鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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25. ちゃんと友達、やるから

 朝の教室は、まだ空席の方が目立っていた。

 

 早起きに成功したいつものメンツは、予習をしたり、机に沈んだりして、それぞれの方法で有り余る朝と戦っている。

 僕もその皆勤賞四天王の一人として、鞄から文庫本を取り出した。

 

 栞の挟まっているページを開く。

 前の行を少しだけ読み返して、物語の続きへ戻ろうとした。

 けれど、二行目に入る前に、視線が勝手に本の外へ向かう。

 

 隣の席は、昨日から空いたままだった。

 椅子は机の下に収まり、横に鞄も掛かっていない。

 

 いや、まだ来ていないだけかもしれない。

 そもそも僕が来るのが早すぎる。

 

 そう思って、ページに目を戻した。戻したはずだった。

 次の行へ進む前に、また隣を見ていた。

 

 昨日一日で、隣の席が空いている光景に慣れるどころか、空席を確かめる癖だけが身についてしまったらしい。

 我ながら、ずいぶんと悩ましい習性を獲得してしまったものだ。

 

 ため息を飲み込んで、再び本の世界に戻ろうとする。

 そのとき、隣の椅子が小さく鳴った。

 

「おはよ、佐鳥くん」

 

 投げかけられたのは、いつもの声だった。

 

 少し眠たげで、軽くて、何でもない朝みたいな声。

 昨日の空席なんて最初からなかったみたいに、夜鳥さんはそこにいた。

 

「えっ……お、おはよう、夜鳥さん」

 

 動揺で、一瞬返事が遅れた。

 

 夜鳥さんはそれを見逃さなかった。机の横に鞄を掛けながら、こちらを覗き込むようにして口角を上げた。

 

「何その顔。幽霊でも見た?」

「いや別に。少し、安心しただけ」

「へえ。やっぱり私が来なくて寂しかった?」

「……まあ、心配はしたよ」

 

 言ってから、思ったより素直な声になっていたことに気づいた。

 

「そっか。じゃあ、休んだ甲斐もあったかな」

「それはないと思う」

「ひどいなあ。一応、私も皆勤賞だったんだけど」

 

 夜鳥さんはそう言って、頬杖をついた。

 

 口元は緩んでいる。

 ただ、いつもみたいに僕をからかう表情ではない。

 そう分かってしまうくらいには、昨日の空席は僕の中に残っていた。

 

「この前は、ごめん」

「うん。ちゃんと傷ついたよ」

 

 軽い声、というよりは、そう聞こえるように整えられた声だった。

 

「でも、もう大丈夫。ちゃんと寝てきたから」

「それ、大丈夫なの?」

「うん。もちろん、枕は濡らしたけどね」

「……それは」

「泣いて、寝て、起きて、学校に来たんだから。大丈夫だよ」

 

 夜鳥さんは、笑った。

 

 いつものように、何でもないことみたいに。

 けれど、目元はほんの少し腫れていた。

 

 それを見てしまうと、笑っているから大丈夫なのだとは、どうしても思えなかった。

 

 夜鳥さんは頬杖をついたまま、しばらく黙っていた。

 半分伏せた視線が、机の端へ落ちる。その横顔は、何かを考えているようにも、何も考えないようにしているようにも見えた。

 

「だからね、佐鳥くん」

「うん」

「佐鳥くんのこと、ちゃんと見届けさせてね」

 

 小さな声だった。

 

 参考書のページをめくる音や、シャープペンシルが紙を擦る音に紛れてしまいそうなくらいの声。

 夜鳥さんはその言葉だけを残して、机へ突っ伏した。

 

 ただ、見届ける。

 そう言われた瞬間、僕はもう、見ないふりをできなくなった。

 

 手元に視線を落とす。

 机の端に置いたペンケースの中で、傷の入ったペンが目に入った。

 

 お揃いで持っていたペン。

 

 友達をやり直している幼馴染との、まだ切れていないもの。

 そのもう片方を持っている相手と、向き合わなければならない。

 

