体感時間にして、およそ三年。
手と手が重なり合ってしまい、ちょっと気まずい心地の僕らの間には、それはそれは長い沈黙が訪れていた。
いや、どうしてくれんのこの空気。
気まずさに耐えきれず、僕は改めて目の前の大男――松井を見据える。
ちなみに下の名前は、ぽっぽらしい。
ぽっぽ、などという愛らしい響きに騙されてはいけない。この男の図体には、一ミリの可愛げも存在しないのだ。
身長はおよそ180センチ。換算するなら鳩六羽分といったところか。
体重に至っては優に二百羽を超えるだろう。制服の生地が悲鳴を上げるほどの筋肉モリモリマッチョマンの変態であり、無骨な顎に生えた髭の剃り残しが仄かなワイルドさを醸し出している。
「……好きなのか?」
「へっ?」
よもや沈黙を破ったのは、松井のほうだった。
低く地を這うような声。好きなのかって、一体何を?
まさかと思うが、松井のことをだろうか?
だとしたら僕は丁重にお断りするしかない。
ごめんなさい。まずはお友達からでお願いします。
「お前も鳥のこと、好きなのか?」
まあ、十中八九そんなことだろうと思ってたよ。
でも十中八九の二または一で、本当に愛の告白かもと夢見ていた僕がいたことも否定できない。
「うん、まあね。犬派か猫派かって訊かれたら、迷わず鳥派って答えるくらいには」
「いや、そこは犬か猫で答えろよ」
松井が呆れたように笑った。馬鹿にする笑い方ではなかった。
その不器用な笑顔が意外なほど幼く見えて、彼に抱いていた近寄りがたい印象が、スッと薄れていくのを感じる。
「お前もってことは、松井も鳥が好きなんだ?」
「ああ。昔、文鳥を飼っていてな。ピーちゃんって言うんだが、それはもうかわゆい奴だった。あと、名前で呼んでもらって構わないぞ」
遠い空の向こう――あるいは記憶の彼方を見つめるような穏やかな瞳で、松井は語った。
なるほど、「可愛い」が「かわゆい」に変換されてしまうほどの溺愛ぶりか。きっとピーちゃんは、この大男の心を癒やすかけがえのない存在だったのだろう。
生あたたかい気持ちになった僕は、満面の笑みで即答した。
「ぽっぽって呼ぶのは絶対に嫌だ」
「……そうか」
ぽっぽはないでしょ、ぽっぽは。その見た目で。
こんなことが世にまかり通ってしまえば、僕はぽっぽと聞くたびに筋肉ムキムキマッチョマンの変態がフラッシュバックしてしまうことだろう。
それだけは絶対に避けなければならない。この命にかえても。
「佐鳥は家で何か飼っているのか?」
「ああ、うん? そうなる、かも?」
自宅のキッチンで夕餉の支度をしてくれているであろう鷺さんを思い浮かべ、言葉が濁る。
たとえ正体が鷺だとしても、あんなに美しくて家庭的な美少女を飼っていると表現するのは、どうにも背徳感があって歯切れが悪くなってしまう。
「そうなのか。ちなみに種類は何だ?」
「鷺だよホントだよ嘘じゃないもん!」
「別に疑っちゃいないが」
そう言われても、僕自身が一番疑っているのだから仕方がない。
あれは本当に鷺で合っているのだろうか。
もしかして鷺って姓なだけで、普通の人間なのかも? 鳥は人型にならないもんね?
「鷺って、個人で飼えるもんなんだな。鳴き声とか、かなり凄いと聞くが……」
「す、凄いね、うん。そこはやっぱり、我慢かな?」
彼女の本来の鳴き声なんて聞いたこともないが、ボロが出ないように適当な相槌を打つ。
その瞬間、窓の外でバサァッと巨大な鳥が飛び立ったような羽音が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「あっ、そうだ。松井って鳥に詳しそうだから、ちょっと聞きたいんだけど……」
「ああ。鳥のことなら何だって聞いてくれ」
頼もしい言葉に背中を押され、僕は今朝の朝チュンについて話した。
いや、朝チュンならぬ朝ケケケケックァ~~ギャギャギャックワァ~~について話した。
喉仏を極限まで酷使し、僕は全力でその声真似を披露した。
図書室を利用しているみんなに申し訳ないと思いながらも、僕はなんとかやりきった。
「はあっ、はあっ……どうかな? なんて鳥か、わかる?」
息も絶え絶えに尋ねる。
もう二度とこんな奇声は上げまいと固く誓った。
なぜなら、松井の背後から、阿修羅のような形相を浮かべた図書館司書の先生が向かってきているのが視界に入ってしまったからだ。
僕が処刑される三秒前。深く熟考していた松井が、真剣な面持ちで口を開いた。
「それは、プテラノドンだな」
「おいっ!!」
□
「あ゛あ゛〜〜っ、やっと娑婆の空気が吸える〜〜っ」
生活指導室という名の独房から解放された僕は、ゾンビのような呻き声を上げて廊下で盛大に伸びをした。
時刻は17時。空は燃えるような茜色に染まりつつある。
まさか昼休みから五限と六限の授業まで丸ごとすっ飛ばして、こんな時間まで拘束されることになるとは夢にも思わなかった。
あれ? 僕ってそんなに大罪を犯したっけ?
