伝説が始まる日
最初の記憶は、『今生』の母の腕の中。
揺れる木漏れ日の下、心地よい春の暖かさの中で恐怖と混乱に泣き叫ぶ俺を、彼女は優しくあやしてくれた。
世界が一変したその時から、赤ん坊が少年へと成長するだけの、決して短くはない年月が流れた。
十二歳の誕生日を迎えた今日は、めでたい成人の祝いの日である。
よそでどうなのかは知らないが、少なくとも今の俺が生まれて育ったこの村では、十二歳を子供の大きな節目とする風習があった。
流石に酒やタバコの解禁まではされないけれど、成長の区切りを祝うものだと思えばおかしなところは無い。
…………そう、祝ってもらえること自体には文句は無いのだ。
「あんなに小さかったお前も、もう成人の年なんだねえ…」
赤ん坊の頃に父を、更には幼少期に母を失った俺を一人で育ててくれたばあちゃんが、目尻に涙を浮かべながら晴れ姿を喜んでくれている。
嬉しいし、喜びたいとも思うのだが、生憎と俺の口から出てくるのは渇いた苦笑いばかり。
照れて、緊張しているとばかり思っているばあちゃんには、ありがたいと同時に申し訳なかった。
だって、今俺が着ている、ここ『カカリコ村』で成人を祝うための晴れ着というものが………。
「勇者の緑衣を纏ったその姿、お父さんとお母さんにも見せてあげたかったよ。
不思議だねえ……まるで最初から、お前が着るべき服だったかのようにも見える。
本当によく似合っているよ、リンク」
緑の上着に、後頭部に長く垂れさがる緑の帽子。
さらに言えば、俺自身の金髪と青い瞳、顔の両脇で長く尖った耳。
ばあちゃんに促され、姿見の前に立った俺の目に映ったのは、正しくあの、世界的に有名なゲーム会社の看板タイトルのひとつ。
『ゼルダの伝説』の、緑衣を纏った勇者リンク。
それが、困ったような、諦めたような笑みを浮かべながら立っていた。
『俺』がリンク……そんなバカなと、何の冗談だと、今までに何度思ったことか。
子供の頃から大のゲーム好きで、特に『ゼルダの伝説』は全シリーズを隅々までやり込んだ。
ハイラルの地も人々も、リンクも、ゼルダ姫も、ガノンドロフだって好きだったけれど、自分が当人になりたいと思ったことなんて一度もない。
冷静な第三者だけでなく、贔屓になりがちなファンの視点から見ても、勇者リンクの冒険は大変な苦難に溢れているのだ。
家族がいなかったり、親しい仲間や友達と死に別れたり、そうでなくとも永遠に会えなくなったり。
リンクが必死に抵抗した世界の危機自体が秘められたもので、世界を救った英雄でありながら、秘密や心境を誰とも分かち合えない孤独をたった一人で抱え続けたりもした。
孤独と別れの物語……『ゼルダの伝説』をそう称した誰かの言葉を前の俺は否定しなかった、むしろ納得すらしていた気がする。
それが当の『リンク』にとって苦痛だったか、重荷に感じていたかはわからない。何しろゲームの中のことだから。
勇者ならば当然だと、これが俺の果たすべき使命だからと、揺るがぬ誇りと自信を持って戦い続けていたのかもしれない。
……それが『リンク』だというのなら、俺には無理だ。
何の因果か…ゲームの中の世界だった筈のハイラルに『リンク』として生まれた俺は、ある種の虚無と諦めを抱きながら、幼少期を半ば惰性のように生きていた。
自棄になって家を、村を飛び出したり、いっそ死んで自由になろうだなんて、実行どころか考えることすら出来なかったのは、ばあちゃんから孫まで奪う訳にはいかなかったから。
本当に、ただそれだけ。
「リンク、もう部屋に戻ってしまうのかい?
