Ace Combat side story of 3 - Emotional Sphere -   作:びわ之樹

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第34話 Leveration(前) ‐鳥籠の中で‐

 横薙ぎの衝撃が頬骨を穿ち、平衡を失った目が眩む。

 ふらつく視界、じんじんと頬を苛む痛み、そして口中に満ちる血の味。続けざまに左から振られた拳が頬に叩き込まれ、三重の苦痛は一層の激しさを増してゆく。

 

 『ウロボロス』隷下、スーデントール基地内に設けられた臨時拘置所。窓から差し込む、曇天下の陰鬱な陽光に晒されたレフの相貌は、見るも無残な姿になり果てていた。

 十数度の殴打に見舞われ、赤黒く腫れ上がった頬。同様に腫れた瞼は右目を半ば覆っており、その瞳を認めることすら定かではない。腕で防ごうにも、その体は椅子に拘束され後ろ手に縄をかけられており、身じろぎすらままならない有り様である。重なる痛みに感覚はもはや鈍麻しつつあり、レフの意識は既に気絶する一歩手前まで追い詰められていた。

 

「貴様は!貴様は、貴様は!!よくもこの貧弱な姿で、『ウロボロス』へ叛逆を企図するとは!!…みすぼらしい、おこがましい、愚かしい!これだから、これだから…既存の!固定観念に!凝り固まった!連中は!…度し難いのだ!!」

 

 感嘆符が言葉を区切るごとに、拳は凶器となって体へと穿たれてゆく。わずかに頭を上げ、斜めに注いだ瞳の先には、拳を握ったまま荒く息を吐くルカ・クレメンティの姿があった。怒りと絶望でその目は紅く充血し、常のインテリらしい落ち着いた雰囲気は微塵も感じられない。

 

「はぁ…はぁ…。言え!貴様の目的、計画、同志、全てを!」

「……何を…言っているか分からないんですがね。懸命に尽くしてきた『同志』にこの仕打ちはあんまりじゃないですかね、隊長殿…!」

 

 歯ぎしりを噛んだ、ルカの相貌。そこに屈辱の色が走るやいなや、拳がレフの鳩尾へと叩き込まれる。

 胸を押し上げる強烈な衝撃と吐き気を堪え切れず、レフは反射的に上体を俯け、込み上げる胃液を床へと吐瀉した。殴打で口の中を切ったためか胃液には血が混じり、不快な酸味を帯びた唾液が口腔と鼻孔から滴り落ちてゆく。これまで深酒でしたたかに嘔吐をしたことは何度かあったが、痛みで軋む体から強制的に胃液を絞り出される苦痛は、過去に感じたことが無いほど著しいものだった。

 

 きつい。

 助けの無い孤独と立て続けの暴行の最中にあり、レフの偽らざる感想はその一言だった。

 昨晩のヒカリやアレックスとの密談が露見したのか、それともそれ以前にスフィアの行動が察知されていたのだろうか。いずれにせよ拙速で運ばねばならない都合上、早晩露見するのは覚悟の上ではあったが、それでもよりによって決行当日に捕らえられてしまったのは何とも都合が悪い。できることならばヒカリに手を回してもらい脱出したいところだが、ヒカリの権限でどこまでできるかは定かでない以上、現状の見通しは完全に五里霧中と言っていい状況だった。

 

 それゆえに、きつい。

 絶え間ない苦痛と暴行。当てのない脱出の手筈。そして、先の見通せない目下の状況。

 

 ルカを睨み上げ、レフは奥歯を食いしばる。摩耗してゆく精神を、自らの意思と求めた痛みで縫い繋げるように。

 

「とぼけるんじゃあない!密告を受け、貴様の計画の概要は把握している。我々の諜報力を甘く見た報いだ。――この!愚か者!がぁ!!」

 

