Ace Combat side story of 3 - Emotional Sphere - 作:びわ之樹
生唾を飲み下す音が、心臓の拍動に重なって鼓膜を過ぎる。
ひっきりなしに額を伝う冷や汗、凍えたように感覚を失う手先。予想だにしなかった眼前の現実と自らの判断への悔恨で、パウラ・ヘンドリクスは数瞬の間、体と思考の脈動を奪われていた。
こんな所にいるはずのない、『ウロボロス』の空中空母。遭遇した敵を空中空母の前衛と見抜けず、ルーメンを――サヤカを危険に晒す結果となった現実。ありえない、と幾度口中に呟いても眼前の光景は変わることなく、ただただ現実という名の匕首となって、パウラの喉元への距離を刻一刻と狭めつつあった。
《…!敵無人機、数…16!F-35も反転して来てるっス!……こんなの、もう…!》
《パウラ主任、指示を!…主任!》
イングリットとカールの声が、虚しく頭上を抜けてゆく。
どうする。
近傍にNEUの基地は無く、遠距離通信の手段も無い以上、救援の手立てはない。残弾は
どうする。
どうすればいい。
サヤカの逃亡。
イングリットとカールの命。
ヒカリが帰る場所。
ルーメンの安全。
空中空母の狙い。
どれを優先し、どれを捨て、どの手を取ればいい。
エリク、私は。私は――。
《パウラさん!こちらは準備できました、ただちに離脱を!…目的を見失わないで!》
目的。
反射的にはっ、と吸い込んだ呼吸の音が意識を戻し、焦燥に揺らぐ思考に突き刺さったサヤカの声がそれを現実へと向けさせてゆく。
そうだ、これしきで取り乱してどうする。
無意識にもたげていた上半身を座席へ深く下ろす。
目を閉じ、息を吸い込んで、止めること三拍。体の隅々まで酸素を巡らせ、下腹から一気に空気を吐き出してゆく。徐々に焦燥の色を失い澄んでゆく思考の中に浮かぶのは、よく見知ったあの男の姿。
――私の命を繋ぎ、朧な道を示し、穏やかな未来をくれた、月光のような彼の面影。
「サヤカ、すぐに離陸して東へ飛ぶんだ。旧ウスティオのNEU勢力圏へ入り次第、グラン・ルギドのNEU司令部へ空中空母の動向を連絡して欲しい。『ギャラハッド』『センチネル』両名は護衛に就け。――私が、
《…命令を遵守してください、パウラさん。『命を第一に』…そう申し上げた筈です》
「遵守しているよ。『君の』命を第一に考えている」
《そんな詭弁を…!エリクさんも、貴方の犠牲は望まない筈です!》
「少なくとも、あいつだったらそう決断を下した筈だ。護るべきものと倒すべきものを秤にかけて、自分の命すら天秤に乗せて、君と私に未来をくれたあいつなら。…君を逃がし、奴の足を止めて、NEUに迎撃を促す。これが最善だ」
至ってシンプルな、稚拙ですらあるその策を、パウラは訥々と通信に送る。
何ということはない。一歩引いて考えれば、物事はたいてい単調に帰結するのだ。繋ぐべきは、第一にサヤカの命。そして、これからサヤカやヒカリが生きていく世界の維持。それらの目的を果たす為には、サヤカを逃がすとともにサピンへの連絡を可能にするこの手が最上のものであろう。自分自身の命という錘を天秤に乗せたところで、その軽重は些かたりとも揺らがない。
繋がれた命を、未来を紡ぐように。鎖を結び、絡め、先へと繋げていくように。パウラは正面を見据え、下腹に力を込めて信じる言の葉をサヤカへと縒り結んだ。
自らの命を使う場所は、今、ここを置いて他に無いと。
《――そんな事…!いけません、許しません!………
「…
《…!待って…!!》
「サヤカ。私にとって、君とヒカリは文字通り『光』だった。君たちに照らされた道を共に歩くという生き方を選ぶことができたんだ。幸せ者だよ、私は。――バターたっぷりのクロワッサン焼いて待っててくれ!」
