「まったく、もう!信じられない!」
辺境の街の冒険者ギルドで、妖精弓手が不服の声を漏らし、手にした杯を卓に叩きつけた。
中身の葡萄酒がはね上がり、数滴が卓に赤い染みを残す。
「何がそんなに不満だ」
彼女の体面の席に座り、その怒りを一身に受けるローグハンターは肩を竦め、ちびりと葡萄酒を一舐め。
兎人の集落で勇者たちと別れ、その後何事もなく街まで戻ってこられたものの、時を同じくして戻ってきた妖精弓手に案の定絡まれたのだ。
報告を済ませてローグハンターと合流した新米たちも、妖精弓手の剣幕に「あはは……」と乾いた笑みを浮かべるのみで助け船を出す気はないらしい。
手伝いをお願いした時は何も考えてはいなかったが、ローグハンターを何がなんでも冒険に連れ出したい彼女からすれば、今回の行為もまた抜け駆けになるのだろう。
隣の鉱人道士が長髭をしごき、「珍しいこともあるもんじゃ」と小さく呟く。
「娘っ子どもと耳長娘が結果的に邪教徒退治。頭巾のが雪男と吸血鬼退治とはの」
「まあ、たまにはこのようなことも良いではありませんか」
蜥蜴僧侶が愉快そうにぐるりと目玉を回して言うと、疲れた様子の令嬢剣士、女魔術師、女神官に目を向けた。
「久しぶりの冒険と、はしゃぎすぎましたわ」
「なのに、行った場所が邪教徒の隠れ家って」
「何でしょうかね……」
それぞれが思わず不満を漏らし、ローグハンターは顎に手をやって息を吐いた。
「俺がそっちに行っていたら、こっちが詰みだったかもしれないが」
彼はそう言うと、卓の一番端で揺れる白い長耳に目を向けた。
慣れぬギルドの喧騒を興味深そうに眺め、出入りする冒険者の姿を見る度に感嘆にも似た息を吐いている。
「お前の集落にあった古文書。肝心の部分が破けているのは驚いたがな」
「ぼくだって驚きましたよ。お父さんも気にしなかったのかなぁ」
何を隠そう、山からついてきた白兎猟兵だ。
彼女と共に何が足りなかったのかと調べたが、それが記されたと思われた巻物は半ばで破れており、肝心の何かを見ることは出来なかった。
白兎猟兵は苛立ちをぶつけるように皿に盛られた野菜の山に豪快にフォークを突き刺し、大口あけて頬張り始めた。
咀嚼する度に揺れる首もとの認識票は、駆け出しを示す白磁等級のもの。
また一人、頼もしいかはわからないが、未来ある冒険者が増えたのだ。これは喜ぶべきことだろう。
ローグハンターは肩を竦め、隣に腰掛け卓に突っ伏している銀髪武闘家の背中を撫でた。
「うぅ……」
彼女の口から呻き声が漏れ、突っ伏しているから顔は見えないが、耳が真っ赤に染まっているため何やら恥ずかしがっている様子。
「ところで武闘家殿はどうなされたのだ。帰ってから何も口にせず、ずっとこの様子だが」
蜥蜴僧侶が純粋に心配してかそう問うと、ローグハンターは気まずそうに目を逸らした。
珍しく質問に答えてくれないローグハンターの姿に蜥蜴僧侶は「おや」と声を漏らし、ならばと新米たちに目を向けた。
新米たちもまた気まずそうに目配せすると、見習聖女に小突かれた新米戦士が仕方ないと言わんばかりに息を吐く。
「……その兎人の集落にお世話になったんですけど、向こうの人にも二人が恋人だってことがバレまして」
「盛大に祝われたのか」
「それはまあ、盛大に」
出発直前に兎人に囲まれ、あれやこれやとお土産を貰っていた。それは既に部屋に運び込んだそうだが、それはまあかなりの量だった。
蜥蜴僧侶は「ありがたきことですな」と奇妙な手振りで合掌し、顔も知らぬ友人たちに礼を言う。
「……恥ずかしかったぁ」
「そうだな……」
銀髪武闘家が絞り出すように呟くと、ローグハンターも天を仰ぎながらため息を漏らす。
彼らを知らぬ者たちからは冷酷な冒険者と思われている彼らとて、誰とも違わない血の通った人だ。何かあれば恥ずかしがりはするし、しばらく引きずることだってある。
