翌朝、朝一番に上奏すべく太史慈は役所が開くのを今かと待ちわびていた。
一晩飲み明かし散々に騒いだことで意気が投合した張遼とは、別れのさい互いの
この真名とは、心を許した証として呼ぶことを許した名前であり、許可無く真名で呼びかけることは、たとえ斬られても文句は言えないほどの失礼に当たるというもの。
――――なあ、もう行かなあかんのか、残念やなあ。あんさんと飲む酒はほんま面白かったで。
――――いや申し訳ない、昨晩申したが一刻も早く上奏を済ませてしまわねば、青州の役人どもに先を越されかねないゆえ。
――――せやったな、そのためにあんさんは都に上がって来たんやったな。
――――ええけど昨日は本当に楽しかった。拙者もこんな旨い酒は久しぶりであった。そうだ、こうして出会ったのも何かの縁でありましょう。もしそこもとさえよろしければ互いの真名を交換しませぬか。
――――おおそりゃええなあ、こっちから頼みたいくらいやわ。
――――では言い出した拙者から。揚州刺史袁公路の客分孫伯符が家臣、太史慈、字を子義、真名を
――――漢帝国相国董仲穎が家臣、張遼、字を 文遠、真名は
――――では互いの真名を交換しここに友とならん。願わくば互いが
…それにしても良き御仁と出会えたものだと、太史慈は改めて思い出していた。
長いらんちき騒ぎの後に、座はいつの間にか潮を引くように静かになり、気がつけば、自分と張遼、いや霞の二人が座敷の上で大の字になって寝ていた。霞にとってはこういう状況も大して珍しいことではないのか、時折残った酒をちょびちょびとやったりする。
だいぶ酔いもまわったか羽織った羽織はすでに脱ぎ去り、サラシを巻きつけただけの豊満な胸を見せ付けるように晒してくる。太史慈が困ったように目を背けるとその猫の目を細くして含むような笑いを漏らす。
だがそんな痴態を見られても何故か怒る気より安心感が沸いて来た。
――――ああ、あれほど愉快なことは呉に降ってから初めてのことかも知れぬ。思えば呉の者たちで俺と真名を交換しようとなどと言ってくれるのは、雪蓮を除けば一人としておらぬな。公覆や徳謀など文台様の頃からの生え抜きの将は、いまだ俺をよそ者扱い。 公瑾は雪蓮の手前何も言いやしないが、雪蓮が俺に真名を預けたことをよく思っていない節がある。
――――よほど雪蓮を一騎打ちで追い詰めたのが気に入らんらしい。それとも劉繇が討たれたあとも頑強に抵抗したのを根にでも持たれたか…
まったくこれだから頑固な年寄はと、思わず口の端に自傷じみた笑みをうかべるが言っても栓無き事と一つ首を振り意識を切り替える。
――――とにかくお役目をさっさと終えてしまおう。
無事上奏を終えたら帰る前にまた一杯やるのも良かろう。もしかしたら霞殿にもまた会えるやも知れぬ。
そう思うと不思議にさっきまでの憂鬱な心持が晴れてくようだった。
役所の門が開いたのは、それから間もなくのことであった。すぐに上奏の取次ぎをお願いした太史慈だったが、今日も明日も予約は一杯だからと追い払われてしまった。手元に渡された札に書かれた太史慈の約定の日取りは三日もあとである。
――――まいったな。三日も後ではここまで急いで来た意味がない。
これはさすがに困ったと頭を抱えながら門の周りをウロウロしてると、向こうから青州の旗をかざした一団がやってくるのが見えた。旗を掲げた者を先頭に供を引き連れ悠々と歩いてくる。
(あれは青州の。!そうかやつらの上奏の日が今日か)
これには太史慈も焦った。ここでやつらに先を越されたら、ここまでの苦労が水泡と化す。
余裕を浮かべる顔を見るに、今日がやつらの約定の日なのだろう。
(まずいな)
と太史慈は思った。表情は冴えない。なんとかせねばと思うが生憎といい案など思い浮かばない。
(ええいままよ)
こうなったら出たとこ勝負だと、意を決した太史慈は役所の前まで戻ると門の内側へと身を滑らせ一団が来るのを待った。
「待たれい!今日の約定の方々かとお見受けいたすが、役目ゆえ手形を拝見いたす」
一団がまだ門にさほど近づかないうちに門から出た太史慈は、わざと門から離れ声をかけた。
門の内から出てきた太史慈を役人と思った青州の一団は素直に札を出す。
それを見ると確かに今日の日付だった。
「確かに拝見した。それでは決まりゆえ一名のみ案内する。代表者は着いてまいれ」
そう言いうと一団には何も言う間もあたえずさっさと歩き出す。
そして一団の長だろう者が小走りに駆けて来たのを確認してから声をかけた。
「では今からそちらの上奏の受付となるが、きちんと上奏の型に沿っておろうな?ここ都ではとにかく型にうるさい、正式な手続きを取っていなければ申請すら通らぬぞ」
そう言うと長らしきものは不安そうな顔をする。
「そうでしょうか。わたくしどもは正式な手続きをしておりますが」
「だが都への上奏など初めてであろう?それでいつも問題となるのだ。失礼だが兎にも角にもここ中央というのは地方などと一々やり方が違う。わしも東方の訛りがあろう?ずいぶんと前に東方から中央へとあがってきたのだが、いまだ戸惑うことばかりよ。御身らは青州から参ったのであろう。まずはわしが拝見しよう。何、同じ東人としての誼だ。万が一誤りがあっても一度上奏文を提出してしまってからでは、取り返しがつかぬからな」
「それはありがたい、これは大事なお役目ゆえ万が一があっては一大事。是非お願いしたい」
あまりに堂々とした態度に疑いを持たぬのか、使者は懐から上奏文を出そうとする。
「待て待てこんな人通りのあるところで万が一誰かに見られたら事だぞ。そこの路地にいこう」
そう言い使者をわき道へと誘い出すと、手紙を受け取り事もあろうかビリビリと破いてしまった。
「あ!なんとする」
あっけに取られ、詰め寄ろうとする使者の首元を掴むと、太史慈は力任せに引き寄せ耳元に口を当てると低い声で脅すように囁いた。
「これでお前もおしまいだ。俺は東莱郡の使者だが都への道中、盗賊連中に金と一緒に上奏文を取られちまった。これでは俺もお前も役目は果たせぬ。国に帰ればおそらくは死罪さ。それが嫌ならこのまま逃げるしかあるめい。おい文句あるまいな」
――――恐るべきは太史慈の度胸か。
太史慈はそのまま使者を抱えるようにすると一目散にと都から逃げ出した。太史慈の脅しを受けた相手方の使者は魂を飛ばしたような顔をしている。
無理もない。上奏の使者長ともなれば確かに重要な役目である。それが役目を果たすどころか、申請すら行なえなかったのでは間違いなく死罪であろう。
そうしてうろたえる使者を散々引っ張りまわした挙句、しかし3日目の早朝には太史慈ひとり都へと舞い戻りそのまま約束の日時には役所に出向き、上奏を行なったのであった。