鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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24. 共犯者でなかったとしても

 朝の教室には、まだ人が少なかった。

 

 皆勤賞という言葉に妙な執着を持っている僕は、今日も朝のホームルームが始まるよりずっと早く席についていた。

 無遅刻無欠席という記録は、一度途切れた瞬間にただの過去になる。そう思うと、たかが登校時間に対しても、僕の体内鳩時計が律儀に朝を告げ始めるのだ。

 

 早朝組の顔ぶれは、だいたい決まっている。

 予習をしている生真面目な生徒。窓際でぼんやりしている生徒。

 特別仲がいいわけではないけれど、毎朝のように同じ空気を吸っていると、それだけで妙な連帯感が生まれるらしい。

 

 目が合えば、軽く会釈くらいはする。

 それ以上は踏み込まない。

 

 誰かが椅子を引く音が、小さく床を擦った。

 それきり、また教室は静かになる。

 

 僕は机に文庫本を広げ、指先でページをめくる。

 紙を送る音が、妙にはっきり聞こえた。

 

 いつもなら、その静けさは長く続かない。

 

 このくらいの時間になると、眠たげな足音が廊下の向こうから近づいてきて、扉が開く。

 彼女は欠伸を噛み殺しながら教室に入り、僕の隣で鞄を机の横に掛ける。

 椅子に座り、そのまま頬を腕に預ける。

 

 それから、けだるげに言うのだ。

 

「おはよ、佐鳥くん」

 

 その声が、今日はまだ聞こえない。

 

 廊下に少しずつ足音が増えていく。

 扉が開き、クラスメイトが何人か入ってきて、昨日のテレビ番組や小テストの話をしながら席へ向かった。

 前の席には、やがて松井も座った。彼が鞄を下ろすと、机の脚がわずかに鳴る。

 

 それでも、隣の席は空いたままだった。

 

 朝のホームルームが始まる。

 

 田中先生が教室に入り、出席簿に目を落とした。いくつかの連絡事項を読み上げ、最後に思い出したように顔を上げる。

 

「夜鳥は今日は欠席だ」

 

 先生の声は、特別重いものではなかった。連絡事項の一つとして、教室の前に淡々と置かれただけだった。

 

 それなのに、その一言で、ただの空席だったはずの場所に意味が生まれた。

 

 昨日、僕は夜鳥さんを傷つけた。

 

 夜鳥さんは「知ってた」と言った。

 それは、僕の返事だけを指していたわけではないのだろう。

 

 最近、美烏ちゃんにちょっと優しいよね。

 

 ずっと僕を見てきた夜鳥さんは、誰よりも先にその変化に気づいていた。

 返ってくる答えも、たぶん分かっていた。

 

 それでも、返事を聞いた。

 僕を、自分の告白に縛り続けないために。

 

 そう思うと、胸の奥が小さく痛んだ。

 

 隣の席は、空いたままだった。

 そこにいない彼女の言葉だけが、教室に残っている。

 

 一時間目の数学で、僕は板書の途中までしかノートに写せなかった。

 

 黒板にはいつの間にか見知らぬ記号が増えていて、先生がそれを当然のように変形している。

 僕が目を離した数秒の間に、数式だけが勝手に巣立っていた。

 

「じゃあ、佐鳥」

 

 名前を呼ばれて、肩が小さく跳ねる。

 

「ここから先、解けるか?」

 

 チョークの先が、黒板の端に書かれた式を軽く叩く。

 

 解けるか、と言われても困る。

 

 並べられた数式はもはや理解の外にいる。もしも巣立った数式に帰巣本能があるのなら、今すぐ戻ってきてほしかった。

 

「……すみません、分かりません」

「集中しろよ」

「はい」

 

 返事をして、ノートに視線を戻す。

 

 白いページの上には、途中で途切れた式だけが残っていた。

 続きを写そうとして、シャーペンの先が止まる。

 

 美烏に優しい。

 

 夜鳥さんが残した言葉の意味が、黒板の数式より先に戻ってきた。

 

 優しい、とは何だろう。

 

 僕は美烏に対して、特別なことをしているつもりはなかった。

 話しかけられれば返事をするし、近くに立たれれば少し場所を空ける。困っていれば声をかける。

 普通に接しているだけだ。

 

 そう片付けようとして、失敗した。

 

