【完結】鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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ずっと書きたかったギスギス入学式です。


後日談
春、噂は形を変える


 僕、佐鳥鳳介は、無事に二年生になった。

 

 成績がどうとか、出席日数がどうとか、そういう話ではない。二月の終わりに鷺里さんが家へ来てから、僕の生活は鳥類図鑑の索引みたいになった。

 

 不死の霊鳥、鳳凰、夜雀、八咫烏。

 聞くだけなら縁起がよさそうな名前ばかりなのに、実際には僕の胃を順番に殴ってくる存在である。

 

 だから、無事に二年生になったというのは、生存報告に近い。

 

「今年こそ、普通の学校生活を送りたいな……」

 

 四月の朝。校門脇の桜はもう散り始めていて、薄い花びらが、真新しいクラス分けの掲示板の前をひらひらと横切っていた。

 

 新年度特有のざわめきがある。

 友人同士で名前を探す声。担任の名前に一喜一憂する声。知らない生徒同士が、同じクラスだと分かってぎこちなく笑い合う空気。

 

 その中で僕は、貼り出された名簿を見上げた。

 

 そして、少しだけ安堵の息を吐いた。今年も松井と同じクラスだった。

 

 教室に入ると、さらにありがたいことに、松井は僕の前の席だった。

 

 窓から差し込む朝の光を受けて、彼の背中がやたら広く見える。黒板より先にその肩幅が視界に入るのだから、もはや校内設備の一種と言っても過言ではない。

 

 机に鞄を置いていた松井が、こちらに気づいて軽く顎を上げた。

 

「佐鳥か。今年も同じだな」

「うん。また一年よろしく、松井」

「困ったら後ろに隠れろよ。壁くらいにはなる」

「その言葉、今年の校訓にしたいくらい頼もしいよ」

 

 松井は短く笑って、前を向いた。

 

 クールで口数は少ないが、いざという時に肉体で世界を遮ってくれる男。僕にとっては、下手な御守りよりよっぽど信頼できる。

 

 問題は、隣だった。

 

「やっほー、佐鳥くん。今年も近いね」

 

 夜鳥雀が、隣の席で当然のように頬杖をついていた。黒混じりの茶髪を揺らしながら、春の朝に似合わないくらい楽しそうに笑っている。

 

「……夜鳥さん」

「なに?」

「何でもない」

 

 こういう席順は、最初くらい出席番号順ではないのだろうか。

 

 前に松井。隣に夜鳥さん。

 偶然にしては、僕の生存と胃痛の両方に都合がよすぎる。

 

 何か陰謀めいたものを感じる。具体的には、夜鳥さんが裏で手を回している的なやつ。

 

「佐鳥くん、今ちょっと失礼なこと考えた?」

「考えてないよ」

「そう?」

「うん、まだ証拠がないなって思っただけ」

「それは考えてるね」

 

 夜鳥さんは楽しそうに笑った。

 

 新年度。僕の周囲は、少しだけ変わっていた。

 

 以前なら目が合っただけで逸らされていた相手から、普通に挨拶されるようになった。

 廊下ですれ違った女子生徒に「佐鳥くんって意外と普通だよね」と言われた。男子からも「前に聞いた噂、あれ違ったらしいな」と、ぎこちなく声をかけられた。

 

 僕は困惑した。

 人間関係というものは、ある日突然パッチが当たるものなのだろうか。

 

 まあ、理由は分かっている。

 

 凰佳が自分で火消しを始めたのだ。

 

 あれ、全部私の勘違いだったの。ごめんね、変なこと言って。

 

 彼女はそう言って、僕にまとわりついていた噂を少しずつ消して回っているらしい。

 

 それが償いなのか。打算なのか。僕の友達という立場を守るためなのか。

 

 たぶん、全部。僕はそれを責めきれない。

 

 友達からでお願いします。

 あの言葉は、拒絶ではなかった。かといって、許しでもなかった。

 

