Ace Combat side story of 3 - Emotional Sphere -   作:びわ之樹

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第47話 Truth

「えー、それでは我らが『ニョルズⅡ』航空部隊、そしてニューコムの勇士諸兄の活躍と!そして何よりクソッタレの『ウロボロス』殲滅に向けた戦勝を祈願して!乾ぱーい!」

 

 窓のない黒鉄拵えの方形に、酒焼けした男の濁声がじりじりと響いてゆく。

 天井に走る幾筋ものパイプ、壁面に並ぶ地図や艦船の写真、そして部屋正面の壁面と同化した大型ディスプレイ。左右へ不規則に揺れる鈍色の床と相まって、それらの光景は自らが巨大な船の中にいることを無言のうちに物語っている。

 

 GRDF所属、航空母艦『ニョルズⅡ』内に位置するミーティングルーム。4日前の空中空母迎撃戦の成功を受け、レフ達NEUのパイロットが招かれたのは、事もあろうにゼネラルリソースの最重要機密たる原子力空母の中枢であった。常ならばパイロットや作戦士官が戦況分析を行うであろうその屋内は、今や中央に軽食や飲み物が並ぶ折り畳み机が鎮座し、その周囲をGRDFの面々が思い思いに囲うという、あり得ざるほどに過密な有様と化している。流石に酒は並んでいないようだが、それにしても戦時という背景を考えれば、さながらちょっとした船上パーティの風情であった。

 

「よう相棒、もう飲んでるか?今日だけは無礼講だ、パーっと楽しもうぜ」

「レナード。いいのかここの連中、いくら何でも気が抜けすぎだろ。交流会で浮かれている隙に空母ごと全滅とか、洒落にならん」

「何、オーレッド湾の敵水上戦力はおおよそ駆逐され尽くしてるんだ。戦闘機だって待機してるし、何より俺たちは酒を一滴も飲んでいない。文字通り大船に乗っててくれよ。さ、飲んだ食べた!」

 

 色黒の端正な顔を綻ばせ、レナードがいかにも楽観的な風情で白い歯を見せる。屈託のないその表情は、『ウロボロス』の拠点たるスーデントールへ万全たる道が敷かれている事を微塵も疑っていない様を物語っているようだった。

 レナードの、ひいては『ニョルズⅡ』の楽観も、レフには理解できるといえば嘘ではない。何せこれまでの戦闘で、正面の敵であった海上戦力『レギンレイヴ』艦隊やUPEOから『ウロボロス』へと恭順した機動部隊を殲滅しおおせたどころか、最大の脅威であった空中空母の片割れさえ撃破に成功しているのである。当面の脅威を首尾よく排除しおおせられただけでなく、その敵が『ニョルズⅡ』の面々にとっては僚艦『ヘイムダル』の仇であったことも踏まえれば、GRDFの面々が気勢を上げたくなるのも無理はない話であった。GRDFにNEUの戦力を合算すれば、スーデントールの『ウロボロス』軍を遥かに上回る戦力となる認識も、これを後押ししていることだろう。

 

 その陰で、勢力を越えた両者の合力に至るまでに両陣営が払ってきた犠牲はけして少なくない。レフもまたこれまでその様を見て来た訳でもあるが、とりわけ衝撃であったのは、昨日に舞い込んだ、『ウロボロス』勢力圏内にあるヴァレー旧空軍基地奇襲の首尾についてであった。

 元よりイルダが攻撃の要として従事することは先刻承知していたが、確報によればイルダは見事のその任を成し遂げ、その後乗機とともに未帰還になっているのだという。それだけでなく、偶然遭遇したGRDFのアレックスが有志とともに合流し、イルダの護衛を買って出たという事も仄聞していた。彼らはNEU攻撃部隊の残存機とともにサピンまで離脱しおおせたというが、アレックスはじめ大半のパイロットは戦死、ないし行方不明になっているのだという。前線で命を賭ける人々の数多の犠牲を以て、ようやく、それも僅かばかりに進展した、ゼネラルリソースとニューコムの融和。人のエゴを習合したようなその有様を踏まえれば、『ウロボロス』が掲げる全人類電脳化といった突飛な思想が生まれるのも道理といえば道理であろう。

