Ace Combat side story of 3 - Emotional Sphere - 作:びわ之樹
分厚いコンクリートの壁越しに、航空機用ジェットエンジンの甲高い唸り声がびりびりと鼓膜を震わせる。
とっぷりと暮れ、仄かに誘導灯だけが照らす窓の外。時計の類を没収されたために時刻は判然としないが、腹時計の具合から概ね20時半から21時頃と当たりを付けて、レフは音を立てないように静かに体を床へと伏せた。
床にぺたりと顔を付けて覗き込んだベッドの下には、前の住人のものと思しき衣類や本。逡巡することしばし、レフはそれらの中からなるべく背表紙の硬そうな手ごろな本を選び出して、指先で感触を確かめながらゆっくりと立ち上がった。
「…ぼちぼちか」
緊張に身を強張らせながら、レフは静かに一人ごちる。
深く、ゆっくりと息を詰め、心の中で刻む秒針。ル・トルゥーア、オステアと続き基地からの脱出はこれで三度目だが、自分一人の手で障害を排除して脱出まで漕ぎつけねばならないという点では、その難度は比べ物にならない程に高い。即席の得物たる本を携え、脳内で敵兵に相対した場合のシミュレーションを幾度も重ねながら、レフは来るであろうその時を静かに待った。
じりりりり、と胸の奥底を引っ掻き回すような金属音。廊下側に点滅する赤色灯、隣室や廊下から上がる声。
唐突な音の奔流に鼓動を跳ね上げるも一瞬、レフは足音と呼吸を押し殺して体を扉へと密着させ、耳を澄まして音を探った。
ほぼ予定通りの時刻に鳴り響いた、基地施設各所の警報装置。疑うべくもなく、それはヒカリが脱走計画を強行したことを示す証左だと見ていいだろう。時間的にも、また放っておけばレフやエスクード隊の面々が処刑されかねない状況から見ても猶予はない以上、事態打開のためにヒカリが一か八かの賭けを選ぶのは当然といえば当然であった。カプチェンコの出方が分からないという不確定要素はあるが、今は留置所のロックを解除したカプチェンコの思惑と、スフィアのサポートに賭ける他にない。
集中し研ぎ澄ました聴覚が捉えるのは、鳴り続ける警報音に混じって廊下を歩く一人分の足音。収まらない警報に苛立ちと不安を覚えているのか、その足音は落ち着きなく部屋の前を行き来している様子も聞き分けることができる。『ウロボロス』の人員不足の影響か、他に周囲を歩く気配は感じられない。
鼓動を鎮めるべく、ゆっくりと息を吐く。
扉の前を足音が過ぎり、到達した端でかつん、と踵を返す。
こつ、こつ、と硬い軍靴の音が近づく。
右手を扉の隙間に、左手を本に。足音は眼前を過ぎり、影が僅かに隙間に差す。
詰める息。
固めた肚。
眼前を過ぎ、3歩を数えた音。
――今。
脚に力を込めた、その一瞬。レフは扉を勢いよく開け、廊下にその身を踊り出させた。
「…なっ!?」
「オラァ!!」
振り返り、突然の出来事に一瞬固まる兵士。
ヘルメットの下に覗くその顔目掛け、レフは間髪入れず水平に振りかぶった左手から、さながら手裏剣のように本を投げつけた。過たず背表紙に鼻を打たれて兵士が怯んだ隙を狙い、レフは素早く懐へと潜り込む。
曲げた右腕から突き出す肘。屈めた背中、曲げた両膝に込める渾身。
声を出す間もなく鳩尾へ肘打ちを受け、体勢を崩した拍子に延髄へも手刀を叩き込まれたその兵士は、携えた小銃を取り落としながら床に崩れ落ちた。
今更ながら跳ね上がる鼓動、激しく巡る血流と早まる呼吸。それらを落ち着けるべく大きく息を吸いながら、レフは片膝を突いて床に転がる小銃を拾い上げる。
――集中は眼前の事象への注力を助けるが、反面視界外への意識を妨げる。間近の足音にレフが振り返るのと、その先の廊下の角から別の兵士が姿を見せたのはほぼ同時だった。
「…!おい、貴様!?」
「うおおっ!?」
彼我は一投足の距離、小銃で撃ち合うにはあまりにも距離が近い。
振り返りざまで対応が遅れたレフに対し、ウロボロス兵は素早く小銃の銃身部分を掴んで縦に振り下ろした。レフも咄嗟に小銃を横に構えて盾とするが、一旦守勢に回った不利と、暴行による体力の消耗はいかんともし難く、振り下ろされる圧力で膝がじりじりと落ちてゆく。膝が曲がり力が入らないこの体勢では、蹴りで仕切り直すことも叶わない。
「ク、ッソ、が…!」
力量差に押されて片膝を突いた拍子に、ウロボロス兵は力を緩めると同時に蹴り脚を見舞ってレフの小銃を弾き飛ばす。掴みなおすことも叶わず宙を舞う銃と交錯するように、敵兵は無防備になったレフの頭を狙って、再び小銃の銃身を大きく振りかぶった。
やられる。
絶望的な確信が脳裏を過ぎり、無駄とは分かりながらも体は反射的に左腕で頭を防御する。体勢の不利と膂力の差を踏まえれば、この程度の備えでは脳天を叩き割られるのは明白である。まして運よく腕を犠牲に初撃を防ぎえたところで、反撃の手も無い以上、挽回は不可能と言っていい。
この、程度で。
口中に悪態を突き、睨み上げるレフの腫れた目。
瞬間、未だ意思を喪わないその瞳が捉えたのは、ゆっくりと振り下ろされる黒鉄の塊の軌跡。そして、直後にその兵士の眉間から溢れ出た、赤黒い液体の奔流だった。