既に出来上がった様子の妖精弓手は「雪男に吸血鬼でしょ!?」とかなり遅れた反応を示し、杯一杯に注がれた葡萄酒を一息で飲み干す。
だん!と叩くように卓の上に杯を置き、「ぐぬぬ……!」と唸りながらローグハンターに指を突きつけた。
「そもそもあんた!まだ報酬を払ってないでしょ!?」
「報酬?」ローグハンターは首を傾げ、「何のだ」と至極真面目な面持ちで問いかけた。
彼のその言葉がいけなかったのか、妖精弓手が目を見開いて身を乗り出す。
誰しもが見惚れる美しい顔を前にしても、ローグハンターは見惚れた様子を見せない。むしろ僅かに眉を寄せて僅かな嫌悪感を示めす程だ。
酔った彼女はそんな事お構い無し、ローグハンターに指を突きつけて言う。
「この間、眠ってたこの
「ああ、それか」
怒鳴るようにぶつけられた彼女の言葉にようやく合点がいったのか、ローグハンターは彼女の前に並ぶ空の杯の数を数えると、懐に手を突っ込んで財布を取り出す。
つまり、ここは奢るからそれで手を打てと言いたいのだ。
「違うわよ!!!!」
それを察した妖精弓手は再び怒鳴ると、ローグハンターの肩を掴んで前後に揺らし始めた。
「お金じゃなくて、冒険よ!ぼ・う・け・んーっ!」
「そういう話は酔っていない時にしてくれ」
揺られるローグハンターは困り顔でため息を吐き、肩に置かれた彼女の手を払った。
彼は揺らされるのは嫌いだ。酒を飲んだ後だと、単純に気分が悪くなる。
相変わらず取りつく島もないの彼の姿勢に、鉱人道士と蜥蜴僧侶は顔を見合わせ、やれやれと首を左右に振った。
彼らの会話についていけない白兎猟兵は口の中を野菜で一杯にしたまま、小首を傾げる。
「止めないで良いんですか?」
「構わん構わん。ほっときゃ耳長のが勝手に潰れるかんの」
彼女の問いに鉱人道士が火酒をあおって答えると、酒臭い息を吐き出した。
慣れぬ臭いに白兎猟兵は「うっ!」と鼻を押さえて勢い良く顔を背けた。
「あんまり苛めないでください」
同じく鼻を押さえながら新米武闘家が苦言を漏らすと、鉱人道士は「むぅ」と難しい顔をしてそっぽを向いた。
ローグハンターたちは既に慣れたが、火酒は中々に強烈な酒だ。臭いだけでも慣れるのにはそれなりに時間がかかる。
「それはそうと、ゴブリンスレイヤーはどうした」
白兎猟兵に向けて苦笑を浮かべていたローグハンターが、ふと姿が見えない友人の事を話題に出し、ギルド内を見渡した。
薄汚れた革鎧に両角の折れた鉄兜という、他にはいないであろう特徴的な格好をした冒険者だ。いればすぐに気付くだろうし、何より向こうから声をかけてくるだろう。
「ゴブリンスレイヤーさんなら、もう帰られましたよ」
不意に、冒険者のものではない声が横合いから飛んできた。
弾かれるようにそちらに目を向ければ、仕事を終えたのか、暖かそうな私服に身を包んだ受付嬢がそこにいた。
新米たちは思わず姿勢を正したが、彼女は「面接は明日ですよ?」と苦笑を漏らし、「失礼します」と空いている席に腰を下ろした。
ローグハンターはいつものことと気にした様子もなく、ゴブリンスレイヤーの事を頭の片隅で考える。
「珍し──くもないか」
「はい。いつも通りです」
ローグハンターが苦笑を浮かべると、受付嬢は残念半分、納得半分そうに漏らした。
密かに彼に想いを募らせる彼女のことだ。彼に即帰られてしまうと、その日はもう会うことが出来なくなる。
「ゴブリンスレイヤーさんも大変だったみたいですよ。向かった先にゴブリンがいたと」
「うぇ!?牛飼いさんは、大丈夫だったの!?」
受付嬢が何ともなしに告げた言葉に、銀髪武闘家は勢い良く体を起こして彼女に詰め寄った。
「大丈夫じゃなかったらもっと慌てます」と受付嬢に返され、「そ、そうだよねぇ~」と力が抜けたように再び座り込む。
