僕の両親は、世間から「鳥類保護の聖人君子」として称えられていた。
傷ついた野鳥を保護し、手厚く看病して自然へと還す。
地方のローカル番組や新聞の取材にも笑顔で応じ、動物愛護のボランティア団体からも表彰されるような、そんな立派な活動に生涯を捧げた心優しい夫婦。
それが、不慮の事故で帰らぬ人となった両親に対する、周囲からの疑いようのない評価だった。
けれど、実態はまるで違う。彼らの被っていた分厚い猫被りの下には、おぞましいまでの強欲さと冷酷さが隠されていた。
両親は僕の「鳥に好かれやすい体質」を悪用し、山奥や森の中で希少な鳥をおびき寄せては網で捕獲し、高値で売り飛ばす悪辣な密猟者だった。
彼らの目に映る僕は、可愛い我が子などではなく、ただの「金を生み出すための便利な道具」に過ぎなかった。
機嫌が悪い時や、親の非道な行いに僕が少しでも反対の意思を見せれば、容赦のない暴力が飛んできた。
平手打ち程度で済めばいい方で、時には蹴られ、時には物を投げつけられ、家の中は常に恐怖の空気に支配されていた。
何より辛かったのは、そんな家庭の事情を、すぐ近くにいる幼馴染の凰佳にバレてはいけなかったことだ。
もし彼女が僕の身体の傷を不審に思い、誰か大人に相談でもすればどうなるか。
世間体を何よりも気にする両親の耳に入ったとき、僕がどんな凄惨な折檻を受けるか分かったものではない。最悪の場合、本当に命の危険すらあった。
それに何より、太陽のように明るくて、大切で、少しお節介な幼馴染を、僕の家の暗い事情に巻き込んで傷つけたくなかったのだ。
だから僕は、両親から理不尽に殴られて顔や腕に酷い青アザができても、幼馴染の前では明るく、軽快に振る舞い続けた。
『あはは、ブレイクダンスの練習してたら盛大にやっちゃってさ。初心者がいきなり大技狙うもんじゃないね!』
痛む頬を引きつらせながらも、大袈裟なほどおどけた調子で笑い、必死に誤魔化す毎日。
しかし、不自然な怪我ばかりではいつか必ずボロが出る。
自然と僕はアザを隠すためにファンデーションの扱いを覚え、傷の手当を誰にも見られず迅速に行うために、絆創膏や包帯、消毒液を常に持ち歩くようになった。
そんな息を潜めるような生活の中、一度だけ、どうしても耐えられないことがあり、カゴから鳥を逃がしたことがある。
世間へのパフォーマンスとして、金にならないありふれた鳥は、いかにも「保護しました」という顔で雑な手当てを施して自然へ還される。しかし、その不運な雀は違った。
羽に傷を負い、血を滲ませて小刻みに震えていたその小さな命に対して、両親は信じられない言葉を吐いたのだ。
なにやら両親は、雀の焼き鳥をこれまで一度も食べたことがないらしい。
『こんな売り物にならないボロ鳥、逃がすだけ無駄だろ。ちょっと興味があるから、今晩串に刺して酒の肴にでもしてみようか』
リビングから聞こえてきた、下品な笑い声の混じったそんな会話を、僕は聞いてしまった。
このままカゴの中に捨て置けば、この小さな雀は間違いなく彼らの胃袋に収められてしまう。
しかし、僕が逃がしたと両親に知られれば、今度は自分がどんな恐ろしい目に遭わされるか。想像するだけで胃の腑がせり上がりそうになった。
それでも、恐怖でガタガタと指先を震わせながら、僕は鳥かごのカンヌキを外した。
『早く行きな。もう二度と捕まるなよ』
僕の手のひらからふらふらと飛び立っていく雀の、あの小さく頼りない羽ばたきを、今でも覚えている。
案の定、カゴが空になっているのを発見した両親の怒りは凄まじかった。
その後に待っていたのは、激しい暴力と、窓ひとつない冷たい物置への監禁だった。
埃っぽい床の上で空腹と痛みに耐えながら、僕はただただ泣くことしかできなかった。
全身打撲で学校を何日か休む羽目になり、ようやく復帰した時にはまた、幼馴染に怪しまれないための嘘の言い訳を死に物狂いで取り繕った。
なんと言ったのかはもう、吐いた嘘が多すぎて、よく覚えていないけれど。
