吹雪と、深海吹雪のお話。
不思議な夢を見た経験は、何度かある。
夢の記憶はあいまいで、霞がかかったように儚く、確かなことなど一つもない。ただはっきりと、それが夢であったことだけはわかる。
断片的に思い出せる光景は、三つ。
おぼろげな月明りのように差し込む光。
熱を帯びた体に心地よい水の冷たさ。
そしてどこからか聞こえてくる声。
……今もまた、夢を見ている。
海の底を見ている。暗く暗く、深い海の底を。
いや、暗いのは当たり前か。さっきまで、海の上は真夜中だった。差し込む明かりは月ではなく、光の柱の輝きだろうか。
夢はとても断片的だった。だから勘違いしていた。
ここは、どこだろうか。サーモン海域の海だろうか。
――正確には、ソロモン海域、と言うのよ。
不意に、頭の中で彼女の声がした。
どこ。どこにいるの。けれど彼女の姿はない。
これはやはり、夢?いいえ、それとも今まで見てきた彼女が、夢?
――どちらも違う。ここはワタシの夢、みたいなもの。ワタシの記憶。アナタの記憶。
「わたしの、記憶……?」
――そう。アナタが忘れていること。
途端、目の前の風景が一変した。先程の海の景色とは全く違う。穏やかな日中の光景。柔らかな光が吹雪の目の前に広がる。
彼女の記憶だと言っていた。だとしたらこれは、現実や夢というより、映像に近いのかもしれない。彼女の記憶を映し出す、記録映画のようなものだ。
多くの人が、海を見ている。子供も大人も関係なく、手を振り、旗を振る。
海に何がいるというのだろう。吹雪もまた、海を見る。
船だ。船が十数隻、まとまってそこにいる。小さいもの、大きいもの、数多ならんで、勇壮に、堂々と航進していく。あれは軍艦だ。海軍の船だ。
その中に一隻、特に真新しい艦がある。大きな艦ではない。ごつごつとした大層な構えもない。どちらかといえば線の細い、鋭さが印象的な艦だ。
主砲は三基。魚雷発射管も三基。高い前部マストの前に控えめな艦橋もある。
ああ、あの艦は。吹雪は特に目を引かれ、その艦に見入ってしまった。
真新しいペンキが塗られた艦体。艦首には「11」、そして舷側には「フブキ」の文字。
――駆逐艦〔吹雪〕。アナタの名前。
いつの間にか、彼女が背後に立っていた。
場面が切り替わる。今度は海の上。艦の上。直感でわかった。ここは、〔吹雪〕の艦橋だ。〔吹雪〕の艦橋から、海を見ている。
それほど大きい艦ではないからか、波に合わせて艦が動揺している。細い艦首が波を割き、艦を進める。
〔吹雪〕は艦隊を組んでいる。同じような大きさの艦が隊列をなし、波間をものすごい速さで進んでいた。
――第十一駆逐隊。アナタの仲間。
「第、十一、駆逐隊」
その名を反芻する。聞きなれない響き。けれど懐かしい響き。
彼女の記憶は、さらに移り変わる。今度は夜の海。先程まで吹雪のいた場所と、とてもよく似ている。
左右に見える島影。夜に紛れた先に他の艦。艦首の先に見える海は、どす黒く染められている。
その時、閃光が走った。闇夜を一瞬にして切り裂くその光を、吹雪はよく知っている。あれは砲炎。軍艦が軍艦に向けて、攻撃を仕掛けた瞬間だった。
数秒と経たず、周囲の海水が沸騰した。その後も立て続けに襲い来る砲弾、水柱、衝撃。そして、自らの装甲に砲弾がぶち当たる、嫌な感覚。
一寸刻み、とはよく言ったものだ。次々に命中する砲弾が、〔吹雪〕をスクラップへ変えていく。前甲板、後甲板、主砲も、魚雷発射管も、艦橋も、分け隔てなく穴が穿たれ、原形を残さず崩れ去る。
痛い。痛い。痛い。感覚が痛覚だけに支配される。燃える熱さ。引き裂かれる痛み。全てがまるで、この身に起こったことのように、感じられる。
否。
――サボ島沖。ここがアナタの、終焉の地。
はっと目が覚める。そうだ、そうだったではないか。この身に起こったことのように、ではなく、事実この身に起こったことだ。このわたし自身が経験したことだ。
駆逐艦〔吹雪〕の記憶そのものだ。
夢が、そこで途切れた。記憶の奔流が、止まった。訳も分からず涙を流しながら、吹雪は目を開ける。
そこは再び、海の底。それほど深い場所ではない。見上げれば、頭上に海面の揺らめきが見える程度だ。けれどもそこには、顔を背けたくなるほどの、死の匂いが充満していた。
