転針した一挺艦は、ただひたすらに、敵艦隊(「戦イ」と呼称)を目指していた。
陣形にほとんど変わりはない。前面に吹雪と睦月、神通が展開し、その後方に比叡と霧島、そのさらに後ろに大和。
上空の零水偵によれば、彼我の距離はおよそ一万五千。夜間の戦闘としてはかなりの遠距離だ。この距離で砲戦を始めたところを見ると、敵戦艦の電探は使用可能なのだろう。だとすれば、この変色海域内においても、深海棲艦は電波機器類を使えることになる。
電波機器の有無は、情報戦の勝敗を左右する。すでに不利な状況にあることを悟り、大和は両の拳を握り締めていた。
その大和の正面で、三度目の砲炎が上がった。比叡が三六サンチ砲を放った証左だ。腰を取り巻くように左右に展開された艤装から、主砲一基あたり一門ずつ計四門の三六サンチ砲が咆哮する。観測射撃を目的とした交互撃ち方だ。
一拍遅れで、霧島も同じように、観測射を放っている。
対する戦艦棲姫も、交互撃ち方による観測射を放っていた。据えられた四基の一六インチ三連装砲から砲炎が迸り、比叡たちより一回り大きな砲弾を吐き出す。一挺艦の転針に伴って一度射撃をやり直したが、あちらもこれで三度目の観測射だ。
戦艦同士の夜戦が緩やかに始まっている中、依然大和だけは、まだ一度も砲撃を行っていない。艦娘の中で最大最強の火砲たる四六サンチ砲は、いまだ一度としてその砲口に炎を躍らせてはいなかった。
目の前の比叡が一六インチ砲の水柱に囲まれるのを見届け、大和はさらに、両の拳の力を強める。
――「大和の発砲は、別命あるまで禁ずる」
それが、転針後すぐに比叡が出した命令だ。
なぜか。理由は、すぐ目の前で、星の光を受けて儚く輝く、雪のようなものにある。
上空の零水偵から撒かれたそれは、アルミ箔でできていた。小さく、かつ不揃いに切られたアルミ箔は、上空から風に乗り、空中に漂う。それが、敵の電探への欺瞞――いわゆるチャフの役割を果たしていたのだ。電波はアルミ箔に反射し、電探上に影として映りこむ。こうすることで、こちらの正確な情報を敵に与えないようにしているのだ。
とはいえ、目視はできる。ゆえに敵戦艦からは、白波を蹴立てて進む吹雪と睦月、神通、そしてその後方で砲炎を上げる、比叡と霧島が見えているはずだ。
が、大和は見えない。電探ではチャフの影になり、また目視では比叡と霧島の影になり、敵戦艦は大和を認めることができない。
見つからなければ、砲撃の目標にはならない。ゆえに比叡と霧島は、その身を挺して、大和を守ろうとしているのだ。
もしここで、四六サンチ砲を撃てば、暴風のごとき発砲時の風圧が、チャフを一時に吹き飛ばしてしまう。それは何としても避けたいのだ。
彼我の距離が八千になるまでは、一切の発砲を禁ず。八千まで迫れば、例え電探なしでも、目視だけで十分な射撃諸元を得られる。一撃必殺の距離に近づくまでは、堪えてくれ。それが比叡の作戦だった。
作戦の趣旨は理解できる。戦艦棲姫という、深海棲艦中最強の戦艦二隻を、被害なしで撃ち破れるとも思っていない。それでも、目の前で仲間が傷つくのは、嫌なものだ。
(距離、一三〇(一万三千))
比叡たちが四度目の射弾を放つのと、夜間見張り員から報せが入るのが、ほぼ同時だった。目標とする八千までは、まだ五千の開きがある。
ほぼ向き合うようにして砲炎を吐きだしている彼我の相対速力は、四十ノット強といったところだ。その距離は、一分に一千ほど縮まっていく。単純計算で、八千までは後五分だ。
その五分の間、敵戦艦はおよそ十回の射弾を放つことができる。観測射撃の回数としては、十分すぎるほどだ。必ず、どこかで命中弾が出始める。それはもしかしたら、現在飛翔中の第四射かもしれない。
対抗する術は、とにもかくにも射撃を繰り返す以外になかった。今は、目の前の二隻が、少しでも多くの砲弾を撃ち込むことを、祈るしかない。
比叡と霧島が放った第四射が、敵艦隊に到達する。八本の水柱が立ち上り、白いカーテンのように戦艦棲姫の姿を覆い隠す。全弾が近弾。距離一万以上の、夜間砲戦、それも目視による照準だ。いまだ、大きく距離を見誤っているのだろう。