折角の晴れ姿なんだから、村を回って来ればいいと思うんだけどねえ」
「見せたとして誰が喜んでくれるのさ、こんな変わり者の成人なんて」
「リンク……」
「大丈夫、ちゃんと今日一日はこの格好でいるから」
ばあちゃんの心配そうな、悲しそうな表情と声から逃げるように、俺はさっさと部屋のドアを閉めてしまった。
申し訳ないとは思う、だけど実際にその通りなのだ。
紛れもなくこの村で生まれ育っておきながら、村人達から一歩引いて、壁を作りながら生きてきた上に、十年ちょっとの人生の大部分を理解しがたい『奇行』に費やしてきた俺は、同年代の子供達どころか大人からも変人として遠巻きにされていた。
成人を祝い、緑衣を纏って紛れもない『勇者』の装いとなりながらも、俺の日課は変わらない。
窓際の机に腰かけ、引き出しから紙の束を取り出し、使い込みすぎて子供の愛用品とは思えないほどに年季が入ったペンを取り、既に手慣れた様子で昨日の続きを紡ぎ始めた。
誰にも見せない、見せられない物語のタイトルは、『ゼルダの伝説』である。
『ゼルダの伝説』シリーズの大きな特徴のひとつに、『シリーズ内における時系列がタイトルごとにハッキリとしている』というものがある。
全ての始まりは、勇者のみが扱える神剣『マスターソード』が完成するまでを描いた『スカイウォードソード』。
その頃はまだ、勇者リンクの衣装としてお馴染みの緑衣は、何の変哲もない騎士学校の制服でしかなかった。
それが今の世で成人の晴れ着となっているということは、ここは既に『緑衣を纏った少年が偉業を成した後の時代』ということになる。
過去と未来を行き来する冒険を繰り広げたビッグタイトル、『時のオカリナ』においては時間軸が一気に枝分かれを成している。
今ここがそれ以前なのか、以降なのか、以降だとしたらどのルートなのか。
少なくとも把握はしておきたい、何しろ危険度に相当の差があるのだから。
勇者が魔王に敗北し、後を引き継いだ賢者達によって辛うじて封印が成された、その後幾度となく復活した魔王の脅威に晒されてしまう世界。
勇者が魔王を倒し、その後元の時代に帰ったことで、『時の勇者が魔王を倒した』という伝説が後の世に伝わった…しかし、勇者そのものはいなくなってしまった世界。
勇者が帰った元の時代、魔王がもたらした恐怖の時代は最初から無かったことになり、その後を生きた勇者の血筋が遺された世界。
有志による考察まで行われていたそれを、自分が今ハイラルのどの時代にいるのかを判断する為にまとめ直そうとしたことが、いつ終わるとも知れない膨大な執筆作業の始まりだった。
この世界で、この場所で生きている実感がどうしても乏しかった。
自分は今、虚構の中で生きているという感覚がどうしても拭いきれなかった。
ばあちゃんという楔を失った後の自分がどうなるのか、自分でも判断しきれない。
そんな不安を払拭してくれた、自分をこの世に繋ぎとめてくれたのは。
皮肉にも、世界が虚構であることの証明でしかなかった筈の前世の記憶と知識だった。
記憶が薄れてしまう前に、改めて『情報』として形にし直そうとした行ないが、その後の俺の…『今』の人生を大きく変えた。
コントローラーを握りながら辿ったリンクの冒険を…驚き、圧倒された世界の真実を、文字へと変えて綴るたびに。
その旅路が、『彼』が守り駆け抜けたハイラルの美しい光景と、そこで生きる人々の姿が鮮明に、泣きたくなるほどの愛おしさを以って、魂の奥から込み上げてきたのだ。
ゲームをプレイしていた当時の自分は、そのシーンでそこまで感動していただろうか。
そもそもゲームでは、そこまで詳しく描写されていただろうか。
そんなある意味当然の疑問は、その記憶が、その光景が疑いようもない『本物』であるという、圧倒的な自信と確信でもってあっという間に掻き消された。