まあ、図書室の安寧秩序を脅かしてしまったのだから、当然の結果か……。
理不尽さへの不満をくすぶらせながら廊下を歩いていると、曲がり角で見知った背中を見つけた。
「おーい、
「あれ、ほーすけ? どしたの、こんな時間まで残ってるなんて」
驚いたように目を丸くし、小首を傾げる少女――
腐れ縁などと呼ぼうものなら「腐ってない!」とぶち切れて手が付けられなくなるので、取り扱いには注意が必要である。
緩いウェーブの掛かった桜色の髪と、夕日を反射して透き通る琥珀色の瞳。背丈は平均くらい。
神秘的なまでに整った顔立ちと、誰にでも分け隔てなく接する人間性から、男女を問わず圧倒的な人気を誇っている。
天は二物を与えず、なんてことわざは彼女の存在だけで否定できてしまう。
そんな彼女が僕のことを「ほーすけ」と呼ぶたび、周囲の男子から見えない矢が飛んでくる。たぶん毒矢だ。
「いや、まあ……ちょっと野暮用で」
僕は誤魔化すように頭を掻き、苦笑いを浮かべた。
まさか図書室で奇声を上げて生活指導室で説教されていました、なんて情けない理由は口が裂けても言えない。
流石に立つ瀬がなくなってしまう。元からないけれど。
「ふぅ~ん、そっか」
あまり納得していないのか、曖昧な相槌を打たれる。
じっとりとした視線を向けられているし、どうやら後ろめたい理由があることは、長年の付き合いである彼女の目には筒抜けらしい。
「そんなことよりさ、大会って今週末だっけ?」
追及を逃れるため、僕は強引に話題を切り替えた。
彼女はクイズ研究部に所属しており、その大会が今週末に控えていたはずだ。ライブ配信も行われるような規模の大きい大会らしく、凰佳が意気込んでいたのを記憶している。
「うん。まあ今週末っていうか、明日なんだけどね」
なるほど……。
どうやら僕が思っていたよりも、月日は早く過ぎていたようだ。
「それより、ゴメンね? 最近ご飯作りに行けてなくって……」
「いいよいいよ、気にしないで。いつもお世話になってるんだからさ」
申し訳なさそうに眉尻を下げる凰佳に、僕は慌ててフォローを入れた。
大会前で忙しいのは重々承知している。
それに最近は、鷺さんの恩返しキャンペーンのおかげで、僕の食生活はかつてないほどに充実しているのだ。
「でも、大会が終わったらまた作りにいくから! それまではカップ麺で我慢してね?」
「流石にカップ麺ばかり食べてるわけじゃないからね?」
まあ、鷺さんが来る前は三食カップ麺に依存する荒んだ生活を送っていたけれど……。要らないことはわざわざ言わないに限るね。
他愛のない会話を交わしながら、いつの間にか僕たちは昇降口へとたどり着いた。
「おや?」
下駄箱から靴を出そうとした瞬間、何かが足元にパサリと落ちた。
拾い上げてみると、それは一通の手紙だった。表にも裏にも何も書かれていない真っ白な封筒。
それを視認した瞬間――僕は封筒を神速でスクールバッグの奥底へとねじ込んだ。
この間、僅かコンマ二秒。僕は一時的に人間の限界を超越したと確信する。
これを凰佳に見られたら、確実に面倒なことになる。よく外れる僕の直感が、激しくアラートを鳴らしていた。
「よっし、帰るかあ!」
「あっ、うん。どうしたの、急に」
僕がいきなり元気よくスキップを始めたものだから、凰佳がきょとんと目を丸くしている。
すまない、びっくりさせて。
「僕についてこいっ!」
「えっ、ちょっと! ほーすけ!?」
幼馴染を置き去りにする罪悪感を振り切り、僕は足早に校舎を後にした。
凰佳が早歩きで追いつける程度の絶妙な速度のスキップを刻みながら、僕は先ほどの白い封筒について思考を巡らせていた。
あれの中身は十中八九、果たし状だ。
中学生の頃にも似たような出来事があったので、ほぼ間違いないだろう。
『小鳥遊さんに手を出すな』
差し出し人は当時のクラスメイトだった。
手を出すなも何も、そもそも手を出した覚えはないのだけれど、周囲からはそう見えていたらしい。
あの時は流石に凰佳のアイドルのような人気ぶりに戦慄したものだ。
ああ、勿論呼び出しはすっぽかしたよ。腕っぷしなんて自信ないから。
翌日ビクビクしながら登校したのも今となっては懐かしい。
何故だか彼はそれから学校に来なくなってしまったので、事無きを得たのだけれど……。
だからこそ、この果たし状の存在を大会直前の凰佳に悟られるわけにはいかない。
余計な心配をかけたくないのだ。手紙は自室でじっくりと拝見し、もし文章に誤字脱字でもあれば赤ペンで校閲してやろう。
