「青春ブタ野郎」シリーズ短編集   作:牙無し

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わすれな‐ぐさ【×勿▽忘草】:ムラサキ科の多年草。高さ約30センチ。葉は長楕円形。5、6月ごろ、尾状に巻いた花穂を出し青色の5弁花を多数つける。  ――デジタル大辞泉より
学名 myosotis alpestris(ミオソティス アルペストリス)
花言葉 「私を忘れないで」「真実の愛」

  世界から消えた、彼女から見た世界

アニメの進行に合わせた捏造二次挿話SS 第3話中 彼女の視点


5月に芽吹いたミオソティス

 

 とある宗教において、世界の最期には天空の使者がラッパを高らかに吹き上げるのだという。

 それは終末を誘う音で、それは消滅を誘う音で。

 神が世界を作った日取りと同じ数。7度鳴り響く。

 

 私にとっての最期の音は、そんな荘厳さとは無縁の些細な音だった。

 カラリ、と彼の手から零れたシャープペンシルが机を跳ねる。ただそれだけの音。

 あっけなく、拍子なく、乾いた音。彼の意識が落ちた音。

 どこか彼を思わせる間の抜けた音だったけれど、そうして私は世界から入滅した。

 まるで、テレビの電源を落とすように――。

 

 

 

 

 

 

 意識があると人は無意識に支える人の補助をしようとするらしい。

 膝を曲げたり、筋肉に力を入れたり。力を分散させることで背負う人を助けるとか。

 つまり気を失い、脱力した人は重たい。

 中学時代に出演したバラエティ番組かなにかで、そんな雑学を言っていた気がする。

 

「咲太、重たい」

 

 私は肩を貸すように支えている少年に、つっけんどんな言葉を投げつける。

 自分で強引に寝かしておいて、なんて身勝手な話だ。

 世の中じゃかつて「娘にしたい子役」ナンバー1なんて評価も頂いていたこともあったというのに。

 長く身を置いた業界でも「桜島麻衣」に求められる品行の良さを常に保ち続けていたというのに。

 梓川咲太。この生意気な後輩の前ではそんな面をついぞ見せることはなかったと思う。

 

 意地悪で、素直じゃない子だったと思う。でもしょうがないじゃない。

 捻くれて冷めたようなことをいうクセに、こちらの事情を知ったことかと土足で踏み込んできて。

 大事なことがなにか、やりたいことがなにか。2年間背けてきたものを目の前に容赦なく突き付けてきた。

 誰もが空気を読んで見て見ぬ振りを“してくれていた”私を、真っ直ぐに見つめていた。

 わがままな私も、女王様気取りな私も、気分屋な私も、全部をひっくるめて楽し気に受け入れてくれた男の子。

 私を見失わないでくれた最後の人。

 

 早生まれなら17歳。食べ盛り育ち盛りの男の子の全体重が、身体にのしかかっている。

 彼が目覚める様子はない。

 肩を貸すというより、半ば引きずるような状態だった。

 その重さに手こずる反面、安堵しているのも事実だった。

 抜け目のない咲太のことだから、こちらの小細工を見抜いて狸寝入りしている可能性もないわけわけじゃないから。

 少なくとも私がこうやって四苦八苦している様子を感じ取れば、実は人の良い彼のこと。何かアクションを起こしただろう。

 自分で一服盛っといて酷いなぁ、なんてぼやきながら。

 それでも麻衣さんとこんなに近くで触れ合えてうれしいなぁ、なんて能天気なことを言うに違いない。

 

 そしてそんな都合の良い期待をしている自分がいないといえば、きっとそれも嘘なのだろう。

 どうしようもなく愚かな矛盾。その片方に目を瞑る。

 

 ほんの数メートルの距離をカメの歩みのようにゆっくりと進め、もつれ倒れ込む様にベッドへと飛び込んだ。

 少々乱暴な形にはなったけれど、それでも咲太が目を覚ます様子はない。

 ずっと変わらず一定の調子で、安らかな寝息を立てている。

 

「……バカ」

 