 拷問の為ですらない、暴行の為の暴力がレフの腹を、頭を打ってゆく。

 痛みと疲労で鈍麻した脳裏に響く『密告』の語に、反射的に浮かんだのはアレックスの姿。秘密裏に運んだ『ウロボロス』からの脱走計画を知るのは、首謀者たるレフとスフィア、ヒカリの他は、ヒカリの母親であるサヤカ・タカシナと、ヒカリの一存で密談に参加させたアレックス以外には存在しない筈である。ヒカリやサヤカに自分を売る理由が見当たらない以上、どう考えても怪しいのはアレックスによる密告の線しかない。『ウロボロス』に参画するにせよ脱走するにせよ、今の監禁状態を破るために、内部の反乱分子を密告して恩恵に預かるというのも、動機としては理に適っている。

 

 今更ながら、レフは甘い判断を下した昨晩の後悔を噛み締めた。ヒカリの顔を立てて不問にしたが、自分の危惧に従ってアレックスの口を塞いで――少なくとも気絶させておくべきだった。余人には口外しないというアレックスの言を鵜呑みにしたのは、大きな手落ちという他にないであろう。

 

 後悔と絶望に、半身を浸したレフの精神。

 不意にそこへ光を当てたのは、予期せず接がれたルカの言葉だった。

 

()()()()()()()()()()()()も全員を拘束済みだ。――貴様の計画は、もう全て失敗なんだよ!吐け!他の同志は誰だ!!」

「………!?」

 

 殴打の痛みのさなかに、違和感が光となってレフの思考を照らす。

 

 おかしい。

 確かに自分とヒカリの間で脱走計画は存在し、エスクード隊の面々もその対象に含まれている。それは、決して誤りではない。

 しかし、である。エスクード隊はあくまで計画の最中に救出する対象であって、能動的に脱走を図るのは自分とヒカリの二人でしかない。更に言ってしまえば、同じエスクード隊でもクルスと他の隊員では優先順位にも差がある。翻って先のルカの言葉を解いていけば、中心人物であるクルスやヒカリが何一つ言及されていない――すなわち、計画の一員として見なされていない節がある。もし本当に密告したのがアレックスだというのなら、計画の中心であるヒカリやクルスを放置する訳はないというのに。

 つまり。

 

 レフの瞳に、わずかに生気が戻る。

 これは、状況証拠ですらない。あくまで言葉の綾から推し量った、希望的な観測でしかない。

 それでも、つまり。

 ヒカリやクルス、そしてスフィアが健在だとするのなら、計画はまだ死んでいない。

 それならば、今俺がすべきことは。

 

「……はッ」

「…何だ、レフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフ志願兵」

「相変わらず、何を言っているかさっぱりですな。聡明なるルカ・クレメンティ隊長殿…!」

「――貴様……!!」

 

 ルカの足元へ唾液混じりの血を吐き出し、不敵な色を帯びてレフはルカを睨み上げる。

 額にぴくりと蠢く血管、怒りで紅潮する頬、そして滲んだ血を握り潰すように固く締められた拳。大きく腕を引いて加速を受けたそれが、レフの胸を容赦なく打ってゆく。

 挑発の代償たる痛みと苦痛を、レフは甘んじて受け入れた。こうしてルカの注意を引き付け続ければ、少なくともルカがヒカリ達へ払う注意は相応に減るに違いない。

 

 鈍く肉を打つ音が、怒号とともに狭い部屋へと響き渡ってゆく。

 ルカが自らの拳の痛みに根を上げるまで、それは数十分の間続いていた。

 

******

 

 鉄格子から注ぐ陽光に、幾らかの明るみが指してゆく。

 時間にして1時間と少し後。臨時拘置所の一室に、椅子に縛られたまま床に伏したレフの体があった。見るからに肉弾戦を得意とはしていないルカからの暴行だったために、幸いにも各部への致命傷は負っていないが、それでも全身を苛む響くような疼痛はやはりつらい。出撃任務と称してルカは出ていったが、もしあの調子でもう1時間でも続いていれば、大の男といえども早晩気絶していたことだろう。このところ目に見えて人員が減っている煽りを受けてか、交代の尋問要員が入ってくる様子も無かった。

