出撃を翌朝に控えた基地は、至るところが賑わっていた。工廠は言わずもがな、食堂、甘味処、浴場ですらも、艦娘たちの喧騒が満たしている。数か月前のMI作戦にも勝る規模だとかで、各員気を引き締めながらも、内から滾るものを抑えられない様子であった。
その賑わいから逃げるように、如月は基地を放浪していた。
行く当てはない。元よりこの身は、深海棲艦なのだから。艦娘の敵なのだから。
目的はない。けれども足は、人気を避けて動く。逃げる、逃げる。パーカーのフードを深々と被り、誰とも会わないように、誰にも見つからないように、逃げる。
「如月ちゃん?」
けれども。彼女が一番見つけてほしくなかった人は、やはり予想通りに彼女を見つけてしまった。
薄暗い廊下の向こう、細い人影がこちらを見つめている。明日が出撃だというのに、あまり高ぶった様子もなく、柔らかい微笑みのまま睦月はこちらにやって来た。
「よかった、少しお話したくて。お茶でも、どうかな?」
穏やかな問いかけに、つい頷いてしまう。それが甘えだとわかっていても。
睦月が案内したのは、電灯が半分落とされた食堂の、端の席だった。魔法瓶の中に溜められていたお湯を注ぎ、睦月が二人分のお茶を淹れる。
「睦月ちゃん、いいの?明日、出撃なのに」
如月の問いかけに、睦月は笑って首を振る。
「うん、いいの。睦月たちの出撃は一番最後だし」
ショートランドにある簡易出撃ドックは六つ。そのため、五つの艦隊がまとまって出撃することはできない。機動部隊とその護衛から順に出撃していき、睦月が所属する一挺艦が最後。その出撃は、おそらく一機艦から遅れること二時間弱になる。
「それにね。出撃前は、誰かとお話してた方が、落ち着くから」
そう言った睦月に如月は俯く。ご期待に沿えるほど、今の如月はおしゃべりができるわけじゃない。そんな気分ではなかった。
誰もいない食堂。向かい合う二人。横たわる沈黙。
睦月がそっと、如月の手を取った。
「大丈夫……必ず、帰ってくるから。如月ちゃんを一人になんて、しないから」
言われて、初めて気づいた。湯呑みの液面に映る自分は不安げで、何かに怯えていた。恐怖の対象が何かと聞かれれば、それは大切な人を失うことに他ならない。現状で唯一自分を理解してくれる彼女を、失うことに他ならない。
どこか――自分の知らない遠くへ、彼女が行ってしまう恐怖。
睦月が帰って来るまで、ほぼ丸一日間。この恐怖と戦わなければならない。
だが、その恐怖を口にすることははばかられた。それを言ってしまったら、睦月はきっと如月の側に残ろうとするだろう。それはできない相談であった。
行かないで。口をついて出そうな恐怖を噛み殺し、如月は湯呑みの液面を覗き続けた。醜く半身を蝕まれた自分の怯えた顔が、そこには映っていた。
*
砂浜を散歩していた大和は、打ち寄せる波をボーっと眺める人影に気づいた。誰であろうか、と目を凝らせば、見知ったセーラー服の後ろ姿であることに気づく。彼女とは、第一次FS作戦時からの知り合いだ。
サクリ。サクリ。白砂を踏みしめ、大和は人影へと近づいていく。膝を抱え、うずくまるように小さくなっていた彼女は、こちらに気づいて静かに振り返った。
「大和、さん……?」
突然の来訪に驚いたのか、吹雪が確かめるように呟いた。大和は頷き、微笑む。
「隣、いいかしら」
「……はい、どうぞ」
そう答えて、吹雪は右隣を勧めてきた。大和はそこに腰を下ろし、吹雪と同じようにして膝を抱く。
吹雪がこちらを窺う気配がした。けれど、開きかけたその口から言葉が紡がれることはなく、再び閉じる。大和もそれを追求しようとは思わなかった。
眼前には、夜の海が広がっている。黒い墨で塗りたくった海原は今、月齢五の淡い光に照らされ、なまめかしく波立つ。白砂を撫ぜる黒波がざわめき、聴覚を満たす。陸側から吹く風が、二人分の髪をさらった。
「……心地の良い夜ですね」
フッと呟いた大和に、吹雪もこくりと頷いた。だが反応はそれだけで、それからまたしばらく、どちらも言葉を発しない。