 いったい、いつから寝ていなかったのか。

 これは昨日今日の話ではないはずだ。

 目の下に歌舞伎役者みたいな盛大な隈まで作って。

 鼻を摘んでみても、咲太は身じろぎひとつしなかった。

 私を忘れないために眠らない、なんて無茶も良い所だ。

 そんなの何の解決にもならない、ただの時間稼ぎ。

 その間に根本的な解決方法を探そうとしていたのだろうか。徐々に回らなくなった頭で。

 勝算のない無茶苦茶な話だ。支離滅裂で、デタラメで――。

 

 けど、必死だった。

 必死に私をこの世界に繋ぎ止めようとしてくれた。

 

「ばか。……ばーか。さくたのばか」

 

 子守唄を歌うように、静かに言葉を重ねる。

 柔らかな淡い茶色の前髪を指先で掬い上げてみる。

 吐息さえ、届く距離。

 こうやって一緒のベッドに身をゆだねるのは数日振りだ。

 色気のある展開になっていないのも同じ。

 何の憂いも苦しみも感じられない寝顔を見て、自分の選択はきっと間違いではなかったのだとようやく思えた。

 

 

 

 梓川咲太。県立峰ヶ原高等学校の2年1組。頭の文字が「あ」だから、たぶん出席番号は1番か2番か。

 薄い色素の茶色のクセっ毛に、イマイチやる気があるのかないのかわからないような気だるげな瞳。

 口を開けば減らず口ばかりで、全然素直じゃない。

 今時スマホもケータイも持っていない珍しい子。

 学校では過去の無責任な噂のせいで孤立気味。けれどそんな状況に不満も不安も抱かずにスッキリと割り切ってしまっている。

 ご両親とは離れて妹とふたり暮らし。炊事も洗濯も掃除も家計の管理も、今は全て彼が担っているらしい。

 捻くれ者で、その上妙に図太くて、生意気なひとつ年下の後輩。

 

 優しい人。

 自覚的に誰かに優しくできる人。

 自分の優しさを与える相手を、きちんと選べる人。

 誰かのために必死になれる人。

 誰かのための行動に陶酔することなく、優しさを与えられる人。

 

 その優しさが向けられていた3週間、きっと私は幸せだったのだ。

 

 お互い牽制し合い、じゃれ合うような会話は楽しかった。

 デートに遅刻されたときは腹立たしかった反面、何かあったのかと心配だった。

 海岸であの人と会うときに、背後にいてくれただけでどれだけ心強かった。

 目に映るすべて単調だった2年の中で、この3週間だけが鮮やかな色合いを見せていた。

 

「ありがとう。咲太」

 

 図書館で私を見つけてくれてありがとう。

 そっけない私に根気強くかまってくれてありがとう。

 やりたいことから目を逸らし続けてきた私の背中を叩いてくれてありがとう。

 誰の目からも映らなくなった私の手を、最後まで引いてくれてありがとう。

 私を、諦めないでくれてありがとう。

 

 髪を撫でていた指先が頬へと滑る。

 確かめるように輪郭をなぞり、だらしなく半開きになった唇の端へと行きつく。

 決断は一瞬。迷いは微塵もなかった。

 指先ではなく手のひら全体で頬を包み込む。

 

 

 

 

――導かれるようにその唇に、自らの唇を重ねた。

 

 

 

 

 中学卒業と同時に芸能活動を休止してよかったと思う。

 彼と出会たからとか、ロマンチックな理由ではなく。それもないわけではないけれど。

 あのまま活動していたら、きっとこんな形の“初めて”じゃなかったなんて、現金な理由。

 

 マウストゥマウス。

 行為自体は単純なくせにひどく頭の中がフワフワするのは、その意味と価値を知っているせいだろうか。

 触れ合うだけのそれにするつもりだったはずなのに。

 もっと上手くやれる自信があったのに、全然ぎこちない。

 思考がボロボロと拡散していく。

 

 口を塞がれて、呼吸をしづらくなった咲太が少し身じろぐ。

 それでも逃がすまいと余っていた片手で、彼の服を掴んだ。

 はしたないと思った。自分にこんな一面があったのかと、脳裏に残る冷静な私が驚いていた。

 鼻から抜けるように漏れた呼気が、自分のか彼のかわからなくなる。

 自分の身体は、まだ彼の身体に物理的な影響を与えている。

 その事実に気づいて、背筋が粟立つ。人生の中で最も自分の存在を、強く自覚した瞬間だった。

 

