獲物を探すライネルの目に、運悪く最初に捉えられてしまったのは、出場は叶わずとも会場の警備という形で大会を担っていた兵士達だった。
この場には王や姫、守るべき多くの民がいる。
自分達は国を守る兵士だと、彼らの為に戦わなければと頭ではわかるのに、心では思っているのに。
命の危機という最も分かりやすく忌避すべき恐怖を前に、その体は完全に竦み、迫る脅威から目を逸らすことすら出来ずにいた。
雄叫びを上げながら強靭な四肢で地を蹴るライネル、獲物から反撃されることなど欠片も考えていないその頭へと、渾身の一射が打ち込まれた。
たったそれだけで倒せるようなものなら、ライネルは最強の魔物とは呼ばれない。
しかし、急所に思いがけず食らった強烈な一撃は、ほんの一瞬だけライネルの思考を飛ばすことに成功した。
出口を求めて逃げ惑っていた人々は、その目に飛び込んだ光景によって頭を殴り飛ばされたかのような衝撃を味わい、失ってしまっていた冷静さを強引に取り戻させられた。
混乱する人々の波で埋まった観客席を、手すりや席の背凭れといった僅かな足場を用いることで瞬く間に駆け下りながら。
全速力で飛び石渡りをしているかのような、まともな狙いなど到底つけられない筈の状況で放った矢が、恐ろしい獣人の急所を見事に捉えて。
その身がほんの一瞬硬直した隙を逃さずに、ライネルと対峙するにあたって最も安全と考えられる場所、にも関わらずそこに至るまでがあまりにも危険すぎて笑い話のネタでしかなかった筈の場所、馬に酷似した背の上へと飛び降りてみせた。
戦意ではなく怒りと屈辱に咆哮を上げ、前脚を振り上げるライネルの後背で無謀すぎる乗りこなしに挑んでいたのは、ゼルダ姫の騎士という触れ込みの少年だった。
「今のうちです姫様、お逃げください!!」
「民を逃がすのが先です、それに慌てる必要はありません。
武器を取って駆け出す際に、リンクは『勝ってくる』と言っていました。
ならば勝ちます、彼は私に嘘は言いません」
誰もが逃げることしか考えられなかった魔物相手に果敢に挑んだ少年と、彼を信じて泰然と構える少女。
そんな二人の姿こそが人々を問答無用で落ち着かせた、『もしかして大丈夫なのか?』と思わせた。
一人、また一人と逃げることばかりに必死になっていた足を止め、振り返る者が現れ始めていることにも気付かずに、リンクはかつてない強敵との激闘に必死になって集中していた。
(流石はライネル、振り落とされないだけで精一杯だ……だけどっ!!)
ゼルダの下から駆け出したのは、戦場に向かって飛び降りたのは勝つ為だ。時間稼ぎをする為ではない。
馬の背と人の背をそれぞれ渾身の力で踏みしめ、少しでも怯ませられればという期待を以って鬣を掴んで引きながら、リンクは片手で抜いた刃を目の前の重厚な筋肉へと向けて突き立てた。
途端に響いた絶叫が鼓膜を貫き、遠くなりかけた意識を懸命に繋ぎ止める。
それがあと一瞬間に合わなければ、鬱陶しいだけでなく食らいつきまでする背の上の異物を一刻も早く振り払わんと、より一層激しく暴れ出したライネルの背からあっという間に弾き飛ばされてしまっていたことだろう。
馬のそれなど可愛らしく思えてしまうような暴れっぷりで闘技場内を駆けまわるライネルを、馬相手には絶対に出来ないどころかする気もない、背骨が折れても構わないむしろ折れろと言わんばかりの勢いで踏みしめる足と。
進む先を指示するための手綱ではなく、我が身を固定させるための命綱代わりとして、鬣を全力で引く手でもって牽制しながら、ほんの僅かでもライネルが怯んだ瞬間を見逃さずに刃を突き立てる。
上下左右に盛大に振り回される中で、それでもただ闇雲に剣を振るうのではなく、同じ個所、既に付けた傷をより大きく深くすることを目的に振るわれ続けた刃が、その身を守っていた分厚く強靭な皮膚を遂に貫いた。
血の通った赤い肉へと深々と突き刺さった刃に、決定的な痛手に、ライネルは明らかに苦痛から発せられたものとわかる絶叫を迸らせながら背上のリンクを振り飛ばした。
強引に乗り続けたことで既に手足が限界だったのに加えて、痛みに対して体が思わず反応した勢いも上乗せされていたそれを耐え切ることは、いくら彼でも流石にきつかったらしい。
それでもリンクは決して、力負けして振り落とされてしまったことに黙って甘んじたりはしなかった。
体勢を立て直すのは着地のためではない、決定的な痛手を受けて集中力が途切れているライネルに更なる追撃を与えるため。
空中で必死に引き絞った矢が、全力を込めすぎて放つと同時に壊れてしまった弓と引き換えに、またしてもライネルの頭を捉えることに成功した。
耐え切れず崩れ落ち、遂に膝をついたライネルに、周囲から『オオオオッ!!』なんて歓声が上がった気がしたリンクだったけど、今は戦い以外のことを気にかけていられる状況ではないので一瞬で思考から追い出した。
弓を引くことに集中したため、着地どころか受け身すら取れなかった体がもろに地へと叩きつけられる。
頭の先から足の先まで貫くような痛みが走ったけれど、体のどこかから何か嫌な音が聞こえた気もしたけれど、それもこれも全てが今はどうでもいい。
弓はたった今壊れた、剣はライネルの背中に刺さったまま、そして自分の体は体力的にも損傷的にも既に満身創痍。
残された攻撃手段はあとひとつだけ、これで決められなければ終わる。
流石の体力と耐久力で徐々に立ち上がろうとしているライネルへと向けて、身じろぐたびに体のどこかに激痛が走るせいで身を起こすのがやっとのリンクは、辛うじて守った利き腕を伸ばし……その身に残された渾身の『力』を込めて、指を鳴らした。
途端に走った閃光が、迸った轟音が、破壊力を伴ないながら炸裂した。
(あの人達色々と強烈だから……正直言って、最初はあまり乗り気じゃなかったけれど。
泉を探しておいて、会っておいて良かった。
ありがとうございます、大妖精様)
リンクの身の内……と言うより、魂に付随しているという力の存在に気付いた大妖精達は、対価と引き換えではあったもののそれらを目覚めさせてくれた。
今のはその中のひとつ、魔力の雷を広範囲にわたって落とすという最も過激で攻撃的な力。
ただでさえ食らえば無事では済まないそれを、敢えて一点集中で、しかも背に刺さった剣を通して体の中に直接ぶち込まれれば、いくらライネルでもひとたまりもない。
身の内の肉が焦げる嫌な音を立てながら、今度こそ本当に力尽きたライネルに、リンクはようやく強張っていた体の力を抜き……途端に沸き起こった嵐のような大歓声に、驚きのあまり飛び上がったことで、忘れていた激痛がぶり返して悶え苦しむ羽目になった。
「おいリンク、大丈夫か!?」
「早く医者、時間かかるようならとりあえず薬だけでも持ってこい!!」
大会で戦った、もしくは戦っているところを見た覚えのある知り合いの兵士達が駆け寄り、一人では動かせずにいたその身を助け起こしてくれる。
その時になってリンクはようやく、とっくに逃げたとばかり思っていた人々の多くが逃げていなかったことを、自身とライネルの激闘を見守っていたことを知ったのだった。