 

 心の端に入り混じった、厭世観にも似た虚しい想い。

 豪放な赤い髪と、峻厳な黒い翼の残影を褐色の水面に過ぎらせて、レフは紙コップに湛えたジンジャーエールを一息に飲み干した。

 

「よっ、いい飲みっぷり!国士無双!NEU(いち)!」

「ジンジャーエールの飲みっぷりって何だよ。それより、ガツンと甘い物が食いてぇ。アイス無いのかアイス」

「なんだ甘党かブラザー、見かけによらず。そうだな、糧食科に聞けば何かあるかもしれんが。リクエストは?」

「チョコミント一択。あれは至高だ」

「チョコミントぉ?はっはは、相棒。あんな歯磨き粉みたいな味が好きなのか?」

 

 かちん。

 脳裏に金属を叩くような擬音一拍、背中を叩きながら破顔するレナードに、虚無感は一瞬にして消え失せる。

 

 ――チョコミントは芸術。そう評したのは果たして誰だったか。俺だ。

 とろりとした甘い香気と舌を包む濃厚なチョコの風味は、翻せば甘ったるさとくどさを生じさせる。乳成分を豊富に含むうえに冷たいアイスにおいて、とろりとした食感と重厚な甘みを相乗させればなおの事、辺り一片のチョコアイスならば一口食べれば結構という諸兄も少なくないのではないだろうか。しかし、そこにミントの香気が加わればどうか。甘く重い後味は一転して爽やかな清涼感を纏い、次の一口に抵抗を生じさせない。逆に辛みや苦みを帯びることが多いミントの棘をチョコは優しく包み込み、ミントそのものを味わう菓子としても至高の域と評していいだろう。果たしてチョコの為にミントがあるのか、それともミントの為にチョコがあるのか。否、欠くべからざる無二の相棒を有するからこそ、その両者は互いの持ち味を高め合い、高次の味へと昇華しているのだ。淡い緑色とマーブル模様に入り混じるチョコという、芸術品のような美しい外観もまた見過ごせない。

 

 それを。控えめに評して人類史の奇跡と信じているチョコミントを、あろうことか歯磨き粉と称するとは。その傲慢を、暴虐を、看過してよいものか。いやよくない。

 

「はい出たー!チョコミント否定派のテンプレフレーズ『歯磨き粉』ー!チョコの濃厚さとミントの清涼感の相乗効果(ダブルストリームハーモニー)を理解できないとかお子ちゃま舌かお前はよォ!そう言うお前の好きなフレーバーは何なんだよ」

「バニラだな。シンプルイズベストって奴さ」

「っかー面白みのない男だなァオイ!アレか?ロング黒髪白ワンピの清楚な彼女しか認めないテンプレオンリー人間かお前は!」

「ばっ…!か野郎!バカ野郎!いくらお前でもそれは聞き捨てならないぜ相棒!いいか、バニラってのは無地にして無垢、何にでも合うんだぞ!一回でいい、バニラアイスに黒蜜やきなこをトッピングしてみろ、飛ぶぞ。…それと!俺は!そんな無垢な子がデートの時に張り切ってちょっぴり色っぽい服装をするっていうシチュエーションが性癖だ!」

「聞いて無ェよお前の性癖は!」

 

 かくして、幕を開けるは対『ウロボロス』オーレッド湾方面を担当する指揮官二名による、極めて低レベルな論争戦。ただでさえ娯楽の少ない船上において懸架沙汰は最上の娯楽なのであろう、周囲の海の男たちもどやどやと集いだし、次々に飲み物を持ち寄っては野次や歓声を投げかける。

 艦上に沈みゆく太陽とは裏腹に、角突き合わせる男二人の口角は、徐々に熱を帯びていった。

 

******

 

「あー…クソッタレ。体が休まるどころの話じゃないぜ」

 

 1時間ほどの後。腕をまくりあげ涼を取るレフの姿を、『ニョルズⅡ』上層格納庫に駐機する『サイファード・ワイバーン』のコフィンに捉えることができる。火照った体は仄かに湯気を纏い、漆黒のコフィンにはうっすら赤く染まった自らの相貌が映っていた。