二人並んで、夜風を楽と聞く時間が続いていた。
「大和さんは……」
十分が経とうとしていた頃、ようやく吹雪が言葉を発した。躊躇いと決心を含んだ間が幾ばくかあり、吹雪はその先を口にする。
「大和さんは、知っていたんですか?艦娘と、深海棲艦の、ことを」
少し濁した言葉に、思い当たる節があった。艦娘たちの一部が薄々気づき始めていた事実。艦娘と深海棲艦のループ関係を彼女たちに話したのは、加賀だったはずだ。
「……ええ、聞かされてはいました。今のところ、そのループを断ち切る方法がないことも含めて」
肯定する言葉に、吹雪はより一層力を込めて、膝を抱く。
どうしたものかと、大和は眉尻を下げる。
海軍最強戦艦、また指揮系統のトップに座る艦娘として、相応の教育は受けてきた。トラック泊地に籠りきりになり、箱入り娘とも揶揄された。なまじ各地の情報が集まってくるだけに、自分の噂話を聞けば聞くほど、自信を無くさざるを得なかった。
その壁を撃ち破ってくれたのは吹雪だ。トラックで黄昏るしかなかった大和を海に連れ出し、艦娘としての自信を取り戻させてくれたのは吹雪だ。
彼女がいなければ、大和がMI作戦に参加することも、ましてや南方の最前線へ来ることもなかっただろう。
その吹雪に対して、自分は何の言葉をかけてやることもできないのか。
しばらく迷った末、大和は口を開く。
「この戦い……意味のないもののように、思いますか」
その問いかけに、吹雪は強く首を振った。それだけは全力で否定しようと思っているかのように。
「赤城さんが言っていました。わたしたちが深海棲艦を倒すことで、彼女たちは艦娘として戻ってくることができる。それはとても意味があることだ、って」
でも。吹雪はそこで唇をかんだ。
「わたしはそうと知らずに……ただただ、深海棲艦を沈めてきました。彼女たちは、もしかしたら昔、仲間だったかもしれないのに。目的も意味もなく、ただ深海棲艦という理由だけで、沈めてきました。それが……」
その先を少女は紡がなかった。
それが嫌になった。それが悲しくなった。言葉の先はいくらでも想像がついた。ただ一点、そこに共通するのは罪悪感。そしてあるいは――
「戦いの意味は、わかりました。でも、わたしがここにいる意味は、もっとわからなくなりました」
(自分がここにいる意味、ですか)
納得している自分がいた。かつて同じように悩んでいた艦娘を知っている。自分の意味がわからずに、悩み続けた一人の艦娘を。
あの時とは、何もかもが逆だった。
「……意味、とは、とてもとても大きな、重い荷物です。重くて重くて、でもどうしようもなくて、時々自分が何を背負っていたかわからなくなる。一歩一歩、それでも前に進まなくちゃいけなくて、踏みしめる地面がめり込んでしまうほどに思えて。きっと誰でも、そう思うものです」
「大和さんも、ですか?」
「はい、もちろん。けれど、ある時ふと、その荷物が軽くなったんです。どこかから誰かが、その荷物が何なのかを教えてくれた。荷物の大きさは変わらない。けれど中身がわかったおかげで、私の荷物は随分と軽くなった。教えてくれた誰かのおかげで、私は自分だけで前を見て、まっすぐ歩けるようになりました」
大和の言葉に、吹雪はパチクリと目を瞬いていた。彼女はきっと気づいていない。大和にとってその「誰か」とは、吹雪のことであったと。
「自分の意味とは、そういうものだと思います。自分では気づかない。けれども、その正体を教えてくれる誰かがいます。目を閉じて、思い出してみて。その誰かに、心当たりはありませんか?」
吹雪の瞳が揺れる。窺うように大和の表情を覗いた彼女は、ゆっくりとその瞼を閉じた。
おっとりとした吐息。殊更にゆるるかな空気の流れは、彼女が自らの心と向き合っている証でもある。小さな胸が微かに上下し、白い首筋が脈動する。
悩める少女は、やがて静かに、唇を動かす。
「……希望、と言っていました」