 

「く…そ、好き勝手殴りやがって。畜生、口の中も痛え。こんなんじゃ温かいスープも飲めやしねえぞ」

 

 憎まれ口一つ、腫れた瞼を辛うじて開き、レフは周囲を見渡し探る。

 時計は、無い。臨時とはいえ拘置所を名乗るだけあり、飛散防止加工を施された窓には鉄格子が嵌められ、容易には外せないように見受けられる。扉は網膜認証による電子ロック方式を取っているらしく、電子的にこれを突破するのは至難の業だった。頼みの綱のスフィアにコンタクトを取りたいところだが、見渡す限りカメラやスピーカーを有する電子機器も見当たらない。

 つまり――考えたくはないが、独力での脱出は不可能と言ってよい状況だった。

 

 せめて、スフィアがドアのロックを解除してくれれば。

 絶望的な状況を前に、思考は無い物ねだりへと逃げ込んで、頭は思わずドアへと向かう。当然ながらそんな都合の良い話が降って湧く筈もなく、待てど暮らせど奇跡が起こる気配は無い。

 

 ――だが、しかし。空と同様に、この地上でも『予想外』はえてして起こりうる。

 

 そんな訳ねぇよな、と半ば自嘲し視線を外したその矢先。不意にがちゃ、と鳴ったロック解除音に、レフはぎょっと視線を跳ね上げた。

 

 開くドア、差し込む光に、影は3つ。

 ヒカリの姿を期待したレフの楽観は、しかし瞬時に裏切られることとなった。やや後ろに立つ左右の2人は武装した『ウロボロス』の兵員であり、常ならばヒカリが連れ歩くような連中でない。そして何より、中央から一歩を踏み出した小柄な姿に、レフは残念ながら見覚えがあったのである。

 

「カプチェンコ…」

「おお、おお。若いとはいい。まだ口を利けるとはな」

 

 血と胃液の匂いが残る室内へ躊躇なく歩を進め、老人――カプチェンコは入口側を一瞥する。事前に何かを言い含められていたのか、護衛の二人は室外へと下がり、それきり扉は閉じられてしまった。カプチェンコはといえば外見の割に軽快な足取りでひょいひょいとレフへ近づき、懐の短剣でレフの縄を切り落として、『あとは自分でやれ』と言わんばかりにテーブルを隔てた椅子へと腰を下ろしてゆく。身体能力で遥かに優る囚人相手に1対1で相対するなど、相当な豪胆――あるいは無謀――と言う他無かった。

 

 試されている。

 カプチェンコの態度から感じ取ったその印象に、レフは慨然とした不快感と不思議な高揚を覚えた。感情の昂りそのままに、レフは自由になった腕で身を起こし、敢えて乱暴に椅子を立てて、唇を引き結んだままどすんと腰を下ろしてゆく。

 衝撃に、傷む顔や胸の腫れ。顔を歪めるも一瞬、レフは真正面からカプチェンコと相対した。

 

「何だ。今度の尋問役はあんたか?」

「まさか。こんな老骨にできることは最早無いよ。ワシはただ、世間話でもとな」

「くだらねぇ。あんたに今更話すことも無えよ」

「まあ、そう言ってくれるな。…さて、『首無し』君。()()()()調()()()?」

「――…ッ!?」

 

 椅子に深く背を預け、下らないとばかりに体を斜めに構えるレフ。世間話という切り口で、匕首のような鋭い言葉が突き付けられたのはその時だった。

 言葉が詰まる。冷や汗がじわりを浮かぶ。しかし、間を置くと怪しまれる。

 口から絞り出したレフの言葉は、しかし心なしか揺らぎを帯びていた。

 

