放課後の図書室は、教室より少しだけ温度が低かった。
窓際の席には西日が差し込んでいるけれど、本棚の奥までは届かない。古い紙の匂いと、空調の低い音と、ページをめくるかすかな音だけが積み重なっている。
僕は四人がけの机に参考書を広げ、珍しく真面目にペンを握っていた。
もちろん、急に勉強の楽しさに目覚めたわけではない。ついこの間、三者面談という名の取調べを受けたせいである。
進路。
その単語は、これまで僕の人生のかなり遠い場所に立っていたはずだった。遠景の山とか、空に浮かぶ雲とか、そういう扱いだった。
それが三者面談を境に、急にこちらを向いた。
というか、ばっちり目が合った。
「三者面談の後って、ちょっぴり勉強しなきゃいけない気持ちになるんだよ」
隣に座る松井へそう言うと、彼は自分のノートから顔も上げずに短く返した。
「また鳥の声真似はするなよ」
「松井の中の図書室、まだプテラノドン事件で止まってるの?」
「あの後、俺も怒られたんだからな」
「それはごめん。まじで」
僕は素直に頭を下げた。
たしかあの時は、今朝聞いた鳥の鳴き声を再現するつもりだった。口から出てきたのは、松井いわくプテラノドンだった。
当然、そのあと二人して司書の先生に怒られた。
「まあ、面白かったけどな」
「怒られ損じゃない?」
「損ではあった」
「否定してほしかったな」
松井はわずかに口元を緩めた。
その表情を見て、僕の肩からも少しだけ力が抜けた。
この図書室は、僕にとってそれなりに思い出の濃い場所だった。
鳥図鑑を取ろうとして松井と手が触れ、始まらないはずのラブコメに怯えた。
ついでに奇声を上げて、二人まとめて怒られもした。
ろくでもないことばかりなのに、今こうして笑い話にできるせいか、この場所は不思議と嫌いではなかった。
「ほーすけ、ここにいたんだ」
ページをめくる音の向こうから、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、幼馴染の凰佳が図書室の入口から歩いてきていた。
ただ図書室にいるだけなのに、そこだけ解像度が上がったように見えるのだから、美少女という存在は理不尽だ。
「出たね、日常の侵略者」
「違うよ。私はほーすけの日常そのものだから」
凰佳は最初からそこが自分の席だったみたいに僕の正面の椅子を引き、そのまま腰を下ろした。
「座ってもいい?」
「もう座ってるよね」
「ほーすけが嫌なら、今から立つよ?」
「すごいな。一瞬で悪者は僕だ」
凰佳は悪びれもせず、鞄から参考書とノートを取り出した。
最初から一緒に勉強するつもりだったらしい。
机の上に並べられていく文房具の手際が、妙に慣れている。
僕の正面が当然のように占拠されても、松井は特に何も言わない。
ありがたい。僕の人生は驚きに満ちている。いちいち驚かない人材は貴重だ。
「あーあ。佐鳥くんの隣、もう埋まってるんだ」
続いて聞こえた声に、僕の胃が一段沈んだ。
夜鳥さんだった。
黒混じりの茶髪を揺らしながら、彼女は僕の隣の松井、正面の凰佳、そして空いている席へと順に目をやった。
「ふうん。まあ、いいよ」
そう言って、夜鳥さんは松井の正面に座った。
思わず眉をひそめる。
おかしい。いや、松井の正面を奪われたのが気に食わないわけではない。
僕の直感が言っている。夜鳥さんがこんなにあっさり引くなんて、何かある、と。
まだ証拠はないが、夜鳥さんは僕の隣席を確保するためなら裏工作くらい平気でやるタイプだ。たぶん席替えも仕組まれているし、田中先生の夢枕にも立つ。
まあ、全部僕の想像に過ぎないが。
「佐鳥くん、すごい顔してるね」
「夜鳥さんの引き際がよすぎて怖い」
