藤尭朔也の起床は規則正しい。
職務に従事したり、徹夜明けでさえなければ、どんな時でもきっかり6時に目を覚ます。
同衾したあとでさえその習慣は抜けず、彼女に呆れられたっけ。
もっとも、あの頃はまだ官舎住まいではなかったけれど。
窓を開け、新鮮な空気を室内へ入れるのも、いつもの習慣だ。
ベランダで日光を浴びて自律神経を整える。
軽い頭痛を覚えたのは、夕べ久しぶりに司令に飲みに連れて行かれたから。
告白してしまえば、藤尭はそんなに酒は強くはない。
なのにペースを守れなかったのは、一緒に行った同僚のせいだ。
…まったく、あの
風鳴弦十郎が豪傑と呼ぶにふさわしい呑みっぷりを誇るのは言うまでもないが、彼の人より酒豪と思われるのが、友里あおいその人である。
乾杯からストレートのウイスキーな時点でどうかしているが、テキーラをがっぱがっぱと呑みまくった挙句、合コンに行っても誰もお持ち帰りしてくれない、なんて愚痴られても知らんがな。
まだ酒臭い呼気を、深呼吸して新鮮な空気で浄化する。
それから藤尭は自室を振り返る。
1LDKの官舎は広々とした間取りだ。一人暮らしにしては贅沢と思われるも知れないが、仮にも国際公務員だ。それなりの地位に相応しい待遇だと藤尭は自負しいている。
「さあて、と」
まずは寝室の六畳間へ。ベッドのシーツとタオルケット、枕カバーを交換。
汚れたものはネットに入れて洗濯機のスイッチオン。
入れ替わりで取り出した、既に終わった洗濯物を手際よくベランダへ干していく。
それから寝室、リビング、キッチンの順でサイクロン掃除機をかけて行けば、ちょうどセットしたコーヒーメーカーから香ばしい匂いが漂ってくる。
ゴミを捨て、それからシャワーを浴びる。朝から髭を剃るのも忘れない。
ドライヤーで髪を乾かし、ようやく人心地がついた。
リビングでTVを点け、コーヒーカップ片手にもう片方の手でタブレットを操る。
ニュース番組を耳で聞きながら、ネットのニュースサイトに目を通していく。
合間にメールなどのチェック、返信も行っている。
この手のマルチタスク作業はお手のものだ。
一通り終えれば、時刻はちょうど7時半。
うん、いつも通りだ。
いわばルーティンともなっている一連の朝の流れは、己の性分と自覚していても苦笑するしかない。新しい情報が飛び込んでくる前に、既存の情報を処理して万全の態勢を整えないと落ち着かないのだから仕方ない。
もっともその日課が果たされれば、あとは充足した自由な時間を堪能できる。
…ああ、いい天気だ。今日の休日は何をしよう?
藤尭がベランダから望める晴れ渡った青空に目を細めたときだった。
涼やかなチャイムの音が響く。
「…誰だ、こんな朝っぱらから」
正直、嫌な予感しかしなかった。
かつて弦十郎がジャージ姿で来訪し、いっちょジョギングへ行かないかッ! と強引に誘われ、ほぼハーフマラソンを走破させられた苦い記憶が蘇る。
だからといって無視するのも後が怖い。
まあ、官舎の職員の誰かが用事があってきたのだろう。
多分に希望的観測を込めて藤尭は来訪者の姿の映ったモニターを見た。
そこに映し出された光景は、軽々と藤尭の予想を超えている。
S.O.N.G.の誇る最年長装者にして世界的なスーパースター。
暁切歌、月読調両名を従え、サングラスをかけたマリア・カデンツァヴナ・イヴがそこにいた。
「おはよう。悪いけれど、家に上げてもらえないかしら?」
藤尭は、わけても装者の中でマリアが苦手である。
彼女の容色や性格が、という話ではない。
スポットライトを浴びて、万雷の拍手を受ける。
マリアという歌手の生き様がまぶしすぎるのだ。
藤尭自身は、日陰に憩う雪割草の如く、ひっそりと生きるのをモットーとしている。
単に自分と真逆の属性を持つ彼女に対し、コンプレックスを抱いているだけとの分析も出来るけれど。
そんな彼女がこんなに時間に、なぜ?