《――パウラさん!!》
焦燥を帯びたサヤカの声、それを制止する男の気配。悶着の空気はやがて通信を遠ざかり自らの名を叫んだサヤカの声を残響にして、滑走路から社の『クラッカーU』が速度を速め離陸してゆく。
空へ舞い上がったのは合して4機、残る人員はおそらく陸路でめいめいに脱出を図っているのだろう。戦術輸送機に過ぎないAn-178の速度を踏まえると、足止めすべき見積もりはせいぜい15分。ルーメンが『ウロボロス』にとって枝葉でしかないのならば、NEU勢力圏へ逃走する輸送機を深追いはしないと考えていい。
砂埃を払った『クラッカーU』が機首を上げ、眼下の街を離れてゆく。
眼前には、威圧するようにゆっくりと迫りくる空中空母と、羽虫のような無人機の小点。手元に残るは、AAM2発とわずかばかりの機関砲を携えるのみとなった旧式のJ-10。彼我の立場、背景、そして旧式の改修機という条件は、図らずも30年前のオーレッド湾上空と瓜二つの光景であった。
「『ギャラハッド』、『センチネル』、聞いていただろう。ただちに離脱し輸送機の護衛に就け」
《…いえ。私は残ります》
《イングリットさん!?》
《あれだけの数、いくらパウラ主任でも手に余ります。幸い、私の『デルフィナス』は燃料も兵装も余裕がありますから、攻撃役にはなりますよ。…それに、腐っても私はベルカ騎士団の末裔。大軍に独りで立ち向かう人を放るなんて…こう、騎士道精神的に見過ごせませんから!》
いらん。反射的にそう開きかけた口を、ベルカ騎士団という予想外の言葉が覆う。
そういえば以前の雑談の中で、イングリットもカールも旧ベルカ出身だと聞いた事がある。
もっとも、それはあくまで過去の話である。聞けば、ルートヴィヒ家はベルカ戦争において従軍していた男子が『鬼神』との交戦で殆ど戦死したのを契機に没落したという。騎士が夢物語に出てくるのみの時代遅れの存在となり、国という枠組みすら崩壊した現代となっては、騎士道に悖るなどという言葉は滑稽で陳腐極まりないものに過ぎないだろう。
だが、しかし。
かつての戦争でベルカから切り離されたルーメンの地で、ベルカに出自を持つ者が、ベルカの為ではなく世界の為に――大切なものを護る為だけに戦う。繰り返された戦争の果て、皮肉にも『ウロボロス』の手で顕れた国境なき世界の情景は、パウラにとってどこか運命的なもののように感じられた。
根本がベルカの妄執と憤怒だったとしても。あるいはか細い悲痛な祈りだったとしても。
かつてカスパル少佐や、同志のジョシュア・ブリストーが目指した世界の一端とは、こうした光景だったのかもしれない。
「…好きにしろ」
呆れ半分、ささやかな喜び半分、気づけばパウラはそう答えてしまっていた。感傷的な判断を下すなど甘い事この上ないが、一歩引いて考えればイングリットの言葉にも確かに一理はある。先ほどの戦闘で兵装の過半を使い切っている以上、こちらの手数が足りないことは否めない。攻撃役としてイングリットを据えるのは、確かに合理的には違いなかっただろう。
状況判断に基づく追認という名の言い訳を胸中に据えて、パウラはそれ以上の言葉を喉の奥に押し留めることにした。
《…その…俺…!………俺…》
《カール、あなたは行って。空中警戒で燃料も消費している筈だし、空戦には堪えられない》
「何よりサヤカを丸腰で放り出す訳にはいかない。早く行け」
《……。…了解っス!…………あの、俺が言えた立場じゃないのは重々承知っスけど…ご武運を!!っス!》
不安と安堵、矛盾を湛えた声を張って、カールの『デルフィナス』は機首を翻して東へと舵を切ってゆく。こちらを省みるように時々蛇行しながら高度を上げるその様からするに、サヤカ機より遥か高高度に占位して広範囲を監視する積りなのだろう。臆病な性質とは裏腹に理性的なその様は、確かに前歴たる偵察機乗りらしさを思わせた。
