鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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友達さんの覚醒回です。


22. 幼馴染は負けヒロインなのか

 帰りのホームルームが終わると、教室に放課後特有のゆるい空気が流れ込んできた。

 

 椅子を引く音。鞄を閉じる音。部活へ向かう生徒たちの足音。廊下側の後ろでは、いつも通り男子たちが限界しりとりに興じている。

 

 僕は机の中から、進路希望調査を取り出した。

 

 一昨日、美烏と押し入れを整理していたら、昔の作文が出てきた。

 埃まみれの紙の中で、子供の頃の僕はずいぶん立派な夢を見ていたらしい。

 

 僕は「とりのお医者さん」になりたかった。

 

 今の言葉に直せば、獣医師ということになる。なんだか急に難易度が上がった。

 その単語の圧に押されて、第一志望はまだ書けていない。

 

 生意気だ。

 薄っぺらい紙のくせに、こいつは僕の覚悟を問うている。

 

「ねえ、松井」

「なんだ」

「獣医師って、今から目指して間に合うと思う?」

 

 帰り支度をしていた松井が、椅子の背もたれに腕をかけたまま振り返る。

 もちろん、いつも通りの真顔だった。

 

「間に合うかどうかで言えば、間に合うんじゃないか」

「おお、意外と軽い」

 

 少しだけ安心しかけたところで、松井は続けた。

 

「ただ、勉強はかなり要るだろうな」

「急に現実で殴ってくるね」

「現実だからな」

 

 突き放されたわけではない。

 ただ、今までろくに勉強してこなかった僕には、その「かなり要る」の部分が、やけに重たかった。

 読んでも読んでも減らない本の山が、頭の中に積み上がっていく。

 

 獣医師。

 口に出してみても、まだ馴染まない。

 

 新しい靴を履いた初日みたいな感覚だった。

 歩けないわけではないのに、少しだけ足元が落ち着かない。

 

「佐鳥は鳥が好きだろ」

「それはそう」

「なら、考えてみてもいいんじゃないか」

「おお。松井はいつもカッコイイね」

「だろ?」

 

 当然のように返されて、思わず笑った。

 

 おかげで、第一志望の空欄も、さっきよりは偉そうに見えなくなった気がする。

 

 そのとき、教卓の方で紙のこすれる音がした。

 

 見ると、田中先生が山のようなプリントを抱えて、人類の限界に挑もうとしていた。

 筋トレ的には明らかなオーバーワーク。そうでなければ、ただの無謀である。

 

 先生は一度、そのまま教室を出ようとした。

 

 しかし、案の定プリントの束がぐらりと傾く。

 数歩も進まないうちに足を止め、そっと教卓へ戻した。

 

 賢明な判断だった。

 

 先生は助けてくれそうな人材を探すように、教室の中を見渡した。

 やがて、その視線は導かれるかのように松井で止まった。

 

「松井、ちょっといいか。その筋肉で哀れな先生を救ってくれ」

「……俺の筋肉は、高いですよ」

 

 言いながら、松井はすっと立ち上がった。

 意外と乗り気だ。

 

「出世払いで頼む」

「先生が出世するんですか」

「そこは応援してくれよ」

 

 松井は真顔のまま、先生の持っていた紙の束を受け取った。

 

 しかも、片手で。

 松井は平気そうにしているけど、今、人類は限界を超えた。

 

 先生は安堵の息を吐いて、松井を連れて職員室へ向かおうとする。

 途中で、松井がこちらを振り返った。

 

「佐鳥」

「うん?」

「進路のこと、今度また話せ」

「いいの?」

「専門的なことは分からんが、考えるくらいなら付き合える」

「頼もしすぎる」

 

 そう言って、松井は教室を出ていった。

 

 僕の前の席がぽかりと空く。

 途端に見晴らしがよくなった。安全地帯が消えた、とも言える。

 

 その空席を、隣の夜鳥さんがちらりと見た。

 

「壁、行っちゃったね」

「僕の大切な友達をモノ扱いしないで」

「それ、佐鳥くんが言う?」

 

 隣の席から飛んできた夜鳥さんの声に、僕は反論を探した。

 見つからなかった。

 

 松井は友達である。同時に、壁でもある。

 

 最近の僕は一人で帰ろうとすると、いつの間にか誰かしらが横に立っている。だから、なるべく松井と下校するようにしていた。

 今日も、そのつもりだったのだけれど。

 

「それで、佐鳥くん。今日はどうするの?」

「どうする、とは」

「誰と帰るのかなって」

 

 そこで夜鳥さんは、楽しそうな顔で脚を組み替えた。

 

 帰り支度をしているようで、していない。鞄の口は開いたままだし、筆箱も机の上に置かれたままだ。

 

 こちらから誘えば、たぶん一秒で立ち上がる。

 けれど、自分からは言わない。

 

 堂々とした誘われ待ちだった。

 