「済まないわね、朝早くから」
取りあえず玄関を開ければ、たちまちマリアはヒールを脱いで室内へ上り込んでくる。
藤尭が止める間もなく、そのままズケズケとリビングへと侵入。
「ちょ、ちょっと!」
後を追おうとする藤尭のシャツの裾をくいくいと引っ張るものがいた。
心底申し訳なさそうな顔をした切歌だった。
「ごめんなさいデス、藤尭さん…」
「切歌ちゃん、これは一体どういうわけ?」
「それは…」
問い質そうとするも、廊下の奥からマリアの声。
「来なさい、切歌!」
「は、はいデスッ!」
弾かれたように急ぐ切歌に、続く藤尭。
行った先には、ドアノブに手をかけるマリアがいる。
「あ、そこはオレの寝室…!」
「いい、切歌? 男の一人暮らしの寝床なんて、大抵むさくて散らかっているものなのよッ!」
おい、オレのプライベートだぞ!?
藤尭の止める間もあらば、マリアは勢いよく扉を開け放つ。
「…あれ? 綺麗に整理整頓されてるデスよ?」
切歌の指摘に、マリアも部屋を覗き込んで驚愕の声を上げる。
「…バカなッ!? こんな清潔そうな男性の寝室なんて…ッ!!」
「失礼にもほどがあるでしょ、君たち!?」
思わずそう怒鳴る藤尭の横で、ちょこちょこと動く影がある。
「ならば…調ッ!」
そのマリアの声に、藤尭の横にしゃがみ込んだ調は、廊下の壁につーっと指を走らせた。
指先を見つめることしばし。
「…合格」
「小姑かッ!?」
藤尭の突っ込みも全く意に介さず、マリアと調は視線を交わし合う。
そのまま二人は示し合わせたようにキッチンへと移動。
テーブルにまったく同じタイミングで腰を降ろすと、マリアが言った。
「申し訳ないけれど、私たち、朝食がまだなの」
一瞬呆気にとられた藤尭だったが、ジト目で問い返す。
「もしかして、オレに朝食を作れと?」
早朝に勝手に押しかけて家探し同然に上り込んだあげく、朝飯まで食わせろというのか?
普通なら、これはブチ切れていい案件だ。
だがしかし、相手は仮にもシンフォギア装者である。
今はプライベートの時間であるにせよ、藤尭には役人根性が染みついていた。
ここで迂闊に彼女らの機嫌を損ねたりすれば、組織の利益に背反することに繋がらないか?
