昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室の空気がほどけた。
椅子が鳴り、購買へ向かう足音や、限界しりとりに興じる声がいくつも重なり合う。
そんな中で、僕は弁当箱を持って静かに立ち上がった。
今日は自分の席では食べない。
隣に夜鳥さんがいる時点で、あそこはもう、静かに昼食を食べるための場所ではなかった。
それに最近は凰佳が「友達」を口実によく混ざってくるし、ひどい時は他学年の美烏まで現れる。
せっかくの鷺里さんお手製弁当も、ここ数日は味わう前に昼休みが終わっていた。
せめて、玉子焼きの味くらいちゃんと知りたかった。白米だって、落ち着いて噛みたかった。
だから今日は、最初から平和そうな場所へ逃げ込むことにした。
前の席の松井の横。窓際の床。
あの巨木の影なら、ほんの少しだけ羽を休められる気がしたのだ。
「今日はそこで食べるのか」
「うん。ちょっと落ち着きたくってね」
「そうか」
松井はちらっと一瞥したが、それ以上は聞かれなかった。
その雑さがありがたい。
突然床で弁当を広げ始める奇行を目にしたら、常人であれば気になると思うが、松井の筋肉の前に常識は通用しない。
松井は理由を聞かず、追い払ったりもしなかった。
この絶妙な距離感が僕には心地いい。
僕は弁当の蓋を開けた。
中身は、玉子焼き、唐揚げ、青菜のおひたし、肉団子、白米。茶色一辺倒でもなく、変に気取りすぎてもいない。
よかった。たまに自宅警備に興が乗り過ぎたのか、弁当箱が唐揚げの茶色に染まる日がある。
今日は当たりである。
「……今日も美味そうだな」
「まあね。作る人が優秀なんだよ」
「居候が作ってるんだったか?」
「うん。シェフにも伝えておくよ。明日から松井の分も増えるかもね」
「それは助かる」
ちょっとした冗談のつもりだったのに、真顔で返されてしまった。
本気で鷺里さんが二人分の弁当を作りそうで、少し怖い。
「へえ」
気づけば、横から聞き覚えのある声がした。
見上げるまでもない。というか、見上げたくなかった。
せっかく松井の影で静かに食べようとしていたのに、至福の時間はたぶん、もう終わりである。
嫌々そちらへ目を向けると、案の定、夜鳥さんが僕の席に座っていた。
頬杖までついている。完全に我が物顔だった。机の上に置かれた教科書まで、自分のものみたいに指先で軽く弾いている。
隣の席が空いた時点で、僕の雲隠れを察したのだろう。
「今日は避難したんだ?」
「昼休みくらい静かに過ごしたいだけだよ」
「それ、私がうるさいみたいじゃない?」
「みたいじゃなくて、かなりの割合でそうだね」
夜鳥さんは僕の席を占拠したまま、楽しそうに口元を緩めた。
「ひどいなあ。佐鳥くんのこと、見てるだけなのに」
「夜鳥さんは視線がうるさいんだよ」
彼女はそこで、さらに居心地よさそうに膝を組んだ。
位置が悪いのでやめてほしい。
地べたに座っている僕からすると、その座り方は短いスカートも相まって非常に目に毒だった。
別に見たいわけじゃないのに、自然と目に入ってしまう。もう少し床側の人間を慮ってほしいものだ。
僕は即座に視線を逸らした。
落ち着け。こういう時は何か健全で、安心できるものを見ればいい。
試しに松井の腕を見てみた。
樹の幹のように太い、筋肉の固まり。制服の袖がわりと負けそうになっている。
うん、やっぱり落ち着くな。
人はたぶん、健全な筋肉を見ると冷静になれる。少なくとも僕は、今ちょっとだけ正気を取り戻した。
「ほーすけ、何してるの?」
松井の筋肉に癒されていると、ふと甘い声が降ってきた。
今日は本格的に逃げ場がないらしい。
教室の入り口の方から、凰佳が歩いてくる。桜色の髪が、昼の光を受けてやわらかく揺れていた。
表情はいつも通り穏やかなのに、迷いなく僕の避難先を特定してくるあたりが怖い。
どうやら松井の壁は機能していないようだ。
「見ての通り、静かな昼休みを確保しようとしてるんだ」
「床で?」
「椅子は後から夜雀さんに奪われた」
凰佳は僕の隣の床を見た。
そこに座れるだけの余白があることを、たぶん一瞬で確認したのだと思う。
背筋に嫌な予感が走った。
「じゃあ、私もここで食べるね」
「なんで?」
「友達が床で食べてるのに、私だけ椅子なのも変でしょ?」
変ではあるけれど、たぶん凰佳のはそういう意味じゃない。
僕が言葉を探している間に、凰佳はスカートの裾を整えて床に収まっていた。動きに無駄がなさすぎて、抗議のタイミングを完全に失った。
さすがは学校一の優等生、と言うべきか。
優等生。優しいと付いているのに、僕の胃にはちっとも優しくない。
「小鳥遊。席、いるか」
松井が振り返って、短く言った。
鳳凰に対して、あまりに普通の気遣いだった。
松井はそんなこと知る由もないだろうけれど、その普通さが妙に心強い。
「ありがとう、松井くん。でも大丈夫。鳳介と一緒がいいから」
凰佳の物言いは可愛いのに、やけに重たい意味を帯びている。
やめてほしい。少なくとも昼休みの床にひょいと置いていい重さじゃない。床が抜けてしまうだろう。
「ふうん」
夜鳥さんが、小さく声を漏らした。
口元には笑みが浮かんでいたけれど、目は少しも笑っていなかった。
「小鳥遊さんって、本当にそういうの上手だよね」
「……どういう意味かな?」
「別に。佐鳥くんが決めたことなら、私は何も言わないけどさ」
そこで一度、夜鳥さんは小さく肩をすくめた。
「でも、友達って言葉をそうやって使うの、相変わらずだなって思っただけ」
凰佳は何も言い返さなかった。
ただ黙って、笑顔だけをきれいに貼りつけている。
あの、焼き鳥にしてやろうかとか、思ってないよね……?