 普通、なのだろうか。

 

 昼休みになっても、調子は戻らなかった。

 

 弁当の包みを開ける。

 鷺里さんの玉子焼きは、今日も形がきれいで、いつも通りほんのり甘いはずだった。

 

 けれど、箸を伸ばしたまま、僕はしばらくそれを眺めていた。

 

「玉子焼きとにらめっこか」

「……うん、かなり手ごわくてね」

「そうか。まあ、頑張れよ」

 

 前の席から振り返った松井は、そこで話を切った。

 

 夜鳥さんが休んでいることも、僕が授業中に先生から注意されたことも、彼は知っている。

 だから、何かあったのだろうとは察しているはずだ。

 

 そっとしておく。

 たぶん、それが今の松井なりの優しさだった。

 

 僕は玉子焼きを口に運んだ。

 

 甘い。

 ちゃんと味がした。

 

「佐鳥先輩」

 

 少しして、教室の入口から声がした。

 

 顔を上げると、美烏が立っていた。

 いつからそこにいたのか、手には小さな紙パックがあった。

 

「これ、どうぞ」

「えっ」

 

 美烏は僕の机の端に、それを置いた。

 野菜ジュースだった。

 

「余っていたので」

「野菜ジュースって余るものなの?」

「余りました」

「事実だけで押し切ろうとしている」

 

 美烏は表情を変えないまま、僕のあまり攻略の進んでいない弁当に視線を落とした。

 

「野菜を摂れば、元気が出ます」

「だいぶ雑だね」

「間違っていますか」

「……いや。たぶん、間違ってない」

 

 そう答えて、僕は紙パックを手に取った。

 

 ストローを刺して、ひと口飲む。

 美烏は何も言わず、僕の手元を見ていた。

 

 芳醇な野菜の風味がした。

 野菜ジュースなので当然だが、果物側の勢力にはもう少し頑張ってほしかった。

 

「飲めそうですか」

「うん。ありがとう」

「よかったです」

 

 美烏は小さく頷いた。

 それだけのやり取りで、少しだけ呼吸が楽になった。

 

 そう思ってしまった瞬間、夜鳥さんの言葉が、もう一度胸の奥に触れた。

 

 

 午後の授業も、あまり頭には入らなかった。

 教科書の文字を目で追っても、意味になる前にどこかへ流れていく。

 

 夜鳥さんの言う通り、僕の中で美烏は特別になってきているのかもしれない。

 

 そう考えると、今度は別の問いが残った。

 

 美烏はどうなのだろう。

 

 彼女が僕の隣にいてくれる理由は、罪悪感なのか、責任感なのか。

 それとも、ただ放っておけないだけなのか。

 

 それを知らないまま、隣にいてほしいと思うのは違う気がした。

 

 帰りのホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩んだ。

 

 椅子を引く音と、鞄を閉める音。

 部活へ向かう生徒たちの声が、廊下の方へ流れていく。

 

 僕は少し遅れて、机の上に出したままだった教科書を鞄にしまった。

 

「佐鳥」

 

 前の席から、松井が振り返る。

 

「この後どうする?」

「ありがとう。でも、今日は一人で帰るよ」

「そうか」

 

 松井は何か言いたげに僕を見たけれど、結局、それ以上は口にしなかった。

 

「じゃあな」

「うん。また明日」

 

 短く手を上げて、松井は教室を出ていく。

 

 その背中を見送ってから、僕も鞄を肩にかけた。

 帰り支度が遅れたのは、荷物が多かったからではない。鞄の中身より、頭の中の方が片付いていなかった。

 

 廊下へ出て、昇降口で靴を履き替える。

 

 外に出ると、まだ明るい午後の光が目に入った。

 昇降口の庇を抜けた途端、校舎に残っていた熱が、制服の袖に薄くまとわりつく。

 

 そのまま校門へ向かうと、見慣れた黒髪が風に揺れていた。

 

「佐鳥先輩」

「美烏、どうしたの?」

 

 学校の内側と外側を分ける線の手前で、彼女はまっすぐこちらを見ていた。

 昼休みに見た時と、表情はさして変わらない。

 

「帰り道、ご一緒します」

「……え?」

 

 思わず聞き返すと、美烏は鞄の肩紐を軽く握り直した。

 

