血色の月が、禍々しい魔力をハイラルの大地へと降り注いだ夜が明けて。
各地から魔物の異常発生とその被害の報告が殺到していた王宮は、朝早くから対応に追われていた。
その忙しさと先への不安に加えて、昼も近い頃合いになってから明らかになったとある事実が、それを伝えられることを許された一部の者達を憔悴させていた。
異様な魔力を感じて真夜中に飛び起き、思わず駆け出した赤い月光の下で昏倒してしまったゼルダが、大勢を心配させた後にようやく目を覚ました開口一番で口にした、女神ハイリアの神託。
世界の危機に巫女として目覚めた彼女の口を経て告げられたのは、伝説やお伽噺の類いとされていた世界を滅ぼす厄災ガノンの存在が事実であったことと、赤い月の出現はその復活が近づいている証だということ。
どうすればいいのかと必死に尋ねるゼルダに、彼女の夢に現れた女神ハイリアは答えた。
新たな託宣を時の神殿で与える、退魔の剣を携えた勇者と共に訪れなさいと。
女神が口にした三つの単語のうちのひとつ、『時の神殿』に関しては問題なかった。
王都から少し離れた所にある、何時誰が建てたともしれない謎の神殿が、人々の間でそう呼ばれていることを知る者がいたからだ。
問題は『退魔の剣』と『勇者』だった。
言い伝えには厄災ガノンの存在と共に、それに唯一対抗できる神剣と繰り手たる勇者についても確かに語られてはいたものの、それが今現在どこにあってどこに居るのかまでは皆目見当がつかない。
「ゼルダよ、あちこち旅をしていた際にそれらしい話や噂を聞いた覚えは無いか?」
「そうですね……」
藁をも掴むような思いなのだろう、娘に尋ねることへの恥や躊躇いは今の王からは見受けられない。
ゼルダ自身も、今現在この場に居る者の中で最も王都の外を見聞きしてきたのは自分だという自信があったので、特に躊躇うことなく考えを巡らせた。
その中でふと辿り着いたのは、旅の記憶の中でも意図して深いところにしまい込んでおいたもの。
「迷いの森……デクの樹サマは、『剣が必要になった際にはまた来なさい』と仰っていました。
その剣とはもしかしたら、『退魔の剣』のことなのではないでしょうか」
「なるほど、確かめてみる価値はある。
リンクが戻った暁には、共にその地へと赴いて確かめてくるのだ」
魔境と名高いあの森を踏破した経験があるのは、現状では二人だけ。
切羽詰まった中で確実性を求めて、その当人達を派遣することを決めた王の判断は至極正しい。
そう思って頷きながらも、リンクの異様な怯え方を未だ鮮明に覚えていたゼルダの、内心の躊躇いは大きかった。
しかし、そんな彼女の懸念は、リンクが戻り次第派遣を命じるつもりだった王の思惑は、当初の予定から随分と遅れたリンクの帰還報告によって遮られた。
大広間のワープマーカーへと彼が帰ってきたことを知らされた、言い表しようのない不安に苛まれ続けていたゼルダは、すぐに駆け付けてくれるであろう彼を待てずに走りだした。
一刻も早く顔を見たかった、安心させてほしかった。
その一心で城内を急いだゼルダの走りを止めたのは、自身と同じように不安に苛まれ、それを王国最強の騎士に払拭してもらうことを願って集まってきた人々の喧騒。
それらを丁寧にかき分けながら、また引き連れながら。
ゼルダが彼に会いたいと願ったように、彼もまたゼルダに会いたいと願って歩みを急がせていたリンクと、数日ぶりとはとても思えないような心地での再会を果たした。
「…………ただいまゼルダ、遅くなってごめん」
「リンク…っ!」
込み上げる衝動のままに駆け寄ろうとしたゼルダを、リンクはそっと突き出した手のひらで制した。
進むことも、戻ることも出来ずに立ち尽くすゼルダの前で、リンクは背に負っていた剣の柄へと手を伸ばし……うっすらと青く輝く美しい刀身を、一気に抜き放った。
その剣を目にしたゼルダは言葉も無いまま息を呑んだ、女神ハイリアの声を夢で聞いた時とのものとよく似た不思議な確信が胸中に満ちる。
あの声が女神のものだと、何の根拠も無いまま自然と受け入れた時と同じように。
リンクが手にしているあの剣こそが正しく、夢で告げられた『退魔の剣』なのだと。
「……退魔の剣」
「正確には、マスターソードっていうんだ。
デクの樹サマとコログ達がずっと守ってくれていたのを、ひとっ走りして取ってきた」
「リンク……あなたが、勇者なのですね」
神々しい神剣を携え、背を伸ばしながら笑って頷いたリンクの堂々とした姿は、人々の不安など一発で吹き飛ばしてくれるほどに頼もしかった。
彼がいるならば大丈夫だと誰もが思った。
堪える気もない衝動のままに抱き着いたゼルダが、その胸元に安堵の涙を沁み込ませるのを咎める者は居なかった。
人々の期待と信頼を一身に背負うリンクの顔色が、憔悴と覚悟が入り混じった痛々しいものだったことに。
今にも崩れそうな手足の震えを必死に堪えながら立っていたことに、やっとの思いで作った笑顔がそれら全てを覆い隠して『勇者』となるためのものだったことに。
気付くことが出来た者もまた、残念ながら居なかった。