 

 結局、最終的に『チキンナゲットのソースはオーロラソースこそ至高』という共通認識でレナードとは落ち着いた訳だが、果たして最初の話題は何だったか、今となっては思い出せない。

 高い人口密度で蒸されたような室温に加え、論争で気分が昂っていたことも合いまったのだろう。身を包む暑苦しさを如何ともし難く、レフは隙を見てこっそり抜け出て、会場から中座したという訳であった。恐らくはお調子者の誰かが飲料にアルコールでも混ぜたのだろう、思考はややぼんやりと淀み、ふわふわとした浮遊感が体を包んでいるように感じられる。アルコールにはそこまで弱くはないと自負していたが、高まった体温で一気に酔いが回ったものに違いなかった。

 

「気のいい奴らとは思ってたが、アルコールを混ぜる奴があるかよ。この船撃沈されても知らねえぞ、ったく」

 

 喧騒は遠く、艦舷を濡らす潮の響きすら遥かに淡く、静寂のコフィンの中に静かに声が響く。暗く静かな棺桶の中、額に掌を置き目を閉じれば、去来するのは数多の人々の姿であった。

 久しく顔を突き合わせていない、カール、イングリット。ヒカリ、サヤカ、パウラ。スーデントールから目と鼻の先のルーメンは果たして無事なのか。おやっさんもニコラス参事も生還は聞いているが、その様子はどうなっているのか。クルスはまた、全てを抱え込んでいないだろうか。

 酔いに弛緩した思考は取り留めも無く移ろい、やがて消息の知れない者へと至ってゆく。

 軍を動かすこと叶わずとも、手の届く限りで助力を見せたアレックス。決死行を完遂し、未帰還となったイルダ。――そして。

 

 思考の枝の先に結実するは、無二の相棒だった『彼女』の姿。

 じわりと広がる胸内の苦みに誘われるように、レフは正面コンソールのスイッチを入れ、『ワイバーン』制御システムの電源をオンにした。本来であれば電力確保のためにエンジン稼働中の起動が推奨されるものだが、メンテナンスのため母艦に直接接続された今ならば、必要電力は十分に賄えるに違いない。

 

 しばしの沈黙ののち、正面のディスプレイに混じるノイズ一筋。それがウィンドウの枠を形成し、ワイヤーフレームで構成された背景を映し出した数瞬後に現れたのは、少なくとも外見上は従前と変わらないスフィアの姿だった。

 

《LMAX-02R『サイファード・ワイバーン』、オーキャス14起動します。おかえりなさい、レフ》

「…ああ」

 

 挨拶ですらない、システム起動時の定型文の再生と感嘆符の往復。言葉数にしてわずか一対のみを交わして、それきり二人の会話は途絶えた。

 青みを帯びた銀色の髪。イルカのヒレを思わせる、耳上から外側へ跳ねた癖毛と、ぱっちりと大きな青色の瞳。ウィンドウ内のスフィアは確かに姿こそ以前のままではあるが、こうしてレフが沈黙していれば言葉を発することもなく、投影されたCGモデルが何かしらアクションを見せることもない。スフィアは元々無表情な方ではあったが、以前であればやれ『レフ、顔が赤いです。お酒ですか。飲み過ぎるとおやっさんのようなお腹になりますよ』だの『チョコミントなるフレーバーの魅力について教えてください。端的かつ情熱的に』だのと思いついた事を好き勝手に話したり、全周囲モニターの中を勝手気ままにうろついていたりした所であろう。ところが、今眼前に映し出されたスフィアはといえば、こちらから言葉をかけなければ自ら会話を発することも無く、ただ機械的に瞬きを繰り返すのみ。AIにあるまじき豊かな感情を見せていたかつてのスフィアの面影は既になく、そこに映っているのはスフィアの形をしたただの抜け殻であった。

 