「…さて」
逃すべきを逃し、残すべきを残して、深く息を吐くこと一拍。往時の鋭さを宿したパウラの眼は、迫る戦場の様相を俯瞰する。
こちらの戦力は、残弾わずかのJ-10XD2『ファイアバードⅡD2』と、イングリットのR-101U『デルフィナス1』。対する敵は、空中空母1隻と無人戦闘機16機、F-35CRが2機。無人機は角ばった胴体にガルの三角翼を備えた特異な形状のものであり、その外見から察するに以前レフらが目撃したという『ウロボロス』の無人機と同一と見ていいだろう。空中空母の方は何らかのジャミング機能に加え、近距離のミサイル攻撃を防ぐ防御用ドローンを搭載していると聞く。レールガンでもあればともかく、現在の装備では空中空母を止めることはまず不可能だった。
もっとも、こちらにとって今は空中空母の撃沈を考える必要は無い。――有体に言えば、むしろ今は
その根拠は、接敵時にカールが観測した微量な放射線であった。本来核動力とは思えない空中空母からの放射線の観測、そしてこれまで戦争の経緯を踏まえれば、その理由は自ずと見えてくる。
あくまで推測だが、あの空中空母はベルカの遺産である核兵器『V1』または『V2』を搭載しているのではないか。空中空母の搭載量を以てすれば、『V1』は当然のこと、相当の重量を誇る『V2』でも難なく搭載することが可能である。そして速度こそ遅いものの驚異的な防衛力を持つ空中空母ならば、核兵器運送用プラットフォームとしては既存の爆撃機より遥かに優れていることは言うまでもないだろう。となれば、ヴァレーに運び込まれたという弾頭はデマか、あるいは少数のみの囮だったというのか。
いずれにせよ、陸上での撃沈は、すなわち周辺地の壊滅および汚染と同義である。その点を踏まえても、今は徒に空中空母を攻撃せず、敵の足止めに留めるのが上分別と言えた。
空中空母の目的を図り、敵部隊のやや上方から戦場を俯瞰すること数秒。輪形陣を描いていた敵部隊の一部が翼を翻し、矛先を変える挙動を見せたのはその時だった。
先導するは有人機と思しきF-35CRが2機、それらを追うように後続の無人機が4。針路はいずれも東を指しており、離脱を開始したサヤカ達を追撃する挙動を見せていた。残る無人機のうち8機は逆ハの字の隊形を取って高度を上げ始め、こちらの隙を打たんとしている様が見て取れる。
《『デメルング』、敵編隊が散開しました!》
「『ギャラハッド』、本機に追従。追撃機を横合いから討つ。絶対に格闘戦には乗るな」
《了解!》
右ロール、次いでスロットルをやや開放。機首を下げて重力加速度を乗算した機体は、機体推力と相まってみるみる速度を増してゆく。狙いは、言うまでも無くサヤカ達を追う下方の6機。兵装搭載量と航続距離を考えれば、最低限2機の『ライトニング』さえ落としてしまえばサヤカへの脅威はぐっと減る。
距離2600。2000。高度の優位を速度に変換したゆえに、敵編隊との距離は見る間に狭まってゆく。
――そろそろか。
降下を始めて5秒ほどを数えたパウラは、ちらりとレーダーを、次いでHMD越しに後方を省みた。
来た。左斜め後方上空、上昇して来ていた8機の無人機。こちらの機動を受けて上空から回り込み、攻撃態勢に入って隙だらけとなったこちらを後方から追撃する挙動であることは間違いない。
――そして。戦術の初歩たるその挙動を、ベルカ残党の下で経験を積んだパウラが見逃す筈は無い。
「そのまま行け!」
《えっ?…はっ、はい!》
