午後二時ちょうど、玄関のチャイムが鳴った。
時計の長針が真上を指したのと、ほとんど同時のピンポンだった。
休日の来客というものは、普通なら少し身構えるものだと思う。
宅配便か、回覧板か、あるいは何かの勧誘か。いずれにしても、ドアを開ける前に一拍くらいは心の準備がいる。
けれど今日の僕は、チャイムの音を聞いた時点で、だいたい用件を察していた。
玄関へ向かい、ドアを開ける。
そこには予想通り、外の光を背にして美烏が立っていた。
今日は制服ではなく、黒いニットに白いブラウスを重ね、膝下まである濃い灰色のスカートを穿いていた。
肩から下げたショルダーバッグは、彼女の体格には少しだけ大きく見える。
全体的に大人しい服装なのに、両側で小さく留めた髪と赤い瞳が妙に神秘的で、どうにも普通の休日感が出ない。
ただ遊びに来た後輩というより、供物を受け取りに来た小さな使者といった感じだ。
なお、供物の中身は僕のケシカスである。
「佐鳥先輩。定期納品に参りました」
「うん、第二土曜日だもんね」
「はい」
「僕が約束したことだからいいんだけど、ケシカスで季節の移ろいを感じる日が来るとは思わなかったよ」
「季語にできそうです」
できない。
美烏はいつも通りの表情で、かなり真面目に言っていた。
たぶん本人の中では、春の霞や秋の虫の調べと同じ棚に、ケシカス定期納品が並びかけている。
「とりあえず、上がって」
「はい、お邪魔します」
彼女は小さく頭を下げると、きちんと靴を揃えて家に上がった。
定刻に来て、挨拶をして、靴を揃えて、約束を果たしに来ている。
行動だけ見ればかなり模範的だし、もちろん僕としても、定期納品の約束を反故にするつもりはない。
ただ、その対象がケシカスだという一点だけが、模範から大きく外れていた。
とはいえ、このまま玄関先で納品式を始めるわけにもいかない。近所の人に見られたら、怪しい粉の取引現場にしか見えない。
僕は美烏を自室へ案内した。
「まあ適当に座ってよ」
そう言うと、美烏は一度部屋の中を見回した。
机の椅子。ベッドの端。床に置かれたクッション。それから、僕の顔。
たぶん今、美烏の脳内で「適当」の範囲が審議されている。
とりあえず僕の顔は候補から外してほしいところだ。
「では、失礼します」
やがて美烏は、人を駄目にする系のクッションに腰を下ろし、ショルダーバッグを膝に乗せた。
美烏はいつだって礼儀正しい。
椅子を勧める前に座ることはないし、どこぞの誰かのように、勝手にベッドの下を漁ることもない。できた子である。
一方で、僕の私物がたまに少しだけ減る現象も、美烏の中では、なぜか矛盾なく成立していた。
たとえば、消しゴムの角が不自然に切り取られたような跡があったり、ゴミ箱の嵩が明らかに減っていたり。
もちろん僕も、最初から大切な共犯者を疑っていたわけではない。
家の中の物は案外なくなるものだ。
テレビのリモコンなんて、自由意志を持っているかのように姿を晦ますし、消しゴムだって角張りたい時もある。
ゴミ箱の中身も、勝手に沈むことだってあるだろう。地球には重力があるのだから。
あるだろう、と思っていた。
それらの不可解な現象が、決まって第二土曜日のあとに起きていると気づくまでは。
とはいえ、今日はまだ何かが減ったわけではない。
僕は机の引き出しを開け、奥にしまっていた小さな袋を取り出した。
中には、この一ヶ月で発生したケシカスが入っている。
勉強や課題で消しゴムを使うたび、机の上に残ったそれを捨てずに集めていた。
ここだけ切り取ると僕がだいぶ危ない人に見えるが、約束を守っているだけなので無罪を主張したい。
袋には『納品用』と書いてある。
書いてから三秒後に、人生で書いちゃいけないラベルランキングがあれば、ベスト10には入るだろうなと思った。
「今月分はこれで全部かな」
僕が袋を差し出すと、美烏は両手で受け取った。
「〇・七グラム。確かに受け取りました」
手で量ったことには、もう触れない。
毎月のことだ。
「これは数学の証明問題で出た上質なケシカスだからね」
「上質」
「苦悩の密度が違う」
「では、なおさら大切にします」
「しまった。自分で価値を上げてしまった」
美烏は鞄から小さな瓶を取り出した。
瓶の中には、白っぽい粒が少しずつ積もっている。
言うまでもない。これまでの定期納品で集められた、僕のケシカスである。
「それって何に使うの?」
「眺めます」