「…!?」
額を爆ぜさせた兵士は、瞳をあらぬ方へと向けて、糸が切れたように自らの血だまりへと崩れ落ちてゆく。事態が呑み込めぬまま、兵士の肩越しに向けた視線の先に立っていたのは、見覚えのある中年の男。今は『ウロボロス』の軍服に身を包み、消音機付きの拳銃とともに鋭い瞳をこちらへと向けた、アレックス・ウルフの姿だった。
「危ない所だったな」
「…へ、今更意趣替えか?それとも
差し出された手を支えに立ち上がり、レフは皮肉交じりに言葉をアレックスへと向ける。見据え返したその目は、昨日のような無気力なそれではなく、迷いを帯びつつも意思を宿した男の瞳になっていた。
「それもあるが、これは私の意思だ。君の言葉に感化されたのかもしれないな」
「そりゃ結構。俺はてっきり、お前からの密告を疑ったが」
「本当にそうだとしたら、もっと綿密に作戦を練っていただろう。計画の主犯たるヒカリでなく、君とエスクード隊員だけをこのひとところに集めるなど、疎漏と言う他ない。…急ごう」
「…やっぱそうか。確かに疎漏だ。逃げてくれって言ってるようなもんだ」
ふ、とわずかに横顔を緩め、アレックスは隣室のロックを破るべく拳銃を携える。
その姿を横目に、レフの心に生じたのは、やはりという不気味な確信だった。ルカとカプチェンコの発言から当たりを付けた通り、やはりエスクード隊も全員がこの臨時拘置室に拘束されているらしい。レフの部屋のロックを意図的に解除したのもカプチェンコとするならば、おそらくこのような配置を行ったのもカプチェンコと見ていいだろう。レフという目立つ人間を囮にして、中心人物のヒカリや脱走計画の全容をルカに悟らせなかったことといい、『ウロボロス』から逃げろと教唆して――否、逃げてみろ、と挑戦しているようにしか思えない。真意の分からぬその行動は、不気味という一言でしか言い表せなかった。
こちらの不安をよそに、ぱしゅ、という静かな発砲音が制御盤を貫き、次いで電子ロックの扉がアレックスの手でこじ開けられる。差し込む光の前に驚いた様子で佇むのは、着慣れない『ウロボロス』の制服に身を包み、手錠をかけられた4人の姿。かつてクルスと一緒に目にしたのだろう、そのうちの何人かの顔には、レフも見覚えがあった。
予想外の出来事に、目を丸くする4人の人影。アレックスは背中越しにレフへ視線を送り、促されるようにアレックスに代わって一歩を踏み出した。
「あんたは、確か『キャンサー隊』の…」
「おい、何が起こってるんだ!?この騒ぎは…!」
「静かにしろ。唐突で悪いが、お前らとクルスを連れてここを脱走する。『ウロボロス』に一矢報いるぞ」
「…!」
「もうじき依頼してた連中の攻撃が始まるから、その隙に機体を奪って離脱する。『エスクード隊』の他の連中は?」
「…ここにいる人数で全員だ。他は、今までの戦闘で戦死した」
口々に上る言葉を押し留めて一歩前に出たのは、副隊長格と思しき男。年のころはおおよそ30代前半、がっしりとした体格と広い肩幅、短く刈った金髪の姿はレフの記憶にも残っていた。落ち着き払った態度で、しかし一抹の悲哀を帯びて告げた戦死の言葉に、レフは無言のまま首肯を返す。彼らには悪いが、実際問題として救出人数が少ないのはこちらにとっては好都合である。
事態が呑み込めたのか、男の圧が効いたのか。残る3人もそれぞれに覚悟を決めたらしく、落ち着きを取り戻してレフを見据えた。流石はオーシア東方方面のNEUを支える精鋭部隊と言うべきか、切り替えの速さは水際立っている。
「グズグズしてる暇は無い、急ごう。君たちの手錠は脱出後に何とかするとして…この人数だと、小型輸送機級の機体が必要だな」
「確か第4格納庫にR-561が1機あった筈だ。操縦できるか、アレックス」
「ニューコムの高速連絡機か。経験は無いが…私がやるしかないだろうな」
「なら、俺達で格納庫まで案内する。『キャンサー』、あんたは?」
「俺は適当な機体を分捕って護衛する。万一応援の連中が間に合わない可能性もあるしな」
「決まりだな」
「ああ。――空で落ち合うぞ!」
最低限の言葉で方策を練り、弾かれたように6つの影が狂騒の中へと飛び込んでゆく。エスクード隊に先導され第4格納庫へと向かうアレックスと分かれ、レフは一人階段を駆け下りて廊下へ走り出していった。
限られた時間での決定だったが、方針としてはこれがベストの筈であった。すなわち脱出には手錠をかけられたエスクード隊を収容する程度の能力を持つ機体――具体的には連絡機や輸送機が必要だが、万一に備え護衛機も付随させるのは必須である。本来ならばニューコム機の扱いに慣れたレフが輸送機を操縦すべきだが、その場合基地構造に不慣れなアレックスを単独行動させざるを得ず、リスクが高まる結果となるだろう。それならばいっそ輸送機をアレックスに任せ、護衛機をレフが担当するのが上策には違いなかった。