合図にして、僅かに一節。その短い言葉を紡ぐと同時に、パウラは操縦桿を引いて機首を急速に上向ける。眼下にイングリットの『デルフィナス』を送りながら、パウラの『ファイアバード』は速度エネルギーを瞬く間に高度へと変換。上と下、直進と反転。相反する2機の機動を目前にしてか、追撃の無人機は一瞬惑ったかのように機動の自由を失った。
操縦桿手前、フラップ展開。同時にスロットルを一気に絞り推力低下。急上昇で運動エネルギーを失った機体は機体尾部を軸に反転し、機首を下方に向けて落ちてゆく。頭上からの逆落としの要領で眼下を捉えたその先には、やや上昇しつつ下方からの擦り抜けを試みる、無防備な8つの背中。
進路の交錯は、僅かに数瞬。その間隙に引いた引き金は過たず目標を捉え、放たれた23㎜弾が最左翼の機体の胴部を抉り取ってゆく。それに続く後方の1機も主翼端を斬り飛ばされ、2つの機影が錐揉みを描いて墜ちていった。散開しながら上昇に入る6機を尻目に、パウラは操縦桿を引いて機体の平衡を取り戻し、間髪入れずイングリット機の背を追ってゆく。
「ぐうっ…!……流石にGが堪えるな…!」
《仕掛けます!》
「行け!こちらも追撃に入る!」
F-35を含む6機編隊へ斜め後方から仕掛けるイングリットに呼応し、パウラもまた機体を増速させる。ちらりと後方を省みるも、急降下で速度を得たJ-10に対し無人機は降下に入った所であり、未だパウラ機へ追いつくことは叶わない。
イングリット、発砲。AAMを、次いで機関砲を打ち放ち、ミサイルを回避し損ねた無人機が焔に呑まれて墜ちてゆく。残る5機は1機ずつへと分散し、各個に回避運動へ。無人機は編隊を突っ切っていった『デルフィナス』を追撃すべく反転し、2機の『ライトニング』は様子を窺うように僅かに高度を上げつつある。
すなわち迎撃の目がこちらから外れ、追撃の手が背に届かぬ、狙い澄ました絶好の機。
「まず1機!」
ガンレティクルの十字架がF-35CRの背に刻まれた、その一瞬後。さながら一閃の槍と化した曳光弾の筋は漆黒の機体を穿ち、心の臓たるエンジンを貫いて焔へと包んでゆく。破片をまき散らして墜ちてゆく残滓の上を抜け、パウラは続けざまのGに苛まれた体を労わるようにしばし息をついた。
《『デメルング』、後方から無人機!》
「構うな、追撃はこちらで引き付ける!最後のF-35を墜とせ、『ギャラハッド』!」
《はい!》
さしものJ-10といえども、格闘戦でF-35を相手取って速やかに撃墜できる余裕はない。
彼我の位置と兵装を咄嗟に判断し、パウラはイングリットへと追撃役を下命。右旋回に入りF-35との格闘戦に入る『デルフィナス』を護るようにパウラは左旋回し、イングリットの背を斬り防ぐように機体を反転させた。
やや上方からは先ほど討ち漏らした無人機が3、距離1500ほどを隔ててほぼ同高度から迫る機影が6。
「イングリットの背は追わせん。しばらく付き合って貰おうか!」
上方、次いで右。横旋回のさ中から素早く目を走らせ、パウラは敵の挙動から企図を読み取る。
針路を見る限り、同高度の6機はこちらの横旋回の未来位置に向けて直進。上の3機は斜め後方の死角を占位し、降下で速度を増す挙動に見て取れる。彼我の位置を踏まえれば、おそらくは縦方向への挙動が鈍る旋回中の隙を突いて回避困難な弾幕を広範囲に仕掛け、小破した所を後ろ上方の3機がミサイルで討つという作戦であろう。従来であれば一気に増速して射線を振り切るか、あるいは一か八かのヘッドオンで6機と正面から相対するか、二つに一つである。当然、わずか二つに絞られた範疇の選択であれば、いずれも容易に追撃を許すに違いない。
それならば。練り上げた技量を以て繰り出す、想定外の機動であればどうか。
同高度の6機が距離900を切ったその瞬間、パウラはエルロンロールを駆使して機体を上下反転。天地が
