朝の教室には、まだ人が少なかった。
皆勤賞という言葉に妙な執着を持っている僕は、今日も朝のホームルームが始まるよりずっと早く席についていた。
無遅刻無欠席という記録は、一度途切れた瞬間にただの過去になる。そう思うと、たかが登校時間に対しても、僕の体内鳩時計が律儀に朝を告げ始めるのだ。
早朝組の顔ぶれは、だいたい決まっている。
予習をしている生真面目な生徒。窓際でぼんやりしている生徒。
特別仲がいいわけではないけれど、毎朝のように同じ空気を吸っていると、それだけで妙な連帯感が生まれるらしい。
目が合えば、軽く会釈くらいはする。
それ以上は踏み込まない。
誰かが椅子を引く音が、小さく床を擦った。
それきり、また教室は静かになる。
僕は机に文庫本を広げ、指先でページをめくる。
紙を送る音が、妙にはっきり聞こえた。
いつもなら、その静けさは長く続かない。
このくらいの時間になると、眠たげな足音が廊下の向こうから近づいてきて、扉が開く。
彼女は欠伸を噛み殺しながら教室に入り、僕の隣で鞄を机の横に掛ける。
椅子に座り、そのまま頬を腕に預ける。
それから、けだるげに言うのだ。
「おはよ、佐鳥くん」
その声が、今日はまだ聞こえない。
廊下に少しずつ足音が増えていく。
扉が開き、クラスメイトが何人か入ってきて、昨日のテレビ番組や小テストの話をしながら席へ向かった。
前の席には、やがて松井も座った。彼が鞄を下ろすと、机の脚がわずかに鳴る。
それでも、隣の席は空いたままだった。
朝のホームルームが始まる。
田中先生が教室に入り、出席簿に目を落とした。いくつかの連絡事項を読み上げ、最後に思い出したように顔を上げる。
「夜鳥は今日は欠席だ」
先生の声は、特別重いものではなかった。連絡事項の一つとして、教室の前に淡々と置かれただけだった。
それなのに、その一言で、ただの空席だったはずの場所に意味が生まれた。
昨日、僕は夜鳥さんを傷つけた。
夜鳥さんは「知ってた」と言った。
それは、僕の返事だけを指していたわけではないのだろう。
最近、美烏ちゃんにちょっと優しいよね。
ずっと僕を見てきた夜鳥さんは、誰よりも先にその変化に気づいていた。
返ってくる答えも、たぶん分かっていた。
それでも、返事を聞いた。
僕を、自分の告白に縛り続けないために。
そう思うと、胸の奥が小さく痛んだ。
隣の席は、空いたままだった。
そこにいない彼女の言葉だけが、教室に残っている。
一時間目の数学で、僕は板書の途中までしかノートに写せなかった。
黒板にはいつの間にか見知らぬ記号が増えていて、先生がそれを当然のように変形している。
僕が目を離した数秒の間に、数式だけが勝手に巣立っていた。
「じゃあ、佐鳥」
名前を呼ばれて、肩が小さく跳ねる。
「ここから先、解けるか?」
チョークの先が、黒板の端に書かれた式を軽く叩く。
解けるか、と言われても困る。
並べられた数式はもはや理解の外にいる。もしも巣立った数式に帰巣本能があるのなら、今すぐ戻ってきてほしかった。
「……すみません、分かりません」
「集中しろよ」
「はい」
返事をして、ノートに視線を戻す。
白いページの上には、途中で途切れた式だけが残っていた。
続きを写そうとして、シャーペンの先が止まる。
美烏に優しい。
夜鳥さんが残した言葉の意味が、黒板の数式より先に戻ってきた。
優しい、とは何だろう。
僕は美烏に対して、特別なことをしているつもりはなかった。
話しかけられれば返事をするし、近くに立たれれば少し場所を空ける。困っていれば声をかける。
普通に接しているだけだ。
そう片付けようとして、失敗した。
普通、なのだろうか。