 壊れかけた幼なじみを、このまま怪物にしないために、僕が差し出した細い糸。

 

 凰佳はそれを分かっている。分かっているからこそ、彼女は「友達」という言葉を大切そうに、少し怖いくらい丁寧に、そしてかなり積極的に使う。

 

 そんなことを考えていると、担任が教室に入り、入学式の案内を始めた。

 

 今日は新一年生の入学式。僕たち在校生も講堂へ移動し、新入生を迎えることになる。

 

 椅子に座って、校長先生の話を聞いて、適当に拍手して、終わり。

 それだけのはずだった。

 

 しかし、僕は配られた式次第を見て唖然とする。

 

 新入生代表挨拶――黒羽美烏。

 在校生代表挨拶――小鳥遊凰佳。

 

「……僕の胃、今日で卒業しない?」

 

 春の日差しが差し込む教室で、僕はそっと腹を押さえた。

 

 

 講堂へ向かう前、廊下は新入生と在校生でごった返していた。磨かれた床に上履きの音が重なり、窓の外からは散り残った桜が風に揺れるのが見えた。

 

 その人波の中でも、凰佳の姿はすぐに分かる。

 緩く波打つ桜色の髪。琥珀色の瞳。制服の着こなしも、歩き方も、笑い方も、何もかもが完璧だった。

 

「ほーすけ、顔色悪いよ。大丈夫?」

 

 そんな幼馴染が近寄ってきて、心配げな表情で見上げてきた。

 

「大丈夫じゃない理由を、凰佳も半分くらい知ってると思う」

「半分?」

「残り半分は、たぶん新入生代表」

「美羽ちゃんのことだね」

 

 凰佳は当然のようにそう呼んだ。

 殺し合いをした仲なのに、その呼び方でいくんだ。

 

 人前で聞けば、優しい先輩が新入生を親しげに呼んでいるだけにしか聞こえない。

 でも僕は、その呼び方がただの親しみだけではないように感じた。

 

「……普通に呼ぶんだね」

「だって、美羽ちゃんは美羽ちゃんでしょ?」

 

 凰佳は、柔らかく笑った。

 

「ほら、来たよ」

 

 琥珀の瞳が廊下へ向く。

 

「佐鳥先輩」

 

 今度は、反対側から静かな声がした。

 

 黒羽美烏が立っていた。新しい制服に身を包んだ彼女は、新入生らしい初々しさよりも、どこか神事に臨む巫女のような厳かさを纏っていた。

 

 黒髪のツーサイドアップ。赤い瞳。小柄な身体。一切の隙がない所作で、彼女は僕に一礼する。

 

「本日より、正式に後輩となります。よろしくお願いいたします」

「うん。よろしく。正式にって、後輩は認可制じゃないけどね」

「入学手続きは完了しています」

「そういう意味じゃないんだ」

 

 顔を上げた美烏は、細長いケースを差し出した。

 

「佐鳥先輩。返却します」

「返却?」

 

 受け取った瞬間、指先が少しだけ固まった。

 

 万年筆だった。

 黒い軸に、細い銀色のラインが入った古い万年筆。父さんが使っていたもの。

 

 良い思い出ばかりじゃない。むしろ、痛い記憶の方がよほど多い。

 それでもこれは、僕の過去に確かにあったものだ。

 

「……これは」

「佐鳥先輩の父君の形見です」

「うん、知ってる。僕のだからね」

 

 美烏は静かに頷いた。

 

「以前の私は、佐鳥先輩を苦しめるものは取り除くべきだと考えていました」

「今は違うの?」

「佐鳥先輩の苦しむ権利を、私が勝手に取り除くべきではないと学びました」

 

 その言葉に、僕は少しだけ息を止めた。

 

 表情はいつも通り動かない。けれど、その言葉だけは、以前の美烏とは違っていた。

 