プライドと職務への意識の間で、怒りの天秤が右往左往している。
だが結局その天秤は職務へと傾いたのは、ひとえに切歌の声があったからだろう。
「藤尭さんは、と~っても料理が上手なんデスよ!」
無垢な賞賛にプライドを少しだけくすぐられた藤尭は、無言でエプロンを身に着けた。
「…大したものは用意できませんよ?」
背後に放った台詞は、嫌味の親戚ぐらいの声音になる。
「構わないわ。それに、単純に男の人が作る料理に興味もあるしね」
そんなの、世間一般の飲食店の調理師は大抵男だろうに。
内心ではそう返しつつ、藤尭は冷蔵庫を漁る。
スモークサーモンとチーズがあるからこれをサラダにして。
スープは冷凍したミックスベジタブルのコンソメでいいだろう。
となると、メインは…。
藤尭は、大きなタッパーを引っ張り出す。
くそ、これはとっておきのつもりだったんだけどな…。
タッパを開けると、甘い匂いが立ち昇る。
中身は
特製のフレンチトーストである。
まずは鍋に湯を沸かし、コンソメスープを作る。適当なところでミックスベジタブルを投入。
その間に、サーモンとチーズ、それにアボガドを賽の目状に切り、薄口のドレッシングで軽く混ぜ合わせた。
最後に、不承不承、テフロン加工を施したフライパンで黄色く染まったトーストを焼いて行く。
甘い香りがたちまちキッチンに満ちる。
スープはカップに。大きなプレートにはサラダとトーストを盛り付けて、藤尭はテーブルにつく三人の前に運んだ。ナイフとフォークも配り、最後は食卓の真ん中にギャニオンのメープルシロップを置く。
「さあ、どうぞ」
どうだ、とばかりに藤尭は胸を張って見せた。
「すっごく美味しそうデース!」
「…美味しそう」
目を輝かせる切歌に調と違い、ただ一人マリアは無言でフォークを掴んだ。
高級なメープルシロップをたっぷりと使い、ふっくらと黄金色に輝くフレンチトーストを切り分け、口に運ぶ。
歓声を上げながら食べ続ける二人と対照的に、終始無言でマリアは全てを平らげた。
上品に口元をハンカチで拭い、それからようやく藤尭を見てニヤリと笑う。
「調ッ!」
「はい」
マリアの声に、調はどこに持っていたのか、丁寧に包装された大きな箱を床に置いた。
その箱を前に、マリアと調はきちんと正座。
続いて、面食らっている藤尭に、ずずいと箱を押しやったあと、深々と頭を下げてくる。
「切歌のことをどうかよろしく…」
「はあッ!?」
いや、何がどうなって?
藤尭が混乱している間に、
「行くわよ、調ッ」
「い、いや何なの、ねえッ!?」
マリアと調はさっさと家を出ていってしまう。
残されたのは、食卓についたままフォークをくわえる切歌のみ。
ゴクンとフレンチトーストの最後の一切れを飲み込み、食卓の少女は照れくさそうに言った。
「あの、おかわりはないデスか?」
自分のぶんとおかわりのトーストを二枚焼けば、作り置きはなくなってしまった。
「オレ一人で楽しむつもりだったんだけどなあ…」
甘すぎるのは苦手だから、チーズやベーコンを添えて。
さっぱりとしたビネガー系のソースをかけるのもアリだ。
シャーベットを載せてもいいよなあ。
しかしその目論見も、綺麗さっぱりマリアらの胃袋へ消えてしまった。
更に最後の一枚を切歌へ出せば、さっそく頬張っている。
実に幸福そうにほっぺたを膨らませている彼女を見ていると、糾弾するのもバカらしくなってきた。
「で? 何がどうなって、いきなりやってきたわけ?」
自分のトーストを乱暴に食いちぎりながら、藤尭は問う。
「あー、それはデスね~」
切歌が名残惜しそうに最後のトーストの欠片を口へ放りこみながら語るところによれば、この間デートをしたことがマリアに知られたという。
「そしたらマリアが、『切歌を任せるに値するか、私が査定してあげるわッ!』って…」
「…それが不意打ちの訪問に繋がるってわけか」
「デスデス」
コクコクと頷く切歌に、藤尭は先ほどの出来事を反芻し分析している。
おそらくマリアは全く準備できないであろう早朝に訪問することにより、男のだらしなさを指摘。
それを持って、切歌に幻滅してもらう作戦だったのではないか。
というか、普通どんな男だって、起き抜けに女性に寝床なんぞ見られたくないと思う。
しかし藤尭の習慣は万全。おまけに潔癖症のきらいもあるものだから、隙を見せずに済んだわけだ。
…あれ? もしかして、オレはマリアさんの御眼鏡に適ってしまったわけ?