入れ替わりに、戦艦棲姫からの砲弾が、比叡と霧島を包み込む。こちらは、明らかに精度が高かった。命中や夾叉こそしていないものの、至近弾と呼んで差し支えない射弾が一度ならず生じている。砲弾の炸裂によって起こった大波が、戦艦である二隻をも飲み込んでしまうのではないかと思われるほどだった。
嫌な汗が、じっとりと背中を伝う。これが、主砲口径の違いか。一六インチという、三六サンチを上回る暴力が、か弱いものでも扱うように、比叡と霧島をなぶっていた。
そんな大和の不安を余所に、二隻が新たな射弾を放つ。そんな暴力には屈しないと、抗い、牙を剥く。その闘志に応え、三六サンチ砲が爆音を轟かせた。
固唾を呑んで、砲弾の行方を見守る。それだけが、今の大和にできる唯一のことだった。
比叡と霧島の砲弾は、十数秒をかけて戦艦棲姫に襲いかかる。弾着の瞬間は案外すぐにやって来た。今度は戦艦棲姫の後方に、八本の水柱が立ち上る。
水柱を認めた瞬間には、敵弾の飛翔音が聞こえ始めた。大気を切り裂く甲高い音。
何とはなしに、嫌な予感がした。
飛来した一六インチ砲弾が、比叡の周囲に水柱を築き上げる。闇夜に立ち上る白い巨塔が、暗順応した目で十分に確認できた。四本の水柱が、等間隔を置いて、比叡の左右に満遍なく生じていた。
奥歯を噛み締める。夾叉だ。戦艦棲姫の一隻が、比叡をその射界に捉えたのだ。次からは、一六インチ砲の斉射が降ってくる。三連装四基計十二門。比叡とは比べるべくもない、凶悪な破壊力だ。
私も撃ちます。思わず具申しそうになる。そうしなければ、比叡を見殺しにすることになる。
だが大和の考えは、比叡にはお見通しであったらしい。大丈夫、そう言うように、左手で制止する。
喉まで出かかった声を飲み込む。今ここで、比叡の覚悟を台無しにはできない。信じて待つ他はないのだ。
その時が来れば、必ずや一撃で仕留めてみせる。心の内で誓い、大和は再び前を見据えた。丁度、比叡が五度目の砲撃を放った。
一方の戦艦棲姫は、向かって左の一隻が、不気味な沈黙を保っていた。おそらくはあの一隻が、比叡に対して夾叉を得たのだ。巨大な砲塔内では、斉射に向けた準備が進んでいる。
やがて、その時が来た。
戦艦棲姫から、紅蓮の炎が噴き上がった。明らかにそれまでの射撃とは違う。炎の量も、明るさも、打ち震える戦艦棲姫への反動も、倍以上の迫力がある。
斉射が始まったのだ。
撃ち出された砲弾の数は単純にそれまでの三倍。迫りくる飛翔音も、上空からの威圧も、三倍だ。
十二発の一六インチ砲弾が、容赦なく比叡に襲いかかり、その姿を覆い隠した。極太の水柱が次々と林立し、比叡を包み込む。大和の視界から比叡が完全に消え去った。あたかも轟沈してしまったかのようだ。
だが、数秒もすれば、水柱が崩れ、健在な比叡が姿を現す。もっとも、被害は確実にあった。よく見れば、左側の艤装に、小さな炎が見て取れる。被弾した時のものだろう。
「まだまだっ!」
反撃の砲火を放つ比叡の声が、砲声に混じって聞こえた。まだ、負けるつもりなどない。か細い背中が雄弁していた。
闘志は砕けない。砲弾がある限り、艤装がある限り、主機が動く限り、心が敗れることはない。数多の戦場を駆け、持ち前の速力と連携で性能の劣勢を補ってきた、金剛型らしい戦い方だ。
それを嘲笑うように、戦艦棲姫は更なる斉射を放った。いまだ比叡と霧島の砲弾は届いておらず、一矢を報いることすらできていない。
彼我の距離、いまだ一万一千。射点までは単純計算で約三分。今飛翔中のものを合わせて、斉射七回分。砲弾の数、八十四発。それだけの猛射に、比叡は晒されるのだ。
二度目の斉射が、比叡を目掛けて落下していく。音速を軽く超える砲弾が十二発、海面を叩き割り、あるいは艤装を撃ち抜き、水と炎の柱をそそり立たせる。赤々とした爆炎が水柱を内側から照らしだし、さしずめランプのように淡い光を演出した。
海水の柱が霧散した時、姿を現した比叡は、その艤装から黒々とした煙を噴き上げていた。目を凝らせば、艤装の左舷側に大穴が穿たれ、装甲がささくれ立っているのがわかる。戦艦棲姫の一六インチ砲弾が、増加装甲ごと装甲板を撃ち抜き、中で炸裂したのだろう。
大規模改修で、金剛型の装甲は強化されている。場所によっては、四一サンチ砲の直撃にも耐え得るほどにだ。その装甲を、こうも簡単に撃ち破るとは。
(新型砲、多分、長砲身一六インチ砲……!)