 この点、先日のフォルカーの推測は半ば当たっており、半ばは外れていた。

 フォルカーの推察の中で、『スフィアが機体とヴァルハラシステムを仲介し、システムの一部と化している』こと、そして『システムに対する機体のレスポンスを改善するために、自らの存在領域を上書きする形でヴァルハラシステムのデータを保存している』ことは、今の状況を見る限りまさに正鵠を得ていたと言える。ここ数週間の間でスフィアが感情や反応を徐々に失っていったことは明白であり、それが『何か』の代償であることは明らかであるからだ。

 だが、残る仮説――『ヴァルハラシステムを使うたびにスフィアは感情や記憶を失っていく』ことについては、その限りでなかった。スフィアが機体の一部と化してからシステムを使用したのは『ウロボロス』艦隊の強襲戦と空中空母に対し低空侵入した際の2回きりしかない訳だが、それ以降もスフィアのコミュニケーション能力は明らかに時間を追うごとに漸減していたのである。この点から推測すれば、おそらくスフィアはシステム起動の有無に関わらず、常にヴァルハラシステムの情報を自身に上書きし続けているというのが正確なのだろう。すなわち、先の仮説は実際には『システムの使用に関わらず、スフィアは徐々に感情や記憶を失っていく』と評するのが実態に近いと言えた。

 

 まざまざと顕れる現実に、鼻から吐き出す深い溜め息一つ。胸に広がる後悔の念は、酔余の苦みと相まって口中を浸してゆく。

 堪えかね、一考し、口をもぞもぞと籠らせること一拍。口を開くレフの胸中に過ぎっていたのは、一抹の期待でもあり、自らの後悔を深く抉る自裁的な感傷であった。

 

「今日な。ふと空を見上げてたら、ハヤブサが飛んでるのが見えた。海にしちゃ珍しいもんだったな」

《はい》

「発艦する『グリフィス』の爆音で逃げるかと思ったら、一旦それを避けてからしばらく空母と並走して来てな。鳥なのに肝が据わってるもんだと感心したよ。人間が鳥に憧れるように、鳥も人間には興味を持ってるのかね?」

《申し訳ありません、私には判断できません》

「…………そうか」

 

 失望。諦念。後悔。胸中に根を下ろした負の感情に口を塞がれ、それきりレフは押し黙る。

 嗚呼、()()()

 いつぞやの空だったか、戦闘前にも関わらず、空を飛ぶハヤブサに目を輝かせてはしゃいでいたスフィアは。人間よりも人間らしく成長したスフィアは、もうここにはいない。分かり切っていたはずの現実はより深く鋭くレフの心に突き刺さり、続く言葉を奪ってゆく。

 

 こんなことがあるか。

 あの時のたった一度のために。自分自身の弱さゆえにヴァルハラシステムに頼る選択をしたあの一回きりのために、スフィアという犠牲を払うことになるなど。こんなことが、納得できるものか。

 

 酒精は思考を曇らせ、偽らざる感情の膜を払ってゆく。

 顔が熱くなる。目頭が熱を帯びる。

 情けない。畜生。こんなことで大の男が涙を流すことがあるか。

 

 下腹と脚に力を籠め、それでもなお堪えかねて、掌で仰ぐ顔を覆うレフ。

 無感情にその様を凝視していたスフィアが、不意に口を開いたのはその時だった。

 

《事前の指定条件への合致を感知しました。再生プログラム01を起動します》

「……は?おい、今何を…」

《あー、あー。テストテスト。マイクテストです。異常無しですね。それでは…あ、そうです。先に言っておきますと、これは事前に私がこっそり録音したものです。質問はたぶん受け付けられませんので、ご承知ください》

 

 予期せずして自ら言葉を紡ぎ始めたスフィアに、レフは反射的に跳ね起きた体で正面ウィンドウへと顔を寄せる。

 何だ、一体何が起きている。混乱するレフには目もくれず、正面にはかつての様子そのままに、情緒豊かに横髪をふわふわと動かしながら言葉を紡ぐスフィアの姿。

 馬鹿な。何故。

 疑問を口にすることも忘れ、レフはさながら祈るように、あるいは縋るように、熱くなった目と耳を一心に彼女へと向けた。

 