「眺めるんだ」
「時々、振ります」
「スノードームじゃないんだよ」
「佐鳥先輩が、書いて、消して、考えた跡ですので」
窓から入った光が、瓶の側面で細く反射する。
中のケシカスがわずかに揺れて、白い粒のいくつかが底へ転がった。
ただのケシカスのくせに、美烏が大切そうにするものだから、やたら趣深く感じてくる。
瓶の蓋が閉まるのを見届けてから、僕は机の引き出しを閉めようとした。
そのとき、奥の方で小さなものが転がった。
「あれ」
指でつまみ上げる。
細長い、透明な部品だった。
少し黄ばんでいて、端の金具に古いインクの色が残っている。
万年筆用の小さなコンバーターだ。
カートリッジの代わりに差し込んで、インク瓶からインクを吸い上げるための部品である。
いつからここに入っていたのかは分からない。
僕がしまったのかもしれないし、昔、何かの拍子に紛れ込んだのかもしれない。
「そういえば、父さんのインク瓶って、まだ残ってたかな」
口に出した瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
美烏は、すぐには何も言わなかった。
ただ、瓶を鞄へ戻す手を止めて、僕の指先にあるコンバーターを見ている。
急かすでも、止めるでもない。
赤い瞳だけが、僕の手元と顔の間を静かに行き来した。
「押し入れの奥かな」
僕はコンバーターを机の上に置き、立ち上がりかけてから、美烏の方を振り返った。
「ちょっと探してみてもいい?」
「はい、構いません」
小さく頷いた美烏は、クッションに座ったままこちらを見ていた。
僕は押し入れを開けた。
こもった空気と一緒に、古い紙の匂いが出てくる。
季節外れの服、昔の教科書、使わなくなった小物。その奥に、へこんだ段ボール箱があった。
「父さんの文房具も、この箱に入れてた気がする」
言いながら、手が止まった。
捨てるには近すぎて、残すには重すぎる。
そういう厄介なものを、僕はだいたいこの箱に押し込んでいた。
「私が開けましょうか」
固まった僕の姿を見て、美烏が提案した。
視線を落とすと、蓋に置いた指先に、箱の埃が薄くついていた。
その手を離さないまま、首を横に振る。
「ううん。僕が開ける」
「……分かりました」
ガムテープの端を剥がし、ゆっくりと蓋を開ける。
中には、いろいろなものが入っていた。
古いノート。使わなくなった文房具。遠足のしおり。昔のテスト。母さんが残した写真。父さんの名前が入った封筒。小学校の頃の作文らしき紙束。
どれも箱の中で少しずつ傾き、折れ、重なり合っている。
人の記憶は、整理しないで置いておくと、こういう形になるのかもしれない。
「先輩。この巾着は」
美烏が、箱の端に入っていた布の袋を指さした。
僕は思わず顔をしかめる。
「昔、家庭科で作ったやつだね」
「鳥の刺繍のようなものがあります」
「そこは触れないであげて。これでも小学生の僕は精一杯やったんだよ」
「かわいい……」
美烏は、いつもの無表情で言った。
それから、ほんの少しだけ手を伸ばしかける。
「今、持って帰ろうとしなかった?」
「いえ、そんなことは」
指摘すると、美烏は何事もなかったように手を膝の上へ戻した。
僕はそっと巾着を箱の端へ避難させる。
「こちらは、遠足のしおりですね」
「懐かしいな。たぶん低学年の頃、僕が描いたやつだ」
「表紙に鳥がいます」
「昔から鳥が好きだったんだね」
箱の中を少しずつ美烏と見ていく。
中途半端な点数の漢字テスト。
途中でやめたらしい計算ドリル。
鳥のような、鳥ではないような、ナスカの地上絵に似た何かが描かれた画用紙。
僕の人生は、どの時代を切り取っても鳥がいるらしい。
少し笑ってしまいそうになって、けれど、次に指先に触れたものの感触で、その笑いは途中で止まった。
写真だった。古い家族写真。
父さんと、母さんと、幼い僕が写っている。
僕の肩には、小さな鳥が乗っていた。
父さんは笑っている。
母さんも、その写真の中では穏やかな顔をしている。
幼い僕は、二人の間で得意げに胸を張っていた。
全てが壊れる前には、こういう、絵に描いたような幸せな家族の時間も、確かにあったのだと思う。
鳥が寄ってくることも、父さんが笑ってくれることも、その写真の中では、まだ当たり前に見えた。
それが、少しだけ困った。
「先輩」
美烏の声がした。
目線を上げると、美烏は写真を見ていなかった。