昼休みになっても、調子は戻らなかった。
弁当の包みを開ける。
鷺里さんの玉子焼きは、今日も形がきれいで、いつも通りほんのり甘いはずだった。
けれど、箸を伸ばしたまま、僕はしばらくそれを眺めていた。
「玉子焼きとにらめっこか」
「……うん、かなり手ごわくてね」
「そうか。まあ、頑張れよ」
前の席から振り返った松井は、そこで話を切った。
夜鳥さんが休んでいることも、僕が授業中に先生から注意されたことも、彼は知っている。
だから、何かあったのだろうとは察しているはずだ。
そっとしておく。
たぶん、それが今の松井なりの優しさだった。
僕は玉子焼きを口に運んだ。
甘い。
ちゃんと味がした。
「佐鳥先輩」
少しして、教室の入口から声がした。
顔を上げると、美烏が立っていた。
いつからそこにいたのか、手には小さな紙パックがあった。
「これ、どうぞ」
「えっ」
美烏は僕の机の端に、それを置いた。
野菜ジュースだった。
「余っていたので」
「野菜ジュースって余るものなの?」
「余りました」
「事実だけで押し切ろうとしている」
美烏は表情を変えないまま、僕のあまり攻略の進んでいない弁当に視線を落とした。
「野菜を摂れば、元気が出ます」
「だいぶ雑だね」
「間違っていますか」
「……いや。たぶん、間違ってない」
そう答えて、僕は紙パックを手に取った。
ストローを刺して、ひと口飲む。
美烏は何も言わず、僕の手元を見ていた。
芳醇な野菜の風味がした。
野菜ジュースなので当然だが、果物側の勢力にはもう少し頑張ってほしかった。
「飲めそうですか」
「うん。ありがとう」
「よかったです」
美烏は小さく頷いた。
それだけのやり取りで、少しだけ呼吸が楽になった。
そう思ってしまった瞬間、夜鳥さんの言葉が、もう一度胸の奥に触れた。
□
午後の授業も、あまり頭には入らなかった。
教科書の文字を目で追っても、意味になる前にどこかへ流れていく。
夜鳥さんの言う通り、僕の中で美烏は特別になってきているのかもしれない。
そう考えると、今度は別の問いが残った。
美烏はどうなのだろう。
彼女が僕の隣にいてくれる理由は、罪悪感なのか、責任感なのか。
それとも、ただ放っておけないだけなのか。
それを知らないまま、隣にいてほしいと思うのは違う気がした。
帰りのホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音と、鞄を閉める音。
部活へ向かう生徒たちの声が、廊下の方へ流れていく。
僕は少し遅れて、机の上に出したままだった教科書を鞄にしまった。
「佐鳥」
前の席から、松井が振り返る。
「この後どうする?」
「ありがとう。でも、今日は一人で帰るよ」
「そうか」
松井は何か言いたげに僕を見たけれど、結局、それ以上は口にしなかった。
「じゃあな」
「うん。また明日」
短く手を上げて、松井は教室を出ていく。
その背中を見送ってから、僕も鞄を肩にかけた。
帰り支度が遅れたのは、荷物が多かったからではない。鞄の中身より、頭の中の方が片付いていなかった。
廊下へ出て、昇降口で靴を履き替える。
外に出ると、まだ明るい午後の光が目に入った。
昇降口の庇を抜けた途端、校舎に残っていた熱が、制服の袖に薄くまとわりつく。
そのまま校門へ向かうと、見慣れた黒髪が風に揺れていた。
「佐鳥先輩」
「美烏、どうしたの?」
学校の内側と外側を分ける線の手前で、彼女はまっすぐこちらを見ていた。
昼休みに見た時と、表情はさして変わらない。
「帰り道、ご一緒します」
「……え?」
思わず聞き返すと、美烏は鞄の肩紐を軽く握り直した。
