鉄底海峡への突入に向けて、艦娘側の情報を整理していきましょう。
決断(一)
夢を見ていた。
それが夢だと気づいたのは、見覚えがあったから。今まで幾度となく、見てきた景色だから。
おぼろげな月明りのように差し込む光。
熱を帯びた体に心地よい水の冷たさ。
そしてどこからか聞こえてくる声。
誰。そこにいるのは誰。呼びかけてみても、返事はない。ただゆるるかに時は過ぎ、声は反響する。
口から気泡が逃げていく。けれども苦しさはない。それはきっと夢だから。
水をかく。どこか深い海の、冷たい水をかく。
景色は変わらない。見えるもの、感じるもの、何一つ変わらない。
ああ、声が聞こえる。
誰かがわたしを呼んでいる。
わたしを、呼んでいる……?
ハッとして足元を見る。深い深い闇。深遠のその先。何物をも飲み込む影。
途端、息苦しさが現れる。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。
あそこに行ってはいけない。
あそこからは抜けられない。
もう二度と帰ってこれない。
―――帰る?ドコへ?
それははっきりと聴こえた。あの声が、ただ歌うように呼び掛けるだけだった声が、答えた。
誰。あなたは誰。
辺りを見回し、声の主を探す。
ヒタリ。それは首筋に触れた。
―――ワタシ?ワタシは……
振り向いた正面。
さも懐かしそうに目を細めていた。
さも愛おしそうにこちらの頬を撫でていた。
―――ワタシは、アナタ。
瞬間、まるでベールがかかったが如く認識できなかった彼女の表情が、雲間からのぞく太陽のように明らかになった。
*
「あら、珍しい顔」
工廠を尋ねた加賀を出迎えたのは、オレンジのつなぎ姿の夕張であった。アジャスタブルレンチ片手に何やら作業に勤しんでいた彼女が、顔を上げる。
夕張の言う通り、加賀が工廠を訪れるのはかなり稀だ。基本的に何やら作業をしている工廠を、手持無沙汰に訪れて自分の用件を押し付けるのは気が引けたし、何より加賀は、工廠の喧騒があまり好きではない。
それでも立ち寄ったのは、ここ数日続いている胸騒ぎのせいだ。
「作業の邪魔をして、ごめんなさい」
「いいえー、お気になさらず。ほとんど終わりかけだったし」
夕張はニカッと笑う。その笑顔は素直にありがたい。
「それで、どうかしましたか?加賀さんの艤装なら、もう調整もばっちりですし、いつでも出撃できるようになってますよ?」
「いえ、今日は私の艤装のことで来たのではなくて。その、例の変色海域を航行した艤装は、どうなっているのかしら?損傷の具合とか、聞かせて欲しいのだけれど」
加賀の問いかけに、夕張が首を傾げる。
「それなら、明石の報告書に詳しいと思いますけれど?」
「いえ、その、そうではなくて」
こういう時、口下手な自分が嫌になる。赤城あたりならば、もっとうまく本題に入れるのだろうが、自分だとどうもスムーズにいかない。
「あなた自身の、所感を聞かせて欲しいの」
「なるほど、そういうことでしたら」
うんうんと納得したように頷いて、夕張は話し始めた。
「そうですね、報告をした通り、各艤装とも損傷の具合は大したことなかったんですよ。ただ、ちょっと普通では考えずらいというか……。金属疲労とか、腐食とか、応力集中とか、そういった類の原因ではないんですよね」
人差し指を唇に当て、むーっと悩む夕張。何か言葉を探しているようだった。
「なんていうか……内側から無理矢理こじ開けているというか、ゆっくりゆっくり蝕まれているというか、そんな感じです」
そう言って、夕張がちょいちょいと手招きする。こっちに来い、ということらしい。招かれるまま、工廠の中へと足を踏み入れる。
工廠内は、相も変わらず油の匂いがした。きれいに整理整頓は行き届いているが、時折金属の削りカスのようなものが転がっている。それから、焦げ付いた何かの破片も。
それらを気にしながら歩を進めると、夕張が一つの机を指さした。特に片付けの行き届いたその机には、ビーカーに入った液体が厳重に封をされて鎮座している。
「変色海域の、サンプル……?」
「ええ、そうです」
夕張が頷く。検証のために、工廠部に渡されていた分だろうか。
「ちょっと見ていてくださいね」
そう言って夕張は封を開く。さらに、ごそごそと近くの棚を漁った手には、金属の破片。
