そうして世界は、ハイラルは救われた。
当初の予想や危惧よりも、遥かに少なかった犠牲で以って。
しかし、それを喜べる者はいなかった。
数の上ではたった一人……しかしその一人は、多くの者から慕われていた、ハイラルの未来を担うことを期待されていた、かけがえのない一人だった。
魔王の復活と世界の破滅に瀕した中で、それでも人々の中に未来への希望があった時よりも下手をすれば悪化してしまっている状況で、父達は復興に向けて尽力した。
皆が各々の種族や集団を纏める立場にあったことに加えて、彼が命を賭して守り抜いたものを無駄にしてはならないと。
彼を親しく思っていた者の、あの戦いを見守った者の責務として受け止めたから。
それは彼らの、公としての想いと責任。
私としての彼らには、リンクを失った哀しみと喪失感に嘆き続ける私への、自分達が頑張るからそっとしておいてあげたいという思いやりがあった。
世界を救う為に奔走した英雄の片割れとして、次代を担う王家の者として、誰よりも彼の遺志を継がなければならない者として。
本当ならば私こそが、率先してそれに加わらなければならなかったのだけど。
どうしても出来なかった……彼と共に駆けたこのハイラルに、彼との思い出が無い場所など存在しなかったから。
どこに行っても、何を見ても彼のことを、彼のために何もしてあげられなかったことを思い出して落ち込んでしまう私は、ついに部屋から出ることすらままならなくなってしまった。
皆の厚意に甘んじて閉じこもりながらも、それで彼のことを吹っ切れる、忘れられる訳でもなく。
日々憔悴していく私の下に、遠方から遥々と思いがけない客人が訪れてきたのは、そんな時のことだった。
随分とお年を召されている上に、まだ大人にも成りきれていなかった唯一の孫、最後の肉親を失って。
下手をすれば、私以上に落ち込んでいてもおかしくない身で駆けつけてくれたかの人を、リンクのお婆様の訪れを、私は拒めなかった。
あの日、私と出会いさえしなければ……彼は勇者などにならずに、今もあの穏やかな村で平和に暮らしていたかもしれないのに。
そう嘆く私に、お婆様は言ってくれた。
あの子は本当に、あなたのことを大切に想っていたと。
あなたと出会ったことで、あの子はようやくこの世界で生きられるようになったのだと。
あの子のことを想うなら、あの子と出会ったことを、共に過ごしたことを悔やまないでと。
あの子は確かに幸せだったのだということを、どうか信じてあげて……と。
彼の笑顔を、疑いようもなく楽しかった日々を思い出してまた泣き出してしまった私を、お婆様は遠い記憶の母を思わせる優しさで抱きしめてくれた。
私が落ち着いた頃合いを見計らって、お婆様はとあるものを見せてくれた。
村の人達に荷造りを、城の兵士達に荷下ろしとここまで運ぶのを手伝ってもらったという荷物は、大きさの割には酷く重い代物で。
お婆様が私室を片づけていた際に見つけた、彼の遺品だというそれを前にした私は、とあることを思い出していた。
私と出会う前の彼が、部屋に籠ってひたすらに何かを書き綴る日々を送っていたということを。
魔物早見の元となった本がその一部だったことは間違いないけれど、費やしたであろう時間を鑑みるに、それだけとはとても思えない。
お婆様が帰られた後で、一人で開けてみた荷の中身は、予想通り。
全ての始まりとなったあの本を思い出させる綴じ方で、表紙には彼の筆跡で題名らしいものが綴られている分厚い本が、いっぱいに詰まっていた。
重い筈だと思わず納得してしまいながら、一番上にあった本を手に取った次の瞬間、私の目は驚きのあまりに見開かれた。
彼が幼い頃から、私と出会うずっと前から書き続けていた筈の本の題名に、私の名前が記されていたのだから。
驚きのままに本を開いた私の、食事と就寝以外の全ての時間を『ゼルダの伝説』の物語を追うことに没頭した日々は、何日にも及んだ。
時系列に沿って一度全てを読み終えた後も、また何度も何度も読み返して。
その中で私が抱いた印象、立てた仮説はあまりにも突拍子がないもので、リンクが身近な者達を参考にして書き上げた物語だと考えた方がよほど現実的だったけれど。