「……配達で街を出たのに、ゴブリンに絡まれたのか」
ローグハンターは苦労し続ける友人の姿を思い浮かべ、心の内で「たまには休ませてやれ」と天上の神々に愚痴を漏らす。
そして最近神々への不満ばかりだと気付き、頭を振って意識を切り替える。
「まあ、お互い無事なら良いさ。また明日にでも会えるだろ」
「そうだね。来なかったら会いに行っちゃおう」
銀髪武闘家は先程までの様子はどこへやら、活力に満ちた様子でぐっと拳を握る。
「冒険にでも行くのか」とローグハンターが苦笑をすると、「まさかぁ」と笑って応えた。
相変わらずの仲良さげに笑いあう二人の姿に、鉱人道士と蜥蜴僧侶は目を合わせた。
「あの二人は、あれでもまだ未婚なんじゃろ?」
「ふぅむ。何故なのでしょうな」
二人はそうして首を傾げるが、肝心の恋人二人には聞こえていなかったのか返答はない。
その辺ローグハンターはお堅いのか、銀髪武闘家が遠慮がちしているのか……。
「とにかく、また明日からもお願いしますわ!」
僅かに頬を赤く染めた令嬢剣士が、突拍子もなくローグハンターに告げた。
彼女の前にあるのは複数の空になった杯。彼女も彼女で酒に弱いのか。
女魔術師はほとほと困り果てたようにため息を吐き、眼鏡の位置を直しながら「よろしくお願いします」と一礼する。
「うぅ!明日こそ冒険に連れ出してやるんだからっ!」
妖精弓手は誰もいない方向を指差しながら宣言し、鉱人道士は呆れながら白兎猟兵に「じゃろ?」と告げて火酒を一あおり。
言われた彼女も「そうですねぇ」と呑気に漏らし、人参のスティックを一かじり。
蜥蜴僧侶はチーズをかじって「甘露、甘露」と舌鼓をうつ。
「して、これからどうするのだ」
彼はそう問うと、ローグハンターに目を向けた。
「どうと言われてもな」と彼は頬を掻き、「帰って寝るか」と当たり障りのない答えを出した。
酒を飲んでから冒険に出る気はない。そんな事をするのは自殺願望のある者だけだ。
「そうですな。拙僧はもうちと食べてから休むことにしよう」
「なら、儂も付き合うかの。そっちはどうするんじゃ」
鉱人道士は髭についた水滴を拭ってそう言うと、ローグハンターに問いかける。
彼は顎に手をやるとしばし考え、銀髪武闘家に目を向けた。
見られた彼女は首を傾げ、何か着いているのかと自分の頬に触れた。
それを合図にしたのか腹の虫が鳴き、再び彼女を赤面させた。
「俺たちも何か食べていくか。葡萄酒飲んだだけではな」
「……うぅ、もっと早く言って欲しかったな」
銀髪武闘家が自分の腹を擦りつながらそう言えば、それは決まったこととほぼ同義だ。
彼女は咳払いして意識を切り替えると、受付嬢へと笑顔を向けた。
「受付さんも一緒に食べよ?」
「あら、良いんですか?」
「良いんです、良いんです。皆で食べた方が美味しいからね」
確認してきた受付嬢にそう返し、いつものように「注文良いですか~」と獣人の給仕係を呼び寄せる。
メニュー片手にあれやこれやと注文していく彼女を他所に、ローグハンターは新米たちに目を向けた。
「さて。だいぶ遅くなったが、冒険をした感想は?」
彼はそう言って笑みを浮かべ、くつろぐように頬杖をついた。
新米たちは僅かに考え、新米剣士は鼠のことを思い出してか「大変だったなぁ」とため息を漏らし、新米戦士は雪山の寒さを思い出してか「寒かったなぁ」と体を震わせる。
新米武闘家は白兎猟兵と顔を見合わせて「でも、楽しかったです」と呟き、見習聖女は「私は──」となにやら言葉を詰まらせた。
「どうした」とローグハンターが問えば、彼女は一度深呼吸をして言う。
「ちょっと不安です。至高神様の
そう言って杯に入った水を口にし、ため息にも似た息を吐く。
ローグハンターは目を細めると「別に何でも良いだろう」と適当なことを口走り、まるで教師が生徒に言い聞かせるように見習聖女に告げた。
