休日の昼下がり。
自宅で藤尭は優雅にコーヒーを嗜む。
窓からは陽光が柔らかく差し込み、焼きあがりを控えたケーキの匂いも相まって、実に眠気を催してくる。
これでBGMがドヴォルザークだったら確実に眠れるね。
そんな風に香ばしい液体を口に運ぶ藤尭だったが、現実は少女の金切声が鳴り響いている。
「あーもうッ! いくら考えてもわかんないデスッ!」
わしゃわしゃと金髪をかき乱しているのは暁切歌。
昼食を一緒に済ませたあと。
参考書と教科書を並べてテスト勉強に勤しんでいる彼女だが、進行具合が芳しくないのは火を見るよりも明らかだ。
「ほら、切歌ちゃん。諦めないで、がんばれ、がんばれ」
切歌は机に突っ伏し、その隙間からキッと睨んでくる。
「だったら教えてくださいデス!」
「ヒントはあげたでしょ? 自分で考えなきゃ切歌ちゃんの力にならないじゃない」
「そりゃそうデスけど…」
そういって唇を尖らせる切歌。
…その可憐な唇を存分に貪ってから、早半月以上が経過している。
さすがに一週間ほどは切歌も気恥ずかしいのか家に寄りつきもしなかった。
それが二週間も経つと、喉元すぎればなんとやらで、また以前のようにこうやって足を運んできてくれている。
「テストで赤点とっちゃ進級出来なくなるんだよ? 留年して卒業も出来ないようじゃ、大人にはまだまだ遠いなあ」
言いながら藤尭は席を立つ。
切歌は不満そうな顔のまま、
「アタシだって、なんかご褒美があれば頑張れるんデスよ?」
「はい、オレンジシフォンケーキ」
「…藤尭さんはアタシにお菓子さえ出しとけば満足していると思ってないデスか?」
「うん」
「まさかの即答デスとッ!?」
たっぷり生クリームを載せたウインナーコーヒーも出してやると、切歌はぐびりと喉を鳴らす。
「ほら、冷めないうちにお食べよ」
「つーん」
ヘソを曲げたのか、そっぽを向く切歌。
藤尭は苦笑して、
「本当にお菓子で釣ろうなんて思ってないってば。甘いものは脳を動かす栄養になるんだよ?」
「…そ、それなら食べなきゃ駄目デスよね!」
態度を一変させ、さっそくシフォンケーキを頬張る切歌がいる。
きっと調あたりなら「切ちゃんは基本ちょろいの」などと評したことだろう。
もっとも今の藤尭にとっては、そんな子供っぽい態度すら愛おしくて仕方ない。
「御馳走さまデス」
手を合わせてくる切歌に、
「これで週明けのテストは頑張れるかな?」
「そんな未来のことは分からないデス!」
べーっと舌を出された。
「未来のこと、ねぇ…」
一方で藤尭が案じた未来のビジョンは異なる。
今はこの子の隣に自分がいる。しかし、将来はどうだろう?
そんなことに思いを馳せると、なんとも背中がむず痒い。
「とにかく、ご褒美デス! アタシは目標がないと頑張れない子なんデス!」
切歌が身体ごとこちらを向いて、地団駄を踏んだ。
その拍子にスカートの裾がまくれ上がり、慌てて手で押さえている。
恥らう姿に今までと違って仄かな色気を感じるのは気のせいだろうか?