 苦しみを消すのではなく。過去を奪うのでもなく。僕が苦しむことさえ、僕のものとして扱おうとしている。

 

「……美烏」

 

 初めて、声に出してそう呼んだ。

 

 黒羽さんではなく。八咫烏でもなく。僕の祈りを聞いてしまった、共犯者の名前。

 

 その瞳が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「はい、佐鳥先輩」

「それ、ちゃんと覚えててね」

「はい」

 

 美烏は、まっすぐに僕を見た。

 

「忘れません」

 

 そこで終われば、かなり綺麗だっただろう。

 ただ、美烏は美烏だった。

 

「本体は、佐鳥先輩が持っていてください」

「ん? 本体は?」

「キャップは、私が持ちます」

「……どうして?」

「共犯者ですので」

 

 短い答えだった。けれど、妙に重かった。

 

「佐鳥先輩の罪を、佐鳥先輩だけのものにはしません。私の罪を、私だけのものにもできません」

 

 淡々とした声だった。

 

「ですので、この万年筆を二つに分けます」

「……万年筆って、そういう分け方をするものだったかな」

「通常はしません」

「だよね?」

「ですが、通常の関係ではありませんので」

 

 僕は言葉に詰まった。

 

「キャップは今、持ってるの?」

「はい」

 

 白い指が、制服の襟元にかかる。

 

 ほんの少しだけ、内側に隠れていた細い紐が見える。その先に、小さな黒いキャップが下がっていた。

 万年筆のキャップだった。

 

「……ペンダントにしたの?」

「はい」

「父さんの万年筆のキャップを?」

「はい」

「重いね」

「承知しています」

 

 当然のように返ってきた。承知してるんだ。

 

「軽く持つべきものではありませんので」

 

 僕は返す言葉を失った。

 

 それは、たしかに美烏らしかった。人に見せるための飾りではない。服の中に隠して、肌の近くに置いている。

 

 父さんの形見の片割れ。僕の過去の片割れ。そして、美烏の罪の片割れ。

 その重さを、彼女は首から下げていた。

 

 少し離れた場所から、凰佳の視線がこちらに刺さる。

 

 笑顔は崩れていない。

 ただ、ほんの一瞬だけ、廊下の空気が冷えた気がした。

 

「美羽ちゃん、それ、ほーすけとの共有物なんだ」

「はい」

「へえ……」

 

 凰佳は誰が見ても優しい先輩にしか見えない顔で、ゆっくりと美烏の胸元へ視線を落とした。

 

「ほーすけ、そういうの私にはくれないの? 友達なのに」

「……凰佳には、お揃いのペンがあるでしょ」

 

 口にした瞬間、背筋が少し冷えた。

 

 そのペンが今も本当に『お揃い』なのかどうかを、僕は考えないことにしている。

 考えたところで夜鳥さんは不敵に笑うだけだし、もし凰佳に知られでもしたら、文房具どころか鳥類同士の治安が崩壊してしまう。

 

「そうだね」

 

 甘い声が、少しだけ弾んだ。

 

「私とほーすけには、お揃いのペンがあるもんね」

 

 やめてほしい。無邪気な笑顔が、真実を知っている僕の胃粘膜に直接来る。

 

 美烏が小さく頷いた。

 

「文房具は重要です」

「美烏が言うと重いんだよ」

「重いものですので」

「否定してほしかったな」

 

 桜色の髪が、ふわりと揺れる。凰佳は美烏へ向き直った。

 

「美羽ちゃん。ほーすけのこと、あんまり困らせちゃだめだよ?」

「困らせてはいませんが」

「うん。でも私、ほーすけの友達だから。困ってたら、間に入るくらいはするよ」

 

 友達。

 

 その言葉は、優しく、甘く、そして当然の権利みたいに差し出された。

 まるで、凰佳にだけ許された切り札のように。

 

 一拍の沈黙のあと、美烏が口を開いた。

 