脳裏に基地と施設の構造を描いて、足早に向かうのは『ウロボロス』正規軍が利用する第1格納庫。現在の居住棟から最も近く、設備も整っているため迅速に離陸できることから、今回の場合にはうってつけの場所であった。本来であれば普段の乗機である『ファルクラム』で上がりたい所だが、駐機している格納庫へは距離があり過ぎる。ここは裏をかいて警戒を潜り抜ける為にも、敢えて『ファルクラム』は諦めるのが最上だった。
廊下を曲がり、時折扉の影に身を隠しながら、レフは影から影へと走り抜ける。未だ鳴り続ける警報に加え、先ほどから外からはジェットエンジンの爆音や炸裂音も聞こえるようになり、時折爆発と思しき振動が壁を揺らすようにもなっていた。おそらくは遊撃役のヒカリが派手に暴れているのか、あるいはL.M.A.の援軍が到着したと見ていい。つまり、時間的猶予は『ウロボロス』が迎撃態勢を整えるまでの、あと数分程度がせいぜいということになる。
焦りに伝う、汗一筋。一刻の猶予も無いという現実を前に、レフも警戒を二の次にして一層足を速めてゆく。
格納庫へ通じる通路の、最後の角。警戒を拭い捨てた代償は、そこで真正面から鉢合わせた人影となって顕れた。
「うっ!?」
「…んのタイミングでッ!」
『ウロボロス』の制服。後ろで細く纏めた髪と眼鏡、概観して華奢な体躯。その人物――ルカ・クレメンティの姿を認めるや、レフは素早くその方向へと距離を詰めた。ルカが咄嗟に取り出した右手の拳銃を蹴り飛ばし、続く右腕の拳で追撃を見舞っていく。
地を蹴る音、空を切る拳。
一拍早く後退したルカは、憎悪を込めた瞳をレフへと向けて、右腰からコンバットナイフを抜いていた。
「レフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフ…!何故、貴様がここに!」
「さあな。どうしても知りたきゃ、お前の相方にでも聞くんだな」
「ッ……!!貴様、…やはり貴様か!この一連の騒動、全ての差し金は!何故だ!世界を救い、人類の…ヒトの新たな標となる我らの理想!それをなぜ、こうも理解しない!!」
「悪いが、お利口な御託を聞いてる暇は無ぇ。そこをどけ、ルカ」
「――貴様ァ!!」
一歩を踏み出し、真正面から叩きつけた否定と挑発。それを皮切りに、怒りに目を染めたルカは上半身を捻って、右手のコンバットナイフを迫るレフの胴へと突き出した。
空を切る切っ先、真っすぐな軌道。ルカの狙いを瞬時に見極め、レフは切っ先を躱すや左脇でルカの右前腕を挟んで拘束し、間髪入れずその顔面へ頭突きを叩きこむ。ルカの顔面からは衝撃で歪んだ眼鏡が弾け飛び、へし曲がった鼻からは粒となった血が宙を舞った。
「ぐぁ…!」
「
怯んだルカの顔。
強張った右腕の感触。
そして、がら空きとなった胴。
移した視界の最後に狙いを捉え、レフは固く握った右拳をその中心へと叩きつける。
めり、という音とともに、ルカが声にならない苦悶を上げたのは一瞬。その体は瞬く間に力を失い、自らの吐瀉物の中へと膝を落としていった。
思わぬ邪魔に舌打ち一つ、レフはエンジン音が響き渡る格納庫への扉をくぐる。どうやら迎撃のために緊急起動したらしく、並んでいる機体のいくつかは既に暖気を終えているようだった。整備兵も離陸準備で手一杯なためか、こちらを警戒する素振りは無い。今のレフは『ウロボロス』の制服を着ている上、脱走の正確な情報までは伝わっていないとすれば、その反応も当然であった。
好機。
心中に喝采しつつ、レフは駐機した機体の後方を抜けて脱出機を物色する。見渡す限り慣れたニューコム機はR-201『アステロゾア』しかおらず、早急に離脱しなければならない今回は不向きであろう。格納庫の端には『ヴェパール』の姿もあるが、こちらは迎撃には使用しないらしく、起動している様子は見られなかった。
と、なれば。今この条件に最適の機体は。
「…!緊急出撃だ、すぐに上がるぞ!各員退避、退避!」
左右へと流れた目に1機が留まり、レフは声を張りながらその機体へと取りついた。整備員たちの視線を振り切るように急ぎ足でタラップを上がり、その身を小さなコフィンへと滑り込ませてゆく。既に機体制御システムの立ち上げも終わっていたようで、キャノピーを閉じると同時に外部映像が全周囲へと投影され始めた。機体コンディションを示すワイヤーフレーム像がモニター右下に現れ、細い糸で空を包むようにその特徴的な外観を映し出してゆく。
無駄な構造を削ぎ落した、ミサイルのような流線型の鋭いフォルム。単発機らしい細い胴体と原型機から改められた通常配置の尾翼。そして下方へ角度を設けた、剃刀を思わせる薄く小さな主翼形状。
F-104XD『スターファイターⅡ改』。原型機の採用から実に半世紀以上を数えながら、なおも加速力と上昇力において最新鋭機に迫る傑作邀撃機の末裔。第一に速度を求められる今の状況を下地に、レフの目に留まったのがこの機体であった。
ブレーキ解除。次いでエンジン出力調整。周囲の人間が退避したのを確かめてから、レフはゆっくりと機体を格納庫の外へと向かわせてゆく。
対空砲火が暗夜を照らす。
誘導灯が空への道を形作る。