 僕は、傷跡ごとペンを握った。

 

 

 休み時間。

 

 教室の中には、いつもよりわずかに真面目な空気が流れていた。

 小テストが近いせいである。

 

 周囲の生徒たちは、教科書を開いたり、ノートを見返したり、それぞれの机に向かっていた。

 いつもなら笑い声の一つでも混じる時間なのに、今日は紙を擦る音の方が目立っている。

 

 僕も周囲に倣って、なんとなくノートを開いていた。

 

 ただし、書かれているのは重要語句や公式ではない。端の方に増えているのは、考えごとから逃げ損ねた線ばかりだった。

 

 縦に一本。

 横に一本。

 意味のない線を引いて、またその隣に線を足す。

 

 少なくとも、テスト勉強には何の役にも立たない。

 

「佐鳥」

 

 前から低い声がした。

 

 顔を上げると、文鳥を愛する男、松井がこちらを見ていた。

 

「うん?」

「どうした。顔が死んでるぞ」

「勝手に殺さないでよ。テスト前はみんなこんなもんだって」

 

 松井は僕の顔を見たまま、わずかに眉を動かした。

 

 信じていない様子だった。

 正確には、テスト前だから死んでいる顔と、それ以外の理由で死んでいる顔を、彼なりに見分けているらしかった。

 

 その判別が終わったのか、やがて松井は口を開いた。

 

「何かあったのか」

「別に――」

 

 何でもないよ。

 そう続けようとして、止まった。

 

 何でもないわけがない。

 ノートの端には、意味のない線ばかりが増えている。

 

 手を止めると、芯の跡が妙に濃く残っていた。

 

「……これは、友達の話なんだけど」

「お前のことだろ」

「早いな」

「顔にもノートにも出てる」

 

 否定するより先に、ため息が出そうになった。

 

 どうやら僕は、思っているよりずっと隠しごとが苦手らしい。

 まだ言葉にしていない迷いも、顔に出したくなかった情けなさも、松井にはだいたい見えているのだろう。

 

 とはいえ、否定する気にはなれなかった。

 

「幼馴染を傷つけずに済む方法って、あると思う?」

「ないな」

「即答するね」

「あるなら、お前はこんな顔してない」

 

 返す言葉がなかった。

 

 松井の言い方は、優しくはなかった。

 無神経でもなかった。

 

 ただ僕が目を逸らしていた場所を、余計な慰めなしで指差した。

 

 どこかで分かっていたのだと思う。

 傷つけずに済む方法を探しているふりをして、本当は、傷つける覚悟を先送りにしていただけなのだと。

 

 凰佳に何も言わないままでいれば、今日は平穏でいられる。

 明日も、同じ顔で笑えるかもしれない。

 

 でも、その平穏は、凰佳が守ろうとしてくれた「友達」を、僕の都合のいい場所に置きっぱなしにすることでもあった。

 

「もう、だいたい決まってるんだろ?」

「……うん」

「なら、行け」

 

 それだけ告げると、松井は自分の役目は終わったとばかりに前へ向き直った。

 

 慰めも、励ましも、余計な説明もない。

 

 たぶん、それ以上はいらなかった。

 

 小テストは近い。

 今この瞬間も、教室のあちこちで筆記音が続いている。

 

 みんな、この後にどこを問われるのかを探している。

 けれど、今の僕が向き合うべきものは、この机の上にはなかった。

 

 シャーペンを置いて、ポケットからスマホを取り出す。

 

 連絡先の中から、小鳥遊凰佳の名前を探した。

 

 指先が、ほんの少し止まる。

 それでも、画面を閉じることはしなかった。

 

『今日、一緒に帰れる?』

 

 送信した瞬間、既読がついた。

 

『うん、いいよ』

 

 早い。返信があまりにも早い。

 

 もしかして僕が打ち込む前から、向こうはトークに張り付いていたのではないか。

 そんな怖すぎるオチが浮かんでくるレスポンスの早さだった。

 

『校門で待ってる』

 

