キリの良い所で切ったので少し短め。
すぐ隣で、青年が吠える。
「ふざけるな――――――ふざけるな!!!!!」
まるで血を分けた兄弟を失った野生の狼のようだと、桐ヶ谷和人――――キリトは思った。
「なあ、タイガ達はベータテスト経験者じゃないんだよな?」
「ああ、一応ベータテストの抽選には応募したが落選したんだ」
「……もしかしてタイガ達って格闘技か武術の経験者だったりしないか?クラインはまったくの素人だって一目で分かるけど「ほっとけ!」、3人の動きを見てると間合いの取り方とか見切りとか、それなりの経験を積んでないと出来ない戦い方だったからさ」
「……よく分かったな。俺達が通ってる学校は体育、特に武術や格闘技に力を入れていてな。授業の一環でよく学生同士で組み手をしたり、型の練習をしたり……特にユキナは実家が道場を開いていて、本人も上京してくるまで家族の人に鍛えてもらっていたそうだ」
「そりゃ凄いな。俺も昔は剣道をやってたけど――――」
嘘に真実を混ぜ込んではぐらかしつつ、謙吾達は入れ代わり立ち代わりに<フレンジーボア>相手に戦闘経験を重ねていく。
あっという間に時間は過ぎ、透き通るような青空は今や茜色の夕焼け空へと移り変わっていた。
実際、午後1時のログインから既に数時間が経過してしまっている。ゲーム世界の中だけでなく、現実世界の空も現在のアインクラッド同様に日が暮れている時間帯だ。
寮暮らしの謙吾達はそろそろ夕食の時間、1人暮らしらしいクラインも宅配ピザを予約済みだそうで、別れの挨拶を交わしてから一斉にウィンドウを表示させ、ログアウトを試みる――――が。
「ありゃ?何だこりゃ、ログアウトボタンが見当たらねぇぞ」
「本当だ、メニューの何処にもログアウトボタンが見当たらない……」
1人残ろうとしていたキリトもメニューを表示させ、そして己のウィンドウにもベータテスト期間中に幾度となく操作してきた、現実への唯一の帰還手段であるボタンが綺麗さっぱり消え去っている事に遅ればせながら気づいた。
その場の全員、顔を見合わせる――――何が起きている?
単にリリースし立てのゲームにありがちなバグによるものなのか、もしくはまた別の原因によって起きた現象なのか。
謙吾、ユキナ、七湖の3人は直感的に後者だと判断。第6感と例えるべき、毎日の訓練と数々の実戦に磨き上げられた経験則と生物としての危険を嗅ぎ取る本能が一体化した別種の嗅覚が、程度の差はあれ俄かにアインクラッド内に漂い始めたきな臭さを敏感に嗅ぎつけていた。
「謙吾……」
「ユキナ、七湖、出来るだけ固まっておこう。何が起きてもすぐに反応できるよう、気を引き締めておくんだ」
「了解」
そう言いながら謙吾もさりげなく2人との距離を縮めつつ警戒態勢を取る。彼の手はさりげなくナイフの柄に添えられ、何時でも抜ける状態に。ユキナと七湖も同様の体勢となり、3人は背中合わせになって互いに仲間の死角をカバーし合う位置取りで全方位からの奇襲に備える。
1秒1秒時間が経つ毎に内心の緊迫感がジリジリと臨界点へ向けて増しつつあるのが自覚できる。キリトとクラインは外部から誰かが切断してくれない限りログアウト不能な状況を前にして、暗い表情を浮かべていた。
直後、時刻が午後5時半を指した瞬間。
鐘の音色が、仮想空間全体に鳴り響いた。
まるで荒野の実験場で核爆弾の爆発実験を行う時の警報音のように――――あるいは黙示録のラッパの代役のような、何処かおぞましさと恐怖心を煽る禍々しい音程のサウンドが轟いた、その数秒後。