海底が見えないほど、鉄屑が散乱している。大きなもの小さなもの、形あるもの形を留めぬもの。あらゆる鉄屑が折り重なり、海底を覆う。そこに生命の匂いはしなかった。ただひたすらに、無情なまでの死が横たわる。
「ここは……」
それに応える者は、瓦礫を踏みしめ、背後から現れた。
「何度でも繰り返す世界。時を超え、海を越え、想いを越え。何度も何度でも繰り返す。ここは、そんな世界に打ち捨てられたものの、行きつく場所。その一つ」
少女はようやく、吹雪の前に姿を現した。
吹雪とよく似た容姿。鏡写しのような顔形。ただし、その肌は透けるように白く、瞳はルビーの輝きを宿す。白いスカートを海流にはためかせ、彼女は吹雪の隣に立つ。
「ようやく、会えた」
吹雪の方を見て、彼女が薄く笑う。そこに含みはない。心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「おいで。少し歩こう。ここを案内してあげる」
「……あなたは、」
「ああ、そうだね、うん。ワタシの名前はフブキ。それ以外に名前は持ってない」
吹雪とフブキ。あの記憶が正しければ、自分も彼女も、どちらも吹雪ということになる。
彼女は――フブキは、鉄の絨毯をゆっくりと歩いていく。足取りに不慣れな様子はない。まるでそれが当たり前であるように、ただ散歩するように、海底を歩いている。
フブキに続くように、吹雪も足を踏み出した。踏みしめた鋼鉄の残骸が、軋み音を上げる。
「鉄底海峡。アイアン・ボトム・サウンド。ここはそう呼ばれてる。鉄の敷き詰められた海。あの戦争最大の激戦で、ここは船と飛行機の墓場になった」
……見回せば、それらしい影がそこかしこに転がっている。船の船首部分。航空機の発動機。スクリューが転がる横に、キャノピーの残骸が横たわる。多種多様、無数とも思える残骸が敷き詰められている。
「多くの艦が沈んだ。飛行機も、もちろん人も。それだけ激しい、戦争だった」
まるで見てきたように――いいや、実際に見てきたのだ。フブキはこの海が生まれる様を、知っている。
「名前を上げ出したらキリがない。ここはそんな場所。名もない墓標が立ち並ぶ海。ここに多くの者が眠っている。……吹雪、ワタシたちも、そう」
そう言って、フブキは一隻の艦を――艦だった残骸を指さす。
海底にそれは横たわっている。錆びて、朽ちて、海洋生物が付着したそれには、記憶で見たような精悍さは残されていない。だが、その残骸が、〔吹雪〕の墓標であることは、はっきりとわかった。
確かに感じ取っている。この体が、〔吹雪〕の記憶を。この海の記憶を。
「沈んでしまった艦は、そこで眠るしかない。ワタシたちはこの海で、永遠の眠りを迎えるしかなかった」
〔吹雪〕の艦体に歩み寄り、その表面を撫でながら、フブキが言う。数秒の後、その瞳が、静かに吹雪を見た。怒り、悲しみ、様々な感情を内包した瞳に、息を飲む。
「でも、アナタは――ワタシたちは沈みたくなかった。この海で終わりたくはなかった。運命を受け入れて、だけど心の内で願わずにはいられなかった。……帰りたい。故郷へ、もう一度あの海へ」
そしてその願いは、叶えられてしまった。今から十年前のことだ。
「ワタシたちは目覚めてしまった。眠りを拒否して。そして、アナタは……その願いのまま、海の上を目指してしまった。ワタシを、この水底に置いて」
二人の吹雪。その正体は、元々一つだった吹雪。願いと記憶に分かたれた、二人で一つの吹雪。
吹雪は、〔吹雪〕の片割れ。〔吹雪〕の願いだけが形を持った存在。〔吹雪〕の願いそのもの。フブキはそう語る。
「ワタシは、ここで待つつもりだった。アナタが願いを叶えて、ここへ戻ってくるのを。一人でずっと、待つつもりだった。だけど……それだけでは、終わらなかった」
静かに。フブキが人差し指を唇に当てた。耳を澄ませ。何かを聞けと、言っている。
吹雪も耳を澄ます。特に目立った音はない。潮の流れる音。波が渦巻く音。それらが混じり、残骸の間を駆け抜け、不思議な音色を奏でる。
……本当に、音だけか?