「僕の予定に関しては、僕より夜鳥さんの方が詳しいんじゃないの?」

「まあね。どこぞの幼馴染でも来ると思うよ」

「本当に知ってた」

「ちなみに美烏ちゃんは友達とカラオケだって」

「美烏がカラオケ!?」

 

 声が裏返った。

 高いドの音くらい出たと思う。

 

 あの美烏が。八咫烏で、寡黙で、万年筆のキャップをペンダントにしている美烏が、友達とカラオケ。

 

 脳内で、美烏がマイクを両手で持ち、無表情で国歌を歌い始めた。

 

 たぶん違う。

 いや、違うと信じたい。

 

 今の声が響きすぎたのか、廊下側から別の声が飛んできた。

 

「美烏って、あれ? 入学式で佐鳥の名前ぶっ込んだ新入生代表?」

 

 限界しりとりをしていた男子たちの一人が、いつの間にかこちらを見ていた。

 

 名前は、なんだったか。

 

 喉元まで出かかっている、と言いたいところだけど、なぜか足元あたりにある。

 石っぽい……なんかこう、花崗岩みたいな名前だった気がする。

 

「山岡くんだよ」

 

 眉間に皺を寄せている僕に気づいたのか、夜鳥さんが耳元でささやいた。

 

 そうだ、山岡だ。けっこう惜しかった。

 

 友達というほど、話したことはない。

 ただ、クラスの空気がゆるむ時、だいたい話の中心にいるような男だった。

 

「ああ……まあ、そうだね」

「佐鳥も大変だよな。全校生徒の前で名前出されるなんて」

「大変かどうかで言うと、だいぶ大変寄りの事件ではあった」

「だよな。あの子、普通にヤバくね?」

 

 進路希望調査の端をつまんでいた指が、止まった。

 

 山岡に悪意はないのだと思う。

 傍から見れば、美烏は確かに変わっている。入学式で僕の名前を出したのも、普通ではない。

 

 それでも、どこか座りが悪かった。

 僕が黙っていると、山岡はそれを肯定だと受け取ったらしい。

 

「小鳥遊さんも災難だよな」

「……凰佳が?」

「幼馴染なんだろ? ずっと傍にいたのに、変な一年が割り込んできてさ」

「変な一年」

「俺、幼馴染派なんだよ。そういうの、だいたい負けるじゃん」

 

 山岡は、なぜか本気で悔しそうにしていた。

 

 事情は何も知らないくせに、幼馴染という単語だけで勝手に胸を痛めている。

 

「誰が、負けるのかな?」

 

 声のした方を見ると、教室の入口に凰佳が立っていた。

 

 いつもの甘い声だが、その奥には、カラメルみたいに焦げたものが混じっているように聞こえた。

 

 凰佳は鞄を両手で前に持ち、首を少しだけ傾げている。表情は、誰が見ても完璧な優等生の笑顔だった。

 

 山岡の背中が、分かりやすく跳ねる。

 

「あ、いや……小鳥遊さん。今のは、別に」

「うん」

「その、冗談っていうか」

「冗談なのは分かってるよ」

 

 凰佳はにこりと笑った。

 幼馴染が負けるわけないもんね、という声が聞こえるようだった。

 

 山岡は一瞬、言葉に詰まった。

 

「小鳥遊さん、なんか雰囲気違くない?」

「そうかな」

 

 凰佳は答えながら、僕の机の横まで来た。

 

 微笑みは変わらない。けれど、山岡は少しだけ身を引いた。

 

「でも、ほーすけがそういうので疲れるの、知ってるからさ」

「……」

「だから、今日はやめてあげて?」

 

 声は荒くなかった。

 責めるというより、僕の前にそっと立つような言い方だった。

 

 山岡が視線を泳がせる。

 廊下側後方で見守っていた男子たちも、気まずそうに口を閉じた。

 

「……悪い、佐鳥。言いすぎた」

「まあ、大丈夫だよ」

 

 大丈夫、と言いながら、机の上の進路希望調査はそのままだった。

 山岡の言葉が、胸の奥に小さく引っかかっている。

 

 それが何なのか、自分でもうまく分からないまま、口が動いた。

 

「美烏は、悪い子じゃないよ」

 

 隣で、頬杖をついたままの夜鳥さんがこちらを見る。

 

「あ、そうなん?」

「変な一年ではあるけど」

「そこは本当なんだ」

「でも、悪い子じゃない」

 

 山岡は目を丸くしたあと、気まずそうに頭をかいた。

 

「……そっか。悪かったな。よく知らないのに言った」

 

 それ以上は踏み込まず、山岡たちはそのまま散っていく。

 

 教室の空気も、少しずつ元の放課後に戻っていった。

 椅子を引く音がして、誰かの鞄についたキーホルダーが小さく鳴る。

 

 凰佳は僕の机の前に立つと、何事もなかったみたいな顔をした。

 

「ほーすけ、一緒に帰ろ?」

「……今の流れで?」

「そう。今の流れだから」

 

 当然のように言われてしまった。

 

 山岡を止めて、空気を戻して、そのまま僕を連れて帰る。

 凰佳の中では、全部ひと続きなのだろう。

 

