重い展開が続きましたが、肩の力を抜いて読んでいただければ嬉しいです。
朝から、家の中は妙に穏やかだった。
台所から包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえてきて、味噌汁の湯気がリビングまで薄く漂っている。
ただし、窓の外では丸っこいライチョウが一羽、ガラス越しにこちらを覗き込んでいた。
ここは高山帯ではない。山へお帰り。
悲しいことに、これくらいの出来事は、僕の日常を彩るちょっとしたスパイスでしかなかった。
絶滅危惧種が窓の外にいる。鷺里さんが台所にいる。食卓につけば、僕の湯呑みは空になる前におかわりを注がれる。
そんな、いつも通りおかしくて、いつも通り優しい朝の中で、僕はずっと、言葉を探していた。
朝食を終えても、その言葉はなかなか見つからなかった。
改めて面と向かって話すとなると、どうにも照れくさい。普段なら軽口の一つでも挟んで誤魔化すところだけれど、今日ばかりはそういうわけにもいかない。
「鷺里さん。今、少しいいですか」
「はい。何でしょうか」
鷺里さんは湯呑みにお茶を注ぎながら、静かにこちらを見た。
「今日、美烏に大切な話をするつもりです」
急須を傾ける手が、わずかに揺れた。
それは驚きというより、風向きが変わったことを確かめるような間だった。
やがて彼女はお茶を注ぎ終え、音を立てないように急須を置いた。
湯気が、二人の間を細く揺れた。
「その前に、鷺里さんと話したくて」
「私と、ですか」
鷺里さんは、意外そうに目を瞬いた。
言い出せずにいた言葉が、また喉の奥で止まりかける。
けど、ここで逃げたらダメだ。
この穏やかな朝をくれた人に、何も言わないまま進むのは違うと思った。
「鷺里さんには、何度も助けてもらいました」
たったそれだけの言葉で、これまでの朝や夜が静かに重なった。
「助けたなどと、そんな。大げさな――」
「大げさなんかじゃないです」
最後まで言わせる前に、僕は首を横に振った。
「凰佳のことで駄目になっていた時も、三者面談で困っていた時も」
その時々のことを思い出すと、どう言葉を尽くしても足りない気がした。
「それに、毎日ご飯を作ってくれたことも」
並べてみれば、それが一番日常的で、たぶん一番、僕の奥に残っていた。
派手な戦いでも、命を救われた瞬間でもない。
朝、目が覚めると台所に誰かがいること。学校から帰ってくると、夕飯の匂いがすること。
そういう日々の積み重ねに、僕は思っていた以上に救われていた。
まあ、献立の唐揚げ占有率については、いずれ正式に話し合いの場を設ける必要があるかもしれないが。
「だから、ちゃんとお礼を言わせてください」
言い慣れない言葉は、やっぱり少しだけ喉につかえた。
「ありがとうございます。鷺里さんがいてくれたから、僕は今日を迎えられました」
鷺里さんは、静かに目を伏せた。
長い睫毛の影が、白い頬に淡く落ちる。
そこに寂しさがあったのか、安堵があったのか、僕には上手く読み取れない。
ただ、次に顔を上げた彼女の声は、いつものように穏やかだった。
「そう思っていただけたのなら、私は十分です」
僕は、思わず彼女をじいっと見た。ちょうど窓の外にいるライチョウみたいに。
「たぶん、全然伝わってないと思います」
「そうでしょうか」
「そうです。今ので十分にされたら、僕の感謝が行き場を失います。路頭に迷います」
困ったような笑みが返ってきた。
「それは、いけませんね」
「はい。いけません」
「では、ちゃんと受け取らせていただきます」
鷺里さんはそう言って、湯呑みを両手で包むように持った。
僕の感謝まで、そうして包んでくれているようだった。
拒まず、誤魔化さず、必要以上に小さくもせず、ちゃんと自分の中へ収めてくれる。
やがて、まっすぐな視線が僕に向けられた。
「佐鳥さんは、最後まで投げ出しませんでした」
胸の奥を、静かに押されたような気がした。
夜鳥さんの告白。凰佳の泣きそうな笑顔。ここに来るまでに向き合ってきたものが、一瞬だけ湯気の向こうをよぎる。
うまくできたとは思わない。誰も傷つけずに済ませられたわけでもない。
それでも、迷いながら選んできたことを、鷺里さんは見守ってくれていた。
途端に、目の奥が熱くなった。
「……そう見えていたなら、よかったです」
言ってから、慌てて瞬きをした。
感謝を伝えるつもりだったのに、気づけば僕の方が救われてしまっていた。
泣くほどのことじゃない。