すると、切歌ちゃんをよろしくって意味は…。
だらり、と藤尭の額から冷たい汗が滴る。
「デス?」
と小首を傾げる少女は、現在の自身の状況を理解しているのだろうか。
切歌と調にとって、マリアは姉であると同時に保護者のようなものだ。
そんな
藤尭は緊張にグビりと喉を動かす。
これって、据え膳ってやつじゃあ…?
慌てて藤尭は首を振る。
いくらなんでも飛躍しすぎだ。
「あの、マリアさんたちはどこに行ったの?」
鼓動を落ち着かせ、そう訊ねると、切歌は頬を膨らませる。
「マリアと調はデートだそうデス! この間、アタシだけデートしたのがズルいって。その間、藤尭さんに遊んでもらいなさいって…」
その答えに、ホッと胸を撫で下ろす藤尭がいる。
良かった。単にオレに子守りを押し付けていっただけなんだろう、きっと。
…いや、ちょっと待て。全然良くないぞ。
「しかし、遊ぶって…」
先ほど胸を撫で下ろした通り、男女間の言うところの〝遊び〟のニュアンスはないだろう。
そうなれば、やっぱり子守りじゃないの、これ?
「あ、藤尭さん! ゲーム持ってきたデスよ!」
そういって切歌が出してきたのは、アナログなゲームだった。
大きなシートに、等間隔に色のついた円が記されている。いわゆるツイスターゲームである。
「この間、響さんたちとやって、とーっても楽しかったんデスよ!」
そう力説する切歌だったが、
「二人きりでツイスターゲーム…?」
藤尭はあくまで訝しげな声。
「っていうか、切歌ちゃん、その格好でこのゲームをする気?」
今日の切歌は、いつも通りのミニスカート。
指摘されて、初めてそのことに気づいたらしく、切歌はスカートの裾を押さえて狼狽。
「ででで、デスぅ!?」
…やっぱりどこかピントがずれてる気がするんだよなこの子は。
いそいそとゲームを片付ける切歌を眺めて藤尭は思う。
「そういえば、マリアさんたちは何を持ってきたんだろう?」
少しだけ躊躇ったあと、藤尭は差し出された箱の包装を開けてみる。
中身は、抹茶とお茶道具のセットだった。
…独身の男に贈るものがこれって。
この子にしてあの保護者あり。
おそらく家族全員がどこかズレているのだろう。
まあ、あの三人ともまともな家庭環境で育ったとは言い難い。
きっと日本文化に関しても付け焼刃なのだ。そこは同情して斟酌すべきことだろう。
「しかし、ゲームかあ…」
藤尭はバリバリと頭を掻く。
適当に遊ばせておくなら、ゲーム機を与えておくのが手っ取り早い。
この時点で、一緒に遊ぶという発想は藤尭にはない。
何が悲しくて、休日の真昼間に女子高生とTVゲームに興じなければならないのだ。
せっかくの休みである。大人であるからして、もっと知的で有意義な時間を過ごさなければ。
とはいえ当初の予定としては、ジムにでも行って軽く汗を流し、ゆったりと昼食を食べながらオンデマンドの映画を見るつもりだった。
そんな予定を実行できなくもないが、さすがに切歌を部屋に一人置いていくわけにも行くまい。
かといって同行させて、他の装者たちの目に触れたりすればエラいことになる。
「むむむ…」
「藤尭さん、藤尭さん」
ちょいちょいと肩を叩かれる。
「なに、切歌ちゃん…」