いや、おそらく間違いではないだろう。
頬を染めて唇を軽く噛んでの上目使いは、明らかに何かを期待している。
…確かに、夜の公園で大人のキスをしたのはやりすぎだったと思うし、切歌の性的感覚を過剰に刺激してしまったことは否めない。
状況的にも、二課の面々の前で敢行してしまった点は大いに反省すべきだった。
実はあのあと、弦十郎にやんわりと釘を刺されている。
『うむ、その、分かっていると思うが、ほどほどにな…?』
きつく言われなかったのは、騙した側の負い目だろう。
いくらすぐにネタバレするつもりだったとはいえ、公務を使ってまでのドッキリはさすがにやりすぎと藤尭は思う。
しかし仮に激怒して追及したところで、行き着く先は人間関係の不協和だ。
納得してはいないが一旦は鉾を収めよう、と藤尭は大人の判断を下す。こちらもこちらで熱を冷ます必要があったし。
でも、まあ、せいぜい相手に後ろめたい思いをしてもらうさ。
実際に切歌にキスをかました時も、マリアと調、二人揃ってアワアワしているだけで、面向かって苦言を呈されることはなかった。
後にこうやって切歌が単独で訪問することも特に制限していないようだし。
それはともかく、弦十郎の懸念するところは藤尭も十二分に理解している。
シンフォギアは纏う装者の心象心理を具現化する。
男性との恋愛、ひいては肉体的接触が、装者の心象をどのように左右するのかは全くの未知数だ。
多少大袈裟に言えば、自分の切歌に対する行動が、装者の戦闘に、ひいては世界平和への影響を与えてしまう可能性があった。
もちろん藤尭とて男だ。キスだけで収まりがつかないほどの本能を持っている。
しかし切歌は装者であり、まだ学生という立場。
そして藤尭自身の社会的立場も鑑みれば、本能が理性を凌駕することはなかった。
普通に社会人が女子高生をどうこうするのは犯罪でもある。当面は一線を越えるわけにはいかないだろう。仕方ないことだ。
少女が大人になるまでの貴重な時期を身近で愛でられる立場にいる、と精々自分を慰めてはいたけれど。
「しかし、ご褒美ね…」
切歌の期待に応えたいが、あまり性的なものはよろしくない。
しばし中空に指を彷徨わせ、藤尭はタブレットを操作する。
目当てのサイトがまだ受付中であることを確認し、切歌へと言った。
「よし。じゃあ来週のテストが自己採点で平均点以上だったら、ご褒美にデートに連れていってあげよう」
「デートデスかッ!?」
切歌の目の色が変わる。
「わっかりましたデス! 約束したデスからねッ!?」
「ああ、もちろん」
鷹揚に頷く藤尭の前で、切歌は猛然と参考書へ向かいあったが、間もなく顔を上げて、
「ってゆーか! 自己採点で平均点なんか出るわけねーデスよッ!?」
「あ、やっと気づいた?」
「…藤尭さんって時々意地悪デスねッ!」
「それも今頃気づいたの?」
ぷんぷんと頬を膨らませる少女の後頭部に手を当て、引き寄せる。
それから顔を近づけると、切歌は慌てて目を閉じた。
その様子に内心で苦笑しながら、藤尭は切歌の唇の端についていた生クリームを指できゅっと拭った。
目を開き、きょとんとした顔になる切歌に笑いかける。
「じゃあ、自己採点で全教科70点以上取れたらに変更しよう」
「それって逆にハードルあがってないデスかッ?」
テスト終了後、切歌より自己採点で70点を超えたとの嬉しそうな報告があった。
約束を履行すべく、藤尭は例のサイトの予約を確定。
そしてデート当日。
車で迎えに乗りつけた藤尭の姿を見て、切歌は目を丸くしている。
「藤尭さん、その格好…」
今日の藤尭はグレーのスーツ姿。
対して切歌の格好は、紺色のブラウスに純白のフレアスカート。
初デートで買ってあげた装いだが、さすがにスーツと並ぶと幼い印象が否めない。
「あ、あの! 着換えてきていいデスか!?」
切歌もその不釣り合いさに気づいたらしい。慌てて自宅へ引き返そうとするが、藤尭はその手を掴んで構わず助手席へと連れ込む。
「そのままで大丈夫だから」
不安げな眼差しを向けてくる切歌を連れてまず向かったのは、駅前のとある高級ブティック。
「え? え?」
展開についていけない切歌を連れて入れば、店員がうやうやしく頭を下げてきた。
「藤尭さまですね。承っております」
「はい、よろしくお願いします」
頭に?マークを浮かべたままの切歌を店員に渡す。
店の隅のソファーに座って待つことしばし。
緑のミニドレスに身を包んだ切歌が現れた。
「うん、思った通り似合っているね」
本心から褒める。事前に調べ、準備した甲斐があるものだ。
「そ、そうデスか…?」
照れる切歌だったが、急に表情を改める。
「でも、こんなお洋服、高いんじゃ…」
藤尭はにっこりとして、
「ご褒美だよ。気にしないで」