 そう返して、僕はスマホを伏せた。

 

 隣では、あの夜鳥さんでさえ勉強用の丸眼鏡をかけて、参考書を広げていた。

 

 ページの端に指を添えて、姿勢だけはきちんと優等生のそれである。

 僕がスマホを伏せた音に気づいたのか、その指先が少しだけ止まった。

 

 夜鳥さんは参考書から目を上げないまま、眼鏡の位置をそっと直した。

 

 それだけで、十分だった。

 

 そのあとに受けた小テストの出来については、言うまでもない。

 

 

 放課後の校門は騒がしかった。

 

 野球部が外周を駆けていく。

 自転車置き場の方からはベルの音が聞こえ、昇降口の前で誰かが明日の提出物について悲鳴を上げていた。

 

 校門の近くへ行くと、凰佳はすでに待っていた。

 

「待たせた?」

「ううん。今来たとこ」

 

 そんな初々しいカップルのような問答をして、彼女は見慣れた調子で笑った。

 

 桜色の髪が、午後の光を受けて淡く見える。

 制服のリボンはきちんと整っていて、鞄の持ち方も崩れていない。

 

 僕たちは並んで、見慣れた道を歩いた。

 

 事前に用意していた他愛のない話を、いくつか披露した。

 

 今日の小テストがボロボロだった話、田中先生がまた授業中に子供の話を始めて、気づいたら五分くらい溶けていた話、松井に「顔が死んでる」と真顔で言われた話。

 

 凰佳は相槌を打って、時々笑ったが、どの話題も長くは続かず、二人の間を滑っていく。

 

 天使が通る――盛り上がっていた会話がふと途切れ、その場に気まずい沈黙が訪れること。

 そんなフランスのことわざが、早押しクイズでたまに出題されるらしい。そう教わったのは、いつのことだったか。

 

 しばらく歩いたところで、懐かしい公園の前に差しかかった。

 

 昔、凰佳とよくチャンバラをした公園だった。

 

 落ちている枝を拾って、剣だと言い張ったのは、僕の方だったと思う。

 向こうは最初こそ呆れた顔をしていたくせに、一度勝負になると妙に真剣で、二刀流で僕をボコボコに叩きのめした。

 

 あの頃は、叩かれても、転んでも、少し泣いても、次の日にはまた同じ場所で遊んでいた。

 

 今は、たぶんそうはいかない。

 

「久しぶりに寄ってかない?」

「別にいいけど……急にどうしたの?」

「ちょっと懐かしくなってさ」

 

 嘘ではなかった。

 ただ、本当の理由を言わなかっただけだ。

 

 公園の中は、記憶にあるよりもずっと静かだった。

 

 古びたブランコも、低い滑り台も、砂場も、昔と同じ場所にあるはずなのに、そこに立っているだけで、僕たちの方がいつの間にか遠くまで来てしまったのだと分かってしまう。

 

 足を踏み入れると、砂が柔らかく沈んだ。

 遠くの道路を車が通る音だけが、薄い膜越しに届いている。

 

 凰佳はブランコの前で足を止めると、鎖をそっと指で撫でた。

 握るでもなく、揺らすでもなく、ただ、そこにあることを確かめるみたいに。

 

 その指先を見ていると、喉の奥に残っていた言葉が、また少し重くなった。

 

 言えば、凰佳を傷つける。

 でも、言わないまま隣を歩くことも、もう優しさではなかった。

 

 ここまで来ても、まだ僕は迷っている。

 情けないままでも、言わなければならなかった。

 

「凰佳。大切な話がある」

「聞きたくない」

 

 返事は、ほとんど間を置かずに返ってきた。

 

 彼女は僕を見ていなかった。

 ブランコの鎖を見ているのか、砂場の端を見ているのか、それとも、どこも見ていないのか。

 

 その声だけは、はっきり震えていた。

 

「そんな顔してたら、だいたい分かっちゃうよ。幼馴染なんだから、さ」

 