 数分か、数十秒か、数秒か。

 狂った時間感覚に呑み込まれて、いつ離したかも記憶おぼろげだった。

 息を止めていたつもりはなかったけど、荒くなっていた息を吸って吐いて繰り返す。

 視界がチカチカと明滅する。

 バクバクと心臓の高鳴りが耳の裏から響いていた。

 取り返しのつかないことをしたような焦燥感と、吐き気すら覚えるほどの高揚感があった。

 乱れた息が整うまで、目を瞑ってうずくまるように彼の胸の中でその鼓動を聞いていた。

 

 それでも、きっと世界は変わらない。

 童話のように口づけひとつで起こる奇跡は用意されていない。

 至近距離で顰められていた彼の眉も、元の平穏を取り戻している。

 それでいいと思った。意識のない彼に何かを残せた気がした。

 それは自己満足に過ぎないけれど、世界に取り残された私の唯一の爪跡な気がした。

 泣いてはいなかったと思う。

 見上げた視界が少し滲んでいたが、それでもちゃんとその言葉を口にすることができた。

 

 

 

 

「さよなら、咲太」

 

 

 

 

 

 

           * * * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと、咲太を起こさないようにベッドから離れる。

 ずっと寝顔を見ていたかったけど、今はそれをしてしまうと自分の内側に空腹感ばかりが募っていく気がして。

 キスだけで満たされるものがあるなんて大ウソだ。心に注ぎ込まれた分、別の何かが大きくなっている。

 唇の熱が全身に巡って、上手く処理できず軽い熱暴走を起こしていた。

 未だに何か立ちくらみのような感覚がある。

 少し頭を冷やすため部屋を出ようとしたそのとき、それを見つけた。

 

 整理された机上の中央でこれ見よがしに置き去りにされた大学ノート。表紙にも教科名は何も書かれていなかった。

 妙に気になったのは、学校で使ってるにしては真新しいクセに、ところどころヨレていて使用感がにじみ出ていたからか。

 試験対策に作ったノートだろうか。あのコンディションで。

 何気なしに手を取る。

 思わず、息を呑んだ。

 

「これ……」

 

 そこにあったのは関数や方程式でも、現国の板書の写しでもなかった。

 

――この先に記されていることは、正直信じられないようなことだと思うけど、全部本当のことなので、必ず最後まで読むように。必ずだ!

 

 殴り書くように埋められた冒頭文の先にあったのは、5月6日から始まる日々の記録だった。

 図書館でバニーガールに出会ったこと。

 七里ヶ浜駅で意図せず再会できたこと。

 自宅に招き入れ、怒らせてしまったこと。

 私にまつわる思春期症候群についての相談と考察。

 南条アナウンサーとの取引。

 買い物して、焚きつけて、引っぱたかれて、デートの約束をした夜のこと。

 デートの日。遅刻と、七里ヶ浜での母とのやり取りと、大垣までの長旅。

 

 それは日記と呼ぶには冗長で、日誌と呼ぶには主観的過ぎるものだった。

 私と出会ってから咲太の視点で起こったこと、感じたことの全てが記されていた。

 

 忘れるな。忘れても思い出せ。覚えていろ。絶対に忘れるな。

 記憶に残せ。覚えているはずだ。忘れられるはずがない。

 

 記録の端々で語り掛けるように、刷り込むように何度も何度も重ねられた言葉があった。

 爪跡を残さんとする訴え。祈りにも似た叫び。

 

「馬鹿……」

 

 悪態が、無意識に喉を震わせた。

 眠気と体調の悪さでボロボロになっていったのだろう。日を追うごとに文字は乱れ、読みにくくなっていっていた。

 残していたんだ。もしも自分が力尽きて忘れてしまっても思い出せるように。

 思い出せなくても、それでも何かのきっかけになるように。

 泥臭く、なりふり構わず、できることの全部をやろうとしてくれた。

 

 5月27日。昨日の日付を最後に日記は終わっている。

 その日のできごとついてを、読むことができなかった。

 