切歌は感激した表情を浮かべた。その瞳はかすかに潤んでいる。
そんな目で見られただけで、高い買い物をした価値があると思う。
だけど、今日のメインイベントはここからだ。
夢見心地の切歌を乗せて次に藤尭が向かったのは、近場の有名ホテル。
車から降りるときドギマギしていた切歌も、向かった一階のそのコーナーで華やいだ表情になった。
ディスプレイされている幾つものウエディングドレス。
それを着ることが永遠の女性の憧れだそうな。
切歌も例にもれず瞳を輝かせて見入っている。
ついでそのコーナーの看板を読みとって、目に見えて狼狽した。
「ふ、藤尭さん、ここって…!」
「見ての通りブライダルコーナーだよ?」
おそれおののく切歌を横に、藤尭は近づいてきたプランナーらしき女性に挨拶。
「予約した藤尭ですが」
「はい。本日はようこそおいでくださいました」
「多分に将来的な話ですが、一応見学してみたいかなと」
予め考えていた通りの内容を依頼する。
「承りました」
慇懃に頭を下げ、プランナーは藤尭の影に隠れようとする切歌も見て笑顔で挨拶。
「ささ、こちらへ。さっそく案内させて頂きます」
まず見せられたのは施設設備。
チャペルから始まり、披露宴会場を見て回る。
何人まで収容可能であるとか、ゴンドラや音響といった演出のオプションの説明がなされた。
ついでに、新郎新婦の控室も覗かせてもらった。
興味本位なだけで気楽な藤尭の隣で、切歌は実にぎくしゃくとぎこちない。
「…ひょっとして緊張している?」
「当たり前デス! だって急にこんな…ッ!」
怒っているような喜んでいるような複雑な表情を見せる切歌と一緒に、テーブルコーナーで椅子を勧められた。
紅茶を振る舞われ、プランナーは笑顔で幾つもの冊子を示してくる。
「御参考までに、一般の挙式プランの見積もりと、その他オプションの値段となっております」
「ふむ」
噂には聞いていたが、なかなかどうして値が張るものだ。
横から覗きこんだ切歌に至っては、並ぶゼロを数えて目を丸くしている模様。
「ありがとうございます。参考にさせて頂きます」
「いえいえ。こちらこそお役に立てれば幸いです。…と、そろそろ準備が出来たようですね」
切歌の目がますます丸く大きくなる。
これ以上、一体なにを準備されているというのか?
その気持ちが手に取るように分かるだけに、藤尭は笑いをこらえるのに苦労してしまう。
案内されたのは、先ほどの披露宴会場の一角。
そこには、既に幾つものカップルがテーブルへと着いていた。
藤尭たちもテーブルへと着くと、早速料理が運ばれてくる。
スープと前菜から始まるフルコースだ。
「どう? 切歌ちゃん、美味しい?」
「お、美味しいことは美味しいデスけど…」
最近のホテルのブライダルフェアなどでは、試食会ということで、無料、もしくは格安でカップルに料理を提供するところが多い。
それを当て込んでの、いわゆるブライダルフェアデートと洒落込んだつもりだ。
「やー、ここのホテルのシェフは有名な人でね。一度料理を食べてみたいと思ってたんだ」
メインのフォアグラ料理にしても、滅多に食べられない食材である。
素直に堪能していると、切歌がおそるおそる尋ねてきた。
「ひょっとして、藤尭さんは単に料理を食べたかっただけなんデスか?」
問われ、藤尭はニンマリと笑い、
「…本当にそれだけだと思う?」
ナプキンで口元を拭ってからとそう答えると、切歌は目を白黒させて俯いてしまう。
そうやって頬を染めたまま、デザートが来ても顔を上げようとはしない。
「このスイーツも有名パテシェの逸品だよ。食べないの?」
「そんなの、喉を通るわけないじゃないデスか!」
小声で言い、上目使いで睨んでくるような切歌。
彼女の内心は完璧に把握済み。
もっともそう含みを持たせるよう仕込んでいるわけだから、ある意味マッチポンプだ。
そして、そんな彼女の反応を楽しんでいる自分がいるわけで。
「も、もしかして、ふ、藤尭さんは、将来的にアタシと、その、け、け、けっ、コケッコーッ!?」
顔を真っ赤にしながら意味不明な悶絶声を上げる切歌。
そりゃあいきなりブライダルフェアに連れてきたらそう思うよな、なんて藤尭は眺めている。
「まあ、考えてないわけではないかなー」
「…ッ!」
切歌は顔を上げる。
「でも」
藤尭はワイングラスからミネラルウォーターを口に含む。そして澄まして言った。
「そんな未来のことは分からない、でしょ?」
切歌は一瞬ぽかんとし、それから実に恨めしそうな声。
「…やっぱり藤尭さんは意地悪デスッ」
後日、正式発表されたテストの結果では、切歌は全ての教科で平均点ぴったりを取っていた。
バツの悪そうに答案用紙を渡してくる切歌に、受け取った藤尭は天を仰いでぼやく。
「自己採点とはなんぞや」