タキシングルートを抜け、滑走路へ至った、その最中。対空砲を掃射し低空を抜けていった2機の『デルフィナス』の姿を捉え、レフは思わず口端に笑みを刷いた。見覚えのあるその機動に、そして何より、尾翼に刻まれた互い違いの『6』の字を描く懐かしいエンブレムに。
「あいつら…!レフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフ、『スターファイター』で上がる!誤射するなよ!」
敵味方に関係なく届くよう、敢えてオープン回線で伝えた言葉。低空で旋回する『デルフィナス』を頭上に送り、レフはスロットルを緩めて機体を加速させた。軽量で推力重量比に優れたF-104XDの加速力は並外れて高く、瞬く間に離陸可能速度に到達して地面を離れてゆく。
高度1100、後方から接近する2機の『デルフィナス』。左右に分かれたそれらは、まるで探るようにゆっくりと斜め後方へと機位を近づけてゆく。
「よう。カール、イングリット。久しぶりだな!」
《…!レフ!やっぱりレフっスね!?》
《レフ技官…!…よかった、本当に…!》
《ジェミニ隊も、あの通り健在っス。ル・トルゥーア組、再結集っスね!》
久方ぶりの心易い声に、緩みそうになる
極限の緊張、最奥の敵中においてなお結ばれた、再会の縁。
それを打ち破ったのは、上空から舞い落ちてきた2つの機影と、その翼に刻まれた紅と鮮翠の色彩だった。
《ちょちょちょちょ待って!だからあたしは『ウロボロス』を脱走して君らを…》
《今更、何を!首輪を嵌められ、非道を犯して来た私に、今更行く当てなど…!!》
《ヒカリ。『殴り合えば説得なんてしなくても分かり合える』と宣い、説得の労を厭ったあなたのミスです。猛省してください》
《うわーん正論が容赦なく刺さる!レフ君手貸して!ついでに口も貸して!というか助けてー!》
「…あのアホ、肝心な所で躓きやがって…!
降下針路が明らかにこちらと交差するのを見て取り、レフは咄嗟にフットペダルを踏んで機体を右旋回。急降下する2機――ヒカリの『グリペンJ』とクルスの『タイフーンⅡ』の鼻先を避け、すぐさま左旋回に入って機体を切り返した。急降下から急上昇に入ってクルスの射線を躱すヒカリの頭上からは、追撃と思しきサーペント隊機や基地直掩の『ウロボロス』所属機も降下に入りつつあるのも見て取れる。
ここで時間を取っては元も子もない。
舌打ち一つ、レフはスロットルを開放し、同時にコフィンシステムを起動させて臨戦態勢に移行。速度を上げて、追撃の為に急上昇する『タイフーンⅡ』の鼻先へと割り込み、その目を自身へと引き寄せた。
《く…!》
《レフ、上から来るっス!3…いや、4機!》
「分かってる、お前らは上の連中に当たれ!ヒカリもだ!スフィア、こっちに来れるか!?」
《少々電波状況が悪いですが、何とか。それにしてもレフ、清々しいほどに満身創痍ですね。擬音的表現で言う『ぼこぼこ』という所でしょうか。後で感想を教えてください》
「後でな!」
高所から水面に飛び込んで来るようにディスプレイ上方から現れるスフィア、入れ違いに左右後方から上昇して上空の敵機に相対するカールとイングリット。動的な交錯と騒乱の巷となった空と地の間には黒塗りの『スターファイターⅡ改』と、紅地に黄金十字の『タイフーンⅡ』のみが残り、糸一本を隔てて崩れそうな静寂の緊張を以て舞っている。低温の中、高度変化と加速を短時間の間に繰り返したためか、眼前の紅色は心なしか濡れて見えた。
「あの様子じゃヒカリから詳しく聞いてないだろうが、俺たちも時間が惜しい。単刀直入に言う。『ウロボロス』を叩き潰すために、あんたの力が要る。俺たちと一緒にここを出よう、クルス
《それはできない》
「何故。『ウロボロス』に義理は無いだろう、あんた。人質のエスクード隊員も全員救出した。あんたを縛る
《…それは、良かった。けれど、義理はなくとも道理はある。もう、私はニューコムへは…おじい様の前へは戻れない。やむを得なかったとはいえ、私は『ウロボロス』のクルスとして、多くのニューコムの人間を…いや、サピンの人々を手にかけてきた。――断末魔の呪詛の声を、何度も聞いた。護るべきものを自ら壊した以上、私が居られる場所は、もうどこにもないんだ。…分かってくれ、レフ技官》
眼下の滑走路に、双発の中型機がプロペラを回して風を帯びる。
誘導灯に映える淡灰の躯体から、脱出に成功したエスクード隊の声が口々に響いてくる。
それすらも聞こえないかのように、眼前の紅い翼は頑なな意思を持って、夜空の黒に空を切った。F-104XDの射界を知らない訳では無いだろうに、三角翼は無防備に正面の射程内へと入り込み、その度にガンレティクルが自動的に照準を合わせてゆく。
ざわつく心の音は、動揺か同情か、それとも怒りか。
続くレフの口調は、知らず激情を皮下に湛えたものへと変わっていた。
「あんたは、それでいいのか。周りの人間の思いは金輪際知らねぇが、このまま放っておけばニューコムは…少なくともサピンは荒廃する。護ってきた世界が、根底から崩れていくんだ。これからも自分を塗り潰しながら、その一助になるってのか?」
