面談当日。
放課後の教室は、昼間より広く見えた。
机の向きが違うせいだ。いつもなら前を向いて並んでいる机が、今日は三つだけ、向かい合わせに置かれている。
担任の先生と、生徒と、その保護者。三者面談という言葉が、そのまま机になったみたいな配置だった。
それだけで、普段の教室が急に取調室めいて見える。
カツ丼が出てくればいいが、まあ、そうもいかないだろう。僕はこれからカツ丼もなしに、進路と生活について供述することになる。
椅子に座りながら、隣の鷺里さんをちらりと見た。
家を出た時から気になっていたが、今日の鷺里さんはいつもの着物姿ではなかった。
白に近いブラウスと、濃紺のロングスカート。肩には薄い灰色のカーディガンを羽織っている。
派手な装飾はない。けれど、背筋の伸びた姿勢と低くまとめられた黒髪のせいか、やけに目を引いた。
少し見すぎていたのだと思う。
鷺里さんは、自分の装いを一度だけ見下ろした。
「着物では目立つと思いましたので」
「ああ……なるほど」
たしかに、三者面談に鷺里さんみたいな人が着物姿で同席していたら、それだけで学校に妙な噂が駆け巡る。
問題は、目立つ理由が服ではなかったことだ。
「逆に目立ってません?」
「そうでしょうか」
「はい。鷺里さん綺麗なので」
言ってから、口が余計な仕事をしたことに気づいた。
鷺里さんは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく俯く。
長いまつげの影が、白い頬に落ちた。
「ありがとう、ございます……」
消え入りそう、というほどではない。
けれど、いつもの凛とした声より、ずっと柔らかかった。
まずい。三者面談の前に、この浮ついた空気を引きずるわけにはいかない。
こういうものを上手くほどく方法なんて、僕にはろくに思いつかない。
まともにほどけないのなら、切り落とすしかない。
「鷺里さん。刀はどうしたんですか?」
「ちゃんと、置いてまいりましたよ。はい。刀は持っていませんとも」
そう言って、彼女は得意げに胸を張った。見える範囲に、少なくとも刀はない。
しかし、僕はここ数か月で、鷺里さんという人がだいぶ分かってきた。
この過保護な護衛なら、懐に鎖鎌くらい隠し持っているのだろうなと思いつつ、面倒だったので、それ以上は追及しなかった。
そこで、教室の扉が開いた。
「悪い、待たせたな」
入ってきたのは、担任の田中先生だった。
片手に書類を抱え、もう片方の手でぼさついた髪を掻いている。面談の担当者というより、職員室からそのまま流れ着いた人に見えた。
先生は、向かい合った机のあいだに書類を置くと、僕と鷺里さんを交互に見た。
「佐鳥、顔が固いぞ。三者面談は処刑じゃない。まあ、進路希望欄に石油王って書いたやつは別だが」
「本当にいたんですね、石油王」
「ああ。進路指導室に語り継がれている」
田中先生は、冗談なのか実話なのか判断しづらい顔をしていた。
あばよ、石油王。
しかし、三者面談でそれをやる勇気だけは称えたい。
くだらない話を挟んだせいか、強張っていた肩の力がゆるんだ。
先生は軽く笑ってから、鷺里さんへ向き直る。
「大鳥さんですね。佐鳥から伺っています。本日はお越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
鷺里さんは、静かに頭を下げた。
その一礼だけで、僕よりずっと面談に向いている人だと分かってしまう。
悔しいが、反論はできない。
「大鳥さんは、佐鳥の生活を見てくれている方、ということでいいですね」
「はい。叔父の知り合いの娘です」
田中先生は、確認欄と鷺里さんの顔を見比べた。
「……それ、ほぼ他人では?」
鷺里さんが、目を見開いた。
まるで思ってもみなかった角度から斬りつけられたような顔をしていた。
「そんな。家族同然です」
「それはちょっと言い過ぎかもです」
僕は弱めに訂正した。
叔父の知り合いの娘が家族になるには、たぶん、あと二回くらい進化を挟む必要がある。
田中先生は、こほん、と軽く咳払いをした。
今のやり取りをなかったことにするには、その咳では物足りない気がした。
「まあ、生活状況を把握している同席者、ということで確認します」
深く追及することを諦めたように、先生は書類に目を落とす。