無論単純な急降下機動では、上方の3機から無防備な背中を撃たれる。
それを見越し、パウラは機銃弾を回避すると同時に操縦桿を引いて急上昇。ほぼ垂直を描いて急降下する敵機に対し、対地角度30°ほどを描くようにさらに操縦桿を引いて上昇へと転じた。
「…う、ぐぅっ…!…年を取ってやる機動じゃあないな…!」
急降下による加速、制動を受けた急減速と上昇。横から縦へと加わる圧力が目まぐるしく変化し、耐Gスーツを着用して尚軽減できないGの圧力が束の間目を晦ませる。
何の本で見たのだったか、曰く猫という生き物は大人になってからも自分を子猫と思い込み、しばしば体格や加齢を考慮しない無茶な運動をするのだという。血流不足で暗色を帯びた思考に差し込んだ益体の無い記憶を振り払うように、パウラはなおも速度を増して、上昇を重ねていった。
直上の3機から放たれたAAMが至近で爆散し、次いで曳光弾が翼を掠めて飛来する。
1発。2、3、…合して7。けして少なくない着弾の衝撃音が機体を軋ませるも、しかし未だ致命となるには至らない。傍らを掠めて敵機が下方へ抜ける瞬間を見計らい、パウラは再度機体をロールさせ、螺旋を描きながら機首を下方へと向けた。狙いは、速度と引き換えに高度を失った先ほどの3機。
網膜と連動したロックオンシーカーがHMD上を走り、無人機のうちの1機を朱に固縛する。間髪入れずに放ったAAMは、しかし敵の想定内であったのか。発射と同時に無人機は速度を活かして強引に左旋回へと入り、ミサイルの追従能力を振り切って、至近から放たれたそれを回避しおおせて見せた。
――無人機らしい、パイロットへの影響を考慮しない高速巡航からの極小半径旋回。その代償は、大きく落ちた速度と、横旋回で大きくなった投影面積。そして、速度差で以て接近を許すことになったパウラのJ-10の姿。
「捉えた!」
運動エネルギーも位置エネルギーも失った無人機に至近距離の機関砲を回避する術は無く、J-10から放たれた弾丸は武骨なシルエットの上面へと殺到。機体後部エンジンを、次いで左翼を抉り取られ、四分五裂し墜ちていった。
「『ギャラハッド』、F-35はまだか!」
《現在交戦中!すみません、もう少し…!》
「急げ!…私もそろそろ限界だ、それを墜とし次第離脱する!」
叱咤一拍、素早く目を走らせ、パウラは同高度で旋回する無人機のうちの1機へと狙いを定める。残る1機はこちらと針路が直交しており、死角からAAMで狙われるリスクは低い。上空の6機が下りてくる前に数を減らし、再度高度を稼ぐのが上分別と判断された。
右旋回、次いで増速。繰り返しのしかかるGに圧せられた胃袋が悲鳴を上げるが、今はイングリットへの横槍を許さないためにもひたすら暴れる他にない。
エルロンロール、次いで左。シザース機動を機銃で牽制しながら距離を詰め、ロックオンシーカーがJ-10の電子の目に随って無人機の背を追ってゆく。
距離1000、900、必中を狙うならばあと一歩外の距離。
電子音。兵装ボタンを押しかけた指を、唐突に響いたそれが押し留める。
長拍の赤色警報。重低音のレーダーアラームとも高音短拍のミサイルアラートとも違う、高く長く響くこの音は。
――接近警報。
「何!?」
左、9時方向。咄嗟に省みた先の光景に、パウラは冷や汗が噴き出るのを禁じ得なかった。
速度を落とす素振りも無く、通常の戦闘速度を越えてひたすらに直進する無人機。距離からしてこちらを機銃の射界に捉えている筈だが、その砲門からは1発の曳光弾たりとも放たれる様子はない。すなわち、ぎりぎりまでその存在と挙動を秘匿して接近するという意図が滲んだ機動と言えた。
彼我の位置。互いの状況。そして敵機の企図。それらから導き出される答えは。
「…ちぃっ!」