「――くない……」

 

 掠れた声が、耳朶を打った。

 震えて、みっともないそれが自分の声であることを自覚できたのは、歪んだ視界の先の文字が上手く形を結んでくれなくなってからだ。

 足に力が入らなくなって、砕け崩れるようにへたり込んだ。

 何かから守るように、大学ノートを胸に抱え込む。

 

 

 

 

「消えたくない!」

 

 

 

 

 日記を見て、この3週間の日々が目の奥に浮かんで、思い知らされてしまった。

 いや、本当はわかっていた。諦めることなんてできるわけがないって。

 利口な振りしてこれが最善だなんて、これでよかっただなんて受け入れられるわけがない。

 

 これからだったんだ。

 芸能界に復帰して、ドラマや映画もやりたかった。

 まだ挑戦したことないけれど、舞台も踏んでみたかった。

 芸能界には尊敬できる人たちがたくさんいた。また会いたかった。良いお仕事をしたかった。

 それを多くの人に見てもらいたかった。認められたかった。

 脚光を浴びることに無関心で芸能人なんて続けていられない。

 

 またやりたいことがたくさんあった。

 続けていきたいことがたくさんあった。

 これから始めたいことがたくさんあった。

 なにより――。

 

 

 

『僕は絶対忘れない』

 

 

 

 消えてる場合じゃないと強がったあのとき、ハッキリとそう断言した人がいた。

 私なら何だってできるって、明日の天気でも予想するように背中を押してくれた人。

 生意気で、不躾で、図太くて、それでも優しい後輩がいた。

 私がいくら振り回しても嬉しそうな顔して、そのくせときには生意気にも反撃してきて。

 そんなやり取りがくすぐったくて。

 

「さくた……」

 

 細く、小さく、名前を呼ぶ。

 大事な宝物をそっと手の中にしまい込むように。

 

 ただ彼といたい。

 これからも、彼と一緒にいたい。

 他の何が叶わなくても、誰に忘れられていてもいいから。

 

 

 

――私を忘れないで。

 

 

 

 それは建前も気遣いも恥も外聞も放り出して、心の底に残っていた桜島麻衣の願いだった。

 

 

 

 

 

           * * * * * *

 

 

 

 

 枯れるほどに声を上げて泣く経験は、初めてだった。

 喉の奥がヒリヒリする。鼻の奥がツンと痛い。

 演技で泣くことはあっても、やはり心のどこかでは冷静だったのだろう。

 あの人に裏切られたときですら、怒りで奥歯を強く噛みしめることはあっても、こんな大号泣はしなかった。

 こんなときですらこの経験は今後に生かせる貴重なものだなんて、考えているのだから我ながら呆れる。

 

 そう。心はもうわかっている。自分が何をしたいか。

 消えてる場合じゃない。

 今更過ぎるけれど、もう本心から目を逸らしている場合じゃない。

 

 

 

 

 

 

 結局、咲太の部屋にずっと留まっていた。

 長くなると思っていた夜は、咲太の寝顔を眺めているだけであっという間に過ぎ去っていた。

 少しだけ、起こさない程度に悪戯もした。私を思い出した咲太が悶々と悔しがる程度に。

 妹さんに起こされて目覚めた咲太は、私の目論見通り、私のことを綺麗に忘れていた。

 登校準備をしている際に、例のノートに目を通してもいたが、やはり思い出すことはできなかったようだ。

 記憶にない女性との日々を綴った日記に読んでいる咲太の得も言われぬ表情は、カメラに収めておきたいぐらいに愉快だった。

 ご丁寧に私の名前だけが読めなくなっているようだった。

 記憶も、都合の良いように 書き換えられてしまっていた。

 まるで絵のところどころにできた空白を、想像力で埋めるように。

 人の持つイメージの力は偉大だ。人ひとりの存在など消えても、いくらでも上手く辻褄を合わせてしまう。

 

 日記を躊躇いなくゴミ箱に捨てられたときは、胸が軋んだ。

 放り込まれたのは、紛れもなく私との日々だった。

 いよいよ世界に取り残された現実を突きつけられている気分だった。

 それでも、まだ耐えることができた。

 俯いてる場合じゃない。

 妹さんに見送られて学校へ向かう咲太の後を、私はついていった。

 