「……ルカもそうだが。何を言ってるのか、俺にはさっぱり分からねえよ。そんな下らねえ事聞くくらいなら、チョコミントシェイクでも差し入れしてくれ」

「おお、おお。そうか。それは悪かった。それでは、暇潰しの寝物語程度に聞いてくれ。面白い話を小耳に挟んだものでな」

「……ほお」

「何、大した噂話でもないが。このスーデントールで、近々大規模な反乱が計画されているという与太話だよ。首謀者は中堅級の構成員と志願兵一人、そしてその()()()。警報装置作動の混乱に乗じて居室を脱出するとともに、前後して協力者の部隊が基地を強襲。混乱の中でとあるNEUの重要人物を部隊員ごと連れ出し、強行離陸でスーデントールを脱走するという荒唐無稽なものだ。この与太話の発案者は、大層想像力と行動力に溢れている。冒険小説家の才能があるかもしれんの」

「…………」

「とはいえ、混乱の起点が警報装置の誤作動というのは頂けん。そんなものは中央からの一括管理で早々に停止させられるからの。肝心のNEUの救出者も施設内に分散しており、その全員の救出無しには『重要人物』も重要たりえぬとなれば、些か粗も目立つがな。――『おお、我が王よ。拙は非才にして愚昧なる者。しかして痴愚にも一考の賢ありとも聞き及びます。拙き我が策を、願わくばお聞きあれ』、かな」

 

 冷や汗が、止まらない。全身の疼痛や熱感も鳴りを潜め、背骨に氷を差し込まれるような悪寒が後背を浸していく。

 レフの心に兆したのは驚嘆であり、それ以上に恐怖であった。露見を恐れ、スフィアを介して秘密裏に連絡を取り合っていたというのに、ここまで正確に計画を把握されているとは予想だにしていなかったのである。この有様では、到底今日の決行は覚束ない。下手をすればヒカリは勿論の事、ルーメンからの援軍やヒカリの母親すら一網打尽にされかねないであろう。

 

 どうする。

 計画を中止させるにしても、連絡の手段が無い。ヒカリとスフィアが独自に動いてくれていることを願う他ないが、ヒカリの単独行動は率直に言って相当に心もとない。

 かといって、先のカプチェンコの言葉から察するに、ヒカリやL.M.A.の――ややもすればスフィアの存在すらも露見していると見ていいだろう。時を遅らせても事態の好転は到底見込まれず、各個捕縛されるのも時間の問題でしかない。

 

 見送りは悪手。しかし、決行も成功は到底見越せない。

 ――どうする。どうすればいい。

 

「おお、おお、忘れておった。面白い話といえば、他にもある。先日の戦闘で鹵獲したゼネラルの艦隊…そうそう、確か『レギンレイヴ』艦隊と言ったか。例の無人艦隊だが、整備と調整を終えて稼働に入ったそうだ。数こそ少ないが、無人ゆえに攻撃の精度は極めて高く、反応性も悪くない。海の戦力は、当分万全と言えるであろうな」

「…ほう、そりゃ心強い」

「空の方も、『クラリア・ラベス』と『メラス』の改修は順調だそうだ。試製兵器の搭載も並行しているらしく、整備の連中は大忙しのようだがね。旧グランダー社工廠でも、次期主力実験機の試作機が完成しつつあると聞く。ニューコム社の忘れ形見も、こうして日の目を見るとは思っていなかったろう。おお、おお。何と人生の面白い事か」

 

 積み上げられる情報が、言い知れぬ重圧となって心へとのしかかってゆく。計画の完全な露見のみならず、ここにきてさらなる『ウロボロス』の戦力増強。実際に体感した『レギンレイヴ』艦隊の厄介さに加え、未知の兵器まで搭載した空中空母が立ちはだかるとなれば、例え脱走に成功したところで勝ち目は覚束ないと言っていい。スーデントールで開発中の次世代機という話も、確か以前にフォルカーがそのような話を言っていたような気もする。

 いずれにせよ、『ウロボロス』打倒を目指すレフにとっては、その全てが悪報という他ないものばかりであった。

 

