鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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今度はすっぽかしません。


23. 置きっぱなしの告白

 昼休み開始のチャイムが鳴っても、僕は不動を貫いた。

 

 弁当箱を持って松井の横の床へ避難する作戦は、前回すでに失敗している。

 席は夜鳥さんに占拠され、凰佳は当然のように隣の床に腰を下ろし、美烏まで昼食環境の確認に現れた。

 

 床に逃げても、神話は追ってくる。

 ならば今日は逃げない。真っ向から迎え撃つ。

 

 僕は弁当箱を机に置き、箸を構えた。

 武器がか細い二本の棒なのは心許ないが、ないよりはマシだ。

 

「ほーすけ、今日は席で食べるんだ」

「ちょっと人間としての尊厳を守ろうと思って」

 

 教室の入口からやって来た凰佳が、僕の机の横で足を止めた。

 隣には美烏もいる。

 

 まずい。この時点で、足りない椅子は二脚である。

 

 仕方がない。やはり僕が床に座って、美烏に椅子を譲る。凰佳には、もう机か何かに座ってもらうしかない。

 

「じゃあ、椅子借りてくるね」

 

 僕が最低限すぎる配置案を脳内で組んでいるうちに、凰佳はいつも通りそう言って、近くの空席へ向かおうとした。

 

 しかし、彼女が動くより先に、廊下側で椅子の脚が床をこする音がした。

 

「ほら佐鳥、椅子いるだろ」

 

 山岡が、椅子を一脚引っ張ってきた。

 

「えっ、どうしたの急に」

「いや、なんか必要そうだったから」

「助かるけどさ。なに、急に優しい」

 

 椅子は、僕の机の横に置かれた。

 すると、それを見ていた別の男子が、もう一脚持ってくる。

 

「追加でーす」

「すごい。居酒屋みたいなノリで椅子が増えていく」

 

 もう一脚は、反対側に置かれた。

 

 その席を流れるように予約した美烏は、椅子の前で立ち止まると、山岡たちへ向き直った。

 

「ありがとうございます」

「お、おう」

 

 山岡は、妙に気まずそうな顔で頷いた。

 

 凰佳と美烏が、用意された椅子に腰を下ろす。

 いつもなら凰佳がどこかから調達してくる椅子が、今日は先に用意されていた。

 

 昼食環境は相変わらず落ち着かない。

 ただ、その落ち着かなさの中に、少しだけ教室の気遣いが混ざった気がした。

 

 こういうものを素直に受け取ることには、まだ少し慣れていない。

 

 僕は鞄からもう一つの包みを取り出した。

 

「ほら松井、今日の分」

「悪いな、いつも助かる」

 

 松井が振り返る。

 僕が差し出した弁当箱を、彼はいつもの調子で受け取った。

 

 鷺里さんいわく、松井の分はタンパク質を多めにしてあるらしい。

 我が家の弁当制度には、いつの間にか筋肉枠が正式に追加されていた。

 

「佐鳥先輩」

「うん?」

 

 玉子焼きに箸を伸ばしたところで、美烏がこちらを見た。

 

「万年筆のキャップがない状態は、不便ではありませんか」

「……今その話する?」

「はい。今、思い出しましたので」

 

 どうやら昼食の内容とは一切関係なく、本当に今、頭の中で万年筆の問題が浮上したらしい。

 

 美烏は真面目な顔で、僕の箸先を見ている。

 玉子焼きに罪はないので、あまり強い視線をぶつけないでほしい。可哀想だ。

 

「まあ、不便か不便じゃないかで言えば、不便だよ」

「必要でしたら返却しますが」

「いや、いいよ。今は、このままで」

 

 美烏は一度だけ瞬きをした。

 

「承知しました」

 

 それだけ言って、美烏は何事もなかったように昼食へ戻った。

 

 僕も箸を動かす。

 玉子焼きは、いつも通り甘かった。

 