それでも私は思わずにはいられなかった、説明のしようがないところで確信していた。
リンクが人生の大半を賭して綴ったこの『伝説』は、遠い過去に起こった実際の出来事なのだと。
物語に登場する『リンク』と『ゼルダ』は、紛れもない私達自身のことなのだと。
リンク……あなたは知っていたのですか、それとも覚えていたのですか。
いつどこで得たのかもわからない、様々な謎の知識を持っていたあなたに。
どことも知れない遠い世界のことを知っているかのような、不思議な印象を時折抱かせたあなたに。
隠し事があろうとも構わないと思って、むしろ変に追求すれば信頼を損ねてしまうのではないかと恐れて、結局何も聞くことが出来なかったあなたに。
勇気を出して尋ねていれば、あなたは答えてくれましたか。
最初から最後まで一人で抱えたまま、誰にも預けてくれなかったその重荷を、私達にも負わせてくれましたか。
あなたは何を思って、この『伝説』を遺したのですか。
誰にも知られない、誰にも報われない孤独な戦いに身を投じた勇者達の物語を、せめて形にして残したいと。
あくまで創作としてでも構わないから、人々に知ってもらいたいと、思う気持ちがあったのではありませんか。
だとしたら叶えてあげたかった。
あまりにも遅くなってしまったけれど、今更かもしれないけれど。
彼らに救われた多くの、全ての者達の分も込めて、何度も何度も世界を救ってくれた勇者達に、今からでも報いたかった。
何もかもが取り返しがつかなくなった今になって、尽きるどころか溢れて止まらない後悔に溺れそうになりながらも。
文字を、文章を、代々の勇者達の旅路を、必死になって追い続けた。
そして、私はまた旅立った。
舞台を紙の中から現実のハイラルへと変えて、今度はたった一人で。
表向きの理由は、復興に勤しむハイラル各地への慰問と、此度の騒動でハイラルと同様に甚大な被害を被った諸各国、友好民族と今後に関してを改めて話し合い、確認し合うという公務。
当然こなすべきそれらに加えて、リンクが残した著書の内容が真実であることを証明したい、説明のしようがない不思議な確信以外の確かな証拠を見つけたいという、私自身の個人的な目的があった。
一国の姫が護衛もつけずに一人旅をするなど、普通ならば到底考えられないことだったけれど。
厄災ガノン……否、魔王ガノンドロフの影響が消えた世界は、最初に旅に出た頃よりもずっと安全になっていたし。
魂が因縁から解放された後も、実戦の中で自然と磨かれていた魔法の力に衰えは無くて、いつの間にか護衛の兵士達よりもずっと強くなってしまっていた私にとっては。
誰もが復興に追われている中で、それらの重要な役割を担えるだけの立場と責任のある者が何とかして猶予を作り出し、護衛団を組んで時間と労力をかけながら各地を巡るよりも、ずっと現実的で前向きな選択肢だった。
かつて彼と共に訪れた地では、彼とそこで過ごした時のことを思い出して。
初めて訪れることになった地では、彼が今共に居たら、二人でどんなやり取りを交わしただろうかと想像して。
そんな、楽しくも切ない旅路の中で私は、証拠探しには苦労するだろうという当初の予想に反して、思いがけず多くの話を聞くことが出来た。
とある地を訪れた時には、こんな話を聞かせてもらった。
遠い昔、かつてこの地に存在していた町を中心とする一帯で、謎の奇病が蔓延した。
それは痛みや苦痛を伴うようなものではなく、ただひたすらに眠り続けるという、奇妙にして非常に厄介なものだったという。
何を試しても効果は窺えず、もはや手の施しようが無いと諦めかけた……そんな時のことだった。
何日も何日も、異様な眠りの日々を送っていた人々が、何事もなかったかのように呆気なく目を覚ましたのは。
目覚めた者達の話によると、彼らはずっと同じ夢を見ていたそうだ。
カーニバル開催前の三日間を、遥か天空から迫りくる月によって滅びが定められた最後の時を。
ある者はいつも通りに、ある者は絶望し、ある者は足掻き、ある者はだからこそ決められた覚悟と決意で以って、誰もが最後の最後まで懸命に生きながら。