《こほん。レフ、これを聞いているということは、今ごろ私はおそらくデータ領域の大半をヴァルハラシステムに書き換え終えている頃で…そうですね、レフのことですから思わず泣いていたり、ヤケ酒を呷ったりしている所でしょうか。飲み過ぎはダメです、おやっさんみたいなお腹になりますよ、レフ》

「…うるせえよ」

《それはそうとして。粗暴で傲慢で我儘に見えて実のところ繊細なあなたのことですから、()()()()にきっと後悔して、自分を責めていることでしょう。こんなことは納得できない、と。…ですが。少なくとも、私は納得しています。あの時、レフを死なせないという目的の為には、これがベストでした。ここまでAI()という存在を尊重し、相棒と言ってくれた相手のために身を捧げることは、私にとって至上の喜びでもあったのです。機械だからこそ人間を護らねばならない…そんな狭隘な使命感ではなく、『私』という存在の意思で、『私』の感情に従って選んだ決断だったのです》

「…………」

《だから、レフ。気にするなというのはあなたの事なのでたぶん無理だと思いますが、それでも今を生きる人間のあなたは、前へと進んでください。人間の情念と意思という眩い姿を、抱き続けてください。私の力であなたが今を繋げられることが、私には満足なのですから。…では、あまり容量を圧迫しても本末転倒なので、本データはこの辺りで。ちゃんと三食きちんと食べて、深酒しないように。糖分摂取も適正量を保ってください。ヒトはすぐ年を取りますから、油断してるとすぐ糖尿病になりますからね、レフ。それでは……ええと、健やかに》

 

 絶句、した。

 在りし日と変わらない、久方ぶりのスフィアの姿に。祈りにも似たその独白に。――弱い己へと向けられた感情と、言葉に。

 

 酔いが深まってゆく。

 思考が回らない。理性という被覆を剥がされたむき出しの感情が灼けたように熱くなり、意図せずして胸が、嗚咽が込み上げる。

 

「っ……、――畜生!!」

 

 抑えられず横合いに振り抜いた拳がキャノピーを打ち、『ワイバーン』の機体が鈍く揺れる。こんな事。…そんな事。お前が良くとも、俺は。――俺は、お前が。

 

 紡ぐ言葉は嗚咽に呑まれ、掌で覆った瞼からは熱が水滴となって溢れ出る。

 ウィンドウの中、データの再生を終えたらしいスフィアの殻は、今は海のような深い蒼色を瞳に湛え、レフの姿をまっすぐ無感情に見つめていた。

 

******

 

「くそ!!こんな馬鹿なことがあるか!!」

 

 平穏を砕くような破裂音を響かせて、壁に投げられたグラスが粉々に砕け散る。

 

 ノースオーシア州、現『ウロボロス』オーシア方面の中核拠点たるスーデントール。かつてはニューコムの駐屯部隊が使っていたのであろう中堅職員用の一室に、青年――ルカ・クレメンティの姿はあった。黒髪を後ろで結う髪型と知的な眼鏡姿こそ従前のままではあるが、神経質そうな色白の肌は今や蒼白となり、頬も削げた姿と相まって、病的な様相と成り果てている。先の感情を昂らせる不安定な様からも、ルカが憔悴しきっているのは明白であった。

 

 その理由は一にして足りない。対サピン攻略の失敗。『レギンレイヴ』艦隊を始めとした水上戦力の喪失。切り札たる空中空母『メラス』の撃沈、そして攻撃拠点として機能するはずだったヴァレーの機能喪失。ここ数週間に次々と入ってきたそれらのいずれもがルカにとって凶報と評すべきものだったが、つい先ほど『ウロボロス』の秘匿回線を通してもたらされた情報こそが、ルカを憔悴の底へ叩き落した最たるものであると言えるだろう。

 

 数日前、海の向こうに当たるユージア。

 『ウロボロス』蜂起の根拠地であり、すなわち『ウロボロス』にとっても主戦場と言えるその戦線において、前線指揮官にして『ウロボロス』の主導者であるアビサル・ディジョンが戦死したというのである。情報とともに添付された画像データには彼の搭乗機であるUI-4054『オーロラ』の尾翼の破片も映っており、ここ数日の間本人からの声明もないことを踏まえれば、彼の戦死は明白と言ってよかった。現時点では戦況の混乱に伴いその真贋は露わとなっていないが、あと1週間もすればマスコミ報道も入り、その戦死が世間に露見すると見ていいだろう。そうなれば、主導者を失った『ウロボロス』の瓦解は時間の問題となる。