「これは、残しますか」
写真を伏せるでも、取り上げるでも、隠すでもなく。
ただ、そう尋ねた。
赤い瞳は静かで、焦りはなかった。
早く答えを出してほしいという圧は感じない。
僕が写真を握ったまま動けないことを、そのまま受け止めているかのようだった。
「……美烏、変わったね」
美烏は、わずかに瞬きをした。
表情はほとんど変わらないのに、その一瞬だけ、瞳の奥が揺れたように見えた。
「学びましたので」
「そっか」
写真をもう一度見下ろす。
長く見ていると、胸が詰まりそうになる。
けれど、裏返す気にもなれなかった。
「じゃあ、残す」
「はい」
「でも今日は、あんまり見ない」
「はい」
美烏はそれ以上何も言わなかった。
僕は写真を箱の端にそっと置いた。
捨てるものの場所ではなく、今日触れたものの場所として。
次に出てきたのは、封筒だった。
父さんの名前が書いてある。
中身を開けなくても、だいたい予想はついた。
鳥に関する書類。保護活動めいたもの。売買に関するもの。事故のあと、何度も見かけた名前や書類の形。
紙一枚分の薄さなのに、妙に重い。
「……これは、まだ開けられない」
「はい」
整理したわけではない。
ただ、今日触れない場所へ置いただけだ。
見なかったことにしたのと、どれだけ違うのかは分からない。
箱の中には、まだいくつも紙が残っていた。
古いテスト。折れた時間割。家庭訪問の案内。
今となっては何の役にも立たないものばかりなのに、捨てると決めるには、どれも昔の僕に近すぎた。
僕はそれらを一枚ずつ横へずらしていった。
紙同士が擦れるかすかな音だけが、しばらく部屋に残る。
底の方に、作文用紙の束があった。
端は少し黄ばんでいて、ところどころ折れ目がついている。
束ねていたクリップは錆びかけていて、外す時に紙の表面が少し引っかかった。
何気なく一枚目をめくる。
そこに、丸っこい字で題名が書かれていた。
『しょうらいのゆめ』
記憶にはない。
こんな作文を書いたことも、それがこの箱に残っていたことも、覚えていなかった。
でも、字は確かに僕のものだった。
幼い頃の、まだ鉛筆の持ち方も安定していない、拙い文字。
視線を次の行に進める。
そこには、こう書かれていた。
『ぼくは、とりのおいしゃさんになりたいです。』
呼吸が、一瞬止まった。
鳥のお医者さん。
そんなことを、僕は書いていたらしい。
書いた本人すら忘れていたのに、紙だけは覚えていた。
鳥が好きだった。
それは今さら驚くことではない。
今でも、窓辺に雀が来れば見てしまうし、道端に鳩がいれば避けて歩く。
どれだけ迷惑をかけられても、鳥そのものを嫌いになれたことは、たぶん一度もない。
でも、鳥のお医者さんになりたいなんて夢は、完全に忘れていた。
その夢の先に、父さんの背中があったことも。
父さんは、最初から鳥を売りさばこうとしていたわけではない。
少なくとも、僕がこの作文を書いた頃は、本当に鳥の医者だった。
怪我をした小さな体を診て、弱った羽を休ませて、また飛べるようになれば空へ帰す。
両手で包む時の声は、いつもより少し優しかった。
僕は、その横顔を見るのが好きだった。
鳥が飛び立つと、父さんは笑った。
その笑顔を見るたびに、僕は自分まで誇らしかった。
僕の肩に鳥が乗ると、父さんが笑う。
それだけで、幼い僕は自分が何か良いことをしたような気になっていた。
いつか自分も、父さんみたいになれると思っていた。
それがいつから変わったのか、はっきりとは分からない。
少しずつだったのだと思う。
鳥を見る父さんの目が、だんだん曇っていった。
助けられるかどうかではなく、別のものまで見るようになっていった。
僕の体質も、いつの間にか父さんの仕事を助けるものではなく、父さんにとって都合のいい道具になっていた。
そうだ。
僕は、まとめて蓋をしていた。
父さんのことも、母さんのことも、鳥のことも、父さんを誇らしく思っていた自分自身のことも。
全部まとめて嫌なものにしておけば、楽だったから。
そこまで考えて、喉の奥が少し詰まった。
あの頃の父さんに憧れていたことまで残してしまったら、父さんを憎む今の気持ちと、同じ場所に置かなければいけなくなる。
それが、僕には難しかった。
作文の上に置いた指先だけが、紙の端を押さえたまま動かない。
力を入れすぎると破れそうで、けれど離すこともできなかった。
美烏は、しばらく何も言わなかった。