自覚も認識も無いままに、同じ三日間、同じ時間を、まるで舞台装置かのように、何度も何度も繰り返していたのだという。
そんな果てのない繰り返しが、なぜ突然に終わったのか。
その理由と思われるものは、多くの者の話を聞いて、それを纏めている間に発覚した。
夢の世界での三日間を繰り返している者達の話の中に、共通して登場した者がいて、その者の接触と干渉のみが、繰り返しの日々に変化を与えていたということが判明したから。
金の髪と青い瞳に、ここらでは見かけない緑の服と帽子を身につけて。
時に悪戯をしながらも、人々の様々な悩みごとを解消するために奔走してくれたのだという彼が。
あの世界の住人となっていた者達で集まって、改めて話を擦り合わせてみれば、多かれ少なかれ世話になっていない者はいなかったことが判明した彼が。
また助けてくれたのだと、大変な努力の末にやり遂げてくれたのだと。
彼を知る全ての者が心から納得し、そして感謝した。
彼がまたこの地を訪れることがあれば、心を込めて歓待し、改めて感謝の言葉を述べようと、残された人々は思っていたのだけれど。
残念ながら、緑衣の少年は二度と姿を現さなかった。
それでも、時を越える、もしくは時の干渉から逃れられる力を持っている可能性がある彼ならば、遠い未来にまたこの地を訪れてくれることもあるかもしれないと、人々は僅かな希望を抱いて。
この話と、満月の前の三日間に渡って祭りを行なう風習と、彼が救った夢の世界の名を。
彼の存在と功績の証、彼をもてなして楽しんでもらうために、彼に気付いてもらうための目印として、遥か後の世へと伝えていくことを決めた。
『タルミナ』の名は、長い年月の中で時計の町が無くなった後も、少年の活躍と冒険を親しむ者達によって確かに伝えられ、今ではその辺り一帯の地域を意味するものとなっていた。
『緑衣の勇者』の物語は、様々なところで、様々な人達から聞くことが出来た。
古くから伝わるこの地域のお伽噺だと、遠い昔の伝説だと言って、金の髪と青い瞳を持ち、緑の服を纏った少年の活躍を語ってくれた人達は、それがまさかこんな形で繋がることになるとは思ってもみなかっただろう。
伝わっている話は、全体のほんの一部や表向きのものだけだったり、真実からは少しずれた解釈をされてしまっていたりしたけれど。
それらのお伽噺や伝説の中に残された謎や秘密の、秘められた裏や空白の部分の全てがあの本の中で描かれていること、あの本の内容があれば説明できてしまうことこそが。
リンクが残した物語が、ハイラルの真の歴史書であり、世の人々の知らないところで幾度となく世界を救った勇者達の冒険譚であったことを、疑いようもなく証明していた。
そうして、確かな証拠を以って推測を確信へと変えた私は、彼を知る多くの者達の協力を得ながら、彼と共に過ごした日々よりも長い年月をかけて、一冊の本を書き上げた。
彼は、歴代の勇者達の物語こそ詳細に、敬意を以って書き上げていたけれど。
自分自身に関することは、本どころか文章のひとつすら残していなかったから。
肝心の最終章が存在しないことが、この素晴らしい伝説が永遠に未完となってしまうことが、彼の功績がいずれ忘れられてしまうだろうことが。
私にはとても耐えられなくて、気付けばペンを手に取っていた。
そうして、書き上げたものこそが本書。
感謝と願いを込めて、素人が拙いながらも懸命に綴った、私の勇者の物語である。
この物語を、既に終焉が近いというハイラルの時代が終わりを迎えるその時まで、一人でも多くの人達に広めること。
そして、今の世が終わってしまった後の新たな人達、新たな時代にまで伝えること。
これが私の、運命に翻弄された三人の最後の一人としての、生涯をかけて全うすべき務めであると心に刻む。
百年、千年の未来では叶わなくとも。
万年、億年の未来でならば、もしかしたら。
彼が目覚め、何の運命も強いられることの無い新たな世界で、新たな人達と共に、笑いながら過ごしてくれるかもしれないから。
どうかこの伝説が、この想いが、遥か未来の人々にまで届きますように。