一六インチ砲の強化版。砲身を長くすることで、貫通力と射程を強化したものだ。ル級flagshipの一部に搭載された、という噂はあったが、実際に相見えるのは初めてだ。
より強力になった一六インチ砲を、今まさに浴びている比叡の恐怖は、いかばかりか。
それでもなお、彼女は冷静に――あるいはそれを装って、次なる観測射の準備を進めている。
八度目の観測射が放たれた。被弾したとはいえ、比叡も霧島も、四基の主砲塔は生きている。それまでと変わらず、各砲一門ずつの三六サンチ砲が咆哮を上げ、砲炎を吐き出す。飛び出した三六サンチ砲弾が、冷えた夜の空気を切り裂き、放物線の頂点を目指していく。
ほぼ同時に放たれた戦艦棲姫の射撃は、そのどちらもが斉射であった。先の一射で、向かって右側の戦艦棲姫も、霧島に対して夾叉を得たのだろう。
これで最早、こちらの不利は覆らなくなった。
距離はようやく一万になろうかというところ。八千の決戦距離まで、二千と少し。そのわずかな距離が、果てしなく遠いものに思える。
届くはずの距離。歯を食いしばり、その先を見据える。
敵戦艦の斉射が、比叡と霧島を包み込んだ。二十四発もの一六インチ砲弾が一斉に水柱を噴き上げる様は、最早カーテンなどと生易しいものではなく、万里の長城もかくやというほどのそそり立つ壁であった。
大和と比叡たちの間が、越えがたい何かによって隔てられた、そんな錯覚すらあった。
視界が晴れた時、比叡の損傷はもはや、誤魔化しようがなくなっていた。左舷側の艤装が大きくひしゃげ、炎と煙に覆われている。消火装備を担いだ妖精が出動しているようだが、その火勢ではどうにもなるまい。装甲が燻され、高温によって変質する。飛び散る海水が当たると、ジュッという音がして水蒸気が発生した。
たった三度の斉射、命中弾にして四発ほどだ。それでも、これだけの被害が生じている。機関区画や主砲、射撃装置に損傷がないのが、不思議なくらいだ。
我、いまだ健在なり。そう宣言するように、比叡が新たな射弾を放った。各砲塔の右砲が鎌首をもたげ、咆哮する。煤で汚れた砲口が、一瞬だけ強烈なフラッシュにさらされ、鈍色の輝きを放つ。しかしそれも、すぐに薄闇の中へと溶け込んで、硝煙の薫りだけが漂った。
この時点で、彼我の距離は一万を切った。いよいよだ。大和は決戦距離に入り次第射撃を開始するべく、敵戦艦への測距を開始した。今までの比叡、霧島の砲撃を鑑みて、敵艦隊の距離や速力は、あらかた予測ができてきた。それに、八千ともなれば、夜間見張り員なしでも砲炎に照らされる敵艦を十分視認できる。
唯一の不安要素は、大和に夜間砲戦の経験がないことだ。
日本海軍最大の秘密兵器として、トラック泊地に秘匿され続けていた大和は、そもそも作戦への参加自体がほとんどない。初実戦は数か月前のMI作戦であり、しかもその際相手にしたのは、動かない陸上の目標だ。洋上を航行中の、戦艦同士の砲撃戦というのは、これが初めてである。
とはいえ、訓練だけは、山ほど積んできた。そこに劣るものなどないと、大和は確信している。ゆえに、今は粛々と、計算を積み重ねるのみだった。
比叡と霧島に、新たな命中弾が生じる。派手な爆炎が闇夜の隅々まで行き渡り、衝撃波があらゆるものを薙ぐ。引き裂かれた装甲の残骸が無残に吹き飛び、鋭利な金属片が服をずたずたに引き裂いた。
神経的に繋がれた艤装の損傷は、そのまま艦娘に痛覚として伝達される。戦艦の主砲弾の度重なる被弾など、想像を絶する痛みが襲うに違いない。それでもなお、比叡と霧島は歯を食いしばり、耐えていた。