「そもそも神が何を考えているかなぞ、俺たちにはわからん」
「そうですよね……」
「だが──」
ローグハンターの回答にしゅんとした見習聖女だが、彼の言葉はまだ終わらず、さらに口を動かした。
「だから、最終的に何をするのかを決めるのはお前だろう。至高神はあの山に行けと言っただけだ。そこで何をして、何を思ったのかは、お前次第だ」
「あの山で後悔を残したのなら、次はないように努めろ。後悔がないのなら、次は今回よりもより良い動きをしようと努めろ」
「俺もお前も冒険者だ。行く先々で神々は骰を振るうだろうが、何もせずに振るう価値もないと切られるよりは良いだろう」
ローグハンターは早口でそう言うと、「で、どうだ」と見習聖女に問いかけた。
彼女は僅かに顔を俯けて考えを巡らせた。
あの冒険でいくつもの失敗をして、いくつか成功して、結果的には皆でここに帰ってこられて。
「とりあえずは、ギリギリ妥協点ですかね」
「あら、手厳しい」
見習聖女の自己評価に受付嬢は小さく笑みを浮かべた。
ここで「満点です!」なんて言ったのなら、ローグハンターと共に少しばかり手厳しいことを言ってやろうと思ったのだが、彼女がそう言うのなら良しとしよう。
受付嬢とローグハンターから優しげな笑みを向けられた見習聖女は居心地悪そうに赤面して目を逸らしたが、そこに助け船が出された。
獣人の給仕係が様々な料理を手に現れたのだ。
「はい、お待ちどうさま!」
「待ってました!」
料理は次々と銀髪武闘家とローグハンターの前に並べられていき、それは新米たちの方へも並んでいく。
新米戦士が並べられていく熱々の料理を前に生唾を飲み込むと、「俺たち、頼んでませんけど……」と伸びかけた手を押さえて呟いた。
言われた銀髪武闘家は首を傾げ、「そりゃ、私が頼んだからね」と何故かどや顔。
ローグハンターも変なところで真面目な後輩に堪らず苦笑を漏らし、「言っていなかったか?」と肩を竦める。
「冒険に行って帰ってきたのなら、その一党で食事をするものだろう」
「そうそう。今日は奢ってあげるから、食べていいよ」
銀等級二人の気遣いに新米たちは顔を見合わせてぱっと表情を明るくした。
彼らとしては久々の贅沢な食事だ。一口一口味わなければ、それこそ損と言うもの。
思わず手を伸ばした新米たちに「まあ、待て」と制して、ローグハンターは次いで運ばれてきた杯を全員に配った。
銀髪武闘家のものを除き、中身は全て葡萄酒だ。
何だ何だと首を傾げる新米たちの姿に、鉱人道士は思わず噴き出しかけたものを耐え、新米たちに告げた。
「食う前に乾杯するのが礼儀じゃわい。ほれ、持った持った」
彼に急かされるがまま、新米たちは杯を掲げていく。
「お酒飲めない……」と一人テンションの低いまま杯を掲げた銀髪武闘家を他所に、ローグハンターも杯を掲げた。
最後に卓の端でボケッとしていた白兎猟兵に「おい」と声をかけると、「あ、ぼくもですかぁ」と呑気な声も漏らして杯を掲げた。
今回の冒険に関わった全員のものが出揃った事を改めて確認すると、女魔術師らにも目を向ける。
「おまえらはやったと思うが、ここにいるのも何かの縁だ。少し付き合ってくれ」
「わかりました」
「ふふん!わたくしはまだまだ飲めますわ!」
「それじゃあ、いただきます」
「儂は火酒があるかんの。鱗のもこっちにすっかい」
「いただきまする」
女魔術師に始まり令嬢剣士、女神官、鉱人道士、蜥蜴僧侶が各々杯を掲げ、潰れかけていた妖精弓手と「私も……」と杯掲げ、受付嬢も「じゃあ、私も失礼して」と遠慮がちに掲げて見せた。
その場に集った友人たち、後輩たち全員が杯を掲げると、ある程度手慣れているローグハンターが音頭を取る。
「では、それぞれの冒険の成功と、勇敢なる新たな
──乾杯!!