「松井の壁を以てしても、結局いつも通りになるのか……」
僕が小さく呟いたところで、凛とした声が会話の隙間に落ちた。
「佐鳥先輩。こちらでしたか」
教室の入り口近くに、美烏が立っていた。
一切の隙がない立ち姿。彼女が現れただけで、さっきまでざわついていた教室が少しだけ静かになった。
昼休みの教室に、日本神話がそのまま立っているみたいだった。
「黒羽さんまで来たの?」
「昼食環境の確認に来ました」
確認せんでいい。
むしろ今の環境は、観測した瞬間に悪化するタイプのやつだ。
美烏は一度だけ全体を見渡した。
なぜか床に座っている僕。その隣に居座る凰佳。僕の席を不当に占領している夜鳥さん。前の席にいる松井。
「佐鳥先輩」
その呼びかけは点呼に近かった。
僕がそこにいることだけを確かめると、美烏はすぐに凰佳へ視線を向けた。
「小鳥遊先輩の接近可能距離についてですが」
「すごい話題から始まったな」
もっとこう、普通の先輩後輩らしいほのぼの雑談をできないものだろうか。
しかし美烏は僕のツッコミを一切拾わない。
今にも30センチ定規で僕と凰佳の距離を測り始めそうな空気だった。
「床に座ってるだけだよ?」
「座ること自体は問題ありません」
「じゃあ何の問題?」
「小鳥遊先輩の接近可能距離が、常に最大値である点です」
夜鳥さんが、くすりと笑った。
「いいね、美烏ちゃん。もっと言ってやって」
「はい、言います」
凰佳は相変わらず穏やかな顔をしていた。
ただ、今回は黙っていなかった。
「美烏ちゃん。友達の距離感って、当人同士で決めるものじゃない?」
「佐鳥先輩の意思を確認していません」
美烏はきっぱり言い切った。
二人の間に、ひりつく沈黙が落ちる。
まずい。このまま放っておくと、昼休みの教室で戦争が始まりかねない。
何か言って止めないと――そう思ったところで、ふと教室中の視線が集まっていることに気づいた。
「また佐鳥が大変なことになってる……」
「ギスギスしすぎて、もはや罰ゲームだろ……」
まあ、注目を集めてしまうのも無理ない。
床に座った僕を囲んで、凰佳と美烏が火花を散らしている。
元の席では夜鳥さんが面白がるように足を組んでいて、どう見ても普通の昼休みの絵ではない。
僕が第三者でも見るし、その上で、たぶん関わりたくないと思う。
遠巻きにされる理由が変わっただけで、孤立の手触りはあまり変わらなかった。
「佐鳥」
松井の声に、はっとした。
「卵焼き落ちるぞ」
「えっ」
慌てて弁当箱を見る。箸で持ち上げかけていた卵焼きが、危うく転落するところだった。
「早く食べろ。昼休み終わるぞ」
それだけだった。それだけなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
僕は卵焼きを口に入れる。ちゃんと美味しかった。
昼休みは静かじゃない。全然静かじゃない。
松井の壁は儚く崩れ去り、ひっそりと食べよう計画はとっくに壊滅している。
しかも、だいぶ疲れた。
夜鳥さんにはいじられて、凰佳は当然みたいに隣に座るし、美烏は接近可能距離を床に描き始めている。
どうして僕の昼食環境は、こうも落ち着かないのか。
それでも、前には松井がいた。
何も解決してくれるわけじゃない。
ただ、変に騒がず、事情を聞きすぎず、いつも通りの筋肉がそこにある。
その変わらなさが、今はすごくありがたかった。
僕は卵焼きを飲み込んで、小さく息をつく。
ひっそりは無理だった。
でも、松井の近くなら、少しくらいは安心して昼飯が食べられるらしい。
今回もありがとうございました。
カクヨム版も更新してます。
加筆修正版として少しずつ手を入れているので、よければそちらも覗いてやってください。
次は
・夜雀第1の爆弾「お揃いペン」
・美烏とドキドキ遺品整理
・鷺里さんと三者面談
このへんのどれかになる予定です。