入れ替わりに敵戦艦へ到達していた比叡の砲弾が、ついにその装甲板を捉えた。極太の腕のように見える戦艦棲姫の艤装から、発砲炎とは明らかに異なる炎が上がる。ここに来て、比叡はついに、戦艦棲姫に一矢を報いたのだ。
「次より斉射っ!」
裂帛の声が響いた。比叡が歯を食いしばり、自らを奮い立たせて、遥かに格上の相手へ牙を突き立てようとしている。傷を負い、血を滴らせても、なお比叡は立ち向かう。
それを見た戦艦棲姫が、暗闇の中で笑った気がした。
悪寒が背中を走る。確かに笑ったのだ。感情のない表情で。無機質な能面で。それでも確かに、笑みを浮かべていたのだ。邪悪極まりない、悪魔の微笑を。
明らかに楽しんでいる。やれるものならやってみろ、そう言うかのように。
彼我の斉射が、海面を彩る。霧島も前の射撃で夾叉を得ており、斉射に移行していた。こちらも、あちらも、持ちうる全ての砲をもって、殴り合いを始めたのだ。
否、正確には違う。先の被弾で水圧機をやられたのか、比叡の一番砲塔が射撃を行っていなかった。比叡の斉射は、二番から四番までの連装三基六門による射撃に留まっていた。
三六サンチ砲弾十四発と一六インチ砲弾二十四発が高空ですれ違い、摩擦抵抗と重力による加速が釣り合う終端速度で落下してくる。
「ぐっ……!」
弾着の轟音の合間に、今日初めての比叡の悲鳴が聞こえた。歯の間から漏れるような呻きが、彼女の追った損傷の重大さを物語る。
比叡の艤装が、業火に焼かれていた。左舷側の艤装から猛然と炎が上がり、比叡の横顔を明らかにする。パチパチと上がる火の粉は、この世のものとは思えない、地獄の光景を想像させた。
五回の斉射による、比叡への被弾は七発を数えていた。通常、戦艦を戦闘不能にするには、十一発の砲弾を撃ち込めばいいとされるが、比叡の受けている砲弾は格上の一六インチ砲だ。これ以上被弾すれば、いつ戦闘不能になってもおかしくない。
(後一千、お願い、どうか……!)
大和の祈りの合間に、比叡は再度斉射を放った。業火に焼かれながら左舷三番砲塔が咆哮し、それに負けじと右舷二、四番砲塔が砲炎を吐きだす。さらに、生き残っていた高角砲までもが、射撃に参加していた。
だが、今更そんなことに、一々反応する戦艦棲姫ではなかった。たかが二、三発の被弾が何だ。そう言うように、何の痛痒も感じさせない新たな斉射が、九千先の海域で上がった。
今日何度目になるかわからない、砲弾の交錯。反骨の一撃と、蹂躙の一撃。遥かな高みでも、そのぶつかり合いは起きている。
目視の叶わぬ暗黒の中から、砲弾が降ってくる。二十四発の暴力が、この海ごと艦娘を蹂躙せんと迫る。
流星のごとく、敵弾が比叡と霧島に降り注いだ。
次の瞬間、比叡が横方向に思いっきり吹き飛ばされた。重厚な戦艦の艤装もろとも、あたかもただのか細い少女のように、その体が宙を舞う。妙にゆっくりとした動きに、大和は感じていた。
吹き飛んだ比叡が、今度は海面に叩きつけられる。水切り石のように海面を跳ねた比叡は、やっとの思いで霧島に受け止められる。
「お姉様!?」
尋常ではない事態に、霧島が動揺しながら叫んだ。
比叡の様子は、明らかにおかしかった。左足を抑え、見たこともないような苦悶の表情を浮かべている。見れば、左舷側の艤装がごっそりと無くなっており、さらには脚部艤装までもズタズタに引き裂かれていた。
おそらくは、推進器系と共に脚部艤装に装備されていた
こうなっては、最早まともに航行することもできまい。ここにいたり比叡は、戦闘不能に追い込まれたのだ。
「お姉様、しっかりしてください!」
霧島が取り乱して叫ぶ。だが、その心配の声を余所に、比叡は強い眼差しで大和を見た。
