吹雪の心は、ここになかった。
敵艦隊本隊から分離し、大和への接近を試みる敵軽艦艇たちと接触しながら、その意識は正面の戦闘に向いていない。否、正確には、目の前の戦闘を正視できていなかった。
誰かに呼ばれて、何かに導かれて、この海に来た。わたしは、あの先に行かなければならない。この海域の中心点、ポイント・レコリスへ。そのためには、あらゆる障害を取り除かなければならない。
そのはず、なのに。
駆逐艦が束になってかかってくる。睦月と神通がそれに砲を向け、撃沈しようとする。吹雪もまた、長一〇サンチ砲を構え、敵駆逐艦の一隻に狙いを定めた。
だが、引き金を引くことが、できなかった。
(なんで、どうして……!?)
怖い。怖い。この手で殺してしまうことが、怖い。
深海棲艦は、もはや得体の知れない何かではなく、自らの半身に近い存在だと知ってしまった。あれらは――
轟沈というプロセスが、深海棲艦を艦娘に戻す、唯一の方法。それは加賀の語っていたことだ。理屈ではわかっている。この引き金を引くことが、あるいは魂の救済になるのかもしれない。
けれども、実際にそれを目の当たりにした今、吹雪にはどうしても引き金を引くことができなかった。
動け、動け、動け。全神経を、右手の人差し指に集中する。冷や汗が滝のように噴き出し、視界が霞む。足元もおぼつかない。
「やっぱり、だめだ……」
肩から力が抜け、長一〇サンチ砲を下げる。撃てない。引き金を、引けない。
こんなものだったのか、わたしの覚悟というものは。たったこれだけで揺らいでしまうのか。自分と同じ存在を前にしただけで、自分の目的を叶えられないような、その程度の覚悟だったのか。
これを、覚悟してなお、加賀は深海棲艦と戦い続けていたのか。
睦月の声が、聞こえる気がする。神通の声が、聞こえる気がする。けれど、どうすることもできず、吹雪は膝をつく。
無力だ。覚悟のできていない自分は、これほどに無力だ。この、心の内には何もない。
――何もない。憶えていない。だって、それはワタシのものだもの。
頭の中に、声が響いた。彼女だ。
そうか、そうだった。ここは彼女のいる場所。だったらどこかで、ずっとこちらを見守っていても、何もおかしくはない。
――アナタは絶望する。アナタには何も残っていない。だって、全て置いていくと、言ったじゃない。
言っていない。そんなことに、憶えはない。だけど何か、大切なことを忘れている予感は、ある。
彼女はそれを、知っている。
――さあ、前に進んで。ワタシに会いにきて。どれだけ仲間を犠牲にしてもいい。ワタシに会いにきて。そうすれば、その絶望を、なくしてあげる。
そのささやきを最後に、彼女が頭の中から消えた。
ハッとして顔を上げる。
「吹雪ちゃん!」
肩をゆすぶって、睦月がこちらに呼びかけていた。焦点を何とか合わせ、その顔を見る。硝煙と海水にまみれ、所々煤で汚れた顔が、吹雪を不安げに覗き込んでいた。
「睦月、ちゃん……」
「どうしたの!?しっかりして!」
必死の呼びかけにも、吹雪は俯いてしまう。長一〇サンチ砲を握る手が、小刻みに震えていた。
「撃てないの……撃てないんだよ、睦月ちゃん。わたし、怖くて……っ!」
隠せない感情を、吐露する他なかった。言葉にしたことで、その恐怖が、より現実味を帯びて、吹雪を襲う。
何人。今まで、何隻、この手にかけてきた。W島沖、南方資源地帯、コーラル・シー、MI諸島。何隻も沈めてきた。何隻も焼き払ってきた。誤魔化しようもないくらい、奪ってきた。
この手はもう、同胞の血にまみれている。
「艦娘が、深海棲艦になって……深海棲艦が、艦娘になって……。じゃあ、それじゃあ、わたしたちが戦っているのは、一体どっちなの……っ」
「吹雪ちゃん……」
睦月の顔を、直視できない。少し、嘘をついている。理由はそれだけじゃない。
あいまいな予感。呼びかけてくる彼女が、もう一人の自分じゃないのか。深海棲艦としての、吹雪ではないのか。
どうしたらいいの。何が正解なの。何もわからず、それが怖い。
その時、睦月がゆっくりと、踵を返した。吹雪に背を向け、海面に立つ。
「吹雪ちゃんは、そこにいて。動かないで。吹雪ちゃんの分まで、睦月が戦うから」
顔を上げる。睦月が単装砲を構え、敵駆逐艦へ向けて発砲した。砲弾は狙い違わず、敵駆逐艦の正面装甲を射抜き、炸裂する。それを見た数隻の敵駆逐艦が、一斉に睦月の方に向かってきた。
「睦月ちゃん、いいからっ。わたしのことは放っておいて、睦月ちゃんは神通さんと一緒に、」
「いやだっ」
それは、これ以上なく強い、語気だった。