 

「何故だ、何故!人類をより高次のステージへと引き上げる、我らの理想が!…正しい理想を解せぬ旧弊如きの手で…!」

 

 焦燥、動悸、頭頂を焦がすような収まりを知らない憤激。

 ない交ぜになった紅色の感情に身を任せるように、ルカは本棚の書籍やノートを手当たり次第に壁へと叩きつける。古びた背表紙がほつれ落ち、千切れたページや紙片が舞う中で、響くのは(ふいご)のように荒く乱れるルカの息一つ。額に汗を浮かべ、肩で息をするその姿は、まさにルカの憤怒の大きさを、翻ってはその苦悶と懊悩の深さを物語るものだった。

 

 足元に転がる本を忌々しげに蹴り上げ、鬱憤のわずかばかりでも晴らさんと繰り返される、無益にして無間の徒労。

 その行為に終止符を打ったのは、独りでに電源が灯り、ノイズとともにディスプレイを点灯させたパソコンの電子音。そして、数秒ののちに映し出された、ルカがよく見知った老人の姿だった。

 

《荒れているようだな、ルカ・クレメンティ。理想の成就まであと一歩というのに、何を懊悩する必要がある?》

 

 青いストライプのようなワイヤーフレームを背景に、ディスプレイの中に姿を現したのは、ルカのかつての後席にして師たる老人――『カプチェンコ』。正確には、その思考や精神を寸分違わずエレクトロスフィア上に複製した、電脳化した『カプチェンコ』その人であった。

 

 この点には、幾らか説明を要するであろう。

 『ウロボロス』が理想として指向し実行している電脳化とは、前述の通り人間の思考パターンをそのままエレクトロスフィア上に複製する技術である。しかしながら膨大な情報量からなる人間の複雑な思考回路を一度に再現するのは極めて困難であり、複製した思考データが複製元の本人と完全に合一しない事例もしばしば発生していた。この対策として、電脳化を行う際には定期的にエレクトロスフィア上の複製データの思考回路と複製元本人の思考を照合し、差異が生じた場合に修正する『定着化』処理を行うこととなっていたのである。オーシア東方方面の『ウロボロス』創設に関わった『カプチェンコ』はその所属の早い段階から電脳化に向けた定着化処理を行っており、それはレフ・ミハイロヴィチ・ヤコヴレフによって彼の肉体が死亡する直前まで続いていた。

 

 すなわち、今ルカの眼前に顕れているのは、記憶も思想も、操縦技術さえも完全に複製された『カプチェンコ』本人。それも電子の躯体という不死の肉体を得、老体という唯一の瑕を克服した、彼の全盛期をも上回る不毀の存在であった。

 

「…!カプチェンコ師…。…ですが、お聞き及びでしょう!ユージアのディジョンは既に亡く、こちらも虎の子の空中空母の一方を喪失し、更に今度はヴァレーまで機能を喪失しています。敵の戦力は数倍、翻ってこちらはもはや救援の目途すら無い。この状況で、どうやって…!」

《苦衷にあるのは敵も同じであろうよ。ユージア方面では3勢力の首脳部は軒並み死亡しており、ポートエドワーズもメガフロートも壊滅している。こちらへ介入する余力はあるまい。ましてこちらの脅威たるや。UPEOは既に形骸化しており、ゼネラルもニューコムも損耗しきった戦力しか残っていない。なるほど数の上では確かに上であろう。だが、その揃えた『数』は、予備兵力の無い張り子に過ぎまいよ。『竜頭蛇尾』という諺は知っているかね?》

「…しかし…!」

《加えて。君は空中空母1隻の喪失を口にしたが、こちらにはまだ1隻『ある』のだ。私も前線へと戻る。一対多を可能とする『ヴェパール』も我らが手中にある。…そして、いざとなれば()()()もある。あとは君の()()さえ整えば、逆転の目は十分に過ぎるほどではないか。『おお、我が王よ、正当なる勝利の聖剣に祝福されし王よ。敵勢雲霞のごとしなれど、我らが騎士は当千にして不毀。願わくば討滅を許されよ』…か、な》