青い閃光がその場に居た全員を包む。突然の発光の正体を見抜く事が出来たのは、ベータテスト経験者であるキリトのみだった。
「この光は、転移(テレポート)か!」
光が沸き立ったのが同時なら、人数分の閃光が唐突に消え去るのも同時。
謙吾達5名のプレイヤーが、夕焼けに包まれた草原から強制的にスタート地点である<はじまりの街>の中央広場に瞬間移動させられたと理解するのは、それからすぐの事。
数時間ぶりに謙吾達が舞い降りた中央広場の雰囲気は、正式サービス開始直後の爽やかな天候とは間逆のおどろおどろしい空気へと一変していた。
頭上に広がる空が、見る見るうちに血のように赤いドーム状の幕に覆われていったからだ。
中央広場には謙吾やキリト達のみならず、軽く4桁を超える数の人々の姿があった。おそらくは現在SAOにログインしている全てのプレイヤーがこの場に強制転移されてきたのであろう。
続いて出現したのは、空を塞いだドームよりも更に色濃く染め抜かれた深紅のフードを纏った巨大な幻影。顔の部分に当たる空間にはまるで頭部そのものが存在していない様子で、不安や恐怖心を誘う空虚な間隙だけが広がっている。
ぞくり、と謙吾の背中を、名うての特殊能力者や凄腕の傭兵といった強敵が目の前に立ち塞がった時に度々感じる寒気が貫いた。
兵士の勘が、野性の本能が、命の危険を教えてくれている――――とてつもなく悪い事が今起きようとしている。
1万対近い視線を一身に集め続けていた巨大なローブ姿の人影が不意に両腕を広げ、口(?)を開く。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
仮想世界中に声を響き渡らせながら、滔々と語り始める。
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』
茅場晶彦――――SAOとナーヴギアの生みの親である天才物理学者を名乗る深紅ローブの存在が語った内容は、あまりに壮大で、馬鹿げていて……それでいて狂気の沙汰としか例えようの無い解説であった。
――――ログアウトボタンが消滅し、ログアウト不能となった今の状態こそがSAO本来の仕様である事。
――――ナーヴギアが外部から強制的に取り外されようとした時点で高出力のマイクロウェーブが着用者の脳を焼く事。既に実際に試みようとしたプレイヤーが200人以上死亡し、それを証明するかのようにローブの周囲にリアルタイムのニュース映像らしきウィンドウが表示された。
――――そしてゲーム内でプレイヤーのHPが0になった場合も同様に、ナーヴギアが現実世界のプレイヤーに死刑執行を下すという事。
――――この世界から解放される手段はただ1つ……アインクラッド全100階層、全てを開放し最終ボスを倒す事のみ。
ここまで説明を終えても、プレイヤー達の大半が未だ半信半疑の状態にある事は一目瞭然だった。一部の人間は酷く動揺した様子を見せている(どうやらニュース映像に出てきた被害者に知っている顔があったらしい)ものの、ショッキング過ぎる内容とそもそも今居る空間が仮想空間である現状が相俟って、殆ど現実味を持って受け止める事が出来ずにいるのだ。
ただ。
周囲の大多数同様、呆然と立ち竦んでいるキリトの隣に立つ謙吾だけは、俯いた状態で両手を握り締めていた。
現実の生身であれば爪が肉に食い込み、掌の皮を突き破っていたであろう程に強く、強く。
茅場晶彦を名乗る存在が告げた内容が全て事実であると、本能的に理解できてしまったが為に。
謙吾ほど強く確信できている訳ではないが、ユキナと七湖も同様である。