振り向けば、切歌が両手を差し出している。
そんな彼女の指の間には赤い毛糸。
「あやとりか…」
しかも吊り橋から田んぼへと移行する二人あやとり。
なんともアナログな。
にぱーと満面の笑みを浮かべる少女には逆らい難く、藤尭も赤い糸をからめ取る。
「おお、さすが藤尭さん! 知ってるんデスね!」
「まあね」
首肯しつつ、これはネットなどで得た知識ではない。
実は藤尭は婆ちゃん子で、子供の頃はよく遊んでもらった記憶がある。
しかしそれが今、こんなところで役に立つとは。
「マリアも得意で〝銀河〟とか作れるんデスよ!」
「へえ~…」
互いに糸を取り合い、取り返しつつ、そんな会話を交わす。
「…研究所では、これくらいしか遊び道具がなかったデスから…」
「………」
しんみりと言う切歌に、少し涙を誘われそうになる。
二人あやとりは無限ループだ。さすがに10回以上繰り返して飽きた藤尭は、自前のゲーム機を作動。
藤尭も全くゲームをやらないわけではない。
一時期、オンラインゲームにハマりかけたことがあったが、アップデートのたびに劣化するインターフェースと、バグでおかしくなっているアイテムのドロップ率の修正ファイルを匿名で運営に送り付けてから、お見限りである。
そういう意味でも御蔵入りしていたゲーム機だが、切歌にとってはすこぶる新鮮だろう。
「藤尭さん、これはなんデス?」
ゲーム機に接続されたバイザー型のヘッドセットを見て、切歌が不思議そうに言う。
「うん、いわゆるVRってやつだよ」
「へえ、これが『う゛ぁーちゃるりありてぃー』というやつデスか…」
S.O.N.G.本部にある装者用の訓練シミュレーターに比べたら子供だましもいいところだが、現行、一般家庭が持てる中では最高レベルの代物だ。
切歌をソファーに座らせ、ヘッドセットを装着させる。
「んじゃ、行くよ」
「はい。ドキドキデスッ!」
ゲームが起動する。テレビ画面と、ヘッドセットディスプレイには、同じ動画が展開されている。
「ふああああああッ!?」
切歌が悲鳴を上げた。
テレビ画面の視界は、高層ビルの先端で、本人はそこに立っているという設定。
触感はないものの、ビュービューと耳に吹き付けてくる風の音はバイノーラルで、臨場感はかなりある。
ふらふらと切歌は立ち上がって、途端にまた悲鳴を上げた。
テレビ画面の中は真っ逆さまにビルを落ちていくところ。
「ふ、ふ、藤尭さん! これ、無茶苦茶おっかないデスよ!?」
思わずヘッドセットを外して怒鳴る切歌。
「ふふふ、なかなかバカにしたもんじゃないだろ?」
「はい、楽しいデスねッ!」
…意外と物怖じしない子なんだな、この子は。
「んじゃ、ソフトも何本もあるから、好きに遊んでみるといい」
「はいデス!」
嬉々としてゲーム機を弄り回す切歌を、ただ眺めていてもしょうがない。
藤尭はタブレットを手に取り、ネットサーフィンや今後の仕事の段取り、買い物の検討などをすることにする。
その合間にちらちら見れば、完全にヴァーチャル世界に埋没したらしい切歌が、盛大に悶絶している。
細い手足が跳ね上がる姿に、藤尭は思わず背を向けた。
…み、見てない! 縞パンなんか見えてないッ!!