「ひどいなあ。私だってたまには譲るよ」
夜鳥さんは肩を揺らした。
その仕草はいつも通り軽くて、だからこそ余計に読めなかった。
「テスト勉強してるの?」
「まあ一応ね」
「えらいじゃん。三者面談が相当効いた?」
「効いたね。ボディーブローみたいにじわじわと来るよ」
凰佳が机の上に並んだ教材を眺めながら、さらりと言った。
「そういえばほーすけ、まだ進路決めてないんだっけ?」
「うん。はっきりとは決めてない」
「そっか。でも、ほーすけなら大丈夫だよ。最悪養ってあげるし」
「今なんか聞こえたな」
凰佳は否定も肯定もせず、僕のノートを覗き込んだ。
「そこ、計算ずれてるよ」
「えっ、どこ?」
近い。
けれど、正面なので逃げ道はある。いや、逃げ道という言い方はよくない。
僕はただ、椅子の背もたれに限界まで体を預けているだけである。
「ここ。いきなり桁が三つ増えてる」
「……数字って勝手に増えたりするよね」
「しないよ」
そう言って、凰佳は自分のペンケースを開けた。
その瞬間、握っていたペンの先が止まった。
見覚えのあるペンが、凰佳の白い指に摘ままれている。
桜色の軸。細い銀のライン。丸みを帯びたクリップ。
僕の手元にあるものと、同じ形をしていた。
「これ、やっぱり書きやすいんだよね」
懐かしむように凰佳はペンを指先で回した。
「ほーすけも、ちゃんと使ってる?」
使ってるよ、と。
何でもない顔で、いつもの調子で返せばよかった。
けれど、言葉がほんの一拍だけ遅れた。
図書室の空気は静かなままだった。
ページをめくる音も、誰かが椅子を引く音も、さっきまでと何も変わらない。
ただ、凰佳の笑顔だけが、そこで止まっていた。
「ほーすけ?」
「……いや、その」
「見せて?」
甘い声だった。
けれど、その奥に、わずかに硬いものが混じっていた。
僕は手元のペンを見る。
そこには確かに、見慣れた桜色がある。
いや、正確には、見慣れた形をした別物を握っている。
夜鳥さんが、僕の目の前で「こっちの方が綺麗だから」とでも言うみたいに入れ替えたものだ。
今までできるだけ考えないようにしていた。
考えたところで、ペンは本物に戻らない。
それに、見ないふりをしていれば、何も起きていないことにできると思っていた。
少なくとも、凰佳がそれを手に取るまでは。
僕は諦めて、握っていたペンを凰佳の方へ差し出した。
「……はい」
凰佳は、強引にそれを受け取った。
一見すれば、本物だった時と何も変わらなかった。
色も、形も、クリップの位置も同じで、僕だって何も知らなければ見分けられなかったと思う。
けれど凰佳の指が止まった。
ペンを軽く握る。軸を撫でる。ノックする。耳を澄ませるみたいに、小さな音を聞く。
それから、凰佳は低く呟いた。
「……これ、違う」
胸の奥が冷えた気がした。
斜め前で、夜鳥さんの口元がわずかに動いた。
「あ、やっぱり分かるんだ」
何でもないことみたいな声だった。
けれど、軽すぎる声は、かえって目立った。
「友達だもんね」
凰佳は、すぐには答えなかった。
僕も何も言えなかった。
「佐鳥くんをあんなに傷つけたのに」
それは挑発に聞こえた。
いつもの軽い嫌がらせとは違った。
声の底だけが、薄く濁っていた。
「お揃いだけは、綺麗なままだと思ってたんだ」
凰佳の指先が、ぴたりと止まる。
夜鳥さんの言葉は、ただの嫌がらせではない気がした。
思い出の品を汚された時、凰佳がまだ「友達」の顔をしていられるのか。
それとも、そんなものは簡単に剥がれて、僕が知ってしまった危うい鳳凰の顔を見せるのか。
「誰がやったの」
琥珀色の瞳の奥で、火の粉のような光が揺れる。
その声には、いつもの甘さがなかった。