「アナタにも、聞こえるのね」
声だ。声のように聞こえる。いつかこの海で聞いた、求めるような声。懐かしい声。悲しい声。
――カ……テ。……リタイ。
耳を澄ます。声を聴き取ろうとする。
――カエリタイ。カエシテ。
帰りたい。帰して。そう言っている。
帰還を望む声。故郷を求める声。
これは、一体。
「この地で眠る、艦たちの魂。沈んで、眠りについて、それでも故郷を求める声。でも、一番強い願いは……」
「忘れないで。忘れないで。どうか私たちを、忘れないで。世界は繰り返す。その事実は変えられない。だからせめて、この行き止まりに眠る私たちを、忘れないで」
それが艦の願い。ここに眠る魂、記憶の願い。それを、ずっとずっと、フブキは聞き届けてきたのだろう。
「ワタシは、その願いを聞き届けた。アナタが、アナタの願いを叶えるのなら。残されたワタシは、ここに眠る記憶の願いを叶える。そのために、深海棲艦を産み出した」
フブキは語る。彼女が深海棲艦を産み出したと。彼女が深海棲艦を産み出した理由を。
〔吹雪〕の舷側に降ろされたタラップを、二人で登る。甲板まではさして高さもない。すぐに開けたところに出た。海底からわずかに高さのある場所。光の柱が照らすアイアン・ボトム・サウンドの全景を眺めるには十分な場所であった。
鉄の水底は視界の果てまで続いている。船も航空機も、一切の区別なく、そこで眠っている。それを、二人の吹雪は並んで眺めていた。
「……艦の記憶を集め、願いと渇望を糧に体を作り、海の上へ送り出した。彼女たちは海上にあるものを妬み、憎み、襲う。誰かの記憶に、自分たちを刻みつけるため」
深海棲艦が船を襲う理由。それは、自分の存在を、艦が記憶を刻みつけるためだと、フブキは静かに語った。
「でも、ワタシと同じ願いの艦ばかりじゃなかった。それを良しとせず、アナタの真似をして海の上に出て、艦娘として深海棲艦に対抗することを選んだ艦もいた。……いいえ。ワタシが傾けた世界の天秤を保つために、艦娘という抑止力が産まれる必要があった」
艦娘は、深海棲艦の在り方を否定するもの。自らの存在のために、他者を襲うことを良しとしないもの。魂の、相反する二つの部分。天秤のバランスを保つ存在。
だから両者は戦う。相容れることはない。艦娘と深海棲艦の戦争は定められた運命だ。互いに沈み沈め。その度に入れ替わり、繰り返し。
「それが……それで、あなたの望みが、叶えられると思うの……?」
吹雪の問いかけにも、フブキは迷うことなく答える。
「ええ、叶うわ。ワタシの望み、亡霊たちの望み、それは叶えられる。船の魂が、深海棲艦として、あるいは艦娘として存在する限り、誰も忘れない。ううん、誰にも忘れさせない」
ワタシたちは、ここにいるのだから。フブキは確固たる意志のもとにそう告げた。
「深海棲艦も、艦娘も、根本は変わらない。どちらも所詮はただの記憶、形を持ってしまった亡霊の類よ。渇望を糧に破壊を望む深海棲艦と、それを良しとしない艦娘。けれどどちらも、自らが消えることは望んでいない。誰かに憶えていてほしい、忘れないでほしい。それは隠しようのない、両者の本音だから」
だから、繰り返す。艦娘と深海棲艦は相容れないはずなのに、根本は同じだ。終わりを無自覚に拒んでいる。消滅を恐れている。そうした魂の在り方が、運命の軛を産み出し、輪廻を創り出している。
「ワタシたちは、そのために用意された、触媒。沈んだ艦娘の魂は、ワタシを通して深海棲艦になる。深海棲艦は、アナタを通して艦娘になる。そこに明確な違いはない。魂と記憶の在り方、表裏一体の存在、それが深海棲艦であり艦娘。唯一違うのは、魂の密度。艦娘は魂の塊だけど、深海棲艦は砕けた片鱗みたいなものだから」