 沈黙、しばし。時を置くほどに、カプチェンコの言葉は絶望となって、足元を、心を浸して圧し潰してくるような錯覚を覚えさせる。

 絶望を噛み締め、歯を食いしばり、息を吐く。

 駄目で、元々。

 息を吐き尽くし、カプチェンコの瞳を見据えたレフの眼は、迷いなくその双眸を貫いていた。

 

「どういう積りだ」

「…うむ?」

「わざわざ今の話を聞かせる為だけに、一人で俺に会ったのか?あんたは、何が目的なんだ。…いや、そもそも。――あんたは、何者なんだ」

 

 一息に吐き出したまま、室内を再び静寂が包んでゆく。

 レフの瞳を見据えたまま、カプチェンコの双眸は彫像のように動かない。レフもまた逃げ出したい感情を懸命に抑え、カプチェンコから目を離さない。

 ふ、と老人の口から吐息が漏れたのは、その一瞬後。常の無表情ながら僅かに上がった口端は、どこか微笑んでいるようにも感じられた。

 

「いい目をしている。深い絶望を知り、それでもなお信念を折っていない若者の目だ。戦う『男』の目だ。…何と、懐かしい事か」

「…あ?」

「さて、何が目的、と来たか。そうさな、端的に言えば、君と話をするためだ」

「…いや、そりゃそうだろうが…」

「胸に一物を秘めているらしい、君の様子。そして何より、先日の空戦の姿。ワシはそこに、かつての戦友や強敵の姿を見たのだよ。傍目に見えたその信念、果たしてその真贋や如何に…と、試させて貰ったという訳だ」

「……」

「深い絶望の中で戦い、それぞれの道を歩んでいった男達を、ワシは知っている。片や世界の現実に絶望し、自らの在り様を否定してまでその変革の為に起った男。片やその絶望を飲み干し、自らの在り方を貫いて世界を堅護した男。――否定と肯定。その道程は似ていながら、二人の根はまるで鏡写しのように対極だった。…『片羽』と『鬼神』。果たして君は、どちらになるかね?」

 

 硬い岩壁の隙間に雨滴が染み入るように、カプチェンコの言葉は存外に抵抗なくレフの心へと入り込んでくる。そこには、先ほどまでの威圧も探るような意思も無く、ただただレフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフという男への純粋な興味だけが感じられた。

 見据えた先には、老齢の割には意固地さを感じさせない、真っすぐな瞳。その色を見て、レフは確信した。

 

 やはり、そうだ。先に感じた読み通り、カプチェンコは俺を試しに来たのだ。より踏み込んで言えば、カプチェンコの記憶に残る男達にどの程度まで及んでいるか、見定めに来たとも言っていい。偏にそれは、『俺』という意思や信念への挑戦とも同義である。

 

 背もたれに深く腰を預ける。

 深く、静かに息を吸い込む。

 顔を上げ、見据えた先にはカプチェンコの双眸。

 『どちらになるか』。――いや、そもそも『何になるか』。そんなものは、最初(はな)から決まっている。

 

「舐められたもんだな。ジジイの昔話ってのは、まったくどいつもこいつも」

「ほほう?」

「『どちらになるか』だと?そんなもん、決まってるだろ。――俺は俺だ。俺以外のものになる積りは無ぇ。『鬼神』やら『片羽』とやらがどんな奴かは知らんが、美化した記憶を人に押し付けるんじゃねぇよ」

 

 知った事か。

 そう言わんばかりに、レフは荒く鼻息を吐いて、腫れた目でカプチェンコをじろりと見据えた。脱走計画の露見や威迫に対する恐怖はそれとして、この目の前の老人一人に価値を値踏みされ、あまつさえレフという人間を一足飛びに越えて『鬼神』とやらに重ね合わされては堪ったものでは無い。

 