カミカゼ。
その言葉が脳裏に結ばれた瞬間、パウラは攻撃をかなぐり捨て、反射的にフットペダルを踏み込むとともに操縦桿を右へと倒す。右下方へと急旋回したJ-10の翼を掠め、横合いから殺到した無人機は轟音とともに右方上へと抜けて行った。
無意識のうちに舌打ちし、パウラは高度を下げながらスロットルを開放する。先の被弾の為か加速は伸びず、後方には先ほど狙っていた無人機が反転し、距離を詰めつつある様が見て取れた。
まずい。ただでさえ高度を失っていた所に、急旋回で速度までも殺された。急いで高度を稼ぎたい所ではあるが、後方の敵機を処理しない限り上昇中を狙い打たれるのは明白である。
躊躇は、すなわち致命。今この時ばかりは時間は味方になり得ない。元より今更『どうする』などと迷う事でもない。
簡単な事である。後方の敵を処理し、急上昇して高度を稼ぐ。どちらも行えばいいだけではないか。
下腹に力を込めて、息を吐いて一拍。パウラは力の限り操縦桿を引くとともにスロットルを絞り、減速すると同時に機体を縦へと反転。速度を犠牲に旋回半径を狭めたインメルマンターンによって、上下反転した状態で敵機と正面から相対した。
パウラの狙いは、縦への反転によるヘッドオン、その後の降下を組み合わせた増速による急上昇であった。すなわち横から見れば横倒しになった8の字を描くような軌跡を描き、無人機を仕留めた後にその下方へ抜け、速度を稼いで急上昇を狙ったのである。敵機を射線の中心に備えたパウラに対し敵機は機体中心軸をパウラ機から逸した状態であり、彼女の狙いは半ばまで成功していた。
「…ぐ、う、う、う……!」
《…やった!パウラ主任、やりました!敵F-35を撃墜!》
「……よし、すぐに戻れ!敵の連携を乱した後に離脱――……」
だが。イングリットに通信を返しながら、照準に敵を捉えた一刹那。視界の奥に映った異常が、パウラの声を押し込めた。
正面、射線を逸した敵機。
その翼へ刻まれたJ-10のガンレティクル。
ガルの陰影の先、きらりと光る焔と白煙。
長く曳いた白煙の、さらに奥。
――先ほどカミカゼを狙ってきた無人機と、それが
「な――……」
致命の瞬間は、呑み込んだ息の音とともにスローモーションとなって、色鮮やかに網膜へと映える。
無人機に突き刺さるミサイル。
爆炎に包まれ、大小の破片をまき散らす無人機。
距離、100以下。
――視界いっぱいに広がる、赤と黒の鉄の雨。
「………!!」
瞬間、間近で爆弾が破裂したような轟音と衝撃がパウラを襲い、暴風雨のような破片の散弾が機体を激しく抉り打った。
右カナード、右主翼補助翼全損。破片が突き刺さった機首レーダーと機関砲は機能を失い、衝撃でエアインテークが変形した影響で推力ががくりと落ちてゆく。爆圧と破片で主翼と尾翼がへし折れなかった事だけが不幸中の幸いであり、今やパウラのJ-10は辛うじて飛べるだけの死に体も同然であった。
――破片が突き刺さったコフィンに収まる、機体の主と同様に。
《ぱ…パウラ主任!!》
「あ、が…、は……!」
コフィン側方から突き立った無人機の破片は、右斜め上からパウラを直撃。二の腕からパウラの右腕を抉り飛ばし、左大腿の四分の一ほど外側に突き立って、小さなパウラの身体を字義通りの
血が、止まらない。コフィンが割れて急速に減圧した影響で、右腕の切断面からは湧水のごとく血が溢れ落ちてくる。
耐え難い痛みで思考が乱れる。
失血で目が霞む。
…寒い。熱が、命が、急速に散っていく。
ちらりと見た右腕だった場所には、代わりに床に転がる肉色の塊と、鮮血に塗れた三日月を戴くブレスレット。落日ならぬ落月は、もはや避けられないという寓意か。
それなら。…それなら、それでいい。自分の命を使う時が、とうとう訪れただけだ。
