉じ込めるためのものではなかった。たぶん。おそらく。できればそうであってほしい。

 

 凰佳の炎が、まだ名残を引きずりながら、夜空へほどけていく。

 拝殿を照らしていた金色が薄れ、焦げた石段の黒さだけが、ゆっくりと夜の中に戻っていった。

 

 終わった。完全に綺麗な終わりではない。

 何もかも許されたわけでも、すべてが元通りになったわけでもない。

 

 焦げた鳥居は焦げたままだし、石段には黒い跡が残っているし、狛犬の片方はいまだに横倒しである。たぶん明日になっても、この神社に宿る神様は困った顔をしていると思う。

 

 それでも、凰佳の炎はもう僕に向かっていない。

 

 美烏の羽も、僕の過去を引き剥がそうとはしていない。

 

 夜鳥さんも、今のところ神話級大惨事第二幕を企画している顔ではない。たぶん。そうであってくれ。

 

 隣で、鷺里さんがほっと肩の力を抜いた。

 

「佐鳥さん、お見事でした」

「ありがとうございます……。ところで、さっきから足が震えていて、可能なら支えてほしいんですが」

 

 情けない申告だった。でも仕方ない。

 

 僕はどうやら鳥類の王らしいが、足腰の耐久値まで王仕様になったわけではない。

 むしろ平民以下である。膝が笑うどころか、爆笑しそうだった。

 

 鷺里さんはそんな僕を見て、柔らかく微笑む。

 

「王命とあれば、喜んで」

「そこは普通に善意でお願いしたかったです」

「もちろん、善意です」

 

 そう言って、鷺里さんは僕の背中をそっと支えてくれた。

 

 灰白色の翼はもう畳まれていて、青白い火も薄くなっている。

 けれど、彼女の手の温もりだけは、さっきまで神話を押さえつけていた存在とは思えないほど、普通で、優しかった。

 

 その温もりに触れて、ようやく息が吐けた。

 長い長い一日だった。

 

 思えばこの物語は、雪の夜に鷺里さんが訪ねてきたところから始まった。

 

 鶴だと思ったら鷺で、鷺だと思ったらベンヌで。

 幼馴染は鳳凰で、後輩は八咫烏で、クラスメイトは夜雀で、それで僕も鳳凰の片割れで、鳥の王だという。

 

 なんだこのとんでも鳥類図鑑。松井だけが僕の癒しだ。

 

「帰りましょうか、佐鳥さん」

 

 鷺里さんが言った。

 

 境内にはまだ、焼けた匂いと火の粉の残り香が漂っている。けれど、夜の空気は少しずつ冷たさを取り戻し、御神木の葉も、さっきよりずっと穏やかに揺れていた。

 

「夕餉が冷めてしまいます」

「今日の献立はなんでしょうか?」

「唐揚げです」

「……供給元を聞いても?」

「それは企業秘密です」

 

 見なかったことにする能力。それもまた、生きるために必要な強さなのだ。

 こうして、神話級の修羅場は終わった。

 

 なお、神社の惨状については、美烏が『怪異による霊障』としてどうにかするらしい。どうにか、の中身は聞かないことにした。

 

 翌朝。

 

 階下が騒がしい。チュンチュンという音から始まる爽やかな朝ではない。

 もっとこう、雀とカラスと鳳凰が同時に自己主張しているかのような騒がしさだった。地獄のモーニングロックフェスティバルが、朝っぱらから開催されている。

 

 我が家に集まった鳥たちが、王の目覚めを祝っているのだろう。

 やめてほしい。王はまだ寝たいのだ。

 

 その騒音の奥から、包丁の小気味よい音が聞こえてくる。

 

 トントン、トントン。

 

 味噌汁の出汁の香りが、階段を伝って微かに漂ってきた。そこだけ切り取れば、いつも通りの朝だった。

 問題は、いつも通りではないものまで玄関に集まりすぎていることだ。

 

「おはよ、ほーすけ。友達として朝ご飯作りに来たよ」

「佐鳥くん、おはよー! 友達以上恋人未満夜雀として、盗聴器をしかけにきたよ!」

「先輩。昨日使用したティッシュの回収に参りました」

「皆様、入口で渋滞を起こさないでください。あと夜鳥さん、盗聴器は没収します。黒羽さんも、その保存袋は提出してください」

 

 鷺里さん……料理しながら来客対応までしている。

 さすがは年季の入った霊鳥である。家事能力と警備能力が高すぎる。

 

 僕はしばらく布団の中で考えたあと、そっと起き上がり、部屋の扉を開けた。そして階段の途中まで降りて、惨状を確認する。

 

 凰佳が買い物袋を提げている。

 夜鳥さんがなぜか工具箱を持っている。

 黒羽さんが白衣の袖の中から小さな保存袋を取り出している。

 

 そして鷺里さんが、割烹着姿のまま、その全員を敷居の向こう側で丁寧に押し留めていた。

 片手にはお玉。背後の台所からは、まだ味噌汁の湯気が漂っている。

 

 僕はそっと自室の扉を閉めた。

 

 騒がしくて、重くて、歪で、どうしようもなく面倒で。

 

 それでも、もう僕は一人ではない。

 罪を抱えて、過去を抱えて、共犯者と、友達と、護衛と、ストーカーに囲まれて。

 

 鶴は恩返しに来なかった。

 けれど、代わりに来た鳥たちは、どうやら簡単には帰ってくれないらしい。

 




7年前に第1話を投稿したこの小説ですが、これにて完結になります!
エタらなくて偉いと少しでも思ってくれた方は、評価や感想いただけると嬉しいです。
たぶん後日談をだらだら上げると思います。

一番好きなヒロインは?

  • 大鳥鷺里
  • 夜鳥雀
  • 小鳥遊凰佳
  • 黒羽美烏
  • 松井ぽっぽ
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