 

 

 電車の揺れに合わせて、鼓動が大きく跳ねた。

 峰ヶ原高校へ向かう電車の中。

 腰越を超えたあたりで、咲太とハッキリ目が合った。

 誰かに呼ばれたかのようにハッとするように私のいる扉側へと振り返るこげ茶色の瞳に囚われる。

 それは本当にほんの一瞬のことだったけれど。

 

 私の視線が一瞬でも咲太の第六感に触れたのだろうか。そうだったらいいなと思う。

 それとも咲太の中に、私にまつわる何かが残っているのだろうか。そうだったらもっといいなと思う。

 不意に唇の熱を思い出して、そっと触れる。頬の熱さを自覚した。

 そうしながら、また友達と親しげに益体もない会話を繰り広げているブレザーの背中を、遠巻きに眺める作業に私は戻った。

 

 

 

 

「……愛ねぇ」

 

 温度感に欠ける声で、そう呟く咲太。

 別に本日2時間目の現国の問題を解いているわけではない。

 始業前、電車に乗り合わせた友人とはまた別の子から受け取った手紙を読んでいたのだ。

 確か、双葉理央さんだっただろうか。1人だけの科学部員。

 いつでも白衣を着用していることが有名で、名前ぐらいは知っていた。

 友人がふたりもいる、と誇っていた咲太のもうひとりの友人だろうか。

 そういえば、日記にも登場していたと思い出す。

 思春期症候群について、咲太が相談を持ち掛けていた。

 咲太の手の中でヒラヒラと弄ばれている手紙の内容を、再度盗み見る。

 

 

――これは、観測理論の荒唐無稽で空想科学的な拡大解釈だけど、あらゆる物質は誰かに観測されることで、この世界に物質としての形が確定すると仮定する。

  その場合桜島先輩の消滅が、全校生徒の無自覚な無視に起因するのであれば、それを上回る存在理由を梓川が作り出せれば桜島先輩を助けることは可能かもしれない。

  要は、見たくないものに蓋をして、桜島先輩を形が確定するまでの確率であり波の状態……すなわち、存在が定義づけられる前の空気のような姿に戻して、最初から存在していなかったことにした全校生徒の無意識を、梓川の愛が上回ればいいという話だよ。

 

 

 確かに、四角四面の難解な文章だった。

“保証”と“保障”の違いも怪しかった咲太では、きちんと理解するには少し荷が重いかもしれない。

 

 

 

 これも彼の昨日までの足掻きが作った、私までの手がかりなの?

 

 

 

 彼は眉を顰めて、手紙を眺めてる。私は、そんな彼を眺めている。

 状況は何一つ好転の兆しを見せない。

 それでも、彼の残した私への残骸は未だに残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから――私も覚悟を決めることにした。

 

 

 

 

 

 

 

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 

 

 

 

 

 

 

 雲ひとつない快晴だった。

 HRのチャイムが鳴るよりも前に、私は峰ヶ原高校のグラウンドまで足を運んでいた。

 トラックの片隅。野球場のバックネットに身体を預けて、そのときを待っている。

 

「こうして見ると、ホントに箱みたいね」

 

 褪せた白色の学び舎。凸型の形をしたそこは、確かに人を呑み込む箱だった。

 同年代の思春期の子たちが百人単位でコミュニティを形成する場所。

 法的に大人とは認められず、されど子どもじみた振る舞いが許されなくなってきている子どもたちの箱庭。

 多種多様なようで、否が応にもどこかで意思統一がなされた、猫を覆い隠す実験箱。

 

 私は、かつてここで空気になろうとしていた。

 誰の目にも触れず、誰からも構われず。

 入学当時に集まった好奇の視線も知らないふりをして、私は無色透明な存在になろうとした。

 傷口に触れられたくないから。本当はやりたいことを子どもじみた衝動で放り出した自分を突きつけられたくないから。

 そんな私に応えるように、遠巻きな視線は鈍くなり、私は存在そのものがタブーになった。

 横切ることが不吉とされる黒い猫のように。

 