「鋼の端材です。これを入れてみますね」
言うや否や、夕張は端材をビーカーの中に突っ込んだ。トプリ。端材が液面下に沈み込み、赤い海水に浸かる。
途端、端材が小さくなり始めた。印象としては、文字通り溶けていると思われた。だが、酸やアルカリの反応とは思えない。それらに付き物の、表面から生じる気泡が見当たらないのだ。いわば端材が、ジワリジワリと赤い海水に置き換わっているような、そんな変化だ。
ものの一分とかからず、端材はビーカーの中から消滅していた。夕張がビーカーをかき回して見ても、それらしいものは全く見当たらない。
「見ての通りです。それで、艦娘の艤装にも、同じことが起きていると思ったんですけど」
そう言った夕張は、再び何かの端材を取り出す。先ほどと同じ、鋼材であるように思えたが。
「艦娘の艤装の一部です。損傷したので取り外した部分ですね」
そう言って、夕張はもう一度端材をビーカーに投入する。
艦娘の艤装とはいえ、元は鋼材である。艤装接続時に艦娘の精神部分と直結するため、その際に多少の組成変化が起こるらしいが、基本的な性質はほとんど変わりない。
しかし、ビーカーの中に投入された端材に、大きな変化はなかった。
いや。
「何、これは」
一分が経とうとした頃、艤装の表面に小さなひび割れが走り始めた。最初は小虫ほどに小さなものであったが、時間が経つにつれてその範囲が広がっていく。さらに、ひび割れの中から、何か赤黒いものが端材の表面に染み出してきた。
「ね、明らかに違うでしょ?」
夕張が言う。加賀が食い入るように端材の様子を観察している間に、彼女はどこかへと行っていた。戻ってきたその手には、もう一つのビーカー。
その中身に、ドキリと心臓が跳ねた。
「これが、昨日から十四時間、放置したものです」
夕張が差し出したビーカーの中には、歪な形をした、赤黒い塊が転がっていた。どくどくと妙な脈動を放つそれに、加賀は見覚えがある。否、夕張もまた、間違いなく見覚えがあるはずだ。
「深海、棲艦」
「はい。深海棲艦の装甲にそっくりなんです」
神妙な夕張の頷きが、より強くその考えを肯定する。間違いはない。これは正真正銘、深海棲艦の装甲だと。
「艦娘の艤装を、深海棲艦のそれへと変える。これは損傷というより、
侵食、という夕張の言葉が、とても適切であるように思われた。
ほんの一瞬、記憶を辿る。加賀の記憶に、深海棲艦から艦娘になった時のものはある。だが、その逆は憶えていない。本来は憶えていないはずのものだ。加賀が異例なのだ。
(あの海が、艦娘を深海棲艦にする)
ならばなおのこと、変色海域の拡大を止めなければ。
決意を固め、工廠を後にしようとした加賀を、夕張が引き止める。
「待って、加賀さん。実は一人だけ――駆逐艦吹雪だけが、変色海域による損傷の形跡がないの」
加賀の中でカチリ、最後のピースがはまった気がした。
書庫の扉をノックしたのは、案の定赤城であった。当直業務を終えて戻ってきたのだろう。
調べもの中だった加賀は、眉間の皺を感じながらも、入口の方を見る。
「長門さんに、こちらにいると窺ったもので」
ニコニコといつも通りに笑って、赤城は書庫に入ってくる。加賀の手元を覗き込んだ彼女が、コテンと首を傾げた。
「配属に関する辞令一覧に、過去の各鎮守府艦隊編成の変遷、ですか」
「D事案と轟沈に関する文書は一通り調べたわ」
答えて本を閉じ、元の隙間に戻す。
目当てのものは見つからなかった。
「
やはり赤城は察しがよかった。加賀は頷く。
「ええ。そして思った通り、見つけられなかった」
「そう。どうしますか?」
加賀は確信を持って答える。
「直接、確かめに」
風当たりの良い砂浜に、簡素な屋根付きの机がポツンと佇んでいる。ショートランド基地では、知る人ぞ知る隠れスポットだ。ここから見える夕陽は絶景の一言だが、真昼間から利用する艦娘は稀だ。落ち着いて話をするにはもってこいであった。
机を囲むのは三人。加賀の前には、一人の艦娘が所在なさげに座っていた。
駆逐艦吹雪。困惑した表情でキョロキョロとこちらを窺う彼女は、どうして自分がここに呼ばれたのかもわかっていない様子だった。
「あの……お話って、何ですか?」
恐る恐るといった感じで、吹雪が尋ねる。加賀はそれに、単刀直入に答えた。
