出撃(一)
――アナタは、希望なんかじゃない。
暗闇の中から、彼女が言う。
光も届かない海の底。体は重く、息は苦しい。それでも目を、離せない。
そんなことない。そんなことはない。
大和さんが言っていた。最後まで守ると誓ってくれた。だから私は、最後まで希望でなければならない。
――いいえ、違う。むしろアナタの存在は、絶望そのもの。
暗闇から手が伸びる。雪のように白い手。海水が透けそうなほどの白い手。
違う。違う。わたしは。わたしは。
――アナタは憶えていないだけ。だってそれは、ワタシのものだったから。
白い手が触れる。瞬間、何かの映像が、奔流となってわたしの中に雪崩れ込む。
燃える海。黒い影。それは遥か彼方の――
やめて。それは違う。わたしじゃない。手を払う。
誰。あなたは誰なの。
――だから、言っているでしょう。ワタシはアナタ。アナタはワタシ。
暗闇から彼女が顔を出す。青白い肌、深紅の瞳、色素の抜けた髪、額に覗く角。明らかな異質。けれどその顔は――
わたしと瓜二つだった。
いいや。いいや、違う。そんなわけない。あなたはわたしなんかじゃない。あなたなんて知らない。
――いいえ、憶えている。
今度は両の手で、彼女がこちらの頬を掴む。深紅の瞳を愉快そうに――そしてどこか愛しむように細めて、彼女は笑う。
白い顔が近づく。意図はわからない。けれどその行為が何かはわかった。
やめて。力を振り絞り、その顔を叩く。赤く腫れた頬。それでも彼女は笑ったまま。
――そう。こっちの方が、趣味に合ってる?
そう言った次の瞬間、目の前にいた彼女の姿が変わった。長い髪をしなやかに揺らし、桜の簪をアクセントに散らす。柔らかな微笑を湛えた女性は、紛れもなく大和だった。いや、瞳は深紅のままで、肌もどこか白い。どんな手かはわからないけれど、それが紛れもなく彼女であることだけは理解できた。
――おいで。アナタも本当は来たかったはず。ここへ。
白い手が、再び頬に触れる。氷のように冷たく、血の通わない手。それは、春の日差しのような暖かさで、包み込むように撫でてくれた大和の手とは、全く違う。けれど目の前で微笑む表情は、大和そのものであった。
――おいでませ。鉄の水底へ。
大和の顔が近づく。唇と唇が重なる。そのくちづけを、拒むことはできなかった。
◇
夜明けとともに、出撃を告げるサイレンが鳴り響いた。全ての準備を整え、正装に身を包んだ艦娘たちが、波止場に並ぶ。出撃するもの、ここに残るもの、各々言葉を交わし、激励する。
喧噪の中、第七艦隊の面々と言葉を交わし終えた大和は、吹雪の姿を探していた。同じ艦隊での出撃だ。艤装装着前に、少しくらい話しておきたい。
見れば、吹雪は川内型軽巡洋艦姉妹や暁型駆逐艦姉妹と一緒にいた。どちらも横須賀所属の艦娘たちだ。
「吹雪さん」
人ごみを掻き分け、大和は吹雪を呼ぶ。
こちらを振り向いた吹雪の瞳が、一瞬揺らいだような気がした。
「大和さん、おはようございます」
「おはようございます、吹雪さん。今日は頑張りましょうね」
「はい、もちろんです」
そう言って、吹雪は両の拳を握る。しかし気のせいだろうか、今朝はどうも、普段の覇気に欠けるような気がした。
『作戦指揮室より、全艦娘へ。〇七〇〇時の時計合わせをもって、出撃となります。出撃艦娘は、所定の位置へ』
スピーカーから、作戦指揮室に控える大淀の声が聞こえてきた。もう間もなく出撃の時間だ。
*
出撃ドックから次々に洋上へ躍り出ていく艦娘の姿を、如月は高台から見守っていた。
〇七〇〇の時計合わせがあり、すぐに長門から出撃が命じられた。沖に投錨していた二機艦が抜錨し、同時に三機艦が出撃ドックから出る。今は一機艦が出撃中だ。この後には、二挺艦、そして睦月の所属する一挺艦と続く。
一時間ほどがして、ついに一挺艦の番となる。コンテナ型の簡易出撃ドックに、ショートボブの後ろ姿が入っていった。数分後、空気式カタパルトによって、睦月が海面に滑り出す。別のドックからは、吹雪も出てきた。
「睦月、ちゃん……」
ポツリとした呟きは、喉の奥から霞んだ音として出てきた。
深海棲艦の侵食は、着実に如月の全身へと広がっている。喉の辺りは最早感覚がない。手足の先や顔の右半分に、幾ばくか残るだけ。もはやこの体を、自分のものとは思えない。
いつかの夜、加賀が言っていた通りだ。いずれこの身は深海棲艦となる。予感ではなく確信に近い。
けれど、それよりも今は。昨日と同じ、大切な人が、どこか遠くへ行ってしまいそうで。その不安だけが、わずかに残った心の中にわだかまる。
「行かないで……」
昨晩秘めた言葉が、唇の隙間から漏れる。
びょう。海の方から風が吹く。めくれそうになったフードを抑え、風上から顔をそむけた。
――ソレデ、イイノ?
風に混じって、そんな声がした。ハッとして後ろを振り返る。
「よかった。ここにいたんですね」
ニコニコと笑顔を浮かべて立っていたのは、明石であった。
否。
「あなたは、誰?」
警戒心を最大限に引き上げて、如月は明石のような何かを見つめる。明石の中の誰かは、感心したような表情を浮かべる。
「やはりわかるものなんですね。それなら話が早いです」
声は穏やかで、口調も明石のそれだが、そのしゃべり方そのものが作ったものだと直感できる。あれは明石ではない。
「如月さん。ここで睦月さんの帰りを待ち続けるつもりですか?」
「……深海棲艦になりかけているんだもの。ここから出るわけにはいかないわ」
「それは本心ですか?」
何が言いたいの。明石の中の誰かは、私に何をさせたいの。
口をつぐんだ如月を嘲笑うように、明石が目を細める。
「守りたい。失いたくない。それはとても自然なことだと思いますよ。それが大切な人なら、尚更」
心にもないことを、と言い切れればよかったのだが。なぜだか彼女の言葉には、微かな実感と重みがあった。それ故に、全てを突っぱねることもできなかった。
それが心の隙となることをわかっていても。
「どうです?今なら間に合いますよ?まだ連れ帰ることができますよ?」
その覚悟をしろ。そう望んでいるような声。
何より、「まだ間に合う」の一言に、心がぐらついてしまった。
もう一度風が吹く。フードが風でバタつき、如月の頭から外れる。まとめていた髪が激しくなびき、右半分の視界を奪った。最早それも気にならない。
今の如月に、目的は一つだけ。
「艤装は、使えるの?」
如月の問いかけに、明石が満足げな笑みを浮かべる。
「連れ戻す気になりましたか?」
それだけは強く、否定した。
「いいえ。睦月ちゃんを助けに行く」