【本編完結】鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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後日談として始めましたが、思ったより話が膨らんだので、一度ステータスを連載中に戻しています。
今日から9話毎日更新します。いっぱい書いたから、誰か褒めて。


18. 保護者ではありませんが

 一日の終わりが近づいた教室には、いつもより重たいざわめきが広がっていた。

 

 雨が降っているわけではない。窓の外には春らしい薄い雲が浮かんでいる。

 隣のクラスは帰りのホームルームを終えたのか、グラウンドから運動部の掛け声も遠く聞こえてくる。

 

 ただ、教室にいる生徒たちの表情は、全体的によろしくなかった。

 

 理由は簡単だ。

 担任の田中先生が、教卓の上に不穏な紙束を置いたからである。

 

「再来週から三者面談をやるぞー。希望日時と進路希望を書く用紙を配るから、面倒でも、保護者の方としっかり相談して提出するように」

 

 その言葉だけで、教室のあちこちから小さな呻き声が上がった。

 

「うわ、三者面談かよ」

「親に成績見られたら死ぬんだけど」

「進路希望、石油王でいいかな」

 

 最後のやつだけは妙に前向きだったが、教室の大半はうんざりした顔をしていた。

 その嫌がり方は、たぶん普通だった。

 

 親に小言を言われる。

 成績を見られる。

 進路希望を急かされる。

 

 そういう、どこの教室にもありそうな愚痴だ。

 

 僕は配られてきた用紙を、なんとなく他人事のように眺めていた。

 

 三者面談。

 

 確かに面倒ではあるけれど、別に珍しい行事でもない。

 僕もまあ、適当に喫茶つぐみのシフトが入っていない日を書いて、提出すればいい。

 

 そう思っていたのだけれど。

 

 保護者氏名欄。

 

 そこだけは、どうにも手が止まった。

 

 書けない。

 

 もういない両親の名前を書くわけにもいかないし、かといって、代わりに名前を書ける大人も思い当たらない。

 

 もちろん空欄で出しても、先生に事情を説明すれば済むのだろう。これまでも似たようなことは何度かあったし、それくらいは分かっていた。

 

 ただ、その説明をするまでの数手が、僕には遠かった。

 

 教室では、まだ周囲の生徒たちが面談について騒いでいる。

 

 大げさに嘆いたり、笑ったり、誰かの進路希望に茶々を入れたりしながら、教室の空気は帰り支度をする空気に変わっていく。

 僕だけが、その流れに乗り損ねていた。

 

「佐鳥」

 

 前の席から、低い声がした。

 

 顔を上げると、松井がこちらを振り返っていた。

 相変わらず肩幅が広い。前の席に座っているだけで、僕の視界の半分くらいを守ってくれている。あるいは、塞いでいる。

 

「紙、破れるぞ」

「え?」

 

 言われて初めて、僕はシャーペンの先を用紙に押しつけたまま止まっていることに気づいた。

 

「保護者のことなら、先に先生に言っとけ」

「……松井、よく見てるね」

「別に普通だろ」

「普通かあ」

 

 松井は何でもないことみたいに肩をすくめた。

 

 こちらの手元を見て、必要な言葉だけ置いていく。

 そういうところが、少しだけ羨ましかった。

 

「佐鳥くん、保護者欄に私の名前書いてみる?」

 

 今度は隣の席から、楽しそうな声が飛んできた。

 

 夜鳥さんが、頬杖をついてこちらを覗いていた。

 茶色の髪を指先で弄りながら、いつもの人懐っこい雀のような笑みを浮かべている。

 

「保護者欄って……夜鳥さんはいったい僕の何を目指してるの?」

「もちろん、大切な人だよ」

 

 夜鳥さんは、冗談みたいな顔で冗談じゃないことを言う。

 そこにツッコミを入れ続けると、いつの間にか僕の逃げ道がひとつずつ消えている。

 なので、賢い僕は口を閉ざすことにした。

 

「えー、だめ?」

「だめというか、提出した瞬間に職員会議が始まると思う」

「じゃあ、やめておこっか」

 

 夜鳥さんはくすくす笑って、それ以上は踏み込んでこなかった。

 

