キス。またの名を口付け、接吻などと言ったりもする。愛情表現や友愛表現のひとつであり、唇を相手の額や頬、唇などに接触させる行為のことである。
これくらいの知識は私、および私たちみんな共有して知っていて当然のレベルである。
しかし、今私が知りたいのは、恐らくどのワルキューレも知り得ない情報だ。
「……キスとは、どんな感覚なのでしょうか……」
私は先日マスターと、所謂、……恋仲、というものになった。
と言っても、何かが特別変わった訳ではない。ただ、私がマスターの部屋を訪れる口実を一々考えなくてよくなったとか、前よりもほんの少しだけ一緒に居る時の距離感が近くなったとか、それくらいの変化だ。
それくらいの小さな、けれど確かな変化が私にもたらしたのは、ともすれば分不相応な願い。
マスターと、恋人らしいことをしてみたい。
マスターと一緒に居ると、不思議と心が暖かくなるのは、どうやらワルキューレの中でも私だけらしい。ヒルドやオルトリンデ に聞いても、そんな感覚にはならないと言っていた。そのことをマスターに言うと、彼は嬉しそうにしてくれた。曰く、『スルーズがスルーズだけにしかないものを持ち始めてくれて嬉しい』。
個人としての『私』を作ってくれたのはマスターだ。そのマスターが喜んでくれるのだから、『私』をもっと深めたい。
そう考えていたら自然と、マスターと恋人らしいことをしたいな、と思うようになっていた。
これまでに手に入れた知識として、キスがどういったものなのかは知っているが、それがどんな感覚なのかは知らない。暖かいのか、冷たいのか、硬いのか、柔らかいのか、どんな味がするのか。
こればかりは、実際にしてみる他ない。何とか勇気を出してみよう、私はそう小さな決意を固めて、マスターの部屋へと向かった。
▽
「スルーズ! 来てくれて嬉しいな。今日はどうしたの?」
私の突然の来訪を、マスターは笑顔で出迎えてくれた。
こちらこそ笑顔を向けてくれて嬉しいとか、私が来ることを嬉しいと言ってくれることがもう嬉しいとか、その笑顔を見れただけでもう充分満たされた、などの気持ちをぐっと堪える。今日は明確な目的が有るのだ。
「本で読んだのですが、恋人同士は愛情表現として、口付けを行うとありました。私とマスターも、……恋人同士、なのですから、行う必要があると判断しました」
「……普通、そういうのって流れとか雰囲気でやるものじゃ……?」
「そのような不確かな条件では、今後発生しない可能性があります。それよりは、こうして能動的に行った方が良いと判断したまでです」
マスターの反論を封印しつつ、マスターの隣へと腰を下ろす。
「お隣、失礼します」
「あ、うん」
既に若干、いやかなり早くなった鼓動に気付いて、これから先心臓が保ってくれるのか心配になった。
心臓が壊れてしまう前に、さっさと済ませよう。
「こういった行為は、殿方からするのが一般的と書いてありました。ですから、お好きなタイミングでどうぞ」
私はそう言うと、目を閉じてほんの少しだけ顔を上げた。所謂『キス待ち顔』である。口付けをしてもらう時はこうやって待つのだと書いてあったのだ。
「じゃあ、えっと、失礼して……」
なんとなくマスターが覚悟を決めた気配がしたかと思うと、私の両肩にマスターの手が置かれた。
「〜〜〜???!!!」
「……あの、凄く顔赤いけど……大丈夫?」
「いえ、問題ありません。続行してください」
「そ、そう? じ、じゃあ……」
ゆっくりと、マスターの顔が近づいてくるのがわかる。
マスターの唇と私の唇が触れるまで、あと10センチ。
心臓は、これまでに経験した事がない程に脈打っている。どんな戦場だって、これ以上緊張したことなどない。マスターに聞こえているのではないかと心配になる程だ。
あと5センチ。
肩に置かれた手から伝わってくる温もりは凄く心地良いのに、触られている感覚が無くなってきているのは緊張からか。
あと1センチ。
もう、すぐそこにマスターの顔がある。お互いの吐息が感じられる程の距離。心臓がとても保ちそうにないなら早く終わって欲しいという気持ちと、叶うならこの瞬間が永遠に続けば良いのにという気持ちがせめぎ合う。
そして、2人の距離が0になった。
「……ぷはっ。……思ったより恥ずかしいんだね、キスって。……へへ」
「……スルーズ? どうしたの、急に立ち上がって……」
「……出て行っちゃった。……下手だったからかなぁ……」
「……柔らかかったな……」
▽
パタン、と背後でマスターの部屋の扉が閉まる。
そして私は、
「あああああああああ!!!!!!!!!」
溢れ出る衝動を収めるために、絶叫しながらカルデア内を2周ほど全力疾走した。
あんなに覚悟を決めていたのに、軽々とその上を行く量の感情が発生してしまったのだから、オーバーフローするのは仕方ない。宝具を打ったりしていないだけ許して欲しい。
「あああああああああ!!!!!!!!!」
走り回ったのちに自分の部屋のベッドに飛び込んだはいいものの、全く衝動は収まっていなかった。
枕に顔を埋めて、衝動を紛らわすためにジタバタとする。
「……く、唇に、ちょんっ、って……」
不意に、先程の口付けの感覚が蘇る。
ほんの一瞬だけ、触れ合うような口付けだったけれど、私にバグを引き起こさせるには十分過ぎた。
これは確かに、恋人同士の最上の愛情表現だ。
「〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
こんな気持ちになるなんて、私はもう完全にワルキューレ失格だろう。
けれども。
こんな私を、貴方が好きだと言ってくれることは、とても嬉しくて。
とても、愛おしいのだ。
「……柔らかかった……」