「ふわぁ~、楽しかったデス♪」
小一時間以上遊んでいただろうか。切歌がそんな声を上げる。
「そう、良かったね」
「調にも自慢しなきゃ」
「それは止めて」
聞きつけられて、またマリア同伴で訪問されたらたまったものじゃない。
なぜデス? とばかりに小首を傾げていた切歌は、やがて微笑んだ。
「じゃあ、アタシと藤尭さんだけの秘密デスね!」
…なんだろう。特に彼女は意味深なことを言っているわけではないのだろうけど、何か変なフラグが立ちつつある気がする…。
「あ、そろそろお昼デスね! どうりでお腹が空いてきたわけデ…」
言いかけて、切歌は赤面。
どうやら無意識でお昼の催促をしてしまったことに気づいた様子。
朝にあれほど食べたでしょ! と苦言を呈するほど藤尭も狭量ではない。
「そんじゃ、ちょっと早いけど、お昼の準備をしようか?」
そういって、藤尭はエプロンを着用。
「切歌ちゃんも手伝ってくれる?」
「はいデス!」
さっそく冷蔵庫を漁り、買い置きのクリームチーズとヨーグルトを引っ張り出す。
続いてもらったばかりの抹茶も出してくれば、切歌もさすがにギョッとした様子。
「…あの、藤尭さん。お昼ご飯デスよね…?」
「ん? ああ、ごめんごめん。お昼は簡単なものにするから、一緒に三時のおやつでも作っちゃおうかと思って」
「おやつデスと!?」
納得いったことと期待に切歌は目を輝かす。
「それじゃあ悪いけど、このクッキーを潰しておいて」
ジップロックにクッキーを数枚放り込んで、麺棒と一緒に切歌に手渡す。
「どれくらいデスか?」
「んー、ほとんど粉になるくらいまで」
「了解デース!」
その合間に、クリームチーズとプレーンヨーグルト、生クリーム、そして抹茶も順次で混ぜ合わせていく。
次はゼラチンを湯煎して溶かして、と。
おっとその前に、土台をつくらなきゃ。
「切歌ちゃん、どう?」
「これくらいでいいデスか?」
「うん、上手だね」
褒めておいて、ジップロックの中の粉々になったクッキーを小鉢へ開けた。そこにレンジで温めたバターを投入して混ぜ合わせる。
ごわごわになったそれを、型の底に敷き詰めればこれで土台は完成。
「んじゃ、型に流し込むよ」
溶かしたゼラチンを混ぜたタネを注いで、冷蔵庫に仕舞う。
「あとは二時間くらい冷やせば出来上がりさ」
「凄いデース!」
切歌が尊敬の眼差しで見てくる。藤尭にしてみれば、思いきり簡略化した手抜きレシピに近いものだがら、少し背中がむず痒い。
「さて、お昼は簡単にパスタにしますか」
乾燥パスタは、一人暮らしの必需品だと藤尭は頑なに信じている。
値段も安く応用範囲も広いので食べ飽きない。
さすがに切歌がいるので、グルテンフリーではなく普通のパスタを使う。
作る内容は、これまた簡単にペペロンチーノ。ニンニクなしの鷹の爪も控えめで。
「んんん~! これもとっても美味しいデース!」
上機嫌で切歌は全て平らげてくれた。
その健啖っぷりに、若いっていいなあなんて藤尭は思う。
「御馳走様デース!」
切歌は食器を流しに運んだものの、その足でリビングのソファーに横になる。
「切歌ちゃん、食べてすぐ横になると牛になるよ?」
行儀が悪いという意味も込めて、そう窘めてみたが、当人はたちまち寝息を立てている。
お昼寝かあ。優雅なこったね。
藤尭は溜息一つ。
まあ、寝ている間は構わなくてもいいから楽か。
さあて、俺も自分のことをしよう。
食器を洗って片付けて、改めてコーヒーを淹れなおす。
熱々のブラックコーヒーを啜りながら、図書館から借りてきた読みかけの本を開いた。
数ページほど読み進め、コーヒーを口に含もうと何気なく視線を巡らし、藤尭は思いきり吹きだす。
「う、う~ん…」
寝ながら唸る切歌のスカートの裾はめくり上がり、下着が見えそうになっている。
藤尭は慌てて本を確認。良かった、染みはついていない。
フローリングに吹き散らかしたコーヒーを拭きながら思う。なんて寝相が悪いんだこの子は。
これは、起こして注意した方がいいだろうか? しかし、迂闊に起こそうと、もしくはスカートを直そうとして触った途端、目を覚まされて痴漢扱いされるのはよくあるパターンである。そもそも切歌自身はとても気持ち良さそうに寝ているし、彼女が寝ていれば変に振り回されずに済む。
うむむ…とそうやって唸っている間に、また切歌の太腿が動く。白く染み一つない太腿自体も眩しいが、付け根でちらちらと見える縞柄が妙に艶めかしくて困る。
これはあれか? 雑誌のグラビアより、クラスメートのパンチラの方が興奮するというヤツか?