そんな、身も心も擦り切れそうになる絶望的な日々の果てに。僕は冷たい雨の中で、呪詛を垂れ流してしまった。
「あんな親、もう帰ってこなければいいのに」
それは、弱り切った子供の単なる泣き言のはずだった。
しかし、願いは叶った。いや、叶えられてしまったのだ。
僕を家に一人放置して、高級レストランへディナーに向かっていた両親の車は交差点で凄惨な交通事故を起こし、帰らぬ人となった。
後日、警察からの話によると、突然数え切れないほどの烏の大群が車のフロントガラスにびっしりと張り付き、視界を奪われて制御不能に陥ったのだとか。
その話を聞いた瞬間、僕の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。
僕はすぐに、あの日呟いた自らの言葉が本物の呪いとなって、両親に降り注いだのだと悟った。
自分が言葉で両親を殺したという事実。
それを片時も忘れないため、僕は肌身離さず、父が使っていた重たい万年筆を持ち歩くようになった。
それが、僕に課せられた「罪」の象徴だった。
それなのに。
あの日僕の願いを叶えた者だと名乗る少女――黒羽美烏は、「願いの報酬」として、その罪の象徴である万年筆を、あと何故か筆箱を奪い去っていったのだ。
新入生たちでごった返す講堂の人混みの中へ、美烏の後ろ姿が完全に溶け込んでなくなった。
僕はそれを追いかけようとする気力すら湧かず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
合格発表直後の中学生たちの華やかな喧騒が、今の僕にはひどく遠く、まるでフィルター越しに聞いているような現実味のないものに感じられる。
キーン、コーン、カーン、コーン……。
非情にも、校舎のスピーカーから穏やかな予鈴のチャイムが響き渡った。ホームルーム前を知らせる合図だ。
「戻らないと……」
美烏からのカミングアウトはあまりにも衝撃的だったが、いつまでも余韻に浸っている場合じゃない。
ここで遅刻扱いにでもなれば、必死に継続してきた皆勤賞が失われてしまう。
僕は鉛のように重たい足を引きずって歩き、なんとか自分の教室へとたどり着くと、自分の席にドサリと腰を下ろした。
「セーフ……。ええと、とりあえず次の授業の準備、しないとな……」
なんとか間に合ったことに小さく胸を撫で下ろす。
乱れた呼吸を整えながら、カバンから教科書と筆箱を取り出そうとして、スッと全身の血の気が引いた。
当然だ。僕の筆箱は、さっき美烏に奪われたばかりなのだから。
シャーペン一本、ボールペン一本すら手元に残っていない。
万年筆だけでなく、奮発して買ったお気に入りの限定カラーのクルトガも、あの混乱に乗じて見事に盗られてしまったのだ。
筆記用具がなければノートすら取れない。困り果てた僕は、前の席の住人を頼ることにした。
彼の背中は、高校一年生とは到底思えないほど異様に大きく、制服のシャツが内側からはち切れんばかりに筋肉が隆起している。
ただ座っているだけなのに、背中に鬼神が宿ってみえる、相変わらずの凄まじい威圧感だ。
「ねえ、松井。ちょっと筆箱丸ごと盗まれちゃってさ。悪いんだけど、ペン一本貸してくれない?」
僕が声をかけると、ヤクザ映画の用心棒かと思うほど厳つい顔つきの男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「盗まれた……? よく分からんが、まあ、使えよ」
松井は怪訝そうに太い眉をひそめつつも、ボールペンを取り出し、スッと差し出してくれた。
その見かけによらない優しさと、腹の底に響くような落ち着く低音ボイスに、ただでさえ傷心中で情緒不安定だった僕は、思わず涙がちょちょ切れそうになった。
「ありがとう……! 本当に助かるよ。レンタル料として一万円でいい?」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