「敗北を、そう使うのですか」

「美羽ちゃん、入学初日から言葉が強いね」

「事実です」

「違うよ」

 

 軽く否定してから、凰佳は何でもないことのように続けた。

 

「これはほーすけが私にくれたものだよ。だから私は、大事に使うの」

「それは、免罪符ではありません」

「知ってる。でも、通行証にはなるでしょ?」

「通行証」

「ほーすけの隣に戻るための」

 

 僕は胃を押さえた。

 

「僕の発言を、入館証みたいに使わないでくれる?」

 

 琥珀色の瞳が、今度は僕を見た。

 

「ほーすけに恋人ができるまでは、一番近い友達でいるよ」

「友達って、こんなに攻めの姿勢だったっけ?」

「ほーすけがくれた立場だから、大事に使うね」

「大事と攻撃的は両立するんだな……」

 

 今度は、美烏の視線が凰佳へ向いた。

 

「小鳥遊先輩は、言葉の拡大解釈が上手なのですね」

「うん。ほーすけがくれた言葉だから、できるだけ大きく育てたいなって」

「育てるものなのですか」

「友達だもん。育つでしょ?」

 

 両者譲らぬ言葉の応酬。僕は二人の間に割って入った。

 

「二人とも落ち着いて。今日は入学式だからね? 新入生を歓迎する日だからね?」

 

 その時、講堂へ向かう列が動き始めた。

 僕は一度、万年筆のケースを持ったまま教室へ戻った。

 

 

 講堂へ移動する前、僕は教室で万年筆のケースをもう一度開けた。

 

 黒い軸に、銀色の細いライン。父さんが使っていた万年筆。

 見れば見るほど、胸の奥が重くなる。

 

 僕はそれを、いつものように胸ポケットに入れようとして――止まった。

 

「いや、クリップがないじゃん」

 

 万年筆のクリップは、普通キャップについている。

 そして、そのキャップは今、美烏が持っている。正確には、ペンダントにして服の中に隠している。

 

 つまりこれは、父さんの形見であり、僕と美烏の罪を分け持つ象徴であり、なおかつ胸ポケットへの固定機能を失った棒状のインク漏れリスクだった。

 

 僕はしばらく万年筆を見つめた。

 

「……象徴性と実用性って、両立しないんだな」

 

 幸い、僕は女子力高い系男子である。

 鞄には絆創膏や消毒液、裁縫セット、染み抜き、ウェットティッシュ、そして小分けにしたラップまでもが入っている。

 

 僕はペン先をラップで包み、黒い輪ゴムで丁寧に縛った。

 父さんの形見が、まるでお弁当の残り物みたいになってしまった。

 

 それでも制服を黒インクで染めるよりはいい。

 僕はラップ巻きの万年筆を、胸ポケットではなく制服の内ポケットへそっとしまった。

 

 罪を分かち合うにも、最低限のインク漏洩対策は必要だった。

 

 

 入学式が始まった。

 

 講堂には、磨かれた床の匂いと、少し湿った春の空気が混ざっていた。壁際には紅白幕が張られ、壇上の横には大きな校旗が垂れている。

 

 新入生たちは緊張した顔で並び、在校生は椅子のきしむ音を立てながら姿勢を正していた。

 

 校長先生の話はいつも通り長かった。

 例年なら、講堂のあちこちで眠気と戦う生徒が出るところだろう。

 

 だが、今日の僕だけは違う。

 

 校長先生。お願いです。もっと話してください。教育方針でも、学校の沿革でも、初代校長の像が何故薪を背負っているかでもいい。

 今日だけは長話を美徳として全面的に受け入れます。

 

 なぜなら、この話が終わった瞬間、美烏と凰佳が順番にマイクを握るからだ。

 

 あの二人が、ただ無難な祝辞だけで済ませてくれるとはとてもじゃないが思えない。

 絶対に何か良からぬことが起きる。僕にはひしひしとその予感があった。

 