 帰りのホームルームが終わり、生徒たちはそれぞれ教室を出ていく。

 

 僕は書きかけの用紙を鞄にしまった。

 

 この件に関しては、ひとまず家に持ち帰ってから考えることにした。

 僕の得意技である、先送りである。

 

 

 その日の夕食は、鷺里さん特製の鶏じゃがだった。

 

 肉じゃがの肉が鶏になっているあたり、昨夜も我が家の周辺警備は順調だったらしい。何がどう順調だったのかは、食欲を守るために考えないようにしよう。

 

「佐鳥さん。おかわりはいかがですか?」

「あ、いただきます」

 

 僕は差し出された茶碗を受け取りながら、自然に頷いた。

 

 食後、食器はいつものように手際よく流しへ運ばれていった。

 僕も手伝おうとしたが、やんわりと制されたので、テーブルに残っていた湯呑みを両手で包んだ。

 まだ温かかった。

 

 机の端には、学校から配られた例の用紙が置いてある。

 持って帰ってきたはいいものの、保護者のあては見つかっていない。

 

「難しいお顔ですね」

 

 台所から、鷺里さんがこちらを見ていた。

 

 割烹着姿のまま、濡れた手を布巾で拭いている。いつも通りの穏やかな表情だったが、その視線は僕の手元の紙を正確に捉えていた。

 

「ああ、これですか」

 

 僕は苦笑いしながら、用紙を少し持ち上げた。

 

「三者面談があるらしくって。保護者に来てもらう前提なんですけど、まあ……ちょっと困るなって」

 

 自分でも曖昧な言い方だと思った。

 

 困る。便利な言葉だ。

 形の悪いものを、とりあえず一つの箱に入れておける。

 

 鷺里さんは、すぐには答えなかった。

 

 濡れた手を拭き終えると、静かに僕の向かいに座る。

 いつものように背筋は伸びているのに、不思議と圧はなかった。

 

「佐鳥さん」

「はい」

「差し支えなければ、その用紙を拝見してもよろしいでしょうか」

「あ、はい。どうぞ」

 

 僕は用紙をテーブルの真ん中へ滑らせた。

 

 その手は奪うようには伸びてこなかった。

 ただ、僕が押し出した分だけ、そっと受け取った。

 

 希望日時。

 進路希望。

 保護者氏名欄。

 

 その欄の前で、わずかに視線が止まる。

 

「……なるほど」

「まあ、空欄で出してもいいとは思うんですけど。先生に言えば、対応してくれるでしょうし」

「はい」

「でも、そこまで説明するのが、ちょっと面倒というか」

 

 そこで言葉が詰まった。

 

 面倒。

 これもまた、便利な言葉だった。

 

 先生が悪いわけではない。学校の書類が悪いわけでもない。

 ただ、みんなが当たり前みたいに親と予定を合わせて書く欄の前で、自分だけが立ち止まっている。

 

 普通になれない自分が、少し情けなかった。

 

「すみません。何言ってるか分かんないですよね」

「分かります」

 

 鷺里さんは、すぐにそう言った。

 

 慰めるような声ではなかった。

 否定する声でもなかった。

 

「佐鳥さんは、できないことをできないと説明しなければならない。そのことに、少し疲れておられるのですね」

「……たぶん、そうです」

 

 口にしてから、思ったより自分の声が小さかったことに気づいた。

 

 言われて初めて、何が重かったのか少しだけ分かった。

 書けないことそのものではなく、書けない理由まで差し出さなければならないこと。

 

 保護者氏名欄の空白だけが、やけに白く見えた。

 

「佐鳥さん」

 

 鷺里さんが、静かに顔を上げた。

 

「私は、佐鳥さんの保護者ではありません」

「……はい」

 

 それは、わざわざ確認するまでもない事実だった。

 

 ただ、鷺里さんがそう前置きした理由が分からなくて、僕は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「ですが、私は佐鳥さんの生活を見ています」

 

 鷺里さんの声は、静かで、確かだった。

 

「朝、どのように起きて。何を食べて。どのように学校へ向かわれて。帰ってきてから、どんなふうに息をつかれるのか」

 

 そんな大層な生活ではない。

 

 朝起きて、学校へ行って、喫茶店で働いて、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。

 