《何度言われようと同じだ。おじい様が愛し、護り続けたサピンを、身命を賭して護ってゆく。その信念は、自分の手でもう壊してしまった。私に、サピンを護る資格は、もう…》
心に、多くの人の意思が過ぎる。
信念を捨て、生きることを選んだ男の姿が浮かぶ。
信念に囚われ、暗澹に迷いかけた男の言葉が巡る。
かつての自分の姿が去来する。
人間という在り様に『心』を動かしたスフィアが、オーキャス達が形を成す。
心が、脈動する。
言わねばならない。この『枷』を、破らなければならない。
レフを突き動かしたそれは、まさに人間たる感情の、エゴの熱だった。
「いい加減にしろ!どいつもこいつも!!」
《え…?》
「サピンが好きなんだろ?サピンを護るんだろ!?だったら途中に何があろうが、それに向かって行けばいいじゃねえか!何が道理はあるだ、ふざけやがって…!信念がへし折れたからって何だ、それで『ウロボロス』に加担し続ける事こそ道理に合わねぇよ!」
《……》
「――自分を殺すくらいならなぁ…そんな信念なんざ、捨てちまえ!!」
《レフ…》
息を呑む気配が通信を揺らし、紅の翼が僅かに揺らぐ。
言葉に乗せ、放ち切った。スフィアと出会い、おやっさんの言葉に触れ、多くの空を飛んで、その末に徹しきることを辞めた一人の男として。空に地に、実際には多くの通信と火線が入り乱れている中ではあったが、レフには目の前の男一人の静寂しか無い。
届け。
動け。
願いのようなその言葉と、周囲に纏う動的な静寂。
前触れなく唐突に、その静寂は心を穿つような老人の声で破られた。
《…先は、言っていなかったが》
「……!!カプチェンコ!?」
《疎漏に次ぐ疎漏の計画。その骨頂こそが、根幹たるその男の精神よ。たとえ救い出したとて、飾り物の旗など何の意味も無いというのに。――おお、おお、醜く拙い者達よ。金色の巣より、いかに逃れんとするや?》
《……ッ!》
ぞくりと肌が粟立ち、背筋に氷が差す感覚。
明瞭な殺気を背に受け、レフは思わず操縦桿を倒して機体を旋回させた。左に傾け顧みた先には、まさに滑走路から空へと飛び立つ4機のF/A-18I『ホーネットADV』と、格納庫の庇に佇んむE/A-18GR『グラウラーⅡ』の姿が見て取れる。幸い他の部隊は混乱しているためか離陸する様子は窺えなかったものの、いずれにせよ速度で劣る連絡機を『ホーネット』に追撃させる訳にはいかなかった。
「クソ、案の定かよ!クルス、とりあえずあんたは逃がす!悩むなら逃げ切った後で悩め!」
《…!いや、しかし、私は…!》
「アレックス、首尾は!」
《欠員なし、予定通り順調だ。追撃への対応は任せる》
「よし。カール、イングリットはクルス機を連れて護衛に就け。ジェミニ隊も頼む。ヒカリは俺と
《よーし、戦闘なら任せてよ!》
《了解っス!ここまで来て落ちないでっスよ、レフ!》
「おうよ!」
左右両側をカールとイングリットの『デルフィナス』に挟まれて、引きずられるように空域を離れてゆくクルスの『タイフーンⅡ』。それと入れ違いに上空の敵機を駆逐し終えたヒカリの『グリペンJ』はレフの傍らへと降下し、2機ひと塊の状態となって迫る4機の『ホーネット』へと相対する。
追撃を妨げるだけの時間を稼げばいいため全滅させる必要は無いものの、先日の戦闘機動を見る限り、どこまで抑えきれるかは未知数である。機体性能でも総合的に見て『ホーネットADV』と『グリペンJ』は五分五分、『スターファイターⅡ改』に至っては明確に劣っている。数の不利も考慮すれば、長期戦は不利と言わざるを得なかった。
上下、左右。4方向に散開した機影を前に、レフは火器管制システムを戦闘モードへと切り替える。安全装置解除、主翼下
「ヒカリ、真正面からカプチェンコとやりあって勝つ自信はあるか?」
《どうかな…。何度か戦闘を見たことがあるけど、何とも言えないって所。少なくとも、GRDFのエセ三日月よりは動きが読めない》
「マジかよ、俺は『ハルヴ隊』にさえ手こずったってのに。…となりゃあ…」
完全に四方向へ分散し、こちらを包囲する4機の『ホーネットADV』。それらの挙動を読み、遠ざかるアレックス達の反応を読み、地上の状況を読んで、レフは脳裏に攻略法を組み立ててゆく。
先の『ニムロッド隊』との戦闘を省みれば、カプチェンコの戦術に付き合って無人機に囲まれるのは悪手である。加えて『スターファイター』の操縦は初めてではあるが、機体の特性とこれまでの経験を踏まえるに、格闘戦は相当に苦手な機体と見ていい。狭い空間に敵を封殺して包囲攻撃と奇襲で仕留めてくるカプチェンコとの相性は最悪という他なく、どれにつけてもカプチェンコに付き合うのは絶対に避けねばならなかった。
脳裏と言う名の戦場で、一つ一つ潰されてゆく戦術。そしてそれゆえに、明確になってゆく最善の一手。
格闘戦に堪えられないというのなら、真正面の戦闘で敵わないというのなら。――自らの得意と最短の奇手で以て、本丸を突く他に無い。
「ヒカリ。しばらくあの4機を引き付けられるか?」
《?いいけど、レフ君は?》
「
《思いきるじゃない。乗った!》
《来ます!》