そう思ったのに、視界の端で朝の光があわく滲みだす。
こぼれる前に、湯呑みを思い切り呷った。
まだ熱いお茶を、強引に喉へ流し込む。
猫舌のくせに何をしているんだと自分でも思ったけれど、今はその熱さがありがたかった。
鷺里さんは何も言わなかった。
気づかなかったのではなく、気づかないふりをしてくれたのだと思う。
頃合いを見て、彼女はこちらを安心させるように表情を緩めた。
「いつか、食卓に黒羽さんの席が増えるのでしょうか」
一拍遅れて、その意味が頭に届いた。
「いやいや。どうなるかも分からないのに、気が早すぎますって」
ようやくそう返すと、彼女は目尻を和らげた。
「では、そうなった時の献立を考えておきます」
「さすが鷺里さん、準備が早い」
「食卓を預かる者として、当然です」
言い方があまりに誇らしげだったので、僕は小さく笑ってしまった。
落ち着いたところで、鷺里さんは膝の上でそっと手を重ね、背筋を正した。
「今日、佐鳥さんが選ぶ道を、私はお護りします」
「……はい。ありがとうございます」
もう一度、僕は深く頭を下げた。
鷺里さんはそれ以上尋ねず、台所へ戻っていく。割烹着の紐が小さく揺れ、まな板の前に立つ背中が、いつもの朝の景色に戻っていった。
僕はその背中を見送りながら、胸の奥に置いた言葉を、そっと握り直した。
□
呼び鈴は、午後二時ちょうどに鳴った。
壁の時計を見ると、秒針まできっちり十二のところを指していて、一秒の狂いもない。
もしかすると、玄関の向こうで腕時計でも凝視しながら、秒針が重なる瞬間を今かと待っていたのかもしれない。
妙に想像できてしまうのが困る。
玄関を開けると、予想通り、美烏が立っていた。
今日は白いブラウスに淡いベージュのカーディガンを羽織り、膝下まである深い紺色のスカートを穿いていた。
その姿がいつもより柔らかく見えたのは、たぶん、カーディガンの色のせいだった。
肩から下げたショルダーバッグは、この前と同じものだ。やっぱり、彼女の体格には少し大きく見える。
「佐鳥先輩。定期納品に参りました」
「いらっしゃい。今日も時間通りだね」
「信頼に関わりますので」
ケシカス定期納品の信頼とは、なんだろう。
疑問に思ったが、真面目に問うべき議題でもなかったので、近くの茂みに捨てた。
「まあ、上がって」
いつもの流れで美烏を部屋に上げる。
机の上に、小さな袋が置かれていた。
ラベルには『納品用』。人生で書いちゃいけないラベルランキングに、僕はまたしても手を染めてしまった。
それから、定期納品はつつがなく進んだ。
僕が袋を渡すと、美烏はそれを丁重に受け取り、鞄の中へしまった。硝子細工でも扱うような繊細な手つきだった。
もちろん、中身は割れ物ではない。
「毎度思うけど、それ、そんなに大事にするものかな」
「佐鳥先輩からいただいたものですので」
「ただのケシカスだけど」
「私にとっては、宝物です」
その大袈裟な表現が冗談なのか本気なのか判らず、返答に困る。
美烏は鞄の口を閉じる。
ぱちん、と留め具の音がした。
「美烏」
「はい、先輩」
「たぶん、それで最後になると思う」
鞄の上で、美烏の指が止まった。
家の庭木で、鳥が短く鳴く。
その声が途切れても、美烏はすぐには顔を上げなかった。
「……定期納品の終了、でしょうか」
「うん」
赤い瞳が、ゆっくりと僕を見る。
声は震えていない。表情も変わらない。
けれど、鞄に添えられた指先だけが、布地をわずかに押さえた。
定期納品は、共犯者の報酬だった。
僕が書いて、消して、迷ったものの欠片を、美烏が受け取る。字面はどうかしているが、僕たちの間では、いつの間にかそういうものとして定着していた。
それを、終わらせる。
共犯者という関係を、そのまま続けることはできないと告げたも同然だった。
僕は机の端に置いていたペンケースへ手を伸ばして、中から銀色の万年筆を取り出した。
長い間、キャップのないままだった万年筆。
美烏はそれを見て、服の上から紐の位置を押さえた。
「そのキャップ、返してもらってもいいかな」
すぐに返事はなかった。
視線が、万年筆と僕の顔を行き来する。
添えられた白い手に、ほんの少しだけ力が入った。
そのまま、彼女はしばらく動かなかった。
拒んでいるわけではない。
ただ、失うものの形を確かめているように見えた。
やがて、美烏は小さく息を吐いた。
「……承知しました」
美烏は首元へ指を伸ばし、服の内側に隠れていた細い紐をそっとたぐった。