「昼食の時から、佐鳥先輩の様子がいつもと違っていました」

 

 いつも通りだよ、と軽く返そうとした。

 

 けれど、玉子焼きを前に箸を止めて、野菜ジュースまで差し入れられている。

 ここで平常運転を主張するには、さすがに無理があった。

 

「……そんなに分かりやすかった?」

「はい」

 

 迷いのない即答だった。

 遠慮という概念が、八咫烏の辞書では羽毛くらい軽い。

 

「話したくないなら、無理に聞きません。ただ、放っておけませんでした」

 

 問い詰める声ではなかった。

 

 それでも、美烏の指は鞄の肩紐を握ったままで。

 心配をかけていると、さすがに分かった。

 

 僕は小さく息を吐く。

 

「……そっか。ありがとう」

「はい」

 

 校門を抜けて、並んで帰り道を歩く。

 

 美烏と二人で帰る、という状況は、思ったよりも新しかった。

 隣にいることには慣れているはずなのに、放課後の道に並ぶと、彼女の存在が少しだけ日常に近づいた気がした。

 

 しばらく、会話はなかった。

 

 車の走る音。遠くから聞こえる自転車のベル。歩道の端で伸びる影。

 

 美烏は隣にいる。

 近すぎず、離れすぎず、こちらの沈黙を乱さない場所にいた。

 

 だから、こちらから言葉を出すことができた。

 

「昨日、返事をしたんだ」

「はい」

「ずっと、返せてなかったことに」

「そうですか」

 

 美烏は、そこから先を追いかけてこなかった。

 

 誰に向けた返事なのか。

 どんな言葉を返したのか。

 

 聞こうと思えば、聞けたはずだ。

 それでも彼女は前を向いたまま、僕の隣を歩き続けた。

 

 その半歩分の静けさが、昼休みからずっと残っていた問いに、少しずつ形を与えていく。

 

「……美烏」

 

 僕は足を止めた。

 

 半歩先に出た美烏も、すぐに立ち止まって振り返る。黒い髪が肩のあたりで小さく揺れた。

 

「一つ、聞いてもいい?」

「答えられる範囲であれば」

 

 無責任に、何でも答えるとは言わない。

 

 その線引きが妙に美烏らしくて、だからこそ、僕も言葉を曖昧にはできなかった。

 

「美烏はさ」

「はい」

「共犯者じゃなかったら、僕の隣にはいなかった?」

 

 乾いた風が、二人の間を通り抜ける。

 歩道の端にあった葉が、かさりと音を立てて転がった。

 

「……分かりません」

 

 やがて、彼女の口からそんな答えがこぼれた。

 

「分からないんだ」

「はい。罪悪感はあります。責任もあります」

 

 そこを曖昧にはしない声だった。

 

「ですが、それだけなら」

「うん」

 

 美烏は一度だけ、唇を引き結んだ。

 

「佐鳥先輩が笑った時に、私が嬉しい理由にはなりません」

 

 それきり、会話は途切れた。

 

 声は静かだった。

 いつものように淡々としているはずなのに、その一言だけが妙に熱を持って聞こえた。

 

 美烏は少しだけ足元に視線を落とした。

 

「すみません」

「どうして謝るの」

「適切な言葉が、見つかりません」

 

 その不器用さに、何かを返そうとして、言葉が喉元まで出かかった。

 

 結局、声にはしなかった。

 

 今の言葉で、僕の中にあった曖昧なものは、ほとんど輪郭を持ってしまった。

 

 けれど、それをここで口にするのは違うと思った。

 

 まだ、向き合わなければならない相手がいる。

 僕が渡した言葉を、大事に抱えたまま、友達をやり直そうとしてくれている相手がいる。

 

 その人に誠実でないまま、美烏の言葉に返すことはできない。

 

「……そっか」

「はい」

「僕も、ちゃんと考えるから」

 

 美烏は、少しだけ瞬きをした。

 

「承知しました」

 

 それだけ言って、彼女はまた僕の隣に並んだ。

 

 僕たちは、もう一度歩き出す。

 

 何かが決まったわけではない。

 名前のついた関係が、今日ここで始まったわけでもない。

 

 それでも、さっきの言葉は僕の中に残っていた。

 

 共犯者でなかったとしても。

 

 そう続きそうになった言葉を、僕はまだ声にしなかった。

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