打てば響くようなヒカリの応答に、接近を示すスフィアの声が重なる。
それを合図に、ヒカリの『グリペンJ』は包囲の矛先を逸らすように翼を翻し、左上へ鋭角を描き上昇。その軌道の脇を縫って、レフもまたスロットルを開いて『スターファイター』の速度を上げていった。レーダーで探る限り、『ホーネット』の位置は左右同高度と、斜め上後方、ほぼ直下に各1機。AAMの射程距離の一歩外、1000ほどを示していたダイヤモンドシーカー上の相対距離は、ものの数秒で急速にその数値を増してゆく。やはりと言うべきか、極限までの軽量化を施され軽量邀撃機として最適化された『スターファイターⅡ改』の加速性能は現行機にも増して高い。
ちらりと眼下を見やれば、カプチェンコが乗っているであろう『グラウラーⅡ』は先ほどと変わらぬ位置に無防備に停まったまま。地上ではフレアもチャフも意味を成さない以上、頭上から仕掛ける射撃はすなわち致命と同義と言えるだろう。かつての愛機『オルシナス』と比べて縦方向への制動性に劣る『スターファイター』では高高度で急降下を切り上げなければならないのが不安定要素ではあったが、静止目標相手では些細な事だった。
やれる。
確実に、頭上から一撃で仕留められる。
確信とともにレフは機体を右へと傾け、カプチェンコの機影を見定めながら、急降下に入るために速度を落としてゆく。
攻撃の為に狙いを定め、周辺状況を示すモニターから目を外した、一瞬の隙。
眼前に突如として降り注いだ曳光弾の雨は、いわば『想定外』という名の隙を体現した代償であった。
「うおおっ!?」
反射的に操縦桿を左へと倒し、急速に左側へ傾いた機体が緩く弧を描いて、曳光弾を間近に躱す。ただでさえ軽量化のために対弾性が低く軽装甲の『スターファイター』では、機銃の被弾ですら致命傷になりかねない。
レーダー。後方に2機、しかし距離はいずれも800程度、上下後方に分かれている。機銃が届く距離ではなく、ましてそれが頭上から降り注ぐなどありえる筈も無い。
――いや、まさか。
脳裏に過ぎった自らの記憶と既視感が、『あり得ない』と論ずる断定を打ち消してゆく。
咄嗟に表示した後方警戒ディスプレイのうち、上の1機を示した画像。その『ホーネット』の機首が僅かに上を向いているのと、下方の1機が放ったAAMの白煙を同時に捉えた時、その疑念は確信へと変わった。
左旋回から下方へエルロンロールに入ったのち、加速を付けて急上昇。慣れ親しんだ『オルシナス』と比べ致命的に遅い挙動に焦りながら、レフは先の敵の意図を遅ればせに理解した。
つまりは、レフがかつて行っていた遠距離狙撃を逆用されたのだ。すなわちこちらの速度を殺すため、上方の1機は高度差と上げた機首の弾道を活かし、機銃を山なり弾道で発射。重力に引かれて放物線を描く弾道が『スターファイター』のベクトルと交わるように射撃を
カプチェンコを出し抜いた積りが、まんまと掌で踊らされていたという現実。殺意となって後方に迫るミサイルアラートに臍を噛みながら、レフは懸命に操縦桿とフットペダルを駆使して『スターファイター』の回避行動を繰り返した。
《『予想外』とは、即ち致命よ。どうした。ここを逃げ延びて『ウロボロス』に一矢報いるのだろう?》
「舐めやがって、この…クソジジイ、がッ…!ヒカリ!悪いがしくじった!そっちはどうだ!」
《あたしは大丈夫!…けど、攻撃がさっぱり当たらない!もうレールガンも一発しかないっていうのに…!》
《レフ、9時方向!》
「チッ…!とにかく、こっちに合流しろ!何とか突破口を開かねぇとジリ貧だ!」
曳光弾が薄い主翼を掠める。
辛うじて矛先を逸らしたミサイルが、至近弾となり炸裂の閃光を咲かせる。
大小の破片が機体の表面を穿ち、その度に絵筆のような華奢な胴体が悲鳴に軋む。
攻撃の間隙を縫うように横合いからは機銃掃射。咄嗟に操縦桿を倒して機体を火線の下へと潜り込ませて、レフはちらりとダメージコントロールを兼ねたワイヤーフレーム図へと目をやった。数えた限りでは至近弾2発と機銃数発のみの被弾である筈だが、ワイヤーで構成された張り子のような3D映像は中破を示す黄色に染まっており、その継戦能力を大きく損なっているのが見て取れる。このままノースオーシアのルーメンまで飛んで行かなければならないことを考慮すれば、これ以上の被弾はおろか、至近弾1発すらも許されない状態であった。
重なる旋回と加減速に疲労を覚えながら、なおも肚に力を込めて操縦桿を引く。先ほどから回避の合間に反撃を狙うものの、『スターファイター』特有の大ぶりな旋回半径や速度の微調整が利きづらい特性に加え、付け入る隙のない『ホーネット』の連携に阻まれ、攻撃位置はおろか射界に敵機を捉えることすらままならない。一日を通して重ね続けた身体の疲労に加え、焦りによる精神面の疲労はレフの体力を刻一刻と奪ってゆく。
《レフ君、後ろ!》
「…おう!」
通信を揺らすヒカリの警告に、レフは反射的に操縦桿を右下へと倒す。