ここまでのこけおどし染みた演出だけではまだプレイヤー達が完全に理解してくれないと読んでいたのだろう、茅場は更に続けた。
「私からのプレゼントがある。確認してくれたまえ」
言われるや、謙吾やキリト達を含めた全てのプレイヤーが右手を操作。メニューウィンドウを展開。アイテム欄を確認する。
見知らぬアイテムがいつの間にか追加されていた。アイテム名はシンプルに<手鏡>とだけある。反射的にオブジェクト化を選択し、手の中に出現した小さな鏡を覗き込めば、そこに写っているのは開始時に試行錯誤して作り上げたアバターの顔だけ――――
<転移>発動時のエフェクトとは別物の光が巻き起こった。いきなりの事だったので謙吾達は「くっ!?」と身を強張らせてしまう。
発光時間は僅か数秒。手鏡を覗き込んだ全てのプレイヤーが等しく光に包まれ、すぐに止んだ。
発光が止んでから周囲を確認すると状況は一変していた。プレイヤー達の様相がまったくの別物、各々の理想を体現した美男美女の姿をした偽りの衣が奪い取られ、強制的に現実の容貌とまったく同じ姿かたちへと変化……否、戻されてしまっていたのだ。
全プレイヤーが本来の姿に戻されてしまった事で、中央広場に集められた人々の身なりも大きく変化している。掻い摘んで言えば男女比は格段に男に傾き、平均身長は軽く二桁は低下。身長に反比例して平均体重は二桁上昇、といった具合か。
「お前誰?」
「オメェこそ誰だよ!」
すぐ横では、一言で表すなら野武士という表現がしっくりくる風貌の無精髭を生やした青年と女顔の美少年が互いを指差しあっていた。声から察するに野武士風の男がクライン、美少年がキリトであろう。
「謙吾と七湖の顔、元に戻ってる……」
「ユキナはほぼリアルと同じ顔だったから髪の色以外は変化していないな……」
「でもどうやってリアルの見た目を再現して――――ああそっか、ナーヴギアの信号素子は顔まで頭全体をすっぽり覆ってるから精細に読み取れるんだ!」
謙吾の姿も、短髪の肉体派アクションスターから少し長めの黒髪に鷹のように鋭い横顔の持ち主へ。七湖はグラマラスとは言いがたいが代わりに抱き締めたくなる様な魅力を持つスレンダーな肢体の少女に戻っている。
現実の七湖は笑うと猫のように目が細くなるのが特徴的な愛嬌のある顔立ちの美少女だが、今の彼女の顔は不安と恐怖と警戒心で引きつっている。
ユキナの方は髪の色が烏の濡れ羽色から明るめの赤髪へ戻った点以外に特に変化は見られない。彼女もまた七湖同様、酷く強張った表情だ。
「そっちはもしかしてタイガにセブンにユキナ……なんだよな」
「その通りだ。そっちはキリトとクライン、だな?」
「あ、ああそうだぜ」
素顔に戻ったキリトとクラインとお互いの正体を確認し合うと、謙吾は再び頭上を仰いだ。
茅場は更に語る。今この世界(アインクラッド)を取り巻く状況こそが自分の目的なのだと。これはテロでも身代金目的の誘拐事件でもない、ナーヴギアとSAOを生み出した時点で己の目的は達成しているのだと。
ゲームのルールを説明し終えるまで事務的、機械的ですらあった茅場の口調が、理由を明かすくだりから不意に変化していた。平坦さを心掛けたようで、しかし感情が隠れ切れていない、茅場晶彦という人物の心境が強く滲み出た声色。
それを一言で例えるとしたら――――憧憬の念、という表現が最も近いであろう。既に数百人の死に関わった人物には似つかわしくない。
――――しかし、だ。
目的は達成済みというが――――1万人近いプレイヤーをゲームの世界に閉じ込め、その過程で数百人を死に至らしめた事が目的、だと?