叔父の知り合いの娘という遠さは、ひとまず欄外に置かれたらしい。
「まず進路希望からだな」
先生は、用紙の一箇所をペン先で軽く叩いた。
逆さになった用紙の中で、そこだけ妙に白かった。
「佐鳥、進路希望が空欄だったが」
「すみません。まだ決まっていなくて」
怒られたわけでもないのに、反射的に謝ってしまった。
未記入を指摘されるだけで、少し気まずい。
先生は手を止め、用紙から顔を上げた。
「謝ることじゃない。二年の春で人生が決まってる方が怖いよ」
言い方は雑だったが、その雑さのおかげで、少しだけ気が楽になった。
「そういうものですか」
「そういうものだ。たまにいるけどな。十年後の自分まで見据えてるやつ」
先生は書類から目を離し、おもむろに窓の外を見た。
その横顔には、進路希望欄に刻まれてきた何かを背負った者の哀愁があった。
石油王。
少なくとも先生の脳裏に浮かんだ歴代の猛者のうち、一人には心当たりがある。
先生は小さく息を吐き、書類へ視線を戻した。
「まあ、今すぐ職業まで決めろとは言わんが、ある程度は考えておいた方がいい。何か得意なことはあるか?」
得意なこと。
そう言われると、途端に難しくなる。
勉強で胸を張れる教科があるわけでもないし、将来に直結しそうな特技があるわけでもない。
ただ、鷺里さんの前で「何もありません」と答えるのは、少しだけ格好がつかない気がした。
「家庭科ですかね」
「家庭科?」
意外そうに、田中先生が繰り返した。
視界の端で、鷺里さんが小さく頷いた。
家庭科の授業で作ったマイバッグを、彼女は今でも使ってくれている。
「あと、鳥類の緊急対応なら多少、心得があります」
「それは特技欄に書いていいのか迷うな」
先生は顎に手を当て、少しだけ考え込んだ。
「職種に直すと、動物関係か?」
「急にまともな進路っぽくなって怖いですね」
「怖がるな。材料としては悪くない」
用紙に何かが書き込まれていく。
まずいな。僕の軽口みたいな答えが、本当に進路の材料として記録されてしまった。
「まあ、進路は今後考えるとして。次、生活面だ」
書類の上で、話題が次の欄へ進む。
生活面。
進路希望とは違う角度で、言葉にしづらい欄だった。
「今の生活で、困っていることはあるか」
反射的に、大丈夫です、と言いそうになった。
口に出す前に一度だけ息を止める。
大丈夫。便利な言葉だ。
平気だという意味にも、これ以上聞かないでほしいという意味にもなる。
「……今のところ、大きなものはないです。たぶん」
「たぶん?」
「判定に自信がなくて」
責めるでもなく笑うでもなく、先生は頷いた。
「そうか」
先生はそれ以上掘り下げず、今度は鷺里さんへ視線を向ける。
「大鳥さんから見て、佐鳥はどうですか」
鷺里さんは、すぐには答えなかった。
膝の上で手を重ね、少しだけ考えるように目を伏せる。
誰も、その沈黙を急かさなかった。
「無理をしていないとは、申し上げません」
静かなのに、よく通る声だった。
「ですが、佐鳥さんは朝起きて、食事を摂り、学校へ通っておられます」
鷺里さんはひとつずつ事実を置いていく。
大げさに飾るでもなく、僕をかばい立てするでもなく、ただ今の僕の毎日を、そのまま言葉にしている。
「帰宅後は、喫茶店でのアルバイトにも向かわれています」
アルバイト。
学校側に生活状況を伝えるなら、別におかしな話ではない。
ただ生活費が不安で始めただけのことを、毎日の一部として数えられると、何だかむず痒い。
「佐鳥さんは、自分の生活を、自らの手で立てようとしておられます」
そんな大げさなものではない、と口を挟みたくなった。
学校に通うのも、ご飯を食べるのも、バイトするのも、普通ならできて当然のことだ。
だけど、彼女の口から聞くと、それらがただのその場しのぎではなく、僕の日々として認められたような気がした。
「佐鳥」
田中先生が、短く僕を呼んだ。
今度は書類ではなく、まっすぐこちらを見ていた。
「そこは偉いぞ」
「急にストレートに褒めないでください……」
「こういう時はしっかり受け取っとけ」
反射で否定しそうになって、やめた。
隣で、鷺里さんが静かにこちらを見ていた。
ここで否定してしまえば、彼女がひとつずつ置いてくれたものまで、なかったことにしてしまう気がした。
「……はい」