炸裂、振動、次いで破片の雨。どうやらヒカリの方にいた敵機がいつの間にか後方に就いていたらしく、遅れて駆け付けたヒカリが機銃掃射でその針路を妨げてゆく。これで1対2から2対4へと戦況が移行した訳ではあるが、周囲を『ホーネット』に囲まれ機動戦を封殺されたこちらに、勝ちの目は果たして残っているかどうか。長期戦に陥るごとに削られる集中力と相まって、レフの身体はもはや限界を迎えつつあった。
機体性能ではカプチェンコに分がある。
身体への負担も、格闘戦を強いられるこちらに対し、カプチェンコは地上からの見物である。体力の消費は比べるまでも無い。決め手である火器の性能差も無く、ヒカリのレールガンにも恃み難い状況である以上、苦境を打開する手は万に一つも浮かんではこなかった。
《マズ…っ!最後のレールガンも外しちゃった!ど、どうしようレフ君!何かいい手ないかな!?》
「俺だって考えてる!けどな…!…クソっ、頭が重くて考えがもう纏まらねぇよ…!」
《もはや反射での回避行動ですね。もし『オルシナス』で同様の軌道を行っていた場合、既に2回直撃弾を受けています。小型で投影面積の少ないF-104で命拾いしていますね、レフ》
「激励に見せかけた罵倒ありがとうよ!クソ、
もはや舌打ちする余裕すら無く、スフィアの言葉に皮肉で返す。
極限の疲労と、消耗で鈍る思考。鈍色の脳裏に、一筋の閃きが差したのはその時だった。
「…!スフィア!『グリペン』と『ホーネット』、それと『スターファイター』の三面図呼び出せ!…いや、上部の投影図だけでもいい。急げ!」
《レフ?》
「いいから急げ、こちとら生きるか死ぬかの瀬戸際なんだからな!」
きょとんとした様子も一瞬、エレクトロスフィアにアクセスしたスフィアが、正面モニターの下部へ3機種の投影図を並べてゆく。
先ほどスフィアが言った通り、比較的小型な3機の中でも『スターファイター』は際立って小型であり、全幅に至っては『グリペン』の8割ほどしか無い。スフィアに指示して試しに2機の投影図を重ねたところ、『スターファイター』はほぼすっぽりと『グリペン』に隠れてしまうほどである。全長こそ『スターファイター』の方がやや長いが、その形状もほぼ一体化しており、遠目には重なった2機種のようには見えなかった。
図面の上で、ぴったりと重なった二つの機影。
それを目にして、疲労の色濃いレフの相貌に初めて笑みが浮かんだ。それはまるで、寄る辺の無い絶望の中でか細い一筋の希望を垣間見たかのように儚くも固い。
「…やってやろうじゃねえか」
深く肚に吸い込んだ呼吸一つ、レフは矢継ぎ早にヒカリとスフィアへ指示を下してゆく。
両機の間を縫うように、さらに飛来したミサイルが一つ、スーデントールの夜空に炸裂の焔を刻んだ。
******
《ほう、機動を変えて来たか》
円弧を刻むスーデントールの空の下、対照的な静寂の中に佇むE/A-18GR『グラウラーⅡ』のコフィン。
全方位に外景を投影する電影の中で、カプチェンコを名乗る男はぽつりと零した。
上空には、手足たる4機の『ホーネットADV』。まるで巣を象るようなそれらの軌跡に囚われ、敵を示す赤色のマーカーが施された2機は、封殺の裡に身を啄まれている。先ほどまでのような2機ばらばらの動きから、徐々に互いの距離を詰めた密集隊形を取りつつあるが、集中した火力を活かす術の無い今となっては悪手という他に無い。
溜め息、一つ。風前の灯となった2つの機影を頭上に頂き、男の脳裏に過ぎるのは失望だった。
見るべきところがある。そう直感的に確信し、彼らの策謀を察知してなお泳がせ続けたのは数週間も前のこと。徐々に目の光を失ってゆく他の連中と異なり、頽勢の中でも希望を抱き続けるレフとヒカリという二人を見て、彼らこそはと男は密かに期待していた。久方ぶりに、この枯れ果てた心をも燃やしうる存在と期したからこそ、男は今日この日まで、彼らの脱走をわざわざお膳立てして来たのだった。
翻って、今。仲間を逃がしおおせたことこそ見事であったものの、むざむざこちらの戦術に乗って身を滅ぼしてゆく様を見て、男は失望を禁じえなかった。
ああ、やはり
望むは、漆黒地に黄金色の縁取りを施した『
その全てを覆し、『博士』すらも一刀のもとに破った『鬼神』。その姿を男は畏れ、そして同時に憧れた。『博士』の理想に近づくべく奔走する中でも、心は自ずとあの時の熱を追い求めていたのだ。
無意識のうちに男は『鬼神』と二人を重ね、それに遠く及ばないと断じる。機数の差、性能の差、いずれもあの日の『円卓』と比べればものの数には入らない。それだというのに、あの二人はこの程度すら破れないでいる。
潮時か。
冷めた溜め息とともに、ぽつりと零して仰いだ空。
思想の海から再び顔をもたげたその時、男は不意に違和感を感じた。
4機の『ホーネット』は、変わらず包囲の中に敵機の反応を捉えている。4機のいずれに視界をリンクしても、その状況は変わらない。
しかしどの方位から見ても、その反応が1機分しか捕捉できないのである。『ゴルト』仕込みの4機がかりの包囲陣に、抜け出る隙間など万に一つもありはしないのに。
だが、まさか。万に一つ。目を離した一瞬の隙に、高速性能を活かして包囲を抜け出したのか?