かつての思春期の記憶を思い起こしたとて、現在の藤尭は大人である。
もっと紳士的な解決策を―――と煩悶するまでもなく、寝室にあった新品のタオルケットを持ってきてかけてやった。
こうしておけばいいだろう。風邪も引かないだろうし一石二鳥。
さあて平常心平常心。本の続きを読むぞ。
そうして活字世界へと没入した藤尭だったが、ばさりという物音に現実へ引き戻される。
顔を上げれば、切歌にかけてあったタオルケットが床に落ちていた。
そして、更に捲り上がったスカートは、さすがに目の毒である。
慌てて藤尭は駆け寄り、タオルケットをかけ直してやった。
本当に寝相が悪いな、この子は…。
そして読書を再開。間もなくばさり。
また再開。ばさり。
再開。ばさり。
…さすがにわざとやってるんじゃないのこの子?
おまけに今の状況はほぼパンツ丸出しである。
丁寧にタオルケットをかけ直し、藤尭は考える。
いかん、このまま部屋にいれば、やっかいなことになりそうだ。
しかし、どうする?
結論として、藤尭の姿は浴室にあった。
要は一緒の部屋にいなければ、変に意識せずに済む。
どうせ風呂場の掃除もしなければならなかったのだから、ちょうど良い。
せっせとタイルを磨き、浴槽も洗う。
うん、綺麗になった。あとはシャワーで流して。その前にカランで手を洗おう…。
ところが、やはり色々と調子が崩れていたらしい。シャワーとカランの切り替えを間違えていた藤尭は、そのまま頭上からもろにシャワーを浴びてしまう。
…くそ、ついでだ。
濡れた衣類を脱ぎ捨て、念入りにシャワーを浴びることにする。
さっぱりして脱衣所で身体を拭き、はたと気づく。
迂闊にも着換えを準備していなかった。
このままバスタオル一枚を腰に巻いて取りにいき、切歌とうっかり鉢合わせ。おまけにはらりとタオルははだけて…というのもよくあるパターンである。
しかし、用意周到の男藤尭は、脱衣所にバスローブを準備してあった。
着込んでしっかりと帯を締め、リビングへ行けば、今度はきちんとタオルケットをかぶったまま切歌は寝息を立てている。
頭をタオルで拭いながら、着換えは朝に干した洗濯ものも乾いているだろうとベランダへ足を向けたとき、リビングのドアが開け放たれた。
そこにはマリアが立っていた。
大きく瞳が見開かれ、バスローブ姿の藤尭と、ソファーで眠る切歌を見比べる。
「…事後ッ!?」
「ち、違う! オレの話を聞いてくれッ!!」
「まったく、戻ってきて早々うっかり股間を蹴り潰してしまうところだったわよ」
食卓についたマリアが言う。
既に着換えた藤尭は、彼女の言葉を背中に聞いて肝を冷やしている。
バスローブ姿で股間を蹴られて死んだとあっては末代までの恥だ。
あ、股間を潰されたら子孫は作れないか、ははは。…洒落になんねえ。
そんな過激で無礼な彼女たちを持て成さなければならないことでも、心中は複雑である。
今、藤尭は、昼食前に作った抹茶チーズケーキを慎重な手つきで切り分けている。
目を覚ました切歌に、「藤尭さんと一緒におやつを作ったんデスよ!」といわれてしまえば提供しないわけにはいかない。
「はい、どうぞ、
精々嫌味を込めて、紅茶と一緒に出してやる。
「うわあ…」
切歌の反応は、いちいち新鮮である。
抹茶チーズケーキは、見た目的にもなかなか良い出来栄え。
上品にフォークでケーキの先端を切り分け、マリアは口へと運んだ。
続いて紅茶を一口。
パチンとマリアは指を鳴らす。
「シェフを呼んで!」
駆け寄っては面食らう藤尭だったが、すぐに合わせる。