感激のあまりナチュラルに財布を取り出そうとした僕の手を、松井は呆れたような顔でやんわりと制した。
ノリも悪くない、いい奴だ。
「ちょっと、佐鳥くん。なんでわざわざ松井くんから借りてんの?」
不意に、隣の席から不満げな声があがった。
ビクッとして目を向けると、隣の席の住人である夜鳥雀が、底冷えするジト目でこちらを鋭く睨んでいる。
「隣に私がいるんだからさ、私に言えばいいじゃん。ほら、これ使いなよ」
夜鳥さんは自分のペンケースからシャーペンを一本取り出すと、松井から差し出されていたボールペンを弾き飛ばして、僕の机に強めに置いた。
「あ、ごめん夜鳥さん。松井の背中がデカすぎてさ。思わずすがっちゃったんだ。ありがとう、使わせてもらうね」
我ながら、背中がデカすぎてすがったというのはどういう理屈なんだろうか。
「ふーん……。まあ、今回は許してあげる。でも次からは、絶対に、最初に私を頼ってね」
「うん、気をつけるよ」
有無を言わさぬ圧に押されて素直に頷かされたが、一体なんで僕は、夜鳥さんを頼らなければならないルールを敷かれているのだろうか。
「ちなみにそのシャーペン、中に入ってる芯は佐鳥くんがいつも好んで使ってる『B』の濃さにしておいたから。筆圧弱めな佐鳥くんにぴったりでしょ?」
「えっ? ……あ、本当だ。よく知ってるね」
試しにノートの端にペンを走らせて、適当な猫ちゃんのイラストを描いてみる。滑らかな書き心地は、確かに僕がいつも使い慣れているBの濃さそのものだった。
「当然じゃん。私、授業中も休み時間も、ずーっと佐鳥くんのこと見てるんだから。佐鳥くんのまばたきの回数から、無意識に出るため息の理由、芯の濃さの好みまで、言われなくても全部わかってるよ。だから……私を差し置いて、他の人に頼るのは、嫌だな」
さらりと口にした言葉の裏に、べっとりとした重く粘り気のある執着が張り付いているのを肌で感じて、僕は思わず頬を引きつらせた。
「そ、そっか、ありがとう。助かるよ」
引きつった笑顔でなんとかお礼の言葉を絞り出すと、夜鳥さんは自分のマーキングが完了したことに満足したのか、ふわりと嬉しそうに微笑んで前を向いた。
ガラッ、と教室の前方の扉が開き、気怠げな足取りで担任の教師が入ってきた。
「お前ら席につけー。HR始めるぞー」
やる気のない号令とともに、教室の空気が少しだけ引き締まる。
クラスメイトたちが姿勢を正す中、しかし僕の頭には先生の連絡事項も、その後に始まった授業の板書も、全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。
夜鳥さんから借りた、僕の筆圧に恐ろしいほどジャストフィットするシャーペン。
それでノートの端に無意味なミミズのような線を描きながら、僕はどうしようもない現状を整理せざるを得なかった。
僕から罪の象徴を奪い、春から後輩として入学してくるカラスの少女。
右を向けば、僕の些細な挙動まですべて把握している、重たくねっとりした執着心を持った隣の席のクラスメイト。
そして家に帰れば、僕の平穏を護るためなら白鞘の日本刀を抜くことも辞さない、過保護すぎる居候が待ち構えている。
波風を立てず、過去の罪を抱えてひっそりと生きる。
僕が思い描いていたささやかで平穏な高校生活は、完全に四面楚歌の状態で包囲されていた。
「とりあえず、今日の放課後は文房具一式を買いに行くか」
チラリと横目で伺うと、隣の席の夜鳥さんは授業などそっちのけでニコニコと僕を観察していた。
目が合うと、小さく手を振ってくる。僕もぎこちなく手を振り返した。
『佐鳥くん、放課後お買い物? 一緒に行くよ。ううん、私が全部買ってあげる』
容易にそんな台詞が想像できてしまう。彼女の善意を躱して、一人で買い出しに行くのは至難の業だ。
どうすれば夜鳥さんの監視網を潜り抜け、近所の文房具屋へ辿り着けるのか。
放課後にスケジューリングされた波乱の予感に、僕は今日一番のため息をつくのだった。
次回は幼馴染と放課後デートの予定です。