怒っている時ほど優しく笑う凰佳が、今は笑っていない。
僕は、そんな凰佳を知らなかった。
「誰が、やったの」
二度目の声は、さらに低かった。
閉じた窓の内側で、ぬるい風が床を這う。机に広げたプリントの端が小さくめくれ、硬く反り返っていく。
まずい。
そう思った時には、僕はもう椅子から半分立ち上がっていた。
「凰佳、やめ――」
そこまで言って、喉が止まった。
違う。
これは、違う。
僕の声なら、届いてしまう。
けれど、今の僕の言葉は、ただの言葉では済まない。
「佐鳥、後ろに隠れろ」
余裕のない声と一緒に、松井の肩が僕の視界へ入った。
松井はろくに事情も知らない。
それでも、僕が危ないということだけは分かったらしい。
頼もしい背中だった。
僕は何度も、こういう松井に救われてきた。
けれど、ここで全部預けたら駄目だ。
「ありがとう」
自分でも声が震えているのが分かった。
「でも、凰佳から隠れたくない」
凰佳の瞳が揺れた。
僕が怖がっていることも、松井が僕の前に出ようとした意味も。
たぶん、分かってしまったのだ。
凰佳の唇が、何かを言いかけるように震えた。
けれど、声にはならなかった。
その代わりに、握りしめられたペンが軋んだ。
凰佳の手の中で、思い出だったものが細く歪んでいく。
叫びたかった。
やめてくれ、と。
夜鳥さんを傷つけないでくれ、と。
僕を理由に、誰かを壊さないでくれ、と。
喉まで出かかった言葉を、歯の奥で噛み殺す。
言えば止まる。
僕の声を聞いて、僕の望む形に、自分を折り曲げてくれる。
でも、それは彼女の選択ではなくなる。
止めたい。
止めたくて仕方ない。
それでも、命令で止めたくはなかった。
だから僕は、凰佳を見据えるしかなかった。
幼馴染なら。
僕が口にできない言葉くらい、どうか分かってくれ。
「……っ」
凰佳の唇が、強く結ばれた。
火の粉のように揺れていた瞳が、まだ夜鳥さんを見ている。
焼ける。
凰佳なら本当に焼ける。
ぴし、と音がした。
図書室では、それだけがやけに大きく聞こえた。
夜鳥さんではなく。
図書室でもなく。
握られたペンに、細い傷が走っていた。
凰佳は、荒く息を吐き出した。
「……分かった」
声も、目も、何一つ穏やかではなかった。
それでも凰佳は、夜鳥さんから目を逸らさないまま、ペンを握る手だけをゆっくりと緩めた。
「友達なら、そこは間違えない」
誰も、すぐには動かなかった。
その言葉だけが、妙にはっきり残った。
夜鳥さんは、凰佳を見ていた。
面白がっているようにも、つまらなさそうにも見えた。
「……へえ」
一拍置いて、夜鳥さんは言った。
「小鳥遊さん、ちゃんと友達なんだ」
凰佳は何も返さなかった。
ただ、傷の入ったペンを僕へ差し出す。
受け取る時、指先が触れた。
さっきまでの熱が嘘みたいに、凰佳の指は冷えていた。
「ごめんね、ほーすけ」
「え?」
「傷、つけちゃった」
凰佳は、僕の手の中に戻ったペンを見つめていた。
僕が何を言うのか、凰佳は待っていた。
たぶん、僕が責められないことまで分かっていて。
「いや……使えなくはないと思う」
「うん」
凰佳は小さく頷いた。
「もう、本物じゃないのかもしれないけど」
そこでようやく、凰佳の表情がほどけた。
けれどそれは、いつもの甘い笑顔には届いていなかった。
「私がつけた傷だけは、本物だから」
細い傷に、親指が触れた。
手の中で、そこだけがやけにはっきりしていた。
図書室には、また空調の低い音だけが戻っていた。
並んだ本の背表紙も、机の上のプリントも、何事もなかったみたいにそこにあった。
ペンを筆箱にしまうまで、少し時間がかかった。
何してるんですか! 勉強してください!