その先に、小さな黒いキャップが現れる。
人に見せるための飾りではない。煌びやかな宝石でも、華やかな装飾の類いでもない。ただの、古い筆記用具のキャップだった。
彼女はそれを大切に包み込むようにして、僕に差し出した。
手と手が、わずかに触れ合う。
小さな金属音を立てて、万年筆のキャップが僕の手のひらに収まった。
「大丈夫」
できるだけ穏やかに言った。
「美烏を遠ざけたいわけじゃないよ」
その瞳は、まだ不安げに揺れていた。
僕はもう一つだけ言葉を足す。
「ただ、元の形に戻したいんだ」
「……はい」
やがて美烏は静かに頷いた。
僕はキャップを嵌める。かちり、と小さな音がした。
美烏の首元には、もうキャップがない。
その空白を見つめてしまう前に、僕は万年筆を机に置いた。
コンコンコン、と。
ちょうどその時、部屋の扉が控えめに三回叩かれた。
「失礼いたします」
顔を出したのは鷺里さんだった。
扉の前でタイミングを見計らっていたとしか思えない、あまりに間のよい登場だった。
「黒羽さん。お茶を淹れるので、手伝ってもらってもよろしいですか?」
「……私が、ですか」
美烏にしては珍しく、わずかに戸惑いの浮かんだ顔だった。
当然だ。客人にお茶を出させる家は、おそらく普通ではない。
「はい。ベンヌ流最強のお茶の淹れ方を、黒羽さんに伝授します」
「ベンヌ流」
聞き慣れない単語を確かめるように、美烏は繰り返す。僕も聞いたことがないパワーワードだった。
「毎朝、佐鳥さんに提供しているものです」
ふふん、と鷺里さんは得意げに頷いた。
あのお茶って、そんなに大層な代物だったの?
いや、待て。
それはお茶だけで済む話なのか。
僕が知らないだけで、我が家の食卓に並ぶ料理の一品一品に、すでに「ベンヌ流最強」とかいう強そうな枕言葉が付いている可能性がある。
そんな恐ろしい想像を広げかけたところで、横にいた美烏がすっと立ち上がった。
赤い瞳には、妙なやる気が宿っている。
「何をしているんですか。早くしましょう」
「あっ、はい。参りましょうか」
鷺里さんは少しだけ押されながらも、美烏を連れて部屋を出ていく。
扉が閉まる直前、こちらを振り返った鷺里さんが、お茶目に片目を閉じた。
なんとなく僕もウインクを返した。
本当にありがたい。僕は最後まで頼ってばかりだ。
鷺里さんは謎の流派まで持ち出して、僕に時間をくれた。
机の上には、久しぶりにキャップを嵌めた万年筆がある。
銀色の軸が、午後の光を細く受けていた。
父さんのものだった本体と、美烏がずっと抱えていたキャップ。
ばらばらだったものが、今は僕の手の届く場所で、静かに一つになっている。
この万年筆で、僕はやらなければいけないことがあった。
□
気づけば、夕方が近づいていた。
リビングへ下りると、美烏は湯呑みを両手で持ち、鷺里さんと向かい合って座っていた。
ベンヌ流最強のお茶の淹れ方とやらがどれほどの奥義だったのかは分からないが、美烏の表情はいつになく険しかった。
お茶の淹れ方一つにそこまで真剣になれるのは、八咫烏か大会前の茶道部くらいだと思う。
「佐鳥先輩」
「うん?」
「私にも、淹れられるようになりました」
「もう習得したんだ」
「はい。いずれ唸らせます」
その当たり前みたいな顔に、胸の奥が少し温かくなる。
今日、僕は定期納品を終わらせた。
それでも美烏は、まだ終わった後のことを考えている。
鷺里さんは何も言わず、穏やかに湯呑みを置いた。
窓の外の光は傾き始めて、部屋の中に、夕方の気配が滲んでいった。
「では、私はこれで失礼します」
美烏が立ち上がる。
僕も、遅れて立ち上がった。
「送るよ」
「必要ありません。八咫烏ですので」
「それは、確かにな……」
八咫烏は導きの神。
道に迷う心配はないし、たとえ暴漢に襲われようが自力で対処可能だろう。むしろ、僕がいた方が邪魔まである。
この後輩、レスバが強い。
たった一撃で、僕は反論の言葉を完全に失ってしまった。
なので、理屈は諦めることにした。
「でも、僕がもう少し一緒に歩きたいんだ」
美烏は、わずかに瞬きをした。
「……承知しました」
玄関の戸を開けると、夕方の空気が入り込んできた。
やわらかい風が、どこかから夕飯の匂いを運んでくる。煮物か、カレーか、僕の鼻では判別がつかない。どちらも混ざっていたのかもしれない。
美烏は静かに隣を歩いていた。
肩が触れるほど近くはない。