それはつまり、どちらかがいなくなれば、この繰り返しは断たれる。吹雪がいなくなれば、艦娘は生まれない。フブキがいなくなれば、深海棲艦は生まれない。
なら、フブキの目的は――
(わたしを消して、艦娘が産まれなくすること)
いいや、それは違う。それでは果たされない。忘れないでほしいという、艦の願いを叶え続けるためには、吹雪とフブキ、二人が存在し続けなければならない。
「ワタシには関係ない。ワタシはこのままでいい。それが願いだもの」
それがフブキの答えなのだろう。
「……もし、艦娘がいなくなったら、どうなるの」
「深海棲艦も消えるわ。逆もそう。ワタシたちは、生まれた時からそういう運命だから。魂のバランスを取る、天秤の両側。どちらかが消えれば、もう一方も消える。だからきっと、ずっと繰り返している」
とても重要な話なのに、フブキは心底興味がなさそうだった。まるで憐れむかのように、その目は彼方を見つめていた。
「終わらない戦い。結局、ここでも繰り返し。変わらない。変われない。だってそうできている。それはもう、変えてはいけない」
まあ、でも。そう呟いて、フブキは少し笑った。何が可笑しいのか、口の端を歪めて、笑った。
「ワタシが望もうと、望むまいと、何も変わっていないわ。人間が作った世界は、必ず繰り返すだけだから」
フブキはそう言って、笑ったまま、吹雪に手を伸ばす。
「世界の流れも、艦娘と深海棲艦の戦いも、ワタシたちには関係ない。ワタシはアナタに会えれば、それでいい」
フブキの手が、頬に触れる。冷たい手に頬の熱が吸われる。入れ替わるように、〔吹雪〕の記憶が流れ込む。
それは後悔、無念。鉄の水底へと沈みゆく中、静かな眠りの直前、奔流となって駆け巡った想念。
わたしに会いたかった。それはフブキの隠さない本音だろう。だけどそれだけじゃない。わたしという願いを産み出すほど、〔吹雪〕の想いは強く、その後悔も無念も渇望も執念も、強く強く、とても強かった。
〔吹雪〕の記憶の部分。願いが抜け落ちたフブキは、人一倍その想念が強かったはずだ。
「アナタも望んでいたでしょう?こうして、ワタシのところへ帰ってくることを」
フブキが吹雪を抱きしめる。体は冷たく、凍てつくようだ。それなのにその抱擁は、暖かな懐かしささえ感じる。ここがわたしのあるべき場所なのだと、そう思わせる。
おかえり。耳元で、フブキが囁いた。
頭がぐらつく。不思議と力は入らない。抵抗する気は全く起きない。それはとても虚しく、無駄なもののように思えた。
ここがわたしの帰る場所。辿り着いた場所。ずっと追い求めていたもの。
それが真実だ。
「っ!」
勢いよくフブキが体を引き剥がした。浮かぶのは恐怖の表情。何かに怯える顔。
「なに……吹雪、どうして」
じりじりと距離を取る。先程の笑みが嘘のように、心の底から拒絶するように、吹雪から離れていく。
(ああ、そうだよね)
だってそうだろう。彼女はここしか知らない。この海しか知らない。吹雪を待つ間、鉄の水底を彷徨い続け、怨嗟の願いを聞き届け続けてきた。ゆえに恐怖を抱く。海の上へ。光の中へ。もちろん、外の世界を知る、吹雪に対しても。
だから、伝えなければならない。それが、記憶を投げ捨てて、願いのためにフブキを置き去りにしたわたしの、果たすべき義務なのだろうから。
それは、大和が教えてくれたことだ。睦月が願ってくれたことだ。夕立が育んでくれたことだ。赤城に諭されたことだ。司令官が指し示したことだ。誰もが伝えてくれたことだ。
