官舎に戻り、重い足取りでエレベーターに乗り込む。
鏡面仕様の内ドアに、疲弊した自分の姿が映っていた。
…我ながら、ひどい顔つきになっているな。
近日行われる作戦の立案に当たり、徹底的なデータの検証が求められている。
そのため、ここ数日は超過勤務の連続なのだが、藤尭は律儀に自宅へと戻っていた。
S.O.N.G.本部へ泊まり込む同僚たちを横目に、自宅で炊事洗濯をこなす。
作戦行動中は嫌でも本部から退去出来ないのだ。出来うるかぎり自宅でプライベートに浸りたい。
職務意識が低いわけではないが、仕事とプライベートのオンオフを切り替えることが、仕事を長く続けるコツだと思っている。
カードキーを通し、寒々とした玄関へと入る。
ふと空気に違和感を覚えた。
別に人の気配があるわけでない。しかし、人の気配は残っているというか…。
キッチンへ足を進め、違和感が氷解した。
ガス台の上に、見覚えのない鍋。
鍋の上には一枚のメモが貼ってあった。
『お裾分けデース♪』
藤尭は苦笑する。
名前も書いてないのに、一瞬で誰からのものか分かるメモも珍しい。
鍋の中身は肉じゃがだった。
温め直しているうちに、冷凍していた一膳分のご飯を解凍し、インスタントみそ汁を作る。
ほっこりと湯気を立てる肉じゃがを小鉢へと盛り付ければ、ジャガイモは煮崩れることなく、銀杏切りされた人参の厚さも均一だ。しかし、牛ではなく豚のバラ肉であることに、元F.I.S組の家の経済事情を垣間見る。
それでもありがたく頂こう。
箸でジャガイモと豚肉を一口頬張り、藤尭は思わず呟いた。
「…しょっぱい」
「それで、どんな感じ?」
翌日の発令所にて。
コーヒーを差し出しながら友里が尋ねてくる。
「どんな感じって、なにが?」
「切歌ちゃんのことよ、もちろん」
「ああ。まあ、上手くやっていると思うよ?」
率直に藤尭は答えた。
質問が漠然としすぎているし、なんだか知らないけどあれだけ懐かれてしまっているのだ。こんな評価が妥当だろう。
「ふ~ん…?」
友里は意味ありげに笑って、
「さすがに通い妻みたいな真似をされたら、情も沸いてきたって感じ?」
藤尭は眉根をよせた。
「なんだよ、通い妻って?」
「切歌ちゃん、わざわざ私にメールで尋ねてきたわよ? 肉じゃがとカレー、どっちがを作ったらいいかって」
その台詞には、少しだけ虚を突かれる。
事実だけを並べれば、独身男の家に女性が料理を作って訪問。客観的に見ればそんな解釈は成り立つかも知れない。
だが、ニヤニヤしている友里に、藤尭はぴしゃりと言った。
「あんなの子供のママゴトみたいなもんだよ」
不本意だが、暁切歌にとって自分は初めてのデート相手だ。
ゆえに何かしらの特別感を抱かれただけ。
切歌に身近な異性として意識されるのは光栄だが、その意識を藤尭が共有できるかは全くの別問題。
あの年頃の年上に憧れる感覚には藤尭も覚えがある。実習生に憧れた中学時代。
そして、その憧れが昇華されることは殆どないことも経験則で知っていた。
甘酸っぱいときめきも、今や青春の苦い一ページとして記されるのみ。
「要は
藤尭は手をヒラヒラさせる。
そういえば、体育祭でクラスメートたちに彼氏だなんだと誤解されっぱなしのまま。
さすがにあの場で弁明するのは無理だと思ったので逃走した。
結果として、切歌に何か含みを持たせてしまったとすれば、それは大いに反省しなければならないだろう。
なぜか友里は大きく溜息をついて、
「そんな風に子供だとか侮っていると、足もとをすくわれるわよ?」
「へ? どういう意味?」
「切歌ちゃんも、もうすぐ手も足もすっかり伸びきるわ。夢と現実に折り合いを付けられる大人になるでしょう。それでも気持ちが持ち続けられたら…」
以前に、切歌は夢に夢を見る年頃と評し、彼女と自分とのデートをけしかけたのは他ならぬ友里だ。
夢のまま満足させてやればいい、とも言っていたはずなのに、なんだろう、この変節振りは?
「…それはもしかして経験則ってヤツですか、友里さん?」
首を捻りつつ混ぜっ返すと、友里にイーッという顔で睨まれてしまった。
藤尭はコーヒーを飲み干し、いそいそと仕事へと戻る。
他愛もない会話で貴重な休憩時間を潰しちまったな、なんて思いながら。
帰宅への道すがら、藤尭は友里との会話を反芻する。
ここ最近の切歌との関わりは、傍から見ればいわゆる彼氏彼女の関係に見える…のか?