 その言葉は、いつもなら少し得意げに聞こえたかもしれない。

 

 僕のことならなんだって分かる。

 僕の考えていることくらい、顔を見れば分かる。

 

 昔の凰佳なら、そんなふうに笑っていたと思う。

 

 けれど今の声に、勝ち誇るような響きはなかった。

 分かってしまったことを、本人が嫌がっているような声だった。

 

 沈黙が、少しだけ長くなった。

 

「美烏ちゃんのこと、特別?」

 

 その名前が出た瞬間、心臓の音がやけに大きく聞こえた。

 

 誤魔化すことはできた。

 まだ分からないとか、そういう話じゃないとか、曖昧な言い方はいくらでもできた。

 

 でも、それをするためにここへ来たわけではない。

 

「……うん」

 

 短く答えた。

 

 たった一言なのに、口に出した瞬間、戻れない場所まで来てしまった気がした。

 

 凰佳は目を伏せたまま、少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

 短い声だった。

 

 納得したというより、そこまでしか声にできなかったみたいだった。

 

「美烏ちゃんなんだ」

 

 凰佳はそう言って、足元の砂を見た。

 

 靴先が、ほんの少しだけ砂を押す。

 何かを蹴るほど強くもなく、かといって、何もしないでいられるほど平気でもない。

 

「……やだな」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

 その声は、怒っているようにも、泣きそうなようにも聞こえなかった。

 ただ、本当に嫌なのだと分かる声だった。

 

 美烏を責める言葉でも、僕を責める言葉でもない。

 好きな人が自分ではなかったという、ただそれだけの事実に、彼女は傷ついていた。

 

 返事を探す間に、足元の砂だけが目に入った。

 

「私、最近ちゃんとしてたでしょ」

 

 凰佳は、ブランコの鎖から指を離さなかった。

 

「うん」

「友達っぽくしてた」

「……うん」

 

 ちゃんとしていた。

 

 傷の入ったペンのことを思い出す。

 夜鳥さんに煽られて、僕の知っている凰佳が、僕の知らない熱を覗かせた日のこと。

 

 あの時、凰佳は間違えなかった。

 

 怒りを誰かに向ける代わりに、自分の手の中にあったペンへ逃がした。

 本物ではないかもしれないペンに、本物の傷だけを残して、友達ならそこは間違えないと言った。

 

 山岡が幼馴染の味方みたいな顔をした時も、凰佳はその言葉に乗らなかった。

 その方が、きっと楽だったはずなのに。

 

 僕の隣に、もう一度まっすぐ立つために。

 

 凰佳は何度も、自分の中にあるものを飲み込んできた。

 

「じゃあ、もう少し待ってくれてもよかったじゃん」

 

 靴先に触れた小石が、砂の上を転がった。

 

 その音で、凰佳は少しだけ我に返ったようだった。

 

「……ごめん。今の言い方、ずるかったね」

 

 凰佳は小さく首を振った。

 その声を聞いて、胸の奥が痛くなった。

 

 ずるいのは凰佳だけではなかった。

 

 友達からで、と言ったのは僕だ。

 凰佳がちゃんと友達でいようとしてくれたことに、安心していたのも僕だ。

 

 このままなら、凰佳を傷つけずに済むかもしれない。

 そんな都合のいい場所に、僕は彼女を置こうとしていた。

 

 でも、もうそういう扱い方はしたくなかった。

 

 凰佳が、友達という場所を守ろうとしてくれたから。

 怖いから距離を置く相手ではなく、大切だからこそ逃げずに答えなければならない相手だと、僕もようやく思えたから。

 

「凰佳」

 

 名前を呼ぶと、彼女の肩がほんの少し揺れた。

 

「凰佳のことは、大切だよ」

 

 彼女は何も言わなかった。

 

「友達からやり直したいって言ってくれたこと、嬉しかった」

「……うん」

「その言葉を守ろうとしてくれたことも、分かってる」

 

 確かめるように、僕は続けた。

 

 優しくしたいわけではなかった。

 傷を浅く見せたいわけでもなかった。

 