(わたしは希望なのだから)
例えこの身が、絶望から産まれたものでも。死から這いずり出た渇望だとしても。わたしは、わたしたちの願いでできた、希望なのだから。
「……大丈夫」
今度は吹雪から、一歩を踏み出す。できうる限りに優しく微笑み、手を差し出す。
「大丈夫、だよ。怖がらないで」
一歩、また一歩。フブキへ歩み寄る。その度に、フブキは一歩後退る。
「いらない……イラナイ!ワタシには、必要ない。ワタシはこのまま、ずっとこの海のままで、いいのに」
「繰り返すだけじゃない。変われないわけじゃない。変われる。わたしたちは変わっていける。前に踏み出せる」
「嘘、うそ、ウソ!誰も、何も変わらない。変わらないから忘れていく。全部全部全部、なかったことになる」
「忘れるわけない。私が憶えてる。忘れさせない。なかったことになんてならない」
「アナタも……アナタも忘れてた。ワタシを置いて、この海のことも忘れて」
「忘れるわけない。たとえ記憶がなくても。心が、体が、〔吹雪〕が憶えてる」
「違う……違う!だって、だって……っ!」
ついに、フブキは頭を抱え、うずくまる。何かが彼女を縛る。彼女自身が
十年間、眠れる意志に囲まれ、その声を聞き続け、願いを叶えてきた。だから憶えていない、気づいていない。自分の願いのことを。
それを憶えているのは、吹雪の役目だったから。
「大丈夫、怖くないよ」
そう言って、吹雪はフブキを抱きしめる。今度は自分から。しっかりとこの腕で抱き留め、はっきり存在が伝わるように、抱きしめる。
「あ……」
触れればわかる。お互いに、同じ吹雪だ。こうしているときが、一番、自分のことがわかる。
だから、思い出したことがある。きっとそれは、とても大切な、戦う理由だった。
「わたし、あなたの願いを知っていた。あなたがあの声の望みを叶えようとしていたことも、聞いていた」
軍艦たる〔吹雪〕の願い。けれどそこに、本来形はないのだ。どれほど焦がれようと、想いが形を持つことはない。亡霊は実体化しない。
先に体を得たのは、フブキの方だ。波間に漂う
フブキが聞き届けた願い。その意味を吹雪も理解している。だからこそ吹雪は――艦娘の祖は、戦うことを選んだ。フブキの望まない願いを、終わらせるために。
本当の願いを、思い出させるために。
「わたしは願い。〔吹雪〕の願い。それは、あなたも同じ、願いのはずだよ。海を見たい。いつかの、穏やかな、あの海を見たい」
「それ、は」
「叶えていい。ここに留まらなくてもいい。一緒に行こう。わたしがいつでも、あなたの側にいる。あなたのことを、忘れたりしない。ずっとずっと、憶えてる」
フブキの肩が小刻みに震える。強張り、力の入った体が揺れる。その口から、微かに、嗚咽が漏れていた。背中に回されたフブキの腕に、少しずつ、力がこもっていく。
「あなた自身の、願いを聞かせて」
「それは……それは、ダメ!今更捨てられない。今更置いていけない。見殺しになんて、できない」
ずっと縛られてきた。十年もの間、フブキは形なき後悔に縛られ、本来とは違う願いを、抱かざるを得なかった。
一番根本にある理由は、彼女自身の、水上への恐怖であろう。だが、それを覆い隠す鎧として、フブキは水底に充満した渇望を選んだ。それこそが正しい願いだと、フブキが叶えるべき願いだと、自らに偽って。
「もう、いいよ。いいんだよ。誰も望んでいない。こんな形で、記憶に残ることを、誰も望んでいない。だから終わらせよう。あなたの本当の願いを、始めよう」
「ワタシ、は……ワタシは……」
フブキが、一際強く、吹雪を抱きしめた。閉ざした口から、秘めた心を吐き出すように。全てをつまびらかにするために。
