帰りのホームルームが終わると、教室に放課後特有のゆるい空気が流れ込んできた。
椅子を引く音。鞄を閉じる音。部活へ向かう生徒たちの足音。廊下側の後ろでは、いつも通り男子たちが限界しりとりに興じている。
僕は机の中から、進路希望調査を取り出した。
一昨日、美烏と押し入れを整理していたら、昔の作文が出てきた。
埃まみれの紙の中で、子供の頃の僕はずいぶん立派な夢を見ていたらしい。
僕は「とりのお医者さん」になりたかった。
今の言葉に直せば、獣医師ということになる。なんだか急に難易度が上がった。
その単語の圧に押されて、第一志望はまだ書けていない。
生意気だ。
薄っぺらい紙のくせに、こいつは僕の覚悟を問うている。
「ねえ、松井」
「なんだ」
「獣医師って、今から目指して間に合うと思う?」
帰り支度をしていた松井が、椅子の背もたれに腕をかけたまま振り返る。
もちろん、いつも通りの真顔だった。
「間に合うかどうかで言えば、間に合うんじゃないか」
「おお、意外と軽い」
少しだけ安心しかけたところで、松井は続けた。
「ただ、勉強はかなり要るだろうな」
「急に現実で殴ってくるね」
「現実だからな」
突き放されたわけではない。
ただ、今までろくに勉強してこなかった僕には、その「かなり要る」の部分が、やけに重たかった。
読んでも読んでも減らない本の山が、頭の中に積み上がっていく。
獣医師。
口に出してみても、まだ馴染まない。
新しい靴を履いた初日みたいな感覚だった。
歩けないわけではないのに、少しだけ足元が落ち着かない。
「佐鳥は鳥が好きだろ」
「それはそう」
「なら、考えてみてもいいんじゃないか」
「おお。松井はいつもカッコイイね」
「だろ?」
当然のように返されて、思わず笑った。
おかげで、第一志望の空欄も、さっきよりは偉そうに見えなくなった気がする。
そのとき、教卓の方で紙のこすれる音がした。
見ると、田中先生が山のようなプリントを抱えて、人類の限界に挑もうとしていた。
筋トレ的には明らかなオーバーワーク。そうでなければ、ただの無謀である。
先生は一度、そのまま教室を出ようとした。
しかし、案の定プリントの束がぐらりと傾く。
数歩も進まないうちに足を止め、そっと教卓へ戻した。
賢明な判断だった。
先生は助けてくれそうな人材を探すように、教室の中を見渡した。
やがて、その視線は導かれるかのように松井で止まった。
「松井、ちょっといいか。その筋肉で哀れな先生を救ってくれ」
「……俺の筋肉は、高いですよ」
言いながら、松井はすっと立ち上がった。
意外と乗り気だ。
「出世払いで頼む」
「先生が出世するんですか」
「そこは応援してくれよ」
松井は真顔のまま、先生の持っていた紙の束を受け取った。
しかも、片手で。
松井は平気そうにしているけど、今、人類は限界を超えた。
先生は安堵の息を吐いて、松井を連れて職員室へ向かおうとする。
途中で、松井がこちらを振り返った。
「佐鳥」
「うん?」
「進路のこと、今度また話せ」
「いいの?」
「専門的なことは分からんが、考えるくらいなら付き合える」
「頼もしすぎる」
そう言って、松井は教室を出ていった。
僕の前の席がぽかりと空く。
途端に見晴らしがよくなった。安全地帯が消えた、とも言える。
その空席を、隣の夜鳥さんがちらりと見た。
「壁、行っちゃったね」
「僕の大切な友達をモノ扱いしないで」
「それ、佐鳥くんが言う?」
隣の席から飛んできた夜鳥さんの声に、僕は反論を探した。
見つからなかった。
松井は友達である。同時に、壁でもある。
最近の僕は一人で帰ろうとすると、いつの間にか誰かしらが横に立っている。だから、なるべく松井と下校するようにしていた。
今日も、そのつもりだったのだけれど。
「それで、佐鳥くん。今日はどうするの?」
「どうする、とは」
「誰と帰るのかなって」
そこで夜鳥さんは、楽しそうな顔で脚を組み替えた。
帰り支度をしているようで、していない。鞄の口は開いたままだし、筆箱も机の上に置かれたままだ。
こちらから誘えば、たぶん一秒で立ち上がる。
けれど、自分からは言わない。
堂々とした誘われ待ちだった。
「僕の予定に関しては、僕より夜鳥さんの方が詳しいんじゃないの?」