抱いたものは、『感動』や『喜び』だけではない。
恐ろしい強敵を前にしてしまった時の『恐怖』を。
守り切れなかった、もしくは間に合わなかった時の『悲しみ』や『口惜しさ』を。
何よりも、それらを幾度となく乗り越えさせてくれた決して諦めない『勇気』を。
まるで、本当にその時代の『彼』そのものになって冒険をしているかのような追体験を、執筆活動と同時進行で経ているうちに、『この世界は偽物だ』なんて考えは、感覚は、いつの間にか消えていた。
この鮮やかで美しい世界が、精一杯に生きる人々が、魂から込み上げるこの気持ちが
(あれは勇者の、『リンク』の魂の記憶って奴なのかなあ。
……だとしたら、何で俺みたいな余計なのが混ざり込んだんだろう。
女神ハイリアが、何かミスでもしたのかな)
たまたま、何かのタイミングで運悪く、尊い魂の中に混ざり込んでしまった紛い物。
だとしても、こうなってしまった以上は、借り物の『リンク』の名と魂を汚すことの無いように精一杯やっていくしかない。
いつかこの魂と記憶を、本当の『リンク』に、この世界の一員とさせてくれたことへの感謝を込めて返すまで。
それが今の俺の、この世界で生きる意味。
「………いっ!
おいリンク、開けろ!!」
「……ったく、うるさいなあ。
鍵なら開いてるよ、バド」
いい感じに集中してきたところを、窓枠越しでも聞こえてくる大声に妨げられた俺は、これ以上の作業を諦めてペンを置いた。
ここが二階だという事実を一蹴するわんぱくぶりで窓から入ってきたのは、村一番の変わり者たる自分を相手に、昔からしつこく絡んでくる村で二番目の変わり者。
部屋からほとんど出ることのない自分にとって、唯一の友達と言える少年だった。
「用があるならちゃんと玄関から来ればいいだろ、何でわざわざ二階の窓まで登って来るのさ」
「行ったら頼まれたんだよ、お前のばあちゃんに。
心配だから、こっそり部屋の様子を見てきてくれって」
「……ばあちゃん、俺もう成人なのに」
「区切りがついたからって、そう簡単に変わるわけないだろ。
特にお前の場合、母ちゃんが死んだ後が酷かったからなあ」
「…………まあ確かに。
死んだ目で、反応も鈍くて、余計な心配をかけた覚えはあるけど」
(あれは母さんが死んだショックというよりは、この世界と自分自身に現実感を持てずにいたのが原因だったんだよな……)
こんなこと言える訳がない、余計に心配させてしまうのが目に見えている。
もう数年も頑張れば、『ゼルダの伝説』を書ききることが出来るだろう。
その頃には、『リンク』と呼ばれる度に感じてしまう『それは俺じゃない』という違和感に、自分のものではない名声と偉業を振りかざしてしまっているかのような罪悪感に区切りをつけ、勇者と同じ名を持つだけのただのハイリア人として、本当の意味でこの世界の一員となれている筈。
その為にも、早いところ執筆活動に戻ろうと思っていた俺は、バドが口にした思いもよらない提案を受けて、つい呆気に取られてしまった。
「行商の馬車を迎えに行こうって。
……確かにそろそろ来る頃で、今から行けば隣町までの途中辺りで会えそうだけど。
でも、何でわざわざ」
「んんっ、それはだなあ……」
首を捻り、唸り声を上げながら、俺を納得させられる理由を一生懸命に考え出すバドの様子に、耐え切れずに思わず吹き出してしまった。
彼は、昔からこういう所があったのだ。
友達を作らず、外で遊びもせず、部屋で何かを書いてばかりの俺を、あの手この手で連れ出そうとした。
今回もそんなものだと、バドなりの成人祝いなのだと考えた俺は、未だ悩み続けるバドに助け船を出す心地で声をかけた。
「わかったよ、折角だし急ごうか」
「あっ…ああ、そうだな!!