「吹雪。あなた、横須賀に来る前は、どこの艦隊にいたの?」
「……え?」
拍子抜けしたように、吹雪はキョトンとしてしまっている。質問の意図を掴みかねているらしい。だが加賀の問いは変わらない。
「いいから。どこの艦隊に所属して、誰の指揮下で戦っていたの」
「どこって、それは」
そこまで言って、ピタリ、吹雪の動きが止まった。その表情は、キツネにつままれたように、どこか間が抜けている。そんな馬鹿な。とでも言いたげに、彼女は首を振る。
「ええっと、ですね。あれは、確か……えっと……」
言ったきり、うんうんと唸り始めてしまう。
どうやら本当に憶えていないらしい。そしてそれが、答えでもあった。
「いい、吹雪。隠さずに言うわ。色々と資料を辿ってみたけれど、あなたが以前、どこかの艦隊に所属していたという記録は、どこにも存在しなかったわ。あなたは横須賀が初めての所属のはず。けれど、私たちはあなたが他所の艦隊から転属になったと聞いていたし、あなた自身もそのように説明していた。これはどういうこと?あなたは、一体どこからやって来たの?」
加賀の詰め寄るような質問に、吹雪がたじたじと後退る。その瞳は、明らかに彼女自身も答えを持ち合わせていないと、語っていた。
「まあまあ、加賀さん落ち着いて」
赤城がなだめに入って、ようやく加賀は元の位置に戻る。吹雪は緊張を解いて息を吐いた。
「別の質問をしていいかしら、吹雪さん」
加賀に変わって、今度は赤城が、穏やかに尋ねる。吹雪はコクリと頷いたが、どこかで何かを恐れていた。大きな瞳の奥が、わずかに潤んでいる。
「サーモン海域で、声みたいなものが聞こえるって、知ってる?」
「は、はい。噂になってます。わたしも、一度だけ」
「それは、第八艦隊を迎えに行った時ね?」
「はい」
やはり質問の意図がわからないらしく、吹雪は戸惑いながらも頷いた。
「その時一緒だった艦娘に聞いたの。皆声を気味悪がってたけど、吹雪さんだけは違った、って」
「え……それって、どういう」
「吹雪さんだけは、ただ落ち着いて、『大丈夫』と呼びかけていた、って。まるで、赤ん坊をあやす母親みたいだった、って」
「わ、わたしが……ですか?」
偽りはない。彼女は本当に、憶えていないのだ。
「……そう。憶えていないのね」
これが最後のピース。形が見えてきたそれが、一体どうはまるのか。いまだパズルの全体図は見えてこなかった。
吹雪の件に関しては、赤城と揃って長門に報告を入れた。その場でもう一つ、あまり愉快でない関係が浮上する。
吹雪のショートランド基地到着と、変色海域の発生は同日であったのだ。
海域の変色は、第八艦隊による敵輸送船団襲撃後に始まったわけではない。あくまで、その日に初めて確認されたというだけだ。
事前偵察によって撮影されていた航空写真を精査してみると、第八艦隊が攻撃を仕掛けた日の朝には、すでにポイント・レコリスの近く――サブ島と呼ばれる島の近くで海域の変色が確認された。丁度その時間帯は、第二陣となる艦隊が派遣されてきたところだ。その中に吹雪もいた。
海域の変色は、その日のうちに一度収まっている。しかし、第八艦隊のポイント・レコリス突入と輸送船団撃破を機に、再び現れ、そして一気に広がり始めた。それはちょうど、第八艦隊の復路対潜哨戒のため、吹雪がサーモン海域に進入したタイミングだった。
――「出来過ぎた話だ。直接因果関係があると断定することは避けたい。が……事実として、吹雪の艤装は損傷を受けないし、謎の声に応えたりもしている。しかも出自不明の艦娘だ。疑わない方が無理、というものだな」
長門はため息交じりにそう呟いていた。
作戦指揮室を後にした加賀は、その足をある艦娘のもとへと向けていた。
変色海域と何らかの繋がりが見えてきた吹雪。深海棲艦へと変貌を始めている如月。
それからもう一人。ここに来て、どうしようもなく疑わしい艦娘が一人。
すべてを知っていてもおかしくないのに、まるで何も知らないかのような艦娘が一人。
長門からの依頼でもある。少し前から――如月の誤射があった時から、彼女は疑っていた。
――「メッセージと受け取れるアクションは何度かあった。こちらとの接触を図りたがっているのは間違いない。タイミングとしては、今が一番好機だろう」
長門の言葉を思い出す。思えば最初から、ひっかかりはあった。