久方ぶりに、どくんと跳ねる鼓動一拍。
男は『ホーネット』へ次々と視界を同調させながら、包囲の輪を広く取って視野を広げた。敵の所在が掴めない以上、密着した格闘戦では不意の一撃を喰らう恐れがある。
どこだ。
空域へ視野を広げながら、男の指先と化した『ホーネット』は曳光弾でその針路を封じてゆく。
昏い夜空を背景に、浮かぶ機影は三角翼。やはり、姿が見えないのは『首無し』のF-104。機動を制し、ロックオンを重ねてもなお、特徴的な鋭角の機影は姿を見せない。
『グリペン』、右旋回。機銃でその鼻先を封じ、切り返しで鈍ったその背にAAMを撃ち込んでゆく。
追尾を避けるべく、三角翼が機体をロールさせてこちらに右側面を見せながら急降下に入る。AAMもまた慣性の呑まれながら、その尾部を掠めて炸裂の焔を上げる。
爆ぜる破片は擦過の火花を生み、爆炎の逆光と併せてその機影を鮮烈に浮かび上がらせる。
それきり、男の思考は硬直した。
紅の焔に照らされた、左翼に三日月を刻んだ三角翼の機体。
その真下にぴったりと張り付いた、槍の穂先のように小柄な機影の姿によって。
******
《行っ……》
「けぇぇぇ!!」
鉛直に引きずり込むような重力と加速度が、極限の集中で噴き出した汗を拭い去ってゆく。
至近弾と、それに紛れた急降下。ロックオンを一身に引き受けた『グリペン』を引き離して、レフの『スターファイター』は地上の『グラウラー』を差して、弾かれたようにその身を飛ばしていった。軽量な機体に高出力のエンジンを詰み、比類ない加速性能を持つ『スターファイター』には、いくら近代化改修を施したF/A-18Iといえども追い縋る術は無い。追撃を引き離しながら地を指して降るその様は、まさにその身を体現する流星の名そのものだった。
カプチェンコによる包囲陣を破る、万に一つの一手。それこそが、『スターファイター』の小柄な体躯を活かした欺瞞戦術であった。すなわち、スフィアに『グリペンJ』の機体制動の観察を任せることで、レフは機体制御に専念し可能な限りヒカリと機体の機動を一体化。重なった2機の反応をあたかも1機と誤認させ、ヒカリが全てのロックオンを引き受けた隙を突いて奇襲攻撃を仕掛けたのである。偶然にもF-104を臨時の機体としたレフの選択と、視界の悪い夜間戦、かつカプチェンコが地上から機体制御を行っておりこちらを直接目視できないという幾つもの条件が重なったがゆえの乾坤一擲の一手であった。
高度計が命の距離を刻む。
後方のロックオンアラートが遠ざかってゆく。
正面の照準には、翼を休めたままの『グラウラー』。AAMのロックオンには些か遠いが、静止目標相手では射程外でも外すことは無い。
兵装選択、AAM4発、全基。ヨーで針路を細かく刻み、照準の中心にそのコクピットを捉えてゆく。
ボタンを押す、その瞬間。唐突に『グラウラー』はコクピットを開き、その中に横たわる白髪の老人が、真っすぐにレフを見据えた。まるでその意思を、その姿を讃えるような、か細くも確かな光を以て。
《『予想外』とは、即ち致命。儂自身がそれに囚われるとは、驕ったかな。…ああ、楽しかったよ、レフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフ。数十年ぶりにな》
「……カプチェンコォォ!!」
《――新しい世界への門は開かれた。我が魂は風となり、その門へと誘う。眠りし王の目覚める時――》
がこん、という音とともに主翼下から放たれる、致命を告げる穂先4筋。
カプチェンコの視界を切るように、レフは操縦桿を引いて機体を立て直して、水平からすぐさま急速上昇へと入っていった。眼下の『グラウラー』は『スターファイター』の主翼に阻まれ、AAMの白煙だけがその佇む場所を指し示している。
《私の肉体も、蘇るだろう》
連なる4つの爆音が、男の声をかき消していく。
着弾と同時に制御を失い、糸が切れるように地上を指して墜ちてゆく4機の『ホーネット』。翼を失ったそれらは相次いで闇中の大地へと沈み、それぞれに赤黒い焔に包まれその身を焦がしていった。
《危なかったぁー…。とはいえレフ君グッジョブ!見直したよそれなりに!…ん?どした、レフ君?》
「もう、応対する気力も無ぇ…。…スフィア、操縦頼む。ルーメンまで、最速で…」
《了解しました。子守歌でも歌いましょうか、レフ》
「………またの機会に、な…」
一筋の糸を伝うかのような、薄氷の辛勝。連戦と極度の緊張から解放されたレフの心身には、どっと疲労がのしかかってくる。誘うような眠気に堪えがたく、レフは深く座席に背を預けて、ゆっくりと静謐の中へとその身を沈めていった。
北西を指す二つの機影の背を、ところどころに燃える戦闘機の残骸が紅い残照で染めてゆく。
その央、滑走路とタキシングルートが交わる鈍色の十字架。
交点に咲いた命色の墓標の中で、男の魂を乗せた『グラウラーⅡ』の翼が、静かに燃え墜ちていった。
《こちらルーメン・メディエイション・エージェンシー。クルス・コンテスティ殿、レフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフ殿、そしてアレックス・ウルフ殿。来訪をお待ちしておりました。
ようこそ、ルーメンへ。エゴと欲望と妄執の空白地帯たる、境界の街へ》