がちゃりと杯同士がぶつかり合う音を合図に冒険者たちは葡萄酒を胃に流しこみ、卓に並ぶ料理にかじりつく。
いつも通りに流れる日常の一ページに、また小さな出来事が加えられた。
新米たちは来週になる頃には新米と呼べなくなり、鼠退治とは違う依頼に挑み始めるのだろう。
ローグハンターは後輩たちの成長を喜びつつ、ちらりと銀髪武闘家に目を向けた。
酒を口にしないか警戒しているのもそうだが、
『あの二人は、あれでもまだ未婚なんじゃろ?』
『ふぅむ。何故なのでしょうな』
友人たちがこぼした言葉が、流石に気になってしまったのだ。
結婚。結婚かと、胸内で反芻し、葡萄酒の水面に映る自分の顔を覗きこむ。
──いい加減、覚悟を決めないとな。
彼は自分にだけそう言い聞かせ、一息で葡萄酒をあおった。
いつも美味いと思っていたその味も、途端に味がしないようにさえ思えた。
赤子も黙る
──答えなんて、とっくの昔に決まっているというのに。
四方世界の片隅。盤の端に程近い場所にあるその島は、とうの昔に歴史から消え、いつしか神からも忘れられた悲しき場所だ。
神からも忘れられたとはいえど、そこに生物がいないのかと問われると答えは否。
獰猛な猪が、温厚な鹿が、巨大な熊が、群れをなした狼が島を闊歩し、その島で弱肉強食の食物連鎖を繰り広げている。
神々の骰が振られることのないその島は、文字通り個体と群れの強さがものを言う。
相手を喰らい、相手に喰らわれ、残された死骸は島の養分として森の一部となる。
森人が訪れたなら、間違いなく安堵にも似た思いを抱くことだろう。それほどまでに自然の力が強く、人の手が全く入っていない。
だが一つ。自然に包まれた島において、特異なものがあった。
島にある小さな谷の底に、木材とも大理石とも違う何かによって作られた壁が来るものを拒んでいるのだ。
島に住む獣たちは本能が働いてか寄り付かず、草木一本すらない。その壁の周辺だけが不自然な程になにもないのだ。
不意に、その奇妙な壁が動き出した。
一枚岩と思われていた壁が左右に割れ、奥から人影が現れる。
汚れ一つない純白のローブを纏い、左腕には三枚の板金が取り付けられた籠手を取り付けられているが、何故か薬指が欠けている。
彼は腰にかけた金色の剣に手を触れ、忌々しそうに息を吐く。
「──なぜ来ない」
そう呟くと腕を組んで金色に輝く双眸を細め、誰に言うわけでもなく口を開く。
「座標は送られている。力も馴染んでいる筈だ。なぜ来ない」
口振りから誰かを待っているようだが、その待ち人が来ずに苛立っているのだろう。
天を見上げてため息を吐くと、不意に背後から肩に手が置かれた。
彼は目を見開いて驚きを露にするが、すぐさま意識を切り替えて振り向き様に跪いた。
「我が主よ。次なる使命を」
彼に主と呼ばれたのは、金色に輝いている女性だ。薄く透けているため、亡霊か何かのようにさえ見える。
女性は男性の頭に手を置き、口許に優しげな微笑を浮かべた。
『────―』
そして何かを口にすると、それを受けた男性は心の底からの笑みを浮かべた。
──何を迷っていたのだ、私は。
数分前の悩んでいた自分が急に馬鹿らしくなり、僅かに呆れたように息を吐く。
「来ないのなら、連れてくるまでだ」
彼の言葉に女性は嬉しそうに笑みを浮かべ、谷の向こうのそのまた向こうを手で示した。
『──―』
男性に向けて何かを告げると、彼は「御意」と短く答えて立ち上がる。
そして女性に背を向けて歩き始め、鳴り響いた雷光と共にその姿を消える。