うわ、背中が痒い。
もっとも藤尭自身は業務の一端であると割り切っている。
切歌の行動も、結局のところは友里にもいったとおり、
ましてや切歌はその手の経験が絶無。
免疫に乏しい人間が罹患したらそりゃあ高熱も出るだろう。
まあ、熱が冷めたら、こんな冴えない年上の男より、もっと身近で歳の近い男の子に気づくはずさ。
他に今回の状況を例えるなら、腹を空かせた人間の前にぽんとステーキを出したみたいなものだ。
最初は夢中でむしゃぶりつくだろうけど、一種類のものばかり食べていればさすがに飽きる。飽きたら他の料理に興味を示しだすのは自明。
自分を肉に例えるのはいささか情けないけれど、切歌を犬に例えれば、なかなかしっくり来る組み合わせに思えて苦笑する。
一方で、しゃぶられ続けられるのにはいささか辟易していた。
特に留意すべきはプライベートへの介入も甚だしいこと。自由に自宅へ出入りされている件は、外聞もともかく、本来なら激怒してもいいはずである。
これは、次に会ったときにでも釘を刺しておくべきだな…。
そんなことを考えて歩きつつ、藤尭の内心は非常にアンニュイだった。
スーパーが閉まっていて、目当ての特売キャベツを買いそびれたからではない。
原因は、いまだ湿り気を帯びている道路にある。
夜になって雨は上がったものの、夕方から首都圏はゲリラ豪雨に見舞われていた。
その範囲内に官舎はあり、そして藤尭は早朝から布団をベランダへ干して出勤していた。
まさか雨が降ったから早退させてください、とも言えず、やきもきしながらようやくの帰宅時間。
残業を済ませて遅くなった挙句、これから濡れた布団の後始末も考えると少し泣きそうだ。
「ただいま~、っと…」
誰もいないだろう自宅へ帰宅の挨拶。
オレも大概疲れているな、なんて思いつつ、玄関先のローファーに気づく。
「…切歌ちゃん?」
廊下の電灯をつける。リビングもキッチンも真っ暗のままだ。
「おーい、切歌ちゃん…」
リビングの電灯をつけると、床に布団がもちゃもちゃと山になっていた。
濡れていない。どうやら切歌が取りこんでくれたよう。
しかし、肝腎の切歌の姿が見当たらない。
…実は切歌ちゃんじゃなくて調ちゃんで、じーっと暗がりから見られてたら嫌だな。
背筋をぞくりとさせ、藤尭が室内を見回した時だった。
モゾモゾと布団の山が動く。
山が崩れると、間から金髪の頭が現れた。
「ふわ~良く寝た……。あ、藤尭さん、お帰りなさいデス♪」
「………」
「お布団を取りこんだんデスけどね、お日様でぽかぽかと暖められてて気持ち良かったから、つい」
藤尭がじーっと見下ろしていると、切歌はてへぺろとばかりに頭を掻いている。
まあそんなこったろうなと分析はしていたが、こんな状況に慣れてきてしまっている自分に少しだけ憮然としてしまう。
正直、布団を取りこんでくれたことには感謝している。
おかげで、釘をささなきゃと思っていたテンションもダダ下がりで叱りづらい。
「…女の子が、無防備に男の部屋で寝こけちゃダメだよ」
それでも藤尭は、敢えて苦言を呈す。
「…藤尭さん?」
さすがの切歌もいつもと違う空気に気づいたらしく戸惑った声を出している。
「それに、こんな遅くまでいたら、調ちゃんも心配するじゃないか。明日も学校があるんだろう?」
「そう…デスね」
「それじゃあ、オレはシャワーを浴びるから」
言い置いて、藤尭は本当にシャワーを浴びに行く。
ちょっと態度が冷たかったかな。
でも、あれくらい言わないと気づかないだろうし、現実問題としても大人の厳しさは示さなければ。
それに藤尭自身も疲れていた。
ここ連日の疲労感が、自分の余裕も削っている自覚はある。
さすがにあれだけ言われれば、切歌も家に帰っただろう。
シャワーを終え、ハーフパンツに首にタオルを引っかけ、藤尭はキッチンの冷蔵庫へ。
スポーツ飲料のボトルを取り出しラッパ飲みをしていると、甲高い声が弾ける。
「ふ、藤尭さんッ!?」
帰ったと思った切歌が顔を赤くしてこちらを見ていた。
言うまでもなく、今の藤尭は上半身裸だ。
しかし、ここで藤尭側が恥らうのはおかしな話。
「なんだ、まだ帰ってなかったの?」
タオルで頭を拭きながら藤尭は切歌に歩み寄った。
視線を逸らしまくりの挙動不審で切歌は後ずさり。
背中が壁に突き当たる。もう下がれない。
あからさまに怯える風の切歌に、良い機会だ、と藤尭は自身の挙動を決めた。
壁にドン! と手をついて、顔を近づけて問いかける。
「どういうつもり?」
「えと、その、ご、ご飯を一緒に食べようかなって思ったんデスけど…」
必死に視線を逸らしながら早口で答える切歌。
「気持ちはありがたいけど…。さっきも言った通り、少しばかり無防備が過ぎやしないかい?」
見下ろせば、ますます身体を縮こませ、目線を逸らす切歌がいる。その頬は赤い。
「こんな夜遅く、女の子が男の家で二人きりでいる意味、分かっているの?」
気取りに気取った気障な物言いだが、藤尭渾身のブラフである。
だいたい、藤尭にとって切歌は子供だ。子供を性的な目線で見ることなんて出来ない。
加えて、切歌自身も性的な知識は皆無だろう。
「…分かってますデス! アタシは大人なんデスからッ!」
真っ赤な顔で虚勢を張る切歌は、全くの想定内。
「本当に…?」
すっと濡れた指で前髪を掻き上げてやると、目に見えて硬直する姿が面白い。
そのままじっと見つめていると、唇がぴくぴくと動き、どんどん顔も赤くなっていく一方だ。
…あんまり苛めちゃ可哀想だな。
そろそろネタばらし的に突き放して終わらせよう。
『怖がらせちゃってごめん。でも、大人相手だとこういうことになるかも知れないんだ。これに懲りたら、少しは自分を大事にしないと…』
こんな感じの台詞でいいかな?