 ただ、それだけだ。

 

「すべてを知っている、などとは申しません。ですが少なくとも、佐鳥さんが、毎日をきちんと続けておられることは分かります」

 

 何も言えなかった。

 

 そんなふうに言われるほど立派なことはしていない。

 けれど、否定しきることもできなかった。

 

「私は、佐鳥さんの保護者ではありません」

 

 鷺里さんは、もう一度そう言った。

 

「ですが、佐鳥さんを一人にはしません」

 

 その言葉は、強くなかった。

 逃げ道を塞ぐような重さでもなかった。

 

 ただ、隣に立ってくれる言葉だった。

 

「それに」

「はい」

「私は、叔父の知り合いの娘だそうです」

「……そこ拾います?」

 

 思わず、弱めにツッコんだ。

 

 たしか、凰佳に鷺里さんのことを説明するためだった。

 叔父さんだか叔母さんだかの知り合いで、四月からこっちの大学に通うから下宿先を探していて。

 そんな設定を組み上げた記憶がある。

 

 いや、違ったかもしれない。

 破産して雨風をしのげる場所を探している親戚筋の娘さんだったかもしれない。

 

「あれは、対凰佳向けの最終兵器です」

「最終兵器」

 

 ほんの少しだけ、目元が緩んだ。

 

 からかわれた、というほどではない。

 でも、僕が少しだけ息をしやすくなるように、あえて拾ってくれたのかもしれなかった。

 

「ですから」

 

 用紙が、静かに僕の方へ戻ってきた。

 

 押しつけるのではなく、選ばせるように。

 

「三者面談、私に行かせてください」

 

 胸の奥が、少しだけ詰まった。

 

 行きます、ではなかった。

 行かせてください、だった。

 

 その違いが、思っていたよりも大きかった。

 

「いいんですか」

「はい」

「たぶん、面倒ですよ。先生に説明もしないといけないですし」

「構いません」

「保護者じゃないって言われるかもしれません」

「その通りですから」

「……そこは否定しないんですね」

「保護者ではありませんので」

 

 鷺里さんは、まっすぐに僕を見据えた。

 

「ですが、先生に説明する時、隣にいることはできます」

 

 いつもの僕なら、たぶん何か軽いことを返していた。

 

 何も出てこなかった。

 テーブルの上の用紙は、相変わらず薄くて、頼りない紙切れのままだった。

 

 まだ何一つ解決したわけではない。

 

 それでも、さっきまでとは少しだけ違う重さがあった。

 

「……じゃあ」

 

 僕は用紙を、もう一度テーブルの真ん中に置いた。

 

「先生に相談してみます。鷺里さんにも、来てもらえないかって」

「はい」

「駄目だったら、一人で受けます」

「はい」

「でも、来てもいいって言われたら」

 

 言いづらかった。情けない気がしたから。

 

 けれど。たぶん、それでいい。

 

 鳳凰と八咫烏の戦いを止めた時、僕はこの人の背に乗った。

 あの時だって、一人ではどこにも届かなかった。

 

 今さら三者面談くらいで、全部一人で立っているふりをする方が、よほど不自然だと思った。

 

「その時は、お願いします」

「はい。お任せください」

 

 鷺里さんは柔らかく微笑んだ。

 知らないうちに張っていた肩の力が、少し抜けた。

 

 保護者氏名欄は、まだ空白のままだったが、もう催促されるまで鞄の奥に押し込んでおきたい紙ではなかった。

 

 肩の力が抜けたせいか、余計なことを考える余裕も戻ってきた。

 

 ここで終われば、いい話だったと思うが。

 僕には、どうしても確認しておかなければならないことがあった。

 

「ただし、刀は置いてきてくださいね」

「……」

「怖いのでそこで黙らないでください」

「……学校は危険ですから」

「どうしよう、否定できないのが嫌だな」

 

 やっぱり、普通の三者面談にはなりそうもなかった。




本編も加筆修正したり、サブタイトルを変えたりしていますが、大筋は変わっていません。
読み直さなくても大丈夫です。

あと、短編小説で『三年間グーしか出さなかった男』も投稿しています。
ついでに覗いていただけたら嬉しいです。
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