 恐怖、好奇心、怒り、そしていくらかの侮蔑。

 ないまぜになった玉虫色の意思は、一閃となってカプチェンコの双眸を打つ。

 間にして、僅かに数秒。

 微動だにしていなかった眼前の老人は、不意に肩を震わせ始めるや、やがて堰を切ったかのように大口を開けて笑い出していた。

 

「はは、はははは!これは恐れ入った。『博士(ドクター)』や『片羽』は勿論、『鬼神』の2番機にすら及ばぬ身でそうも喝破して見せるか。おお、おお…いや、いかんな。神話にもここまで虚勢を放って見せた試しは無い。愚かさも振り切れば痛快に転ずると、よもやこの老境で知ることになろうとはな」

「勝手に期待して勝手に見損なってりゃ世話ねぇよ。用が済んだならさっさと帰れ」

「おお、おお。君を見損なった積りは無かったのだがね。…いやはや、脚を運んだだけの価値はあった。では、失礼するとしよう。息災でな、『首無し』君」

 

 何が興に入ったのか、大口で哄笑することしばし。ぎしり、と椅子の背もたれを鳴らして、カプチェンコは杖を手に立ち上がった。『早く帰れ』と顎でしゃくるレフを背に、小さな体躯はゆっくりとドアの方へと向かっていく。音も無く、さながら影を思わせるその足取りは、ドアを開く直前で不意に止まって、レフの方へと向き直った。

 

「おお、おお、そうじゃ。一つ質問を答え損ねていた。ワシが何者か、じゃったな」

「…いや、今更いいから。とっとと帰れよ」

「ワシは。――私は、己を己ならざる『象徴』として規定した者。金色の風を体現する者。言うなれば、君という価値観と対極を成すもの。…とでも、言う所かな」

「……?」

「では、達者でな」

 

 あまりに漠然としたカプチェンコの言葉が脳内を巡り、思考が一瞬硬直する。

 『金色の風』、『象徴』。遅ればせに口を開きかけたその頃には、カプチェンコの姿はドアの向こうへと消えてしまっていた。外からは警備兵と何やら言葉を交わす様が聞こえ、やがてそれら足音は遠く離れて消えてゆく。朝方に捕縛されてからルカの尋問とカプチェンコの訪問を経て、レフには約半日ぶりに訪れた静寂の瞬間であった。

 

 考えねば。ルカの読みを、カプチェンコの意図を。そして何より、脱出の方法を。

 疲労と眠気に、重さを増す瞼と肩。反射的に頭を振り、肉が引きつる痛みに顔を顰めながら、レフは渾身の精神力を振り絞って立ち上がった。眠気覚ましに自ずと足は動き出して、回転する思考を反映するようにその軌跡は机を中心とした円を描いてゆく。

 

 作戦を練る上で、要諦は空でも地上でも変わらない。要は状況を観察し、綻びを見出して、持ちうる手札の最善手を叩きつけることである。

 

 隙を見出すべく、レフはルカとカプチェンコの言動を反芻する。この一連の騒動は、カプチェンコはともかくとしてルカにとってはイレギュラーな事態の筈である。必ずや、どこかに綻びがあるに違いない。思い出せ、奴の言動を、仕草を、気配を。必ず、どこかに引っかかる箇所が――。

 

「…そういや…」

 

 手繰り寄せる記憶の糸に、違和感が引っかかったのはその時だった。

 そういえば、ルカが零していた発言の中に、ヒカリやクルス、アレックスについて何一つ触れられていなかったことを思い出したのである。一方のカプチェンコが正確に脱走計画を把握していた点とこの現状は明らかに矛盾しており、ルカとカプチェンコの間で意思の疎通が成されていない――あるいは、カプチェンコが意図的に計画の全容を隠したと見ることができる。その意図は明らかではないが、少なくともルカが自分やエスクード隊員という『囮』に意識を奪われ、ヒカリやクルスへ注意を払っていないという結果にはなっていた。

 