フブキの口から、願いがこぼれる。
「ワタシ……ワタシ、は……!ワタシは、アナタと一緒に、いたい!アナタと一緒に行きたい!アナタの願いを、ワタシも……!」
フブキの願いが、彼女の口から洩れる。吹雪はそれに頷いた。
光が溢れる。ああ、やっぱり。どこかで気づいていた。これも、彼女の夢。彷徨い続けた〔吹雪〕の片割れ、フブキの記憶。水底に埋もれてからの、〔吹雪〕の記憶。
水底の景色が、白い光に覆われていく。光であたりが霞む。そんな中、腕の中のフブキだけが、はっきりした存在として感じられた。
「吹雪」
フブキが呼ぶ。涙が伝った跡の残る頬。笑った表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだ。
吹雪もまた、涙を流している。
「ありがとう」
フブキの顔が近づく。あの時の、一方的なものとは違う。今はその意味がわかる。
わたしたちはもう一度、一つの〔吹雪〕に戻る。
唇が重なる。フブキを感じる。水底で冷えた彼女に、吹雪の体温を伝えていく。やがて、フブキが吹雪の内側へ入ってくる、そんな感覚がした。フブキの形が薄れ、二人は一つになろうとしている。
フブキの感触が消えた時。自らの内側、欠けていたどこかに何かがはまった時。フブキの存在を、胸の内に感じた時。光が辺りを満たし、吹雪の視界は、再度何もない白に染め上げられた。
*
光だ。光が海を覆っていく。サーモン海域を染めていく。艦娘も、深海棲艦も、分け隔てなく飲み込んでいく。
その光の正体を、誰も知る由はない。けれど予感として、何か世界が変わっていくような、そんな感じはしていた。
光が収まり、睦月は目を開ける。そこは元の、夜の海。けれど一つ違うのは、光の柱が消え、代わりに光の粒のようなものが、空を覆っていることだ。
とてもとても淡い光。いつか話に聞いた、蛍のような光だ。
「きれい……」
呟いたのは、睦月のももに頭を乗せる、如月だった。弱々しい瞳に、輝きはほとんど残っていない。ただ蛍の光を、儚げに映し込む。
「……睦月ちゃん」
涙を堪え、できるだけの笑顔で、睦月は応える。わかっていた。もう、如月は長くない。
元々深海棲艦になり、艦娘ではなくなっていた。それでも、ここにこうして意志を持ち、残っていることが奇跡だったのだ。その体は、ずっと前からぼろぼろだった。
「うん、なあに、如月ちゃん」
「……私、幸せよ。あなたと一緒に居られて。最後まで、側にいられて」
涙を堪える。遺言に近い。如月の、最後の言葉だ。
だから応える。笑顔のまま、如月に応える。
「また、会おうね。絶対に、絶対にもう一度、見つけるから。だから今度は、もっとゆっくり、お話しよう。睦月、如月ちゃんと話したいこと、たくさんたくさん、あるんだから。だから……だから、睦月のこと、忘れないでね」
睦月の言葉に、如月は薄く笑った。頬を涙が流れる。すでに体の先端の方から、如月は沈み始めていた。
「その時は……お話の続き、聞かせてね」
如月が目を閉じる。もはや力はなく、ただ引き寄せられるように、彼女は海に沈み行く。それを止めはしない。
「約束、だよ」
穏やかなその表情が、波間に消えた時。睦月の頬を、一粒の雫が伝った。
光が収まった時、サーモン海域から赤い海は消えていた。元の蒼い海が、ゆるるかに揺蕩い、島々を支配する。そこに深海棲艦の姿はなかった。
艦娘たちは、ショートランドへの帰途に就く。彼女らが砂浜へその身を上げた時、水平線の先に朝陽が昇り始めていた。
吹雪編、これにて終了です。
次がエピローグとなります。