「昼食の時から、佐鳥先輩の様子がいつもと違っていました」
いつも通りだよ、と軽く返そうとした。
けれど、玉子焼きを前に箸を止めて、野菜ジュースまで差し入れられている。
ここで平常運転を主張するには、さすがに無理があった。
「……そんなに分かりやすかった?」
「はい」
迷いのない即答だった。
遠慮という概念が、八咫烏の辞書では羽毛くらい軽い。
「話したくないなら、無理に聞きません。ただ、放っておけませんでした」
問い詰める声ではなかった。
それでも、美烏の指は鞄の肩紐を握ったままで。
心配をかけていると、さすがに分かった。
僕は小さく息を吐く。
「……そっか。ありがとう」
「はい」
校門を抜けて、並んで帰り道を歩く。
美烏と二人で帰る、という状況は、思ったよりも新しかった。
隣にいることには慣れているはずなのに、放課後の道に並ぶと、彼女の存在が少しだけ日常に近づいた気がした。
しばらく、会話はなかった。
車の走る音。遠くから聞こえる自転車のベル。歩道の端で伸びる影。
美烏は隣にいる。
近すぎず、離れすぎず、こちらの沈黙を乱さない場所にいた。
だから、こちらから言葉を出すことができた。
「昨日、返事をしたんだ」
「はい」
「ずっと、返せてなかったことに」
「そうですか」
美烏は、そこから先を追いかけてこなかった。
誰に向けた返事なのか。
どんな言葉を返したのか。
聞こうと思えば、聞けたはずだ。
それでも彼女は前を向いたまま、僕の隣を歩き続けた。
その半歩分の静けさが、昼休みからずっと残っていた問いに、少しずつ形を与えていく。
「……美烏」
僕は足を止めた。
半歩先に出た美烏も、すぐに立ち止まって振り返る。黒い髪が肩のあたりで小さく揺れた。
「一つ、聞いてもいい?」
「答えられる範囲であれば」
無責任に、何でも答えるとは言わない。
その線引きが妙に美烏らしくて、だからこそ、僕も言葉を曖昧にはできなかった。
「美烏はさ」
「はい」
「共犯者じゃなかったら、僕の隣にはいなかった?」
乾いた風が、二人の間を通り抜ける。
歩道の端にあった葉が、かさりと音を立てて転がった。
「……分かりません」
やがて、彼女の口からそんな答えがこぼれた。
「分からないんだ」
「はい。罪悪感はあります。責任もあります」
そこを曖昧にはしない声だった。
「ですが、それだけなら」
「うん」
美烏は一度だけ、唇を引き結んだ。
「佐鳥先輩が笑った時に、私が嬉しい理由にはなりません」
それきり、会話は途切れた。
声は静かだった。
いつものように淡々としているはずなのに、その一言だけが妙に熱を持って聞こえた。
美烏は少しだけ足元に視線を落とした。
「すみません」
「どうして謝るの」
「適切な言葉が、見つかりません」
その不器用さに、何かを返そうとして、言葉が喉元まで出かかった。
結局、声にはしなかった。
今の言葉で、僕の中にあった曖昧なものは、ほとんど輪郭を持ってしまった。
けれど、それをここで口にするのは違うと思った。
まだ、向き合わなければならない相手がいる。
僕が渡した言葉を、大事に抱えたまま、友達をやり直そうとしてくれている相手がいる。
その人に誠実でないまま、美烏の言葉に返すことはできない。
「……そっか」
「はい」
「僕も、ちゃんと考えるから」
美烏は、少しだけ瞬きをした。
「承知しました」
それだけ言って、彼女はまた僕の隣に並んだ。
僕たちは、もう一度歩き出す。
何かが決まったわけではない。
名前のついた関係が、今日ここで始まったわけでもない。
それでも、さっきの言葉は僕の中に残っていた。
共犯者でなかったとしても。
そう続きそうになった言葉を、僕はまだ声にしなかった。