血を滲ませる口元が、叫ぶ。
「大和、砲戦用意!」
今こそ撃て。比叡は何よりもまず、そう言ったのだ。
雷に打たれたような衝撃が、脳髄を叩いた。
「は、はい!大和、砲戦用意。目標、敵戦艦!」
あらかた計算を終えた射撃諸元が、大詰めの計算を迎える。とはいえ、実際に撃ってみなければどうなるかわからない、というのが実情だ。昼の距離八千なら必中を約束できるのだが、敵艦の艦影がおぼろげでは、いかんともしがたい。
ふと、視界の端で左足を抑える比叡が見えた。
いや、より正確に言えば、左の太ももで何かをいじる比叡が見えた。
「待ってください、お姉様!それではお姉様が!」
「わかってる……っ!それでも、やるしかない!一度しかないチャンス、絶対に
「……わかりました。お供します、お姉様」
そんな、姉妹のやり取りが聞こえた、次の瞬間だった。
光芒一閃。目も眩むほどの光が、星々の支配する夜の海を駆けた。我が物顔で波濤を見下ろしていた一等星からいとも容易く支配権を奪ったその光は、何の迷いもなく真っ直ぐに、海上の一点を指し示す。そこにあるものを、ありありと照らし出す。深淵よりの来訪者、戦艦棲姫の姿を。
それは光の道。向かう場所への道標。闇夜を照らし、明確なる目標へと導いてくれる、一筋の希望。
探照灯だ。比叡は探照灯を使ったのだ。これであれば、たとえ夜であろうと、敵の姿がよく見える。
大和は、射撃諸元に最後の修正を加える。急げ、急げ、無駄にするな。繋いでくれたものを、無にするな。
希望には、大きな代償がつきまとう。
光の中で、戦艦棲姫が初めて、表情を歪めていた。砲身を上げ、その目標を比叡へ――希望を指し示した者へ向ける。探照灯を使用したことで、比叡の姿は白日の下に曝されたことになる。格好の
比叡、そして彼女を抱える霧島に、一六インチ砲弾が降り注いだ。霧島が、艤装の可動部を変形させ、装甲板を前に展開する。緩やかな曲線を描く装甲板の正面で火花が散り、金属同士が擦れる甲高い音が響いた。水柱と爆炎、爆音に包まれ、二隻の金剛型が見えなくなった。
水柱が晴れた時、比叡と霧島の姿が露わになる。霧島の装甲はその役目を果たし、二隻を守ったが、歪み、へこみ、ささくれ、もはや二撃目に耐えられるものではなかった。
「撃て、大和!」
煤に汚れ、硝煙にまみれた霧島が叫ぶ。
諸元の計算が、完了した。極太などと生易しい大きさではなく、天を砕かんばかりの巨大さを誇る大和の四六サンチ砲が、ほんのわずかだけ仰角を上げる。正面に指向可能な一、二番砲塔だけでなく、背部の三番砲塔もまた、敵艦隊に対して斜めに針路を取ることで射線を確保した。
遠慮など一切ない。初弾から全力斉射だ。
主砲発射を告げるブザー音が、二回鳴り響いた。
「比叡さん、よく見えます、ありがとう。初弾より斉射、一撃のもとに屠ります!撃ち方、始め!」
次の瞬間、全ての音が世界から消えた。
百雷、否、万雷にすらも勝る大和の砲声が、あたりの空気を震撼させる。あまりの轟音に、世界から音がなくなってしまったような錯覚までする。球状に広がった衝撃波は海面にクレーターを作り出し、比類なき砲炎が海を、空を焼く。反動で、脚部艤装が半分も沈み込んだほどだ。
最大最強の火砲、四五口径四六サンチ砲。要塞のごとき三連装砲塔にそれを収め、計三基搭載、合計で九門。一撃で山すらも吹き飛ばす砲撃が、今たった一隻の戦艦に向けて放たれたのだ。