《主任!…パウラさん!応答してください!!》
「……く、…はぁっ…!喚くな、聞こえている、よ。……被弾した。生還は不可能だ。私はこのまま、…ぐ…!…空中空母に、一矢報いる」
《……そんな…!》
「報いかな、これも。…かつての仲間を多く手にかけ裏切ってきた私に、っ……、エリクを手にかけた私に、……清算の時が、来た、だけだ。…ここまでで十分だ。お前は離脱し…」
《拒否します!!!》
「……イングリッ…」
《知らないですよ、分からないですよ!裏切りとか、報いとか!私は、
「おい…!」
あの、馬鹿が。
もはや言葉を紡ぎ続ける体力も無く、口中に噛んだ罵倒が血とともに流れ落ちる。折角逃げられる位置にいながら、敢えて敵中に戻る意味など何もないではないか。
霞む瞳で空を仰ぎ、痛みと直射日光に歪む瞼が眉間に皺を刻む。しかしパウラの表情には、微笑があった。
上空から降下する6機が、何かに気づいて機首を引き上げる。
東、変針。果たして矛先を向けた彼方から飛来するは、鏃のような鋭角を戴いた『デルフィナス』の機影。
真正面から馳せ違ったそれは、持ちうるミサイルを全て射放ち、さながら抜き討つように2機を屠って見せる。誇りと謙譲、礼節、慈愛。空から失われて久しい信念を体現する、たった一騎の騎士のように、その翼は堂々と風を孕んでいる。
不意に脳裏に去来するのは、
《私の意地を、私の騎士道を果たして見せるのが私の我儘!……後は慕わせません!》
「……誰かに似ていると思えば…。……くっ…、…。私を詰りに来たのか、それとも迎えに来たものか」
《……へ?》
「好きにすればいい、イングリット。……はぁ…っ、命の、使い方を…ぐっ、見つけるのは…自分、自身だ。…――吶喊、する!!」
《…はい!》
後方警戒ディスプレイ、展開。辛うじて生き残ったコフィンの左半分に遠ざかってゆくイングリットの姿を映しながら、パウラは持てる限りの推力で機体を増速させる。
正面、距離4500には空中空母。4機の護衛機はこちらの挙動を捉えたのだろう、やや高度を上げながら一斉にこちらへと飛来してくる。
エンジン推力が中々上がらない。速度を増すごとに血は溢れ、気を抜けば意識が遠のいてゆく。右腕を失ったことで右方向へのロール機動を制御する術は失ったが、どの道右翼カナードやエルロンを全損した今となっては関係のないことだった。
空中空母の巨体が近づく。
護衛の無人機が降下に入る。
空中空母からちかちかと対空砲の閃光が上がる。
それでもなお、未だに後方からは一発たりとも弾丸は飛んでこない。
《この程度!この程度!…この、程度っ!》
後方監視ディスプレイの中で、イングリットの『デルフィナス』は見事に5機の無人機を抑えている。
突破を試みる2機をミサイルで牽制し、編隊を散らした所で上へと反転する。
エルロンロール。次いでシャンデル。本来一撃離脱を得意とする『デルフィナス』らしからぬ機動戦ではあるが、速度の緩急を織り交ぜたその機動は性能を感じさせないほどに鋭い。死地に追い込まれた騎士の矛は躍動を増し、切り返しのシザース機動で押し出した無人機を機銃で蜂の巣へと変えてゆく。
しかし、おおよそ現代の戦闘において、一部の例外を除き『数は力』である。疲労と損傷で時折衰える機動に、数の力は容赦なく注がれてゆく。
至近弾。炸裂の爆炎に紛れて1機吶喊。『デルフィナス』の右翼に被弾の火花が爆ぜる。
《まだ!》
左旋回、次いで右。オーバーシュートを誘うタイミングで直上から1機。絡め取るような曳光弾の光軸を、速度を増して強行に突破する。
《まだ!!》
被弾。左翼エルロン脱落。機体が揺らいだ隙にミサイルが直撃し、左翼が中ほどから拉げ飛ぶ。
《……まだ、まだ!!》