 現実逃避として、僕は視線を横へ逃がす。

 

 すると、保護者席に見慣れた黒髪の女性が座っていた。

 なぜか保護者席に、鷺里さんがいたのだ。

 

 着物姿で背筋を伸ばし、他の保護者たちに紛れている。

 紛れている、という言葉を使っていいのかは分からない。端正すぎる横顔と、場に似合いすぎる落ち着きのせいで、むしろ周囲の保護者たちの方が、保護者役のエキストラみたいに見えた。

 

 鷺里さんは僕と目が合うと、静かに会釈した。護衛対象の式典を見守る保護者。

 字面だけなら感動的だが、実態は警備配置である。

 

 そんなことを考えているうちに、校長先生のありがたい話が終わる。僕の祈りは届かなかった。

 

「続きまして、新入生代表挨拶。新入生代表、黒羽美烏さん」

 

 講堂の空気が、すっと変わった。

 

 美烏が壇上へ上がる。

 小柄な身体なのに、その所作は異様なほど目を引いた。背筋を伸ばし、深く一礼し、マイクの前に立つ。

 

 新入生も、在校生も、教師も。一瞬で静かになった。

 

「暖かな春の日差しの中、私たち新入生は本日、この学び舎の一員となりました」

 

 声は静かだった。けれど、よく通る。

 

 最初は完璧な挨拶だった。

 学べることへの感謝。支えてくれた人々への敬意。先輩方への尊敬。新入生としての決意。

 

 教師たちが満足げに頷いている。新入生たちも、代表の堂々とした姿に見入っていた。

 僕も、ほんの少しだけ安心しかけた。

 

 その瞬間だった。

 

「誰かについて語られる言葉は、時にその人の姿を覆い隠します」

 

 膝の上で組んでいた指が、ぴたりと止まった。

 その言葉だけで、美烏がどこへ向かおうとしているのか分かってしまったからだ。

 

「噂も、評判も、過去も、それだけで人を決めるものではありません。誰かの歩んできた道を、他人が勝手に断じることも、勝手に消すことも、正しいことではないと私は思います」

 

 僕は制服の内側に、そっと触れた。

 ラップと黒い輪ゴムで包まれた、キャップのない万年筆。

 

 父さんの形見で、美烏が奪い、美烏が半分だけ返したもの。

 

「過去は、時に苦しみを伴います。それでも、その苦しみを一人で背負い続ける必要はありません」

 

 壇上で語られるその言葉は、きっと新入生代表の立派な祝辞として、講堂に届いている。

 けれど僕には、別の意味にも聞こえた。

 

「苦しみは、共に歩む者と分かち合うことができます」

 

 美烏は、僕の苦しみを勝手に取り除くことをやめた。代わりに、その片割れを持って、隣を歩くつもりでいる。

 

 正確には、万年筆のキャップをペンダントにして持っている。

 象徴としては重いのに、物理的には地味に不便だ。

 

「私たち新入生は、この学び舎で、多くの人と出会い、学び、支え合っていくことになります。誰かの言葉だけで人を決めつけず、誰かの痛みを勝手に取り上げず、隣を歩く者として、誠実に学んでまいります」

 

 美烏はそこで一度、息を整えた。

 

「最後に、私がこの学校で最初に道を示していただいた佐鳥鳳介先輩に、感謝申し上げます」

 

 講堂の空気が、一瞬だけ揺れた。

 

 いや確かに、合格発表の日に講堂まで案内はした。したけど。

 それは道案内であって、入学式で感謝申し上げられるような人生の導きではない。

 言葉のスケールが、実際の行為を追い越している。

 

「そして先輩方、新入生の皆様。これから三年間、よろしくお願いいたします」

 

 美烏は深く一礼した。

 

 拍手が起きた。普通に聞けば、感動的な余韻だった。

 けれど僕には、拍手の隙間から無数の囁きが聞こえる気がした。

 

 佐鳥って誰?