手を伸ばせば届くけれど、伸ばさなければ届かない距離。
「あの曲がり角、だいたい信号に引っかかるんだよね」
「負け続けているのですか」
「は、敗北者……?」
実際、今日も赤信号に捕まった。
車も通っていないけれど、僕たちは横断歩道の前で足を止めた。
夕方の信号機は、妙に存在感がある。
赤い光が美烏の瞳に反射して、その色を少しだけ深くした。
しばらく沈黙が続いたが、不思議と悪くないと思った。
「あそこの家、前を通るだけでチワワに吠えられるから、覚悟しといたほうがいいよ」
「よほど警戒されているのですね」
「らしいね。僕はチワワ界隈ではかなり評判が悪い」
案の定、犬は吠え散らかした。
それも僕だけに。
完全に舐めくさった目をしている。
吠えても何もしてこないチキン野郎だと思われている。
その通りなので、何も言い返せない。
僕がチワワの激しい怒号を甘んじて受け入れていると、美烏が犬を一瞥した。
それだけで、さっきまで毛を逆立てて尻尾を暴れさせていた犬が、急にひっくり返って全面降伏しだした。
「わあ、さすが八咫烏」
「それほどでもありません」
美烏は何でもないように、髪を耳にかけた。
犬はお腹を見せたまま、潤んだ瞳で彼女を見つめている。尻尾は控えめに地面を叩いていた。
僕は筆箱をパクられるという衝撃的な出会いを果たしたせいで、美烏をわりと普通の後輩として扱っている。
けれど、視線一つで犬を全面降伏させる姿を見ると、今さらながら思う。
この後輩、本当に八咫烏で、神様なのだ。
罰とか、当たらないよね?
神罰の有無を確かめる勇気はなかったので、僕は黙って歩き出した。
しばらくすると、見慣れたコンビニの看板が見えてきた。
土下座する店長の姿が頭を過ぎり、あそこでも色々あったな、と思う。
ただ、今日はその前を通り過ぎるだけでよかった。
夕暮れの光は、少しずつ薄くなっていく。
住宅街に、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めた。昼の名残を抱えた空の下で、白い光が地面に小さな円を作っている。
歩いているうちに、会話がふと途切れた。
どこかの家の食器の音が聞こえてくる。
その音がかえって、辺りの静けさを濃くした。
「定期納品が終われば」
静けさの中に、美烏の声が落ちた。
「佐鳥先輩の家を訪ねる理由が、なくなります」
その声は、いつも通り平坦だった。
隣の足音だけが、わずかに遅れる。
僕も自然と速度を落とした。
街灯の淡い光の下で、結ばれた黒髪が小さく揺れる。
「口実がなくても」
「はい」
「美烏が来たいと思ってくれたなら、僕は嬉しいよ」
遠くで、夕方のチャイムが鳴った。
音は住宅街の屋根を越えて、少し遅れて僕たちのところまで届いた。
美烏は前を向いたまま、ゆっくり息を吸った。
「……行きたい、です」
小さな声だった。
夕方の空気に紛れてしまいそうなほど、頼りない。
それでも、僕にははっきり届いた。
「うん」
僕は歩く速度を変えずに言った。
「待ってる」
美烏は何も言わなかった。
ただ、鞄の紐を握っていた指から、ゆっくり力が抜ける。
それだけで、僕の言葉が伝わったのだと分かった。
僕は上着の内側に触れた。
そこには、白い封筒が入っている。
家を出る前から、ずっと気になっていた。
紙一枚と封筒一枚のはずなのに、胸元だけが妙に重い。
僕はそれを取り出して、美烏に差し出した。
「これ、読んでほしい」
「手紙ですか」
美烏の視線が、僕の手元に落ちる。
封筒の端が、夕方の光を受けていた。
差し出した手は、自分でも分かるくらい頼りなかった。
ほんの少し気を抜けば、そのまま引っ込めてしまいそうだった。
夜鳥さんは、すごいな。
この緊張を抱えたまま、それでも自分の言葉で伝えたのだから。
だから僕も、封筒を引っ込めなかった。
美烏は、そっとそれを受け取った。
白い封筒が、彼女の指先に収まる。
その瞬間、僕の手だけが、急に空っぽになった気がした。
「ここで開けてもよろしいですか」
「うん、大丈夫」
美烏は街灯の下へ、わずかに身を寄せた。
白い封筒を両手で持ち、しばらく見つめる。
それから、端に指をかけた。
紙の擦れる音が、小さく夕闇に混じる。
彼女は中の便箋を取り出し、折り目を開いた。
美烏へ
返してもらったキャップで、この万年筆はようやく一本に戻りました。
今日で、共犯者という関係を終わらせます。
それでも僕は、その名前がなくなっても、これからも君と一緒に歩いていきたいと思っています。