「クイ研は今日ないの?」

「部長権限で休みにしてきた」

 

 部長権限って、そういう使い方をしていいものだっただろうか。

 なんでもないことのように、彼女は続ける。

 

「部員の心身の健康維持も、大事な活動だから」

「それ、凰佳限定じゃない?」

 

 凰佳は答えなかった。

 疑いようのない職権乱用だ。こんなやつに部長を任せて大丈夫なのか。

 

 クイズ研究部の未来に若干の不安を抱きながらも、僕は進路希望調査を鞄にしまった。

 

 立ち上がると、隣の席から軽い声がかかる。

 

「いってらっしゃい、佐鳥くん」

「それ、下校に使う挨拶じゃないよね」

「明日は私の番だよ」

「さらっと予約されたし」

 

 夜鳥さんは、席に座ったまま小さく手を振った。

 

 軽い仕草だった。

 けれど、こちらを見る目だけは、いつも通り抜け目がなかった。

 

 凰佳は何も言わず、僕の半歩先を歩き出す。

 僕も鞄を持って、その後を追った。

 

 

 校舎の外に出ると、教室のざわめきが遠のいた。春と夏の間みたいな風が、凰佳の髪を横に揺らした。

 

 凰佳の家は隣の隣だから、帰り道はほとんど同じだ。

 

 昔は何も考えずに並んで歩いた道だった。

 今は、少しだけ距離がある。手が触れるほど近くはなく、遠すぎるわけでもない。

 

「さっきは、止めてくれてありがとね」

「別に、お礼を言われるほどじゃないよ」

「でも、助かったから」

「そっか」

 

 凰佳は前を向いたまま、短く答えた。

 

 しばらく、二人分の足音だけが続く。

 

 午後の日差しが、僕たちの影を足元に落としていた。

 二つの影は離れているようで、歩くたびにわずかに重なる。

 

「本当はね、ちょっと嬉しかったんだ」

 

 ぽつりと、凰佳が零した。

 

「幼馴染なんだから、私の方が近いって。負けるわけないって。そうやって、応援されたみたいで」

 

 言い終える頃には、声が萎んでいた。

 

 嬉しかった、と口にした自分を、恥ずかしがっているみたいだった。

 

「だから、言いたかった。ほーすけは私のものなんだよって」

 

 返事はできなかった。

 凰佳の歩幅が、少し乱れた。

 

「美烏ちゃんなんかより、ずっと昔から知ってるんだからって」

 

 その言葉だけ、わずかに尖っていた。

 言ったあとで、自分でも刺さったみたいに、凰佳は唇を結ぶ。

 

 足元で、小さな石が転がる。靴先が軽く触れたらしい。石は少し先まで転がって、道の端で止まった。

 

 山岡の言葉に乗れば、きっと簡単だった。

 

 幼馴染だから。

 ずっと傍にいたから。

 そう言ってしまえば、自分の痛みを少しだけ正当化できたのかもしれない。

 

「でも、ちゃんと友達からやり直したいからさ。言わなかった」

 

 凰佳は笑った。

 

 口元はちゃんと笑みの形をしているのに、息を止めているみたいに苦しそうだった。

 

 胸の奥が少し痛くなる。

 

「……そっか」

「うん」

 

 それだけで、凰佳はまた前を向いた。

 

 褒めてほしいとも、許してほしいとも言わなかった。

 ただ、隣を歩いている。

 

 道の先で、信号が青に変わる。

 

 凰佳は急がなかった。僕も急がなかった。

 二人で同じ速度のまま、ゆっくりと横断歩道を渡る。

 白線の上を歩く凰佳の横顔は、いつもより静かに見えた。

 

 しばらく歩いているうちに、見慣れた住宅街まで戻ってきた。

 

「ねえ、ほーすけ」

「なに?」

「また、一緒に帰ってもいい?」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 当然みたいに並んで歩くには、まだ少し早い気がした。

 けれど、今日の凰佳は、言いたかった言葉をちゃんと飲み込んだ。

 

 それを見なかったことには、できなかった。

 

「職権乱用は、しないでね」

「うん。しない」

 

 素直な返事だった。

 それが本当に守られるかどうかは、正直、分からない。凰佳なので。

 

 家の近くまで来たところで、隣を歩く足が止まった。

 

「じゃあ、今日はここまで」

 

 そう言って、彼女は一歩だけ横にずれた。

 

 急に道を譲られたみたいで、一瞬言葉に詰まる。

 

「またね、ほーすけ」

「……うん。またね」

 

 小さく手を振られる。僕も、遅れて手を上げた。

 

 凰佳は穏やかな顔をしていたけれど、目元にだけ、寂しさのようなものが薄く残っていた。

 

 そのまま、彼女は自分の家の方へ歩いていく。

 

 背中はいつもより少しだけ遠かった。

 それでも、見えなくなるほどではなかった。




次回は夜鳥さん回になります。クライマックスに向けて大きく動きます。
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