 今は、このままでいい。

 なんでもない返事のつもりだった言葉が、妙に胸に残った。

 

 その後の昼休みも、落ち着きとは無縁だった。

 

 松井は前の席でタンパク質多めの弁当を淡々と消費し、凰佳はときどき僕の弁当を覗き込んで、羨ましそうに「私も作りたいな」と呟いた。

 美烏は姿勢よく箸を動かし、夜鳥さんは隣で、僕をおかずに白米を食べていた。

 

 やがてチャイムが鳴り、午後の授業が過ぎていく。

 

 帰りのホームルームでは、田中先生が週末の小テストについて何か言っていた。

 何かの中身はだいぶ怪しい。僕の学力は、こういうところで着実に敗北を重ねていく。

 

 教室に放課後のざわめきが広がる。

 椅子を引く音。鞄を閉じる音。部活へ向かう生徒たちの足音。

 

 隣の席で、夜鳥さんがもう鞄を閉じていた。

 

「今日は先に行くね、佐鳥くん」

「珍しいね」

「私にもいろいろあるんだよ」

 

 夜鳥さんは軽く手を振ると、それ以上何も言わずに教室を出ていった。

 

 廊下側の後ろでは、山岡たちが今日も限界しりとりに命を削っている。

 

「ルの十一文字はねえだろ!?」

 

 そんな声を背中に聞きながら、僕は教室の入口へ目を向けた。

 凰佳は今のところ顔を出していない。

 

 来ないということは、たぶん部活があるのだろう。職権乱用はしていないようで、ひとまず安心である。

 

 僕は鞄を肩にかけると、前の席へ声をかけた。

 

「松井、今日一緒に帰れる?」

「ああ」

 

 松井は短く答えて、鞄を持って立ち上がった。

 

 教室を出て、部活へ向かう生徒たちに混じって廊下を進む。

 

 松井と他愛ない鳥トークをしているうちに、昇降口が見えてきた。

 

「おや?」

 

 下駄箱から靴を出そうとした瞬間、何かが足元にパサリと落ちた。

 

 拾い上げてみると、それは一通の白い封筒だった。

 

 白い封筒。

 校舎裏。

 差出人不明。

 果たし状。

 

 そんな前回の記憶が、まとめて頭の中に戻ってきた。

 けれど、今回は違う。

 

 封筒を開くと、中には短い文面が入っていた。

 

 佐鳥くんへ

 

 放課後、校舎裏で待っています。

 大事な話があるので、一人で来てください。

 

 夜鳥雀

 

 それだけだった。

 前回みたいに差出人を隠すつもりは、ないらしい。

 

 僕は手紙を封筒に戻し、鞄の内ポケットへしまった。

 

「ごめん、松井。今日は用事ができた」

「そうか」

 

 松井は、それ以上聞かなかった。

 その代わり、行け、というみたいに小さく頷いた。

 

 鞄の口を閉じる前に、もう一度だけ封筒へ目を落とす。

 

「今度は、すっぽかさないよ」

 

 昇降口を出ると、放課後の風が頬を撫でた。

 

 前にあの場所へ向かった時、僕は夜の住宅街を全力で走っていた。

 手遅れみたいな時間に、息を切らして校舎裏へ飛び込んだ。

 

 今回は違う。

 

 息は切れていない。

 四時間も待たせていない。

 ただ、呼ばれた場所へ向かっている。

 

 校舎沿いを歩き、裏手へ回る。

 人の気配が少し薄くなったところで、冷たいコンクリートの壁にもたれている小柄な影が見えた。

 

 ――いた。

 

 夜鳥さんは、約束した場所に、ただ静かに立っていた。

 

 黒が混じった艶やかな茶髪。

 腰に巻かれた亜麻色のカーディガン。

 少し弛ませたルーズソックスと、相変わらず短いスカート。

 

 前にここで見た時と、彼女の印象はほとんど変わらない。

 けれど、季節だけは少し先へ進んでいた。

 