「はいはい、いかがいたしましたか?」
「とっても美味しかったわ」
「恐悦至極でございます」
「これ、とっておいて」
すると、調が自分の自重ほどもありそうな大きな買い物袋を渡してきた。
中身をみて藤尭は愕然とする。
独身男にはとても買えないような高級素材がいっぱいに詰まっていた。
なぜか入っているボトル入りの醤油も、一本数千円は下らない逸品だ。
「これをオレに…?」
少なからず感激する藤尭。
マリアはにっこりとして言った。
「これを使って豪勢な料理を作って頂戴」
「…は?」
「作るの? それとも作れないの?」
「そ、そりゃ作れないわけじゃないけれど…」
勢いに押されているが、冷静になってみればここまで一方的に好き勝手に使われる理由はない。
しかし。
「作らないなら、悪いけど調にキッチンを貸してあげて」
「…いや」
藤尭は毅然と顔を上げる。
「ここはオレの家のキッチンだ。料理の領分はオレのものだ」
高級素材に対する興味が、この理不尽な状況を上回った。
マリアは艶然と笑う。
「それじゃあ、お任せしてもいいですか、シェフ?」
「承りました」
「あ、ついでにケーキもお願いね」
「何時間か、かかりますが」
「構わないわ。その間、ゆっくりと待たせてもらうから」
「…どうだ?」
ぜーぜーと肩で息をしながら藤尭。
「…凄いご馳走デース!」
テーブルに乗りきらないほどの料理の数々を前に、切歌は歓声を上げている。
「私の見込んだ通りだわ」
満足げに頷くマリア。
「イチゴのケーキまであるの…!」
調も目を輝かせている。
およそ三時間で、藤尭は全てのリクエストを完成させている。
普段のマルチタスク能力をフルに活用したわけだが、料理ってこんなに疲れるものなんだな…。
「それじゃあ、温かいうちに頂きましょうか」
マリアと調が食卓に着く。
ぼーっとしていると藤尭も切歌に袖を引っ張られた。
「はい、藤尭さんも座ってくださいデス」
「え? オレもいいの…?」
「当然でしょう。貴方が作ってくれたんだから」
マリアが当たり前のように言う。
いそいそと椅子に座れば不思議な感慨に襲われた。
こんな風に大勢で食卓を囲むのはいつ以来だろう?
つまりは家族の団欒か。
醤油味をベースに作った料理が多いのも、藤尭に少年時代の郷愁を思い起こさせた。
あの頃は、夕餉の匂いに胸をわくわくさせながら家まで走ったっけ。
その記憶が猛烈に腹を空かせてくる。
さあて食べるぞ。
箸を持って料理へ伸ばそうとする寸前、マリアたちが瞑目して手を握り合わせている。
「さあ、祈りましょう」
藤尭は慌てて箸を放り出す。見よう見まねで手を合わせ、同時に今まで思っていた疑問を尋ねずにはいられなかった。
「…あの、そもそも今日は何の日なの?」
贅を尽くした大御馳走に、おまけにケーキまで作らせられている。
だからといって、藤尭の知るかぎり、今日はこの三人の誰の誕生日というわけでもない。
「あれ? 藤尭さんは知らないんデスか?」
切歌が不思議そうに言う。
藤尭は不安になる。
世界各地の様々なデータに精通しているつもりだが、まるで思い当たらない。
不完全なデータがあるだけで前提が変わってくる。分析癖のある身としては、それだけで落ち着かなくなるのだ。
この三人による、何かローカルな祝日でも存在するのだろうか? それとも何か宗教的な?
一人煩悶していると、さも当然のようにマリアが言った。
「何いってるの? 今日はマムの月命日じゃない」
「本当に何なの君たちは!?」