加賀の足は、工廠へと戻ってきていた。今日二回目の訪問だ。間もなく陽が沈もうとする中、工廠にはすでに明かりが灯り、忙しない活気が漏れ出ている。今日も夜を徹しての作業だろうか。
工廠の扉を開けると、日中とは違う顔があった。クリップボード片手に妖精たちに指示を飛ばしているのは、工廠部門トップの工作艦明石。ツナギの上半身を腰で巻き、上半身タンクトップという何とも彼女らしい格好で、作業に当たっていた。
その明石が、入口に立つ加賀に気づく。
「誰かと思えば加賀さんじゃないですか。どうかしましたか?加賀さんの艤装なら、調整も終わって準備万端ですよ」
ニコニコとこちらへ歩み寄りながら、昼間の夕張みたいなことを言う明石。加賀は首を横に振り、やはり日中と似た言葉を返す。
「今日は違うわ。あなたに用事があって、来た」
加賀の言葉に、明石が首を傾げた。
「私に、ですか?」
「ええ。誰もいないなら、都合がいいわ」
「……ふぅーん?」
明石は納得いっていない風であったが、ともかくと工廠の奥へ案内してくれる。明石や夕張の仮眠所になっているそこは、ほとんど人が立ち入らない場所でもある。
「それで、話は何ですか?」
仮眠所の扉を閉じた明石が、加賀に尋ねる。加賀は真っ直ぐに明石を見据え、眼光を鋭く研ぎ澄ました。
「
沈黙がよぎる。加賀の視線は変わらない。明石が驚いたように目を見開く。時間にして十秒ほどもない沈黙。パチパチと両の眼を瞬いていた明石が、大きく表情を歪めた。
クツクツと肩を揺らす。堪えた震えは、やがて明確な笑い声に。可笑しくて可笑しくてたまらない、そう主張するように、明石は腹の底からの笑い声をあげる。
「あっはは、いつから気づいてたんですか?」
その質問が答えだった。加賀は完全に表情を消し去り、ただ無機質に言葉を発する機械の心持ちで、目の前の何者かに答える。
「確信を得たのはさっき。長門は如月の誤射があった時から、疑ってたわ」
「なるほどなるほど。ちゃんとメッセージは届いていたんですね。接触してきたのが今日だったことには、何か理由が?」
「そこまで答える義務はないわね」
拡大する変色海域。定まらぬ目的。そこへ一石を投じる存在として、長門は目をつけていた。今日、その一石が必要になったから、加賀はここに来た。などと、言うだけ時間の無駄だ。
「時間がない。単刀直入に聞くわ。あなたの目的は何?」
最早素性を隠そうともしない明石の中の
「ただ単に、あなたたちと接触する必要があったから。私に都合のいいように、艦娘たちに動いてもらいたかったから。たった、それだけのこと」
あっけらかんと言ったその口調は、すでに明石のものではない。よく見知ったはずの、得体の知れない存在。形に中身が伴わないその異形を、加賀は眉一つ動かすことなく見つめ続ける。
「なんていうことはない。サーモン海域の中心点、ワタシが待つあの場所へ、あの
「……それは、吹雪のこと?」
確認する加賀の言葉に、
「もちろん、タダでとは言わないわ。海域汚染の止め方を、教えてあげる」
「……あれは、艦娘を深海棲艦へと変える海。それを止めることは、あなたたち深海棲艦にとって都合が悪いのでは?」
「確かにあれは、深海棲艦を生み出す装置。けれど、ワタシにとっては関係のないこと。だって、厳密に言えばワタシは、深海棲艦ではないのだもの」
ピクリ。加賀は初めて眉を跳ね上げる。目の前の存在は、深海棲艦ではないと言った。では一体、誰なのか。なぜ吹雪を求めるのか。
「……益々、あなたの目的がわからない。それで、あなたは何を得ようというの」
「それこそ、ワタシに答える義務のないこと、でしょう?」
コロコロと笑った
「時間がないのはお互い様よ。海域汚染は、もうじきあなたたちでは手に負えなくなる。その前に止めなければならない。方法は簡単、中央の光の塔を、物理的に破壊するだけ。事実、前回はそれで破壊できたわけだし」
(前回?)
言いようのない感覚が加賀の中を走り抜ける。まるでこれが、二回目とでも言うような。
「判断はあなたたちに委ねるわ。あの娘を連れてきてくれれば、ワタシはそれで十分」
「それが、あなたの提示する条件、というわけね」
「ええ。ワタシがあなたたちを邪魔しない条件。悪い話ではないでしょう?」
微かに笑ってそう言ったのを最後に、明石が目を閉じる。