 ただ、彼女が積み上げてきたものを、僕の答えひとつでなかったことにはしたくなかった。

 

「だから、僕もちゃんと向き合いたい」

「……っ」

「凰佳を、僕のそばに置いておくための友達にしたくない」

 

 伏せられていた目が、ゆっくりと僕に向いた。

 

「凰佳は、大切な友達だよ」

 

 口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 

 逃げ道ではなく。

 凰佳が選んでくれた場所を、僕も受け取るために。

 

「でも、僕は凰佳を恋人には選べない」

 

 凰佳の指が、鎖からゆっくり離れた。

 

「……うん。分かってた」

 

 笑っていた。

 少なくとも、笑おうとしていた。

 

「友達からやり直して、そこからまた好きになってもらえるかもって、ちょっと思ってた」

 

 そこで、困ったように息を吐いた。

 

「……ちょっとじゃなかったかも」

 

 それを受け止めるだけで、精一杯だった。

 

 凰佳は泣かなかった。

 泣く代わりに、自分で自分の未練を笑っていた。

 

 その笑顔が、たまらなく痛かった。

 

「やっぱり、痛いね」

 

 彼女は胸のあたりを押さえるようにして、俯いた。

 

 手を伸ばしかけた。

 肩に触れて、大丈夫だと言って、何かを取り繕うことならできたのかもしれない。

 

 でも、それをした瞬間、僕はまた凰佳を曖昧な場所へ戻してしまう。

 

 伸ばしかけた手を握り込んだ。

 それでも、余計な優しさまでは止められなかった。

 

「無理に受け止めなくていいよ」

「そういうところだよ」

「……え?」

「そういうところが、ずるいんだよ。ほーすけは」

 

 いつもの呼び方だった。

 

 けれど、いつもの響きではなかった。

 甘えるみたいな軽さも、からかうみたいな近さもない。

 

 痛みをこらえながら、僕の名前を呼んでいる声だった。

 

 凰佳は顔を上げた。

 

 目元が赤くなっている。

 それでも涙は落ちていなかった。

 

 こらえているのか、まだ泣く場所を見つけられていないのかは分からない。

 

 凰佳は唇を強く結び、息を吸った。

 

「今日は、まだ無理」

「明日も、たぶん無理」

「でも、ちゃんと友達やるから」

 

 一つずつ、自分に言い聞かせるみたいに言った。

 

「鳳介がくれた痛みだから」

「ちゃんと、友達として悔しがるね」

 

 受け入れたわけではない。

 平気になったわけでも、祝福してくれたわけでもない。

 

 それでも、僕に返す言葉を間違えなかった。

 

 恋人として縋るのではなく、友達として悔しがる。

 痛がる場所を、自分で選んだ。

 

 そんなことを、今の彼女に言わせてしまった。

 

 傾き始めた光が、凰佳の横顔を照らしていた。

 桜色の髪の先だけが、今にもほどけてしまいそうに見えた。

 

 彼女はブランコの前から一歩離れた。

 

「じゃあ今日は、一人で帰るね」

「……送るよ」

「駄目」

 

 凰佳は一瞬だけ息を止めたが、それでも取り消しはしなかった。

 

「今送られたら、私、友達やれなくなりそうだから」

 

 言い終えると、かすかに表情を緩めた。

 

 笑顔と呼ぶには弱くて、泣き顔と呼ぶには形を保ちすぎている。

 そのどちらにもなりきれない表情が、今の凰佳そのものみたいだった。

 

「またね、ほーすけ」

 

 そう言って、凰佳は背を向けた。

 

 公園の出口へ向かう足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 

 呼べばまだ届く距離だった。

 それでも、僕は名前を呼ばなかった。

 

 風もないのに、ブランコがかすかに揺れて、鎖が鳴った。

 

 昔はあんなに広く見えた場所で、僕はようやく、幼馴染を本当に傷つけたのだと分かった。




ここまで読んでいただきありがとうございます。次回、最終回になります。
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