「素敵な夢ですね」
やがて、静かにそう呟いた。
僕はすぐには返事ができなかった。
「そう、だったのかもね」
それは、肯定というより、ようやく否定しないで済んだだけだった。
美烏は作文用紙に視線を落としたまま、言葉を選ぶように言った。
「今でも、かもしれません」
「……今でも?」
聞き返した声は、自分でも分かるほど頼りなかった。
「佐鳥先輩が、まだ、それを嫌いになっていないのなら」
美烏の声は、断定するものではなかった。
ただ、僕が見ないふりをしていた場所に、そっと視線を向けさせるような言い方だった。
僕の手から作文を奪うわけでも、目指すべき夢だと決めつけるわけでもない。
「鳥は、好きだよ」
それだけは、あまり迷わずに言えた。
「そこは、変わってない。今でも」
美烏は小さく頷いた。
「でも、この夢は別だ」
「別、ですか」
「父さんに憧れてた頃の僕まで、一緒に出てくるから」
作文用紙の端が、指先で少しだけ曲がった。
「父さんを嫌いだって思うなら、その頃の僕も間違ってたことにしないと、いけない気がしてた」
口にしてみると、それは思っていたよりずっと情けない言葉だった。
父さんに憧れていたこと。
鳥を助ける父さんを、誇らしく思っていたこと。
いつか自分も、そうなりたいと思っていたこと。
その全部をそのまま残すには、僕の中で父さんは変わりすぎていた。
「間違っていたことに、しなくてもいいと思います」
美烏が言った。
慰めるために丸めた言葉ではなかった。
ただ、机の上にあるものの場所を、ひとつ直すみたいに、正確だった。
「でも、父さんがしたことは消えない」
「はい」
「僕のことも、鳥のことも、利用した」
「はい」
否定は返ってこなかった。
父さんがしたことも、僕が昔の父さんに憧れていたことも、どちらもそこにあるものとして扱った。
「だったら、あの夢ごと忘れてた方が楽なんだよ」
僕の言葉を受け止めるように、赤い瞳が少しだけ伏せられる。
けれど、迷っているようには見えなかった。
「楽でも、間違っていますから」
あまりにもまっすぐだった。
何か反論しようとしたけれど、結局声にはならない。
「……美烏は、ときどき容赦ないよね」
「すみません」
「謝るところではないけど」
笑えたわけではない。
それでも、胸の奥に固まっていたものが少しほどけて、ようやく息が抜けた。
その隙間に、窓の外から鳥の鳴き声が入り込んだ。
「苦しかったことを、苦しくなかったことにしなくてもいいです」
美烏は少しだけ間を置いてから、続けた。
「でも、大切だったことまで、なかったことにしなくてもいいと思います」
返事の代わりに、作文用紙を持つ指に少しだけ力が入った。
『ぼくは、とりのおいしゃさんになりたいです。』
その一文は、今読むと少し痛い。
それでも、破り捨てたいとは思わなかった。
「これは、残しますか」
美烏が尋ねた。
僕は作文用紙を持ち直す。紙の端が、小さく音を立てた。
「……残すよ」
「はい」
「辛いだけじゃ、なかったみたいだから」
返ってきたのは、小さな頷きだけだった。
僕は作文を写真の隣に置いた。
捨てるものではなく、今日触れたものの場所へ。
それから、箱の中を見下ろす。
まだ見ていないものはたくさんある。
父さんの封筒も、母さんが残したものも、古いノートも、インク瓶だって結局見つかっていない。
僕は段ボール箱の蓋を持ち上げ、ゆっくり閉じた。
ガムテープで封をする気にはならなかったので、蓋を重ねるだけに留めた。
「今日は、ここまででいい」
「はい」
「続きは、また今度」
「はい。続きは、佐鳥先輩が望む時に」
美烏はそう言って、静かに立ち上がった。
言葉の重さに対して、動作はあっさりしていた。
スカートの裾を整え、鞄の位置を直し、ケシカス瓶が中で倒れていないかだけを軽く確かめる。
僕はその仕草を見て、ようやく部屋の空気が戻った気がした。
「まあ、次の第二土曜日が最有力候補だけど」
「効率的です」
美烏が神妙に頷いた。
その様子がおかしくて、僕は少し笑った。
箱はまだ、足元にある。
押し入れの奥に戻す前に、僕は作文と写真を小さなクリアファイルに挟んだ。
今日、見たもの。残すと決めたもの。
その様子を、美烏は横から見ていた。
僕がファイルを箱の一番上に置くまで、ただ黙って待っていた。
捨てたものは何もない。
それでも少しだけ、片付いた気がした。
次回は幼馴染過激派が登場予定。