この願いで、美烏の答えを縛りたくなかったので、手紙にします。
返事は、美烏のものです。
佐鳥鳳介
美烏の視線が、便箋の下の方で止まった。
けれど、顔は上がらない。
沈黙の帳が下りた。
それは、静かというよりも痛かった。
胸の奥を細い糸で締められているみたいで、息を吸うたびに喉の奥が詰まる。
僕は何も言えなかった。
今さら取り消すことも、言い足すこともできない。
彼女の指先は、便箋の端に添えられたまま動かない。
近くの電線に、ムクドリが数羽止まっていた。
いつもなら騒がしく鳴き交わしていそうな鳥たちが、今だけは静まり返っている。
まるで、固唾をのんで僕らの行く末を見守っているみたいだった。
鳥がそんな顔をするのかは分からない。
それでも、そう思えるくらい、世界が止まった。
美烏の指先が、便箋をわずかに握り込んだ。
唇が、小さく開く。
声になるまでには少し時間がかかった。
「上手く、言葉にできるかわかりません」
僕は黙って頷いた。
続きを急かすつもりはなかった。
「私は、口下手なので」
「大丈夫」
できるだけ静かに言った。
「待つよ」
美烏は、便箋に視線を落とした。
そこに書かれた言葉を、もう一度、自分の中へ収めるみたいに。
ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐く。
それから、胸元へそっと寄せた。
「私も、先輩の隣を歩きたい、です」
そこで、ようやく視線が重なった。
街灯の光が、潤んだ赤い瞳の奥で揺れていた。
「これからも、ずっと」
声はまだ小さかった。
ただ、今度は迷っていなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。
「……うん。よろしく」
美烏は便箋を両手で抱えたまま、静かに頷いた。
すぐには封筒に戻さなかった。
何度も読み返してから、指先で折り目をなぞり、最初よりもずっと丁寧に畳んだ。
「この手紙は、一生、大切にします」
「ありがとう」
「帰ったら親に自慢します」
「やめてね?」
僕の必死の懇願が届いたのかどうかは分からない。
電線に止まっていたムクドリたちが、一斉に鳴き始めた。
やはり僕らの行く末を見守っていて、鳥たちなりに祝福しているのかもしれない。
世界が、ようやく動き出したみたいだった。
美烏は白い封筒を大事そうに鞄へしまう。
それから、少しぎこちない足取りで僕の隣へ戻ってくる。
僕たちは、また歩き出した。
さっきまでと同じ道を。
けれど、隣にいる理由だけが、確かに変わっていた。
□
それから、長いながい年月が経ちました。
むかしむかし、あるところに、不思議な鳥のお医者さまがおりました。
なんでも、どんなに気の荒い鳥でさえ、そのお医者さまがひと声かけるだけで、ふしぎとおとなしくなり、よい子で手当てを受けたといいます。
たいそう腕がよく、鳥たちにはとても好かれ、町の人々からも頼りにされていたとか。
そんなふるまいから、いつしか町では、小さな伝説のように語られるようになりました。
けれど、そんなふうに大げさに語られるたび、本人は困ったように笑って、こう言ったそうです。
僕は伝説のポケモンではないよ、と。
それからもお医者さまは、隣でよいお茶を淹れてくれる人と、幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
『鶴が恩返ししないんだが』は、本話をもって完結となります。
鳥たちの行く末を見届けてくださった皆さまに、心から感謝を。
よろしければ、評価・お気に入り・感想などでそっと背中を押していただけると嬉しいです。
作者が少し長生きします。
第2回:一番好きなヒロインは?
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大鳥鷺里
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夜鳥雀
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小鳥遊凰佳
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黒羽美烏
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松井ぽっぽ