 空気を読んでくれたのだ。

 

 何度目かのチャイムが鳴った。

 恐らく試験2時間目。さっきまで聞こえていた遠い気の緩んだ賑わいが、嘘のように静まり返っている。

 

 箱の中で誰の目からも観測されなくなった黒猫。

 その末路は、きっと衰弱死だ。

 寂しい、辛い、寒い、恋しい、苦しい。

 孤独という毒が全身を回って、窒息してしまう。

 

 だからここで待つことにした。

 私なりに考えた、彼の行動。

 彼が私を思い出したときに、どんな行動に出るか。

 場所は学校のグラウンドか校門前か。

 何となく、彼ならこっちを選ぶ気がした。

 校門前より校舎が一望できる場所。相手にしようと思えば、威圧的で圧倒的な存在感を放ち立ちはだかっている。

 悟ったようなこと言って、上手く立ち回れる能力があるくせに。

 こういうとき、きっと一番泥臭い戦い方をするだろうから。

 

 私は彼に賭けることにした。都合の良い希望的観測。そのとおり。

 そもそも他の手段なんて私の手の中に残されていないのだ。

 身体を壊す手前まで続けた無茶苦茶な不眠も、忘れるなと説き続けた日記も、双葉さんが考えた推測の手紙も。

 私を取り戻す全ては、彼が奔走してかき集めたものだろうから。

 きっと私のこれからにまつわるすべては、もうすでに私のものではなくなっているから。

 

 彼は全身全霊で行動してくれた。

 だから私の全てを、彼に託そう。

 それが、私の覚悟。

 幼少の頃から大人たちの中で生きてきた桜島麻衣にとっては初めてだろう、“誰かに身を委ねる選択”。

 

 今日がダメなら、明日も待とう。

 1ヵ月でも、半年でも、1年でも、3年でも、10年でも。

 たとえ死も生もあやふやなまま、フワフワと現世を漂う幽霊になったとしても。

 彼が思い出すその日を待ち続け、この世界を彷徨い続けていよう。

 いつか孤独の毒が私を殺すその日まで。

 そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――靴音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慌ただしく、取るものも取らぬ勢いで、駆ける人の音。

 けれどそれはきっと空耳だ。

 だってその人影は遠く校舎から、こちらに向かって走ってくるものだったから。

 それでも、確信があった。

 

 こんなテストの真っ最中に。

 誰もいないグラウンドの真ん中で。

 手を膝について、肩で息をして校舎に正対している背中。

 

 それでも都合の良い夢を見ている気分だった。

 こんなこと他に誰がするだろう。

 こんな非常識な“空気の読めない”行動をする生徒がこの学校に何人いる。

 見間違えようがなかった。

 

 胸に何かがこみあげてくる。

 それが喉の奥につかえて、呼吸のやり方さえわからなくなる。

 遠くで居住まいを正している背中がぼやける。

 

 それでも右手に触れた熱い涙に乗せた弱さを捨てるように、目元を拭った。

 無理矢理にでも大きく息を吐いて、気持ちを落ち着けた。

 思った以上にあっさりとできてしまった。

 できないわけがない。

 こんな緊張、こんな高揚。似たようなことは今までテレビカメラの前で散々経験してきたのだから。

 

 私は、桜島麻衣。

 全国的にも老若男女、知らぬ人などほとんどいない子役上がりの元女優だ。

 凛として品行方正。

 人の親が子どもにしたいと、小さな少女が姉にしたいと、思春期の青少年が恋人にしたいと注目を集めた芸能人だ。

 

 

 

 そして生意気で、図太くて、優しい峰ヶ原高校の2年生梓川咲太の、

 わがままで、女王様気取りで、気分屋な先輩。

 

 

 

 胸を張ろう。

 彼が取り戻してくれる世界で、私は相変わらずきっと桜島麻衣だから。

 諦めることなく望み、足掻き、そして連れ戻してくれた咲太に、釣り合ういつもの桜島麻衣で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前ら、よく聞けーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グラウンドの真ん中で、咲太の声が木霊している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――どこかで箱の蓋が外れる音が聞こえた気がした。

 

 


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