「怖いよ。わたしだって怖いよ。この手で、仲間かもしれない艦を、沈めるんだよ。誰だって、きっと同じように怖いよ」
加賀、だけではない。赤城も、大和も、おそらくは長門や陸奥、他の艦娘たちも。彼女らは、自らの手で同胞の命を奪う、その恐怖に直面しながらも、戦っている。
きっと誰しもが怖い。そして苦しい。それは、わたしと共にその事実を知ってしまった、睦月もそうだろう。今も二挺艦の一隻として戦っている、夕立もそうだろう。
でもね。睦月はそう呟いて、こちらを振り向く。優しく、しかし悲し気な微笑が、その顔には浮かんでいた。
「大切な人がいなくなるのは、もっと怖いんだ。睦月、それだけは絶対、いやなんだ」
ハッとして気づく。
睦月は一度、如月を失った。大切な人を亡くした。何もできず、これ以上ないほどの無力感を、味わったはずだ。
MI作戦前。強くなろうと無茶をした吹雪に、睦月が本気で怒りを露わにしたことがあった。
――「いなくなっちゃうんだよっ!?沈んだらそれで、もう誰にも、会えなくなっちゃうんだよっ!?そんなの、いやだよ……っ!」
あの時もそうだったんだろう。一度、大切なものを失った。その痛みを、悲しみを、心に刻んだ。
だから睦月は、もうそれはいやだと言うのだ。
睦月の放った砲撃が、敵駆逐艦を捉え、爆砕する。一二サンチ単装砲は、艦娘の中でも最弱と言われる火砲だが、急所を捉えれば十二分に仕事を果たす。取り回しが軽い分、 対応能力が高く、加えて速射性能も申し分ない。睦月は、その特性をうまく生かし、数で上回る敵駆逐艦と戦っていた。
だがそれも、長続きはしなかった。数の力は何よりも偉大であり、ましてや駆逐艦でしかない睦月に覆せるものではなかったのだ。
睦月が一隻を仕留める間に、三隻が付け狙ってくる。本来は、吹雪が相手をしなければならない敵艦だ。それもまとめて、睦月が背負う。
「っ!」
ついに一発が、睦月の艤装を捉えた。爆炎は小さいが、装甲が無きに等しい駆逐艦にとって、その一発すらも重大な損傷になりかねない。破孔が穿たれた睦月の艤装から、細い煙が上がる。
「こ……のっ!」
お返しとばかりに、睦月が新たな射弾を放つ。単装砲を怒らせ、向かい来る敵を薙ぎ払わんとする。
だがそれすらも、無駄な足掻きだった。
敵弾の一発が、睦月が持っていた主砲に当たる。正面防盾で火花が散り、弾かれた砲弾が空中で爆発した。衝撃で主砲が睦月の手から離れる。首にかけていた落下防止のベルトが、爆発の際に切れたのだ。
睦月の手を離れた主砲は、その後方へ数メートルほど吹き飛び、海面に落着した。どこかしらに空気が残っているのか、いまだぷかぷかと浮かんでいる。
睦月が一瞬、こちらを振り向いた。砲炎に照らされる瞳が、彼女がこれから何をしようとしているのか、雄弁していた。
「だめっ!」
両手を広げ、睦月は吹雪と深海棲艦の間に割って入る。砲の類はもう持っていない。それでもなお、睦月は吹雪の前に立つ。
―――そんなの……そんなの……っ!
それでは意味がない。それでは失ってしまう。
大切な、人を。
敵駆逐艦が咆哮し、その砲口に新たな爆炎を躍らせんとする。睦月を五インチ砲の餌食にせんとする。神通は間に合わない。
「だめえええええっ!」
絶叫し、吹雪は腕を上げる。
その手に握った長一〇サンチ砲を、構える。
ゆっくりと、その引き金を、
引いた。
砲声が響く。砲口から砲弾が飛び出し、敵駆逐艦を射抜かんと飛翔する。
そして、さらに言えば。
砲声は、吹雪の独奏ではなく。どこか別の場所から聞こえた、もう一つの砲声と合わせた、二重奏であった。
弾着の瞬間。吹雪の放ったものとは別に、さらに一発が、敵駆逐艦を捉えて火柱を上げていた。
一体どこから。自らが放った主砲のことをそっちのけで、吹雪は辺りを見回す。
その時、背後から迫ってくる推進器音に気づいた。神通のものでも、ましてや大和のものでもない。軽快な音の連なり。爽快な波の音。それは明らかに、駆逐艦のものだった。
闇の中から現れた
こちらを振り向いていた睦月の瞳が、これ以上ないほどに見開かれる。半開きの口からは、しかし言葉は出てこない。それを知ってか知らずか、もう一人の艦娘は睦月の横を素通りし、真っ直ぐに敵駆逐艦に肉薄していく。砲炎を瞬かせ、砲弾を次々と叩きつけながら、彼女は深海棲艦に挑みかかっていく。
立ち上がった吹雪は、海面に立ち尽くす睦月に寄せる。主砲をなくした睦月は、両の手を祈るように握り合わせていた。薄暗い中で淡く見えるその横顔は今にも泣きそうで、驚きと悲しみ、そしてそれらに勝る喜びに満ちていた。
吹雪は改めて、件の艦娘を見つめる。