自宅に帰り着く頃には、太陽はすっかり地平線の向こうへと姿を消していた。
「じゃあ、また来週。大会、そこそこ頑張ってね」
「うん、ありがと。そこそこ頑張ってくる」
凰佳は小さくはにかんで、うちの隣の隣にある家へと入っていった。
うん、真隣ではないんだよな。おしどり夫婦として有名な田中家を間に挟んだ、隣の隣。近すぎず遠すぎない、絶妙な距離感である。
さて、僕も家に戻ろう。そう思い、玄関の扉を開ける。
「ただいま戻りま――って、鷺さん!?」
帰宅の挨拶をしながらリビングに入ると、鷺さんが死んでいた。ソファーの上でピクリとも動かない。
ど、どうしてこんなことに……。
僕はすぐさま駆け寄って、彼女の背中に腕を回して上半身を抱え起こす。
……温かい。良かった、体温はある。少なくとも最悪の事態は免れているようだ。
「いったいどうしたんですか、鷺さん!」
「うぅ……。さ、佐鳥さん……」
肩を優しく揺すりながら呼びかけると、彼女は苦しげに薄く目を開けた。
ああ、ダメだ。今にも消え入りそうな儚い表情。顔に明らかな死相が浮かんでいる。死相とかどんななのか知らんけど。
「佐鳥さんは……今朝の鳥のさえずりを、煩わしいと感じておられたのですね……?」
今朝の鳥の鳴き声……? ああ、あのプテラノドンの断末魔のことか。
なるほど、そういうことだったのか。鷺さんは同族のことを思って、心を痛めていたんだ。鷺さんの前でプテラノドンをけなした憶えはないけれど、それは今は置いておく。
確かに、あれはうるさい。
正直なところ、高性能な耳栓なしでは鼓膜が崩壊しかねないレベルの騒音だった。
だけど、それで良いんだ。
「とても良い目覚まし時計ですよ、あれは」
「さ、佐鳥さん……っ」
僕は今にも泣き出しそうな彼女の顔を見つめ、できる限り優しい声音で語りかけた。
プテラノドンが奏でる不協和音。そこから、僕らの朝が始まる。
そう、あれはきっと、僕らの心を繋ぐ素敵な音色なんだ。だから僕は、あのプテラノドンの狂騒を嫌いにはならないし、これからも愛し続けるだろう。
は? 何言ってんだこいつ。
「ありがとうございます、佐鳥さんっ。こうしてはいられません! 直ぐに夕餉の準備に取り掛かりますから!」
「僕も手伝いましょうか?」
「いえ! すべて私にお任せください!」
彼女は華奢な腕で力こぶを作るような仕草を見せ、「やーっ」と元気ですアピールをした。
僕の謎フォローのどこに回復要素があったのかは不明だが、鷺さんが蘇ってくれたのなら何よりだ。
残された僕はひとまず鞄を置くために、自室へと向かうことにした。
階段を上ってすぐの部屋。そこは誰にも邪魔されない僕の聖域だ。
ベッドにスクールバッグを放り投げ、ついでに我が身も投下する。およそ十二時間ぶりに味わう柔らかい布団の感触に包まれながら、僕はぼんやりと天井を仰いだ。
「なんだか、疲れたな……今日は」
横たわった途端、鉛のような疲労感がどっと押し寄せてきた。
確かに今日はいろいろありすぎた。たった一日が三年くらいの長さに感じられたのは初めてだ。
夕食の時間にはまだ余裕がある。僕はベッドの上に転がった鞄にちらりと目を向けた。
……確認しておくか、例のブツを。
上半身を起こし、鞄のチャックを開ける。中を漁って、先ほど手に入れたばかりの白い封筒を取り出した。
さてさて、一体どんな恐ろしい恨み辛みが綴られているのやら。
僕は小さく息を吐き、腹をくくって封を切った。
『佐鳥くんへ。放課後、校舎裏で待っています。大事な話があるので、必ず一人で来てください』
差出人の名前はない。女の子らしい丸みを帯びた文字で書かれたその内容は、拍子抜けするほどシンプルだった。
いや、待って。
これって……果たし状なんかじゃない。どう見ても、ラブレターなのでは?
あっ、えっ?
じゃあ僕は、せっかくの女の子からの呼び出しを完全にすっぽかして、軽快なスキップで帰宅した最低最悪のクソバカ野郎ってこと!?
「……やばたにえん」
静まり返った自室に、僕の乾いたつぶやきが虚しく響き渡った。
一番好きなヒロインは?
-
大鳥鷺里
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夜鳥雀
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小鳥遊凰佳
-
黒羽美烏
-
松井ぽっぽ