 あの噂の?

 新入生代表に名指しされてた?

 どういう関係?

 

 そっと胃を押さえた。

 

 終わった。いや、違う。

 まだ半分だった。

 

「続きまして、在校生代表挨拶。在校生代表、小鳥遊凰佳さん」

 

 舞台袖から凰佳が現れた。

 

 講堂が、また別の意味でざわつく。

 彼女はこの学校で、誰もが知る完璧な美少女だった。優しく、成績優秀で、教師からの信頼も厚い。

 

 凰佳は壇上に立ち、微笑んだ。

 

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」

 

 美しい声だった。落ち着いていて、華があって、人を安心させる声。

 たぶん僕以外の全員には、理想的な在校生代表に見えている。

 

「これから皆さんは、この学校で多くの人と出会います。楽しいことも、迷うことも、時には噂や評判に戸惑うこともあるかもしれません」

 

 僕は冷や汗を流した。

 凰佳、君もその話題に行くの?

 

「噂は、ときに人を深く傷つけます。私自身、誰かを誤解してしまったことがあります。だからこそ、皆さんには、誰かの言葉だけで人を決めつけないでほしいと思います」

 

 講堂が静かに聞き入っている。凰佳の言葉は、祝辞として整っていた。

 

 でも僕には、彼女が自分でつけた火を、自分の手で消そうとしているようにも見えた。

 

「私には、大切な友達がいます」

 

 その瞬間、僕は悟った。

 

 来る。

 

「その人は、誤解されやすくて、自分から言い訳をするのが苦手で、それでも、誰かが困っていると放っておけない人です」

 

 凰佳は名指しはしなかった。

 

 しかし、美烏が先に僕の名前を出している。だからこの場にいる何人かは、いや、かなりの人数が、凰佳の言う『大切な友達』が誰なのか気づいただろう。

 

「どうか皆さんも、他人の言葉だけではなく、自分の目でその人を見てください。そうすれば、きっと大切な出会いを見逃さずに済むと思います」

 

 教師たちは感動している。新入生も聞き入っている。

 

 この講堂で、たぶん僕だけが拍手の準備ではなく、被弾の準備をしていた。

 

 名指しで否定したわけではない。

 けれど、あれが僕を庇う言葉だと分からないほど、講堂の空気は鈍くなかった。

 

 そして僕は、全校生徒の前で小鳥遊凰佳の『大切な友達』にされた。

 

 凰佳は最後に、完璧な礼をした。

 

 講堂いっぱいに感動したような拍手が広がっていく。

 その中に、明らかに祝福ではない小さな声が混じった。

 

「……佐鳥って、何なんだよ」

 

 うん。僕も知りたい。

 

 

 式が終わった後、講堂から教室へ戻るまでの廊下は、妙に騒がしかった。

 

 僕が歩くと、視線が集まる。

 以前の視線とは違う。前は、もっと暗かった。近づいてはいけないものを見る目だった。

 

 困惑。興味。嫉妬。疑念。

 それらが混ざった、なんとも言えない視線だった。

 

 男子生徒たちの声が聞こえる。

 

「佐鳥って、あの噂のやつだろ?」

「でも小鳥遊さん、大切な友達って言ってなかったか?」

「新入生代表にも名指しされてたよな」

「なんで?」

「知らん。でも腹立つ」

 

 僕の評判、冤罪から嫉妬にクラスチェンジしただけじゃない?