――だが、墜ちない。双発ゆえに推力に余裕のある『デルフィナス』の設計と、なおも心を折らないイングリットの意地は今なお満身創痍の青い翼を戦空に刻み付けている。
追撃機との距離、3500。ここまで隔てれば、追撃の手が届くことはない。あと1分もしないうちに、全ての決着は着くのだから。
「……なかなか、どうして。…今のベルカ人も、捨てたものじゃ…ない、じゃないか」
誰へ向けるともなく呟いて、大きく息を吸い、止める。この呼吸もあとどれほど続くものか、足先の感覚はほとんどなくなり、失血のためか視界が白みを帯びて眩いほどに明るい。光量の調節機能が機能不全を起こしたのか、計器類の表示はもはや判然としなかった。
敵4機、急降下。飛来するミサイルは合して4…いや、6か。8か。残していたフレアとチャフを全て散布し、同時に速度を増しながら機体を下降させる。
機体の細かな制御が利かず、螺旋を描きながら機体は速度を増し、後方へと射線を逸らしてゆく。至近弾の炸裂が連なるたびに燃料系や制御系が機能不全の警告を叫ぶが、今のパウラにはもはや何の意味も成さない。後下方へ抜けた敵機を尻目に、パウラは左操縦桿を懸命に引き上げて、速度を乗せた鋭鋒を空中空母の前下方へと突きつけた。
距離、1500。防御用ドローンが正面に展開。艦体下部の砲門が光を帯びる。
1200。900。最後に残ったAAM1発を発射。艦底から発射された細い光軸がドローンに反射し、形成された光の網がAAMの弾頭を誘爆させる。
800。500。爆炎に紛れてなおも肉薄。精度を増した対空砲火が正確にこちらを捉える。
正面、被弾。コフィンが砕け散り、徹甲弾が右大腿の外側を抉る。
200。100。
白い。視界一面が三日月色の淡い白色に染まり、もはや眼前の輪郭が判然としない。
激しい砲火も耳に残ることは無く、痛みももはや神経に届かず。パウラは視界を覆う眩さに誘われ、眠るように瞼を閉じた。
サヤカ。ありがとう。そしてすまない。後悔のない生き方と死に方をくれて、私は幸せだった。
イングリット、カール。潰え行くベルカの名に、最期の最後にまばゆい誇りを添えてくれた事を感謝したい。ベルカ人の自覚などとんと無いが、それでも誇らしいことに変わりはない。
ヒカリ、レフ。後は任せる。お前たちの生きる未来を掴み取る事を、ただ祈る。
エリク。怒ってくれ。詰ってくれ。叱ってくれ。――褒めてくれ。
後悔なく、躊躇なく、偽りなく。私は繋がれた未来を生きることができた。私は、私であることができた。だから、三日月色の袂で待っていてくれ。
いかに損傷し推力を失ったといえ、一度の下降を得た機体と相対する空中空母では、相対速度は時速1000㎞に迫る。
焔を散らし、命を散らしたJ-10XD2は、その速度を維持したまま空中空母前面の発着艦ゲートへ衝突。上下に分割されたゲートを抉り飛ばし、一瞬の閃光を巨体の首筋に刻んで、消えた。
延焼も誘爆もなく、ただ外殻のほんの一部を損傷しただけに過ぎず、空中空母は南西へとゆっくりと変針してゆく。ちっぽけな戦闘機の特攻など全く意に介さないように、その巨体が揺らぐ様子は微塵も見られない。
東の空には、無人機に貪られたイングリットの『デルフィナス』が焔に包まれ墜ちてゆく。
地上に紅と黒の花が咲くのを見届けることすら無く、残存した無人機は一斉に踵を返して、母艦の方向へと空を切っていった。
《ひっく…ぐす、ひっく…。……パウラさん、イングリットさん……。……………くそ、くそ、くそ、くそ!誰か!…NEU、UPEO、この際ゼネラルでもいい!『ウロボロス』の空中空母が核攻撃を狙ってるっスよ!……くそ、誰でもいい。誰でもいいっスから…!二人の命を無駄にしない為にも、……誰か、誰か…応えろぉぉーーーっ!!!》