「まあね。どこぞの幼馴染でも来ると思うよ」
「本当に知ってた」
「ちなみに美烏ちゃんは友達とカラオケだって」
「美烏がカラオケ!?」
声が裏返った。
高いドの音くらい出たと思う。
あの美烏が。八咫烏で、寡黙で、万年筆のキャップをペンダントにしている美烏が、友達とカラオケ。
脳内で、美烏がマイクを両手で持ち、無表情で国歌を歌い始めた。
たぶん違う。
いや、違うと信じたい。
今の声が響きすぎたのか、廊下側から別の声が飛んできた。
「美烏って、あれ? 入学式で佐鳥の名前ぶっ込んだ新入生代表?」
限界しりとりをしていた男子たちの一人が、いつの間にかこちらを見ていた。
名前は、なんだったか。
喉元まで出かかっている、と言いたいところだけど、なぜか足元あたりにある。
石っぽい……なんかこう、花崗岩みたいな名前だった気がする。
「山岡くんだよ」
眉間に皺を寄せている僕に気づいたのか、夜鳥さんが耳元でささやいた。
そうだ、山岡だ。けっこう惜しかった。
友達というほど、話したことはない。
ただ、クラスの空気がゆるむ時、だいたい話の中心にいるような男だった。
「ああ……まあ、そうだね」
「佐鳥も大変だよな。全校生徒の前で名前出されるなんて」
「大変かどうかで言うと、だいぶ大変寄りの事件ではあった」
「だよな。あの子、普通にヤバくね?」
進路希望調査の端をつまんでいた指が、止まった。
山岡に悪意はないのだと思う。
傍から見れば、美烏は確かに変わっている。入学式で僕の名前を出したのも、普通ではない。
それでも、どこか座りが悪かった。
僕が黙っていると、山岡はそれを肯定だと受け取ったらしい。
「小鳥遊さんも災難だよな」
「……凰佳が?」
「幼馴染なんだろ? ずっと傍にいたのに、変な一年が割り込んできてさ」
「変な一年」
「俺、幼馴染派なんだよ。そういうの、だいたい負けるじゃん」
山岡は、なぜか本気で悔しそうにしていた。
事情は何も知らないくせに、幼馴染という単語だけで勝手に胸を痛めている。
「誰が、負けるのかな?」
声のした方を見ると、教室の入口に凰佳が立っていた。
いつもの甘い声だが、その奥には、カラメルみたいに焦げたものが混じっているように聞こえた。
凰佳は鞄を両手で前に持ち、首を少しだけ傾げている。表情は、誰が見ても完璧な優等生の笑顔だった。
山岡の背中が、分かりやすく跳ねる。
「あ、いや……小鳥遊さん。今のは、別に」
「うん」
「その、冗談っていうか」
「冗談なのは分かってるよ」
凰佳はにこりと笑った。
幼馴染が負けるわけないもんね、という声が聞こえるようだった。
山岡は一瞬、言葉に詰まった。
「小鳥遊さん、なんか雰囲気違くない?」
「そうかな」
凰佳は答えながら、僕の机の横まで来た。
微笑みは変わらない。けれど、山岡は少しだけ身を引いた。
「でも、ほーすけがそういうので疲れるの、知ってるからさ」
「……」
「だから、今日はやめてあげて?」
声は荒くなかった。
責めるというより、僕の前にそっと立つような言い方だった。
山岡が視線を泳がせる。
廊下側後方で見守っていた男子たちも、気まずそうに口を閉じた。
「……悪い、佐鳥。言いすぎた」
「まあ、大丈夫だよ」
大丈夫、と言いながら、机の上の進路希望調査はそのままだった。
山岡の言葉が、胸の奥に小さく引っかかっている。
それが何なのか、自分でもうまく分からないまま、口が動いた。
「美烏は、悪い子じゃないよ」
隣で、頬杖をついたままの夜鳥さんがこちらを見る。
「あ、そうなん?」
「変な一年ではあるけど」
「そこは本当なんだ」
「でも、悪い子じゃない」
山岡は目を丸くしたあと、気まずそうに頭をかいた。
「……そっか。悪かったな。よく知らないのに言った」
それ以上は踏み込まず、山岡たちはそのまま散っていく。
教室の空気も、少しずつ元の放課後に戻っていった。
椅子を引く音がして、誰かの鞄についたキーホルダーが小さく鳴る。
凰佳は僕の机の前に立つと、何事もなかったみたいな顔をした。
「ほーすけ、一緒に帰ろ?」
「……今の流れで?」
「そう。今の流れだから」
当然のように言われてしまった。
山岡を止めて、空気を戻して、そのまま僕を連れて帰る。
凰佳の中では、全部ひと続きなのだろう。