謙吾の手の中で、鏡が砕け散る。あらん限りの力で握り締められ、設定された耐久値を上回った事による当然の結果であったが、謙吾は自分が鏡を握り潰した事すら自覚できなかった。
『以上でソードアート・オンライン、正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君、健闘を――――』
「ふざけるな――――ふざけるな!!!!!」
階層全体の空気を振るわせる茅場の声が、別の声に上書きされて途切れる。
呆然を通り越して思考停止状態に陥っていた大多数のプレイヤー達は、声の出所へ揃って視線を向けた。
「謙吾!?」
「タイガ!?」
今にも飛び掛ろうとしている獣のように歯を剥き出しにして食いしばり、憤怒の表情でローブ姿の巨大な人影を睨みつける謙吾の姿があった。
形相もさる事ながら、今の謙吾からは溶岩の如き熱気を伴った威圧感が噴火したての火山宜しく噴き出している。その気配の凄まじさはユキナと七湖も息を呑んでしまうほど。
数多くの実戦を経験したそうなのだから、凄惨な鉄火場とはまったく無縁な人生を送ってきた周囲のプレイヤーからしてみれば、今の謙吾が放つ気配は最高層エリアで待ち構えているであろう超高レベルボスモンスター以上に恐ろしい威圧感のように感じられた。
特に間近で謙吾の殺気をモロに浴びてしまったクラインなど、顔を盛大に引き攣らせて2歩3歩とたじろいてしまった位だ。
キリトの方はクラインとは対照的にその場に留まっていたが、実際には足が竦んでその場に縫い付けられてしまったかのように動けなかっただけである。
だからこそ、だろうか。
身体が金縛りにあったせいで謙吾の姿を間近で見つめる以外に出来なかったからこそ、謙吾の顔に憤怒だけでなく、半身を引き裂かれたかのような苦痛と悲しみも入り混じっている事にキリトは気づいた。
まるで血を分けた兄弟を失った野生の狼のようだと、キリトは思った。
「………」
謙吾の威圧感に呑まれたプレイヤー達。彼らから注がれる畏怖の感情とは別種の視線の存在に謙吾は気づいた。
視線の出所は、茅場晶彦が操るローブ姿の巨大アバターだ。まるで実験動物の群れの中で、ただ1匹イレギュラーな反応を見せたマウスを観察する研究者のような、無機質さと強い興味を同時に感じさせる視線。謙吾は視線を真っ向から受け止め、ローブの奥の虚空へ向けて睨み返す。
無言の時間が続いたのは10秒か、1分か。先に反応を見せたのは茅場晶彦のアバターの方だった。
『それでは最後に私からのメッセージを送らせてもらおう――――これはゲームではあっても、遊びではない』
断言したのを最後に、僅かなノイズを伴いながら巨大なローブ姿のシルエットは溶けるように消滅。
共に空を覆っていたドームを伴って消え去るまで、誰も虚空へ溶けていく首謀者のアバターに抗議や叱責の声をかける事が出来なかった。
茅場のアバターが消え去ってしばらく後……最初に上がった絶望の声は、幼い少女の悲鳴だった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
それを皮切りに広場中が阿鼻叫喚に包まれた。
男女問わず、ローブ姿のアバターが消えた今頃になって茅場への罵声を上げ、怒号を吠え立て、早くこの世界から出してくれと泣き叫び、懇願し、大多数のプレイヤー達は一斉に醜い本性を露にしながら無様に混乱を周囲へと撒き散らし始める。
混乱が混乱を呼び、悲痛な絶叫が広大な広場を振動させた。
そんな中、極少数のプレイヤーは大パニックにある中央広場から密かに脱出を試みていた。
彼らはほぼ全員、1つの共通点があった。元ベータテスト経験者という点だ。
彼らの目的はベータテスト経験時に入手した膨大な初期階層の攻略情報を生かした自らの強化。先んじてレベルアップし強力なレアアイテムを入手しておけば自身の生存率は飛躍的に上昇する……自己保身を決断しての行動。
だが中には例外……ベータテスト未経験者、今日初めてSAOにログインした身でありながら混乱からいち早く脱し、行動を起こした者もまた存在していた。
――――その中に、キリトに連れられて人の輪から抜け出した謙吾達もいた。