「来てくれたんだ」

 

 その声に、驚きはなかった。

 

 最初から僕がここへ来ることを疑っていなかったのかもしれない。

 

「呼んだのは、夜鳥さんでしょ?」

「前は来なかったからさ」

「その節はごめん。本当に」

「いいよ。あれはあれで面白かったし」

 

 軽く笑ったあと、からかう言葉は続かなかった。

 

「あのあと、急いで来てくれたもんね」

 

 背中を預けていた校舎の壁から、彼女が離れる。

 

 風が通って、彼女の髪先だけを揺らした。

 校舎の窓が、傾きかけた光を鈍く反射している。

 

「最近、美烏ちゃんにちょっと優しいよね」

 

 反射的には否定できなかった。

 

 言葉の意味が、遅れて頭の中に落ちてくる。

 昼休みに自分で口にした言葉が、まだ残っていた。

 

 今は、このままでいい。

 

 あれは万年筆のキャップの話だったはずなのに。

 

「……そんなことないと思うけど」

「うん。佐鳥くんはそう言うと思った」

 

 軽い声だった。

 けれど、胸の奥に残っていたものが、そこで形を持った気がした。

 

 昼休みのことだけではない。

 夜鳥さんは、ずっと僕を見ていた人だ。

 

 そう思った瞬間、彼女が首を傾げた。

 

「私のこと、怖い?」

「……正直に答えたら、怒らない?」

「怒らないよ。たぶん」

「たぶんかあ」

 

 冗談みたいに返したのに、彼女は笑いきらなかった。

 

 靴先が、地面を軽くなぞる。

 線が引かれるほど強くはない。ただ、何かをごまかすみたいな動きだった。

 

「私、佐鳥くんのこと、ちゃんと好きなんだよ?」

 

 僕は頷いた。

 その気持ちが届いていなかった、なんて言えるはずがなかった。

 

 伏せられていた夜色の瞳が、下から僕を覗き込む。

 

「知ってた?」

「……知ってるよ。ちゃんと、告白されたから」

 

 その返事を聞いた瞬間、彼女の表情が崩れかけた。

 

 喜び損ねたような、傷つき損ねたような顔だった。

 届いていたことに安心して、その先がないことまで知ってしまったような。

 

 夜鳥さんは、小さく息を吸った。

 

「そっか」

 

 短い返事だった。

 

 校舎の向こう側で、誰かが笑う声がした。

 遠くで笛が鳴る。

 放課後の学校は、僕たちの沈黙とは関係なく動いている。

 

「じゃあ、ちゃんと伝わってたんだ」

「……伝わってたよ」

 

 僕の返事は、校舎裏の空気に小さくほどけていった。

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 夜鳥さんは逃げるでもなく、近づくでもなく、ただそこに立っている。

 

 その沈黙のあとで、彼女は口を開いた。

 

「あのときの告白の返事、聞いてもいい?」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 僕は一度、唾を飲み込む。

 夜鳥さんの目を見れば、それが軽口ではないことくらい伝わってきた。

 

 たぶん、ずっと前から分かっていた。

 ただ、それを受け取る準備を、僕の方が後回しにしていたのだと思う。

 

 今度こそ、返事をしなければならない。

 待たせた時間の分ではなく、向けられた気持ちの分だけ。

 

「ごめん」

 

 返事はなく、瞬きひとつしない瞳だけが、僕の次の言葉を待っていた。

 

「夜鳥さんの気持ちに、同じ形では返せない」

 

 口にした途端、喉の奥が乾いた。

 逃げるための言葉ではなく、ちゃんと返事として届いてほしかった。

 

 夜鳥さんは、ゆっくりと俯いた。

 

「そっか」

 

 思っていたよりも、ずっと穏やかな声だった。

 

 その一言のあと、すぐには続けなかった。

 短く息を吐く。

 

「知ってた」

 