「クイ研は今日ないの?」
「部長権限で休みにしてきた」
部長権限って、そういう使い方をしていいものだっただろうか。
なんでもないことのように、彼女は続ける。
「部員の心身の健康維持も、大事な活動だから」
「それ、凰佳限定じゃない?」
凰佳は答えなかった。
疑いようのない職権乱用だ。こんなやつに部長を任せて大丈夫なのか。
クイズ研究部の未来に若干の不安を抱きながらも、僕は進路希望調査を鞄にしまった。
立ち上がると、隣の席から軽い声がかかる。
「いってらっしゃい、佐鳥くん」
「それ、下校に使う挨拶じゃないよね」
「明日は私の番だよ」
「さらっと予約されたし」
夜鳥さんは、席に座ったまま小さく手を振った。
軽い仕草だった。
けれど、こちらを見る目だけは、いつも通り抜け目がなかった。
凰佳は何も言わず、僕の半歩先を歩き出す。
僕も鞄を持って、その後を追った。
□
校舎の外に出ると、教室のざわめきが遠のいた。春と夏の間みたいな風が、凰佳の髪を横に揺らした。
凰佳の家は隣の隣だから、帰り道はほとんど同じだ。
昔は何も考えずに並んで歩いた道だった。
今は、少しだけ距離がある。手が触れるほど近くはなく、遠すぎるわけでもない。
「さっきは、止めてくれてありがとね」
「別に、お礼を言われるほどじゃないよ」
「でも、助かったから」
「そっか」
凰佳は前を向いたまま、短く答えた。
しばらく、二人分の足音だけが続く。
午後の日差しが、僕たちの影を足元に落としていた。
二つの影は離れているようで、歩くたびにわずかに重なる。
「本当はね、ちょっと嬉しかったんだ」
ぽつりと、凰佳が零した。
「幼馴染なんだから、私の方が近いって。負けるわけないって。そうやって、応援されたみたいで」
言い終える頃には、声が萎んでいた。
嬉しかった、と口にした自分を、恥ずかしがっているみたいだった。
「だから、言いたかった。ほーすけは私のものなんだよって」
返事はできなかった。
凰佳の歩幅が、少し乱れた。
「美烏ちゃんなんかより、ずっと昔から知ってるんだからって」
その言葉だけ、わずかに尖っていた。
言ったあとで、自分でも刺さったみたいに、凰佳は唇を結ぶ。
足元で、小さな石が転がる。靴先が軽く触れたらしい。石は少し先まで転がって、道の端で止まった。
山岡の言葉に乗れば、きっと簡単だった。
幼馴染だから。
ずっと傍にいたから。
そう言ってしまえば、自分の痛みを少しだけ正当化できたのかもしれない。
「でも、ちゃんと友達からやり直したいからさ。言わなかった」
凰佳は笑った。
口元はちゃんと笑みの形をしているのに、息を止めているみたいに苦しそうだった。
胸の奥が少し痛くなる。
「……そっか」
「うん」
それだけで、凰佳はまた前を向いた。
褒めてほしいとも、許してほしいとも言わなかった。
ただ、隣を歩いている。
道の先で、信号が青に変わる。
凰佳は急がなかった。僕も急がなかった。
二人で同じ速度のまま、ゆっくりと横断歩道を渡る。
白線の上を歩く凰佳の横顔は、いつもより静かに見えた。
しばらく歩いているうちに、見慣れた住宅街まで戻ってきた。
「ねえ、ほーすけ」
「なに?」
「また、一緒に帰ってもいい?」
すぐには答えられなかった。
当然みたいに並んで歩くには、まだ少し早い気がした。
けれど、今日の凰佳は、言いたかった言葉をちゃんと飲み込んだ。
それを見なかったことには、できなかった。
「職権乱用は、しないでね」
「うん。しない」
素直な返事だった。
それが本当に守られるかどうかは、正直、分からない。凰佳なので。
家の近くまで来たところで、隣を歩く足が止まった。
「じゃあ、今日はここまで」
そう言って、彼女は一歩だけ横にずれた。
急に道を譲られたみたいで、一瞬言葉に詰まる。
「またね、ほーすけ」
「……うん。またね」
小さく手を振られる。僕も、遅れて手を上げた。
凰佳は穏やかな顔をしていたけれど、目元にだけ、寂しさのようなものが薄く残っていた。
そのまま、彼女は自分の家の方へ歩いていく。
背中はいつもより少しだけ遠かった。
それでも、見えなくなるほどではなかった。
次回は夜鳥さん回になります。クライマックスに向けて大きく動きます。