「希望?」
「はい。初出撃に失敗して、落ち込んでいたわたしに、司令官がそう言っていたんです。『私にとって、君は希望だ』って。何のことだったのか、いまだにわからないんですけど。でもその言葉のおかげで、これまで頑張ってこれた気がするんです」
そう言った吹雪の背筋が、心なしか伸びている気がした。
(――希望、か)
彼女の提督――横須賀の刑部提督がどんな人物で、どんな意図でそんなことを言ったのかはわからない。ただ単に、新人で落ち込んでいた吹雪を、勇気づけるためであったかもしれない。それとも他に、彼女の本質を見極めたうえでの言葉であったかもしれない。
けれどもその、「希望」という表現は、実に的を射ているように、大和には思えた。
「希望、ですか。それはとても大切な、吹雪さんのあるべき意味かもしれませんね」
そう言って、大和は吹雪を抱きしめた。膝を抱えた彼女を、背中側から包み込むように。頭一つ分以上も身長が違えば、吹雪は大和の腕の中にすっぽりと収まる。
「や、大和さん?」
驚いた様子で吹雪が声を上げる。振り返ろうとするその顔を、大和はやんわりと押し留めた。吹雪は戸惑ったまま、何も言わずに大和の胸に収まっている。
「希望、という表現は、吹雪さんのあるべき意味に、ピッタリだと思います」
「……そう、でしょうか」
「はい。吹雪さんは気づいていないかもしれませんけれど。吹雪さんは多くの艦娘の支えになっています。多くの艦娘の背中を押しています。それだけは忘れないで」
大和は右手で吹雪の頭を撫でる。ピクリと驚いたように吹雪が震えたが、そのまま、されるがままとなっていた。
「私たちは、どうしてここにいて、どこへ行くのか。それは、艦娘誰もが抱く、自分への問いかけ、悩み。それでも吹雪さんは、前に進むことを拒まない。そんな吹雪さんだから、私は――」
私は、ここにいていいのだと思えた。そして吹雪に、ここにいて欲しいと思えた。
求めるものは希望。であれば、今この胸に抱く彼女こそが、私の希望。
「……明日の戦い、これまでになく厳しいものになります。それでも私は、約束しましょう。吹雪さんを守る。あなたという希望を、最後まで守り続ける」
大和の言葉に、吹雪は小さく、首肯した。
*
大浴場を出た加賀は、見知った人影とすれ違った。これから風呂に入るらしい瑞鶴は、ペコリと軽い会釈だけで、加賀の横を通り過ぎる。
それに、心がざわめいた。どうしようもなく、不安に駆られた。
なぜだったのか。
「瑞鶴」
足を止め、呼び止める。瑞鶴の方も、加賀を振り向いた。
「何?」
自分は一体、何を言おうと思って、彼女を呼び止めたのだろう。
「……今回は、最悪の事態も想定しておくことね」
ああ、なぜここで、さらに不安を煽るようなことしか言えないのか。胸のわだかまりは収まるどころか、むしろ増大する。轟沈という最悪の事態を、具体的に想像してしまうほどに。
(それだけは、いやだ)
いつぞやの記憶が蘇る。ぼろぼろの背中。私を送り出す笑顔。何も残さず、全てを飲み込んだ波の蒼。
あんな……あんなことだけは、もう二度とごめんだというのに。
「何よ。私が沈むかもしれない、ってこと?」
瑞鶴の言葉には答えず、加賀は歩きだす。悪い想像を振り切ろうと、逃げるように。
不満げな瑞鶴の鼻息が聞こえた。
「でも、轟沈したって、戻ってこれるんでしょ」
それは、加賀の中にあった火薬を暴発させるのに十分な火花だった。
「二度とそんなこと言わないで」
これまでになくきつく、瑞鶴を睨んでしまった。こちらを見ていた後輩が、思わず一歩後退る。それを望んでいたわけではない。怖がらせるつもりなどないのに。
自分で自分に溜め息が出る。
「……それは、とても苦しく、辛い道だから」
力なくそれだけ言い残して、瑞鶴に背を向ける。あの時の光景が、再び頭をよぎった。
「……あなただって、本当は知っていること」
決断編は以上です。
次回より、出撃編となります。加賀たち航空母艦の戦いがメインです。