 

「さすが佐鳥くん。人気者だね?」

 

 いつの間にか隣に来ていた夜鳥さんが、楽しそうに言った。

 

「これを人気と呼ぶなら、僕は不人気でいい」

「でもよかったじゃん。前より青春っぽいよ」

「嫉妬で孤立する青春なんて嫌なんだけど」

 

 夜鳥さんはけらけら笑った。

 

「いやぁー、噂って面白いね。怖がられてた佐鳥くんが、今度は妬まれる佐鳥くんになるんだもん。すごい上書きだよ」

「方向転換しても孤立からは逃げられてないよね」

 

 その時、前方に美烏が現れた。新入生の列から抜け出してきたらしい。

 教師に見つかったら怒られそうだが、彼女の所作があまりに堂々としているせいで、逆に誰も止められない。

 

「佐鳥先輩」

「黒羽さん。新入生は向こうじゃない?」

 

 一瞬、呼び方に迷った。

 

 さっき、感極まって僕は彼女を美烏と呼んだ。でも人前で下の名前を呼ぶのは、まだ少しばかり気恥ずかしかった。

 

 美烏は特に気にした様子もなく、静かに頷いた。

 

「確認したいことがあります」

「入学初日から真面目だね」

 

 美烏の視線が廊下の向こうに向く。

 

 式を終えたばかりの生徒たちが、まだこちらをちらちらと見ている。美烏と凰佳の祝辞で、僕はすっかり話題の一部になってしまったらしい。

 

「先ほど、数名の男子生徒が佐鳥先輩に敵意を向けていました」

 

 気のせいだといいな。

 そう思いたかったが、美烏の声には断言の響きがあった。

 

「悪意を向けた者は、すでに特定しています。必要であれば、牽制しますが」

「いやいや、必要ないからね」

「……承知しました」

 

 そこで止まっただけ、以前よりずっといい。

 牽制という言葉の選び方は、だいぶ不穏だけれど。

 

「では、記録に留めます」

「……それもそれで怖いね」

 

 そこへ、甘い声が割り込む。

 

「美羽ちゃん、入学式の日から物騒な話をしてるの?」

 

 凰佳だった。違うクラスのはずなのに、当然のように僕の隣へ来る。

 その瞬間、廊下のざわめきが一段濃くなった。

 

「ほーすけ、大丈夫? 私が友達として守るからね」

 

 凰佳は、優しい幼馴染にしか見えない顔で僕を覗き込んだ。

 申し出はありがたいのだけど、その一言で周囲の男子の視線が一層鋭くなった気がする。

 

「ありがとう。でも、その言葉で新しい敵が増えた気がするよ」

「大丈夫。私が消して回るよ」

「噂を? 人をじゃないよね?」

「ほーすけは心配性だね」

「否定してほしかった」

 

 そこへ、美烏が一歩だけ近づいた。

 

「必要であれば、私も協力します」

「黒羽さんも、人をじゃなくて噂の方だからね?」

「承知しています」

「本当に?」

「できる限り」

「信頼の余地が狭い」

 

 その時、保護者席の方からこちらへ歩いてくる鷺里さんが見えた。式が終わったので合流しに来たらしい。

 

「佐鳥さん」

「鷺里さん。どうして保護者席に?」

「護衛対象が参加する式典ですので」

「学校に無関係者が入っていい理由にはならないんですよ」

 

 鷺里さんは講堂の方を振り返り、真面目な顔で言った。

 

「学校という場所は、想像以上に危険なのですね」

「学校が危険なんじゃなくて、僕の周りが危険なんです」

 

 新学期。僕の悪評は、少しだけ形を変えた。

 怖がられるだけだった視線は、困惑と嫉妬と好奇心に上書きされつつある。

 

 それが良いことなのかは、まだ分からない。

 

 ただ一つ言えるのは、入学式とは本来、新入生を歓迎する行事であって、在校生の胃を試す儀式ではないということだ。

 

 今年も、普通の学校生活は遠そうだな。

 せめて友達よりも先に、胃薬の備蓄を増やしておこう。




アンケートで鷺里さんと松井が壮絶な戦いを繰り広げている……。
次回はバイトに再挑戦予定です。

一番好きなヒロインは?

  • 大鳥鷺里
  • 夜鳥雀
  • 小鳥遊凰佳
  • 黒羽美烏
  • 松井ぽっぽ
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