細い煙突。キセル型の吸気口。単装の主砲と、増設された様子の高角砲、機銃。太ももの三連装魚雷発射管。睦月型共通のパーカーを着て、長い髪を潮風になびかせる、彼女。
その正体は、言わずと知れていた。
言葉を失っていた睦月が、やっとの思いで叫ぶ。
「如月ちゃんっ!」
艦娘――如月の連続砲撃が、敵駆逐艦を爆砕する。次の瞬間、放たれていた魚雷が残り二隻の駆逐艦に到達し、その下腹を抉り取った。苦痛の叫びすらあげる暇もなく、二隻の駆逐艦は波間に沈んでいく。
それを見届けた如月が、初めてこちらを振り向いた。
夜でもわかる、青白い顔。深海棲艦のそれとわかる毒々しい何かが顔面をも侵食している。額からは角がのぞき、自慢の髪も今や白銀に染まっていた。
最早手に負えないほど、その深海棲艦化は進んでいる。吹雪にも、そしておそらく睦月にも、それはわかった。あと少しすれば、如月は完全に深海棲艦になる。
だというのに、その表情は、穏やかな元の如月そのものだった。疲労と不安に塗れ、見る影もなかった表情が、まるで憑き物が落ちたように、凪いでいる。
「如月ちゃん、どうして……」
質問になっていない睦月の問いにも、如月は律儀に答えた。とても丁寧に、ちゃんと全て伝えようと。
「ごめんね、睦月ちゃん。でも私は、最後までずっと、睦月ちゃんの隣にいたいの。それが私の、幸せだから」
最後。如月の口にしたその言葉の意味は、痛いほどわかった。彼女が何を思ってここにいるのかも。
それはきっと、世界で一番のわがままで。けれど世界で一番の、優しさと愛に満ちている。
今にも泣きそうな顔で笑いながら、睦月は何度も大きく頷いていた。そんな睦月の頭を、如月が愛おしそうに撫でる。それはいつか見た、仲良し姉妹の光景だった。
束の間の安らぎ。しかしそれも長くは続かない。ここはいまだ、戦場の只中だ。
如月が単装砲を睦月へ手渡す。先程睦月が落としたものだ。敵駆逐艦との戦闘前に拾ったという。
睦月がそれを受け取り、構える。それで準備は完了した。やることはわかっていた。
敵軽巡三隻を相手に苦戦する神通が見える。大規模改装を終え、軽巡としては破格の戦闘能力を得たとは言えども、所詮は軽巡。自ずと限界はやってくる。その前に加勢しなければ。
吹雪たちは主機の回転数を上げ、加速する。ふと、すぐ横を並走する如月が、吹雪の方へ進路を寄せてきた。
「ありがとう、吹雪ちゃん。睦月ちゃんのために、撃ってくれて」
つい先ほどの戦闘のことを言っているのだとわかった。吹雪は首を振る。睦月をあそこまで追いつめたのは、自分の責任なのだから。
「それでも、ありがとう。やっぱり、あなたが睦月ちゃんの友達で、よかった」
だというのに、如月はそう言って笑った。
「迷うことも、悩むことも、怖くなることだって、ある。私もね、やっぱりまだ、怖いの。だけど私は、それでも、睦月ちゃんを助けてあげたい。だからここで、戦えるの」
如月の瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。
「吹雪ちゃんも、そうでしょう?誰かを守りたいから、撃つ。迷いも悩みも、恐怖も振り払って。それを、あなた自身のエゴと言う人もいると思う。だけどそのエゴは、とても正しいものだと思うわ」
「わたしの、エゴ……」
「そう。あなた自身が、何をやりたいのか。どこへ向かいたいのか。私のエゴは、睦月ちゃんの側にいること。何があっても、睦月ちゃんを守ること。たとえ、他のすべてを犠牲にすることになったって。――ねえ、吹雪ちゃん。あなたのやりたいことは、何?」
わたしの、やりたいこと。
それは形のない目的。けれど。おそらく。きっと。
吹雪自身、それがなんなのかは、わかっていた。
会いに行かなければいけない人がいる。
独り言に近い呟きに、如月が頷いた。
「あなたは、そのために、前を見続けるのでしょう?あなたが前進を、その先への一歩を拒まない限り、私は――私たちは、あなたと共に戦う」
三隻の駆逐艦が、束になって軽巡に襲いかかる。猛然と撃ち出される砲弾が、敵軽巡を側方から包み込み、反撃の開始を高らかに告げた。軽艦艇同士の砲戦は展開が早く、機動力を重視した戦いになる。
彼我入り乱れた乱戦が始まり、白い航跡と真っ赤な砲炎が複雑に絡み合う。吹雪も、睦月も、如月も、そして神通も、死力を尽くし、敵軽巡に向かっていった。
一方、大和の戦闘も大詰めを迎えている。残った戦艦棲姫に対してすでに命中弾を得、斉射に移行している。戦艦棲姫もすでに三度目の斉射であり、いよいよもって、史上最大の戦艦同士による砲戦がその決着を迎えようとしている。
傷つく者。力を示す者。夜闇の混沌は、今まさに最高潮であった。