………前に王都に送った馬車に混ぜたあの本の返事が、早ければ次の馬車で来てる筈なんだ。
リンクの成人祝い、上手くいってるといいけど……」
「バド、今なんか言った? 本?」
「いいっ、いやいや何でもない!!」
「あっ、本と言えば……おい、バド!
前に俺の所から勝手に持って行ったあの本、いい加減に返せよ!」
「今はムリ」
「今は、って……まさか、破いたり失くしたりしたんじゃ」
「そんなことないって!
ほんと、もう少しだけ、大事な用が終わったらちゃんと返すから!!」
「あれを書くのにどれだけ苦労したと思ってるんだよ、もう一度なんてごめんだからな!!」
賑やかなやり取りと共に階段を駆け下り、そのままの勢いで出かけて行く。
着替えることをすっかり忘れていた俺とバドの後ろ姿を、ばあちゃんはホッと安心したような笑みで見送っていた。
ガタン、ゴトンと音を立て、その度に荷台を揺らしながら、大量の商品を積んだ馬車が次の村を目指して街道を進む。
そこそこの規模があり、牛乳や革製品といった特産品に恵まれていることで住民達の懐も温かいカカリコ村は、商人にとって訪れるのが楽しみな馴染みの村だった。
食糧から日用品、嗜好品といったいつもの品を大量に積んだ荷台に、今回は珍しいものが紛れていた。
明らかに一般人とは違う、剣のような鋭い気配を纏った女性。
そして、そんな彼女に守られながら、美しく愛らしい顔立ちを異様に強張らせている少女。
大量のルピーと引き換えに、何も詮索せずに二人をカカリコ村まで送ることを依頼された商人は賢明な判断でそれを守り、おかげで村まであと僅かというところまで辿り着いている。
白く、小さく、傷ひとつない手を、膝の上で固く握りながら震わせている少女の肩を、女性は優しく抱き寄せる。
自身の不安と緊張を慰めようとしてくれたことを、心から嬉しく、ありがたく思いながら。
……それで少しも安心出来ていない自分に、少女は申し訳なさを募らせるばかりであった。
「………ごめんなさい、インパ。
兵士長たるあなたを、私の我がままに付き合わせてしまって」
「お気になさることはありません。
誰よりも先に会ってみたい、話を聞いてみたいと思ったのでしょう?
あの本の執筆者と、城を飛び出すことも辞さない覚悟で」
「その理由が問題なのです。
魔物の被害を、兵の損傷を少しでも食い止めようと、私なりに一生懸命に考えていたのに。
あの本は、あの本の執筆者は、そんな私……いえ、城の者全てを一瞬で置き去りにしてしまった。
かの者を戦術顧問として迎え入れようという、お父さま達の考え自体には、私だって賛成です。
だけど……どうしてもその前に会っておきたい、私の考えていた拙い施策などは小娘の戯言だったと一蹴してもらいたい。
嫉妬と悔しさのあまりに、取り返しのつかない失態を犯してしまう前に、きちんと諦めさせていただきたいのです。
…………迷惑以外の何ものでもないですよね、いきなり、こんな勝手な」
遂に堪え切れず、両の瞳から涙を溢れさせてしまった少女を、女性は堪らずその胸に抱き寄せた。
縋りつき、顔を押しつけた胸元に嗚咽がしみ込む。
外に零さないのは、少女の最後の意地と言えた。
(誰か……誰かいないのか。
姫様の、ゼルダ様のお心を理解してくれる者、共に歩んでくれる者は)
少女を慰め、その胸中を一心に案じるあまりに。
商人から前もって、定期的に見回りがされているおかげでこの街道は安全だと断言されてしまっていた、柄にもなく油断をしてしまっていたが故に、彼女は気付かなかった。
深い森を横切る、薄暗い街道を急ぐ馬車を、木々の影から獲物を定めた眼差しで見る者達がいたことに。
『伝説』の始まりはその時だった。
後の世で皆がそう口にする瞬間が、もう間もなく訪れようとしていた。