 笑う声だった。

 けれど、その笑いは途中で息に変わった。

 

「知ってたのに、聞いたの?」

「うん」

 

 分かっていたはずの答えを、もう一度飲み込むような声だった。

 それでも、夜鳥さんは俯いたまま、僕の前に残っていた。

 

「だって、私の告白が、佐鳥くんの中でずっと保留になってたら嫌じゃん」

 

 何も言えなかった。

 

「私が勝手に待つのはいいよ。でも、佐鳥くんの中に置きっぱなしにするのは、違うかなって」

 

 責められた方が、まだ楽だったかもしれない。

 

 そんなふうに言われたら、もう、ごまかす場所がなかった。

 

「佐鳥くんの幸せが、たぶん一番大事」

「たぶん、なんだ」

「うん。断言したら、嘘になるから」

 

 かろうじて、笑みの形だけが残った。

 

「私の幸せも、そこに混ざってる。だから、全部きれいには言えない」

 

 それは夜鳥さんらしい言葉だった。

 自分の欲も、悔しさも、ちゃんとそこに混ざっている。

 

 それでも、彼女は隠さなかった。

 

「……ほんとはね」

 

 声はもう、少し掠れていた。

 

 夜鳥さんは笑おうとした。

 いつもの形に戻せば、僕も受け取りやすい。そんなことくらい分かっているような顔だった。

 

 けれど、口元はうまく上がらない。

 

「佐鳥くんと、結ばれたかったよ」

「……うん」

 

 返事と呼ぶには、自分でも情けないくらい小さかった。

 

「佐鳥くんの隣にいるの、私がよかった」

「うん」

「佐鳥くんが見るの、私だけがよかった」

 

 最後の言葉は、声になる前に漏れたみたいだった。

 

「……うん」

 

 それは、重くて、身勝手で、それでも誤魔化しようのない好意だった。

 

 唇を結んだ夜鳥さんは、今にも泣きだしそうに見えた。

 息を吸って、吐ききれないまま、彼女は続けた。

 

「でも、そうじゃないんだよね」

 

 僕は何か言おうとした。

 

 謝るべきなのか、慰めるべきなのか、それとも黙っているべきなのか。

 

 答えが出る前に、彼女が首を横に振った。

 

「慰めなくていいよ」

 

 選びかけていた言葉が、そこで消えた。

 何を言っても、今は彼女の傷口に触れてしまう気がした。

 

「慰められたら、もっと好きになる」

 

 夜鳥さんは一度、視線を足元へ落とした。

 いつもの調子には、戻りきれなかった。

 

「諦められたわけじゃないから」

 

 それは、強がりというより、どうにもならない事実を口にしただけのように聞こえた。

 

「そう、なんだ」

「うん」

 

 夜鳥さんは、泣きそうな顔のまま頷いた。

 

 少しだけ間を置いてから、言った。

 

「だから、もし別れたら言ってね」

 

 飲み込めなかった気持ちが、そのまま言葉になる。

 

「私、たぶん、その時も佐鳥くんのこと好きなままだから」

 

 それは逃げ道でも、次の約束でもなかった。

 ただ、彼女の中に残ってしまった気持ちだった。

 

 夜鳥さんが一歩離れる。

 

「じゃあね、佐鳥くん」

 

 それだけ言って、彼女は校舎裏を出ていった。

 

 小さな背中だった。

 いつもより遠く見えた。

 

 追いかけることはできなかった。

 引き止める言葉も、今は違うと思った。

 

 夜鳥さんが去ったあとも、校舎裏には午後の光が残っていた。

 

 校舎の壁が見える。

 グラウンドからは、部活中の掛け声が聞こえてくる。

 傾きかけた光も、春と夏の間みたいな風も、ちゃんとそこにあった。

 

 彼女は、何も消さなかった。

 

 ただ、自分の気持ちだけを、僕の前に置いていった。




この回が書いてて一番辛かったです……。
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