距離八千での砲撃は、戦艦同士の砲戦において至近距離と言っていい。海面上をほとんど這うように飛翔した四六サンチ砲弾は、十秒もせずに戦艦棲姫に吸い込まれる。その砲撃は、降り注ぐ流星というよりも横薙ぎの暴風雨といったイメージだ。通常の砲撃戦を脳天からの拳骨に例えるなら、今大和が放った砲撃は、重量級ボクサーのストレートといったところだろう。
忘れてはならないのは、そのボクサーは、世界最強の拳を持つ、ということだ。
大和の初撃は、狙い違わず、向かって左の戦艦棲姫を捉えた。戦艦棲姫の艤装――後ろに控える異形の怪物が、姫を守護せんと巨大な手を前に突き出し、装甲の役目を果たす。
だが、距離八千で放たれた四六サンチ砲の貫徹力は、そんなものでは防げなかった。二発の砲弾が深々と艤装に突き刺さり、地獄の業火を現出させる。天を突かんばかりの火柱が生じたかと思えば、いとも容易く艤装を引きちぎる。巨大な三連装砲塔が、まるでブリキの箱ででもあるかのように、軽々と宙を舞って海面に激突した。
怪物が苦悶の雄叫びを上げる。それを見た戦艦棲姫が、慄いたような表情を浮かべた。初めて、感情らしい感情が垣間見られた瞬間だった。
戦艦棲姫の目標は、完全に大和に移った。主砲が旋回し、その矛先を大和に向けようとする。だが、そんな隙を与える大和ではない。
四十秒の装填時間の後、二度目の斉射が放たれた。再び洋上を駆ける、鋼鉄の暴風雨。それらがあっという間に弾着する。今度の命中弾は三発。発砲遅延装置によって狭められた散布界が、複数弾の同時弾着を可能にしていた。
戦艦棲姫の艤装が大きく抉られ、破片をばら撒く。再び主砲塔が吹き飛ばされ、三基の両用砲もまとめて薙ぎ払われる。どす黒い何かを垂れ流し、怪物が甲高い悲鳴を上げていた。
戦艦棲姫の浮かべている表情は、憤怒のそれだった。取るに足らぬと全てを睥睨していた瞳が、醜く歪んでいる。真っ直ぐに大和を捉え、射殺さんばかりに睨む。
二隻の戦艦棲姫が、斉射を放った。比叡と霧島を完膚なきまでに叩きのめした長砲身一六インチ砲が二隻分、大和へ向けられる。それでもなお、大和は負ける気がしなかった。
弾着の水柱が至近に立ち上り、視界が八割方失われてもなお、大和は三度目の斉射を放った。これで決まる、その予感があった。
九発の四六サンチ砲が、全てを薙ぎ払わんと、撃ち出される。それらは何の迷いもなく、戦艦棲姫を目指していた。あたかも、それが運命であるように。
三度目の衝撃に、怪物は耐えられなかった。命中弾は三発。うち二発が怪物に突き刺さり、残った艤装を粉々に打ち砕いて、トドメを刺した。そして、最後の一発が、中央の戦艦棲姫本体に命中する。
信じられない。現実を受け入れまいとする表情と同時に、そこにはとても生物的な、死への恐怖が浮かんでいた。
一際巨大な火柱が洋上に生まれる。柱というよりは、最早一つの玉だ。巨大極まる炎の塊が全てを飲み込み、視界を白く染め上げた。それが収まった時、そこにいたはずの戦艦棲姫は、跡形もなく消え去っていた。弾火薬庫の誘爆が、巨大な戦艦を一瞬で葬り去ったのだ。
「敵戦艦撃沈!目標を二番艦へ!」
瞳を紅に染め、怒りのまま砲撃を繰り出すもう一隻の戦艦棲姫に向け、大和は諸元の算出を始める。
「諸元入力よし。撃ち方、始め!」
新たな目標への第一射もまた、先ほどと同じ斉射だ。九門の四六サンチ砲が咆哮し、大和はその反動に負けじと両足を踏ん張る。
ふと、その砲炎の中に、何か影が混じった気がした。
首を傾げる間もなく、光は収まる。影の正体はわからない。
代わりに、別方向で砲声が響き始めた。大和よりも遥かに小さな砲炎が、少しばかり前の海域で生じている。
(吹雪さん……)
敵前衛の軽艦艇と接触した吹雪たちが、戦闘を始めた証拠だった。