しかし、その行動に移るより一瞬早く、切歌の口から震えるような声が解き放たれていた。
「…命短し恋せよ乙女、ってマリアが唄っていたデス…!」
面食らう藤尭に、切歌は固く強く目をつむっている。
それから心持ち顔を上げていた。まるで藤尭にその身を捧げようとするかのように。
切歌が何を求めているか、気づけないほど鈍感じゃあない。
それより、直前の彼女が放った台詞の方が、藤尭の内心を盛大にぶん殴っていた。
命短し。
いうまでもなく切歌はシンフォギア装者の一人だ。
戦いに挑み、死にかけたことなど一切ではない。
そしてその戦いの終わりの先は見えず、言い換えれば明日死んでもおかしくないのだ。
なによりそんな彼女たちを投入する作戦の前準備で、このところ日々残業を重ねていたんじゃないか、オレは…!
果たして、切歌がそこまでの意味を込めて台詞を放ったのかは不明だ。しかし、真剣なのは間違いない。
加えて台詞の裏に込められたものにまで気づいてしまった以上、藤尭もふざけて突き放すわけにはいかなくなってしまう。
…切歌は子供だ。
だけど、いつ散るかも分からぬ運命を背負っている。
それでも戦い続ける、そんな彼女の覚悟に報いたい。
でも…!
目論見は脆くも破綻し、一転して追い詰められているのは藤尭のほう。
結局、震える少女に顔を近づけ―――そっとその額に口づけた。
身を離してしばらくすると、切歌はようやく目を開けて、
「藤尭さん、今の…」
「………今の切歌ちゃんには相応しいキスだよ」
藤尭は曖昧に微笑むしかなかった。
切歌はハッと驚いた顔になり、自分の額を両手で隠すような仕草をする。
続いて頬を染めたまま、脱兎のごとく藤尭の間合いを脱出。
パタパタと向かった先は玄関の方で、きっと今度こそ帰るのだろう。
そう思っていた矢先、足音が引き返してきて、ひょっこり壁の向こうから切歌は顔だけを出す。
「…こ、今度は、大人のキスを教えてくださいデスッ!」
恥らうように言ってのけて顔を引込める。
玄関の開く音。遠ざかる足音。
ようやくずるずると藤尭はその場へとへたり込む。
…オレは何やってんだ?
叱ることも出来ず、突き放すことも出来ず。あげくガキみたいにキス。しかも額にって、どんな昔のラブコメよ?
元からの疲労も合いまり、自己嫌悪の沼で溺れそう。
叫ぶのが性に合わない藤尭は、無言で壁を殴りつけた。
それでも仕事に差し支えるからと、怪我しないように手加減している自分に腹が立つ。
全くオレってやつは。
やることなすこと、何もかも中途半端だ。
その後、切歌の訪問はなくなっていた。
今度は大人のキス云々とか言われて戦々恐々としていた藤尭にとって拍子抜けである。
どの薬が効いたのかよく分からないが、プライベートの再構築が出来たのは本懐だった。
もっとも次期作戦を控えての残業続きで、ろくろく休みも取れなかったけれど。
切歌も作戦に向けた訓練漬けらしく、久々に顔を合わせたのは作戦決行前の最終ブリーフィング。
こちらに気づくと、他の人間に見られないよう小さく手を振ってくれたが、それだけ。
「よしッ! それでは作戦行動を開始するッ!」
作戦内容は、一言でいえばパヴァリア光明結社の残党の殲滅。
はぐれ錬金術師たちのアジトを急襲し、可能な限りの捕縛とアルカ・ノイズを撃滅する。
この作戦に投入されたのは、マリア、切歌、調の元F.I.S三人組。
事前にデータを分析し、十分すぎる戦力で、極力危険度を排したミッションだった。
そのはずなのに―――。
オペレーターは、いかなる時も冷徹に事実を報告しなければならない。
そこに己の感情を介在させてはいけない。
ゆえにその時の藤尭は、ただ愚直に、茫然と、まるで他人の声を聴くようにその報告を繰り返していた。
「イガリマの反応、ロストしました―――」