谷底に残されたクレーターがその衝撃の強さを教えてくれるが、女性は怯むことなく彼の背中を見送った。
骰は投げられた。出た目は誰にも変えられず、何が出るかもわからない。
女性は浮かべていた優しげな笑みが一転、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
『──さあ、勝負を始めましょう。この
口の中央に座する都。
雪山から帰還した勇者たちは、いつものように報告のためにその場所に戻り、いつものように大門を潜ろうとしたが、
「ッ!」
勇者は何かを感じ取り、弾かれるように西の方角に目を向けた。
西には彼女の兄たるローグハンターの拠点の街がある。
「二人とも、ちょっとごめん!」
勇者はそう言うと、二人の制止を無視して走り出した。
持てる全力で走り抜ける彼女は、さながら黒い風のようだ。
「い、いきなりどうしたんですか!」
剣聖が小さくなっていく背中に向けて叫ぶが、返答はない。
隣の賢者がぼそりと「
ちょうど良く迎えに出てきた兵士たちに馬を連れてくるように頼み、やれやれとため息一つ。
勇者と呼ばれる彼女とて、その
それまでに追い付ければ、彼女とて不満は言うまい。そもそも彼女が不満を口にすることがあるのかと疑問を浮かべる。
そうしている間にも勇者の姿は小さくなっていき、剣聖と賢者の二人はため息を吐いた。
──本当、彼女の側は退屈しない。
水の街、法の神殿。
礼拝堂にて至高神に祈りを捧げていた剣の乙女が、不意に顔をあげて「ローグハンター様?」と呟く。
彼女の侍女たる妙齢の武僧が「何事ですか」と声をかけると、剣の乙女は表情を引き締めて侍女へと顔を向けた。
最近見せるようになっただらしのない表情とはほど遠い、彼女を金等級冒険者足らしめる凛とした面持ち。
それだけで何があったのかわ察せぬほど、侍女と剣の乙女の信頼は弱くはない。
「
「ええ。西に行くわ、馬車の用意をしてくださる?」
「かしこまりました」
剣の乙女の言葉に侍女は短く答えると、足早に礼拝堂を後にする。
剣の乙女は自身の豊かな胸に手を当て、お守りたる鷹の風切り羽をその細い指で撫でた。
突如として至高神より告げられたお言葉は、端的に言えば「彼を守れ」といった所。
彼を中心にして、何かが起こるのは確実だ。
「今、参ります」
胸の内を渦巻く不安は、かつて魔神王と対峙した時と相応のものだ。
だが、やることは変わらない。混沌の手勢を相手取り、その頭目を潰し、傷つけられた人々を癒す。
神の使徒たる自分に出来るのはそれだけ。だが、それでも。
「わたくしに何か出来ることがあるのなら」
彼と同じように、自分も自分の
──至高神な御名にかけて、わたくしの全力を。
想い届かぬかもしれないが、
──せめて、彼の命が消えませんように。
剣の乙女は、静かに至高神へと祈りを捧げた。
誤字脱字、アドバイス、感想、アンケートのご協力など、よろしくお願いします。
期限は『Extra Sequence01 いと慈悲深き地母神よ』が完結してから+1週間です。随分と今更な事を聞きますか、ダンまちとゴブリンスレイヤーコラボイベント『Dungeon&Goblins』にログハン一党をぶち込んだものをーー
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見たい!
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別にいいです……。