「……は…」

 

 整然と、それでいて畳みかけるかのようなカプチェンコの言葉。覚悟を促し退路を断つその声に、ルカは一瞬言葉を曇らせた。

 

 そうだ、冷静に考えれば、敵も多くの戦力を失っているのだ。本拠ユージアの混乱を考えれば、当面はこちらへ手出しはできないだろう。GRDFもNEUも予備兵力までつぎ込んで戦線を支える状況を踏まえれば、『ウロボロス』の総力を挙げた抗戦で敵を返り討ちにすることも十分に可能な筈であった。そしてそのための戦力の一部として、自らの電脳化と、それによる全能力を開放した『ヴェパール』の投入が必須であることも十分に理解できた。この世に2機と存在しない切り札を任されること、そして自分自身の宿願でもあった電脳化を経て、全人類電脳化という理想を実現できることを考えれば、歓喜に震えてしかるべしである。

 

 頭では、そう理解している。

 理解しているのに。

 

 硬直したように、握った拳を開くことができない。

 脚が震える。理想を目前にしながら、この期に及んで2本の肉の杖は歓喜ではなく、不安と恐怖に震えている。

 

 恐れ。疑念。沈黙の内省は、嫌が応にもその感傷の根源を浮き彫りにしてゆく。

 それは指導者ディジョンの死ではなく。先に説かれたような戦況への不安でもなく。未だ抵抗し続ける旧世代の遺物への怒りですらなく。

 言い表せない不安の根源に、ルカの内省が至ったその瞬間、彼は愕然とした。

 

 突き詰めれば、それは今更ながらの不信であった。電脳化の現実を目の当たりにしながら、『ウロボロス』やカプチェンコの語る理想にここまで傾倒しながら、ルカは肉体を失う現実と、電脳化と言う名の魂のコピーを作り出すという理論を信じ切れていなかったのだ。

 

 電脳化による、肉体ならざる身体の獲得。

 新たな人類のステージ。

 ――本当に、そうか。エレクトロスフィアの中に複製された自らの思考機能のコピーが、果たして自分そのものだと、本当に言えるのか。

 この理想は、これまでの選択は、本当に正しかったのか?

 

《どうした、ルカ・クレメンティ。時間にあまり猶予も無い。すぐにでも君の処置を進めたいとスタッフも言っていたぞ?》

「…カプチェンコ師。その…。私は…」

《…何か?》

「…っ…!……………いいえ。何でもありません。ただちに、処置に入ります」

 

 意を決したように顔を上げたルカは、しかし声を低めたカプチェンコの眼差しに面を射貫かれ沈黙する。

 人の熱を感じられない、黒く深く底すら見えない老人の瞳。――この人は、この存在は、本当にカプチェンコなのか。

 

 固く握られた拳は緩やかに脱力し、俯いた視線はついぞ仰ぐことなく、のっそりと小さな背中が扉の方へと進んでゆく。諦念と一抹の覚悟を帯びたその背姿は、どこか断頭台へと歩む罪人のように見えなくもない。

 

 扉が閉じ、青年の足音が遠ざかって、コンクリート造りの方形が静寂に包まれて数秒。

 ディスプレイに映る老人の口元がぐにゃりと歪むや、その端には皮肉な笑みが刻まれていた。

 

《ついぞジョシュア・ブリストー(ウィザード)には至れなかったな、ルカ・クレメンティ。それもまた良い。窮鼠も使いよう一つよ。『――新たな世界の開闢、まさに至らんとする。王よ、永劫の封眠に揺蕩いし王よ、今はただ我を祝福し給え。王無き世に蘇りし我が肉体を護り給え』――》

 

 薄暗い鈍色の中に、謳うような紡ぎは吸い込まれて消えてゆく。

 ふ、と嘆息を吐き出すような声音一つ、点灯していたディスプレイにはノイズが混じり、やがて老人の姿とともに消えていった。

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