 そうだ。そう言えば。

 思考が隙へと至ったその時、レフは不意に重大な点に気が付いた。

 そうだ、確かルカは、『エスクード隊員も同時に拘束した』と言っていた。現在の『ウロボロス』の少ない人員を鑑みると、本来有する設備ではない臨時拘置所を、基地の施設内に複数分散して配置しているとは考えにくい。すなわち、当初の予定では最大の問題点だった『分散しているエスクード隊員』が、今ひとところに集められている可能性が高いと考えられる。

 

 当然、これは希望的な観測に過ぎない。拘置所では監視しきれないと判断し、便宜的に居室や倉庫へ軟禁している可能性も当然にある。だが、もし実態が予想した通りだとすれば。今の状況は、まさに乗じるべき隙だった。

 

「…まさかとは、思うが。せめて音でも聞こえりゃな…」

 

 ごくり、と生唾を呑み込み、レフは隣室へ至る壁へと耳を付ける。

 ぺたり、と耳朶を浸す冷たい感触。自らの血流が反射した籠るような唸りと、外部から僅かに感じる風の振動。1分ほど耳を澄ましてはみたものの、期待とは裏腹に人の声や気配らしいものは一向に鼓膜へと響いて来ない。場所を変えて数度試みても、その結果は同じであった。

 

 そう、何事もうまくはいかねぇか。

 溜息とともに落胆一つ、レフは壁から耳を離して部屋を見渡す。こうなれば可能性は薄いが、あとは廊下に通じるドアの方以外に無い。エスクード隊員の声は聞こえないまでも、せめて警備員の会話でも聞こえてくれれば儲けものである。

 

 つま先立ちとなり、足音を消して、レフはドアの方へゆっくりとにじり寄ってゆく。窓から離れ、一時的に自らの影が扉へと映し出された、その一瞬。レフは、ふと妙な事に気が付いた。

 

 ある程度光量がある部屋の中からでは気づかなかったが、自らの影を割るように、扉の隙間から光が漏れていたのである。それも、電子ロック式のスライドドアであり、本来ならば壁側と密着する構造にも関わらず。

 まさか。

 どくん、と鼓動が跳ね上がる。

 意図せず、呼吸が早まる。

 息を呑み、呼吸を殺しながら、レフは静かに体を壁へと押し付けて、光の正面へと瞳を向ける。やがてドアと壁の隙間が露わとなり、その間に影一つ見えないことを見定めたその瞬間、レフは思わず口元を押さえ、一歩後ずさった。

 

 扉に、ロックがかかっていない。それどころか、異常を示す表示や警報すらも生じていないのである。

 先ほどカプチェンコが扉を閉め忘れたのか、それとも誤作動による設備の異常か。いずれにせよ、これは望外の幸運であった。

 万一の露見に備え、レフは胸の階級章を引きちぎり、ドアのロック箇所と思しき部分へ差し入れる。そのままゆっくりと扉を閉め、差し込む光を遮っても、その間からロックを告げる機械音が響くことは無かった。あとは、不意の尋問が無いことを祈るのみである。

 

 静かに息を吐き出して、レフは元の椅子へと腰を下ろす。何一つ見通しが立っていないのは確かであるが、少なくとも身一つで抜け出る隙は見つけることができた。

 疲労に浸かった脳裏の片隅で、想起されるのはカプチェンコの相貌。思い返せば今までも――今日すらも、自分はあの男の掌の上にいたような気さえする。ひとところに集められたと思しきエスクード隊、見逃されたヒカリとクルス、そして無防備に解除されたロック。あまりにも出来過ぎた一連の条件を見る限り、もしかすると今の状況すらもカプチェンコの思惑通りではないのだろうか。

 

 思考をまだ放棄すべきではない。

 叫ぶ理性に、しかし眠気は全身を覆ってゆく。知らずレフの体は椅子に深く沈み、頭はうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。

 

「まぁ…いい。あとは、なるように、なれ、だ…」

 

 唇から漏れ出た呟きが、半ば寝息となった頃。

 傾いたスーデントールの太陽は、微かに赤色を帯び始めていた。

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