自分でも頼りない返事だと思った。
今は、それくらいが精一杯だった。
「進路は、今日ここで決めなくていい。次の面談までに、少しずつ考えておけ」
「分かりました」
少しずつ。
その言い方なら、ぎりぎり僕にもできそうな気がした。
「生活面は……まあ、大鳥さんの話も聞けたし、ひとまず分かった。何かあったら早めに言え」
「はい」
「よし。じゃあ、今日のところはこれで終わりだ」
田中先生は、書類の端を揃えた。
鷺里さんが丁寧に頭を下げたので、僕も少し遅れてそれに倣う。
さっきまで向かい合っていた三つの机が、急にただの机に戻ったように見えた。
椅子を元の位置に戻し、田中先生にもう一度礼を言ってから、僕らは教室を後にした。
夕方の廊下には、部活動に励む生徒の声がまだ残っていた。窓の外の光は、少しずつ薄くなっている。
「今日はありがとうございました」
教室を出て少し歩いてから、僕はそう言った。
鷺里さんは歩調を緩め、こちらを見る。
「お役に立てたのであれば、何よりです」
「助かりました。……ただ、自分の生活を自分の手で立てようとしてる、はちょっと大げさじゃないですか?」
「そうでしょうか」
「ただバイトを始めただけですし」
「ただ、ではありません」
鷺里さんの声は、静かだった。
けれど、そこだけは譲るつもりがないようにも聞こえた。
「生活費が不安でも、遺産に頼りたくないと決めたのは、佐鳥さんです。アルバイト先に喫茶店を選ばれたのも、佐鳥さんです」
「必要だったから動いただけですよ」
「必要だと思っても、動けないことはあります」
そう言われると、すぐには返せなかった。
必要だから。
その言葉で小さくしていたものを、鷺里さんは許さなかった。
「私は、それを大げさだとは思いません」
護衛や家事だけが、恩返しなのだと思っていた。
けれど鷺里さんは、僕が自分で選んだことまで、大事に扱おうとしている。
「……そういうのも、恩返しに入るんですか」
「もちろんです」
「護衛とか、そういうことだけじゃなくて?」
「はい」
鷺里さんは、迷わず頷いた。
「助けていただいたあの日から、私は佐鳥さんを護ると決めております」
「……はい」
「その中には、佐鳥さんが選んだ今も含まれています」
まっすぐな声だった。
重い言葉のはずなのに、息は詰まらなかった。
だから、言えたのだと思う。
「また、頼ってしまうかもしれません」
言葉にしてから、自分で思っていたよりも大きなことを口にした気がした。
撤回したくなったわけではない。
ただ、こんなふうに言うのは、やっぱり慣れていなかった。
「はい。その時は、何度でも」
返事はあまりにも自然だった。
困ってしまうくらいすんなり返ってきて、嫌ではない自分にも困った。
その日の面談で、進路希望欄は結局、空欄のままだった。
家庭科。
鳥類の緊急対応。
喫茶店のアルバイト。
どれも将来の夢と呼ぶには頼りない。
それでも、ただの空欄よりは、まだ育てがいがある気がした。
そんなことを考えているうちに、校門までたどり着いた。
鷺里さんがふと足を止める。
住宅街へ続く道を、端から端まで確かめるように見渡していた。
「何を見てるんですか?」
「帰路の確認です」
「確認って、家まで十分くらいですよ?」
「十分もあれば、三度は襲撃されます」
「流石にないですって」
反射で否定してから、僕は黙った。
笑い飛ばすには、彼女の声はあまりに平坦で、真剣だったからだ。
鷺里さんの夜間警備が順調だった翌日、食卓にはだいたい鳥料理が並ぶ。
鶏じゃが。
その前は唐揚げ。
そのさらに前も、鶏肉を使った何かだった。
そこまでは、もう薄々分かっている。
問題は頻度だった。
十分もあれば、三度は襲撃される。
今までは、鷺里さんの過保護が生んだ物騒な誇張だと思っていた。
だが、もし本当にそうだとしたら。
僕が気づいていないだけで、登下校のたびに何かが起きていて。
それを鷺里さんが、当たり前みたいに退けてくれているのだとしたら。
「佐鳥さん?」
「……いえ。何でもないです」
嫌な想像を振り払うように頭を振る。
世の中には知らない方が幸せなこともある。
僕はあまり誇れない得意技を、ここでも繰り出すことにした。
そう。みんな大好き、先送りである。
最近平和なので、次回はお揃いのペンが爆発します。