艦娘の道。目指す先。
針路(一)
春を迎えた鎮守府には、すでに気の早い桜たちが咲き始めている。梅はもう見ごろを迎えているらしいが、鎮守府内に梅は植えられておらず、その景色を楽しむことはできない。まあそれでも、何と言っても艦娘たちが楽しみにしているのは花見であり、大切なのは桜がいつ一番の見ごろを迎えるかということだ。
緑を見せ始めた木々の合間から、朝の光が差し込んでいた。つい数日前までは肌寒い日が続き、上着の着用が欠かせなかったが、今日はどこか暖かだ。
そんな外の様子を窺いながら、睦月は米櫃から白米を一掴み分取り、それを三角形に握る。お昼ご飯用のおにぎりだ。
浮き立つ心を包み込むように、優しく力を込める。うち三つはより強めに握り、塩も多く振っておく。握り終わったそれらを竹の皮に包んだ。
と、その時。眠そうな声と共にどこかから手が伸びてきた。その手は何かを探るようにちゃぶ台の上を動き、やがておにぎりを一つ掴む。
あっ。睦月が気づいた時にはもう遅い。夕立は掴んだおにぎりを口へと運び、そのまま畳の上をゴロゴロと転がっていく。
「ちょっ、夕立ちゃんっ!」
止める暇はなく、睦月は諦めたように溜め息を吐いた。夕立は寝ぼけ眼のままおにぎりをかじっていた。
「よし、準備完了、っと」
靴紐を結び、かかとを叩いた吹雪が立ち上がったのは、その時だ。第二次改装に準拠した濃紺のセーラー服を揺らす。清々しく笑うその表情は、一年ほど前に会った時から随分と大人びて見えた。それはやはり、あのサーモン諸島での戦いを経てからだと、睦月は感じていた。
あの時、吹雪に何があったのか。吹雪は何を見たのか。それを知る者はいない。けれども何か、決定的な経験があったことは、睦月にもわかった。吹雪は話して聞かせるつもりがないことも。
「はい、お弁当。気をつけて、行ってきてね」
睦月にできるせめてものことは、こうして吹雪を見送ることくらいだった。
「ありがとう。行ってきます」
睦月のおにぎりを受け取って、吹雪は部屋を後にする。笑顔で駆けていくその背中に、睦月と夕立は手を振った。
「いってらっしゃい」
*
鎮守府作戦指揮室。鎮守府襲撃後に再建され、装備品等が更新されたこの施設は、頑丈な防護壁に守られて鎮守府庁舎の地下に造られていた。
その部屋には今、三人の艦娘が詰めている。無論、作戦を指揮・統括する立場にある長門、陸奥、そして通信担当の大淀だ。
提督はいない。相変わらずの放任主義者だ。今回の作戦にしたって、基本的な作戦立案は長門と陸奥で行っている。
(まあ、今はいいさ)
好きにやらせてもらえるのは、悪い気はしない。
「時計合わせ、十秒前」
ヘッドセットをつけた大淀が、マイクに向かって吹き込む。出撃用のドックにはすでに艦娘たちが集まっており、各々時計を見つめて大淀の秒読みを待っている。
「五……四……三……二……一……今」
一〇〇〇。これから、作戦が始まろうとしていた。
あくまでこれは、一連の大型作戦のうち一段階に過ぎない。静かな海を取り戻す戦い。艦娘が初めて見出した、意味ある戦い。
提督たちや上層部は「オペレーション・ブルー」などと呼んでいるようだが、長門たちは独自に「帰還」作戦と名付けていた。
訓示を述べるべく、長門はマイクを取る。
「作戦開始にあたり、改めて述べる訓示はない。各艦の健闘を祈る。以上だ」
それだけ申し述べ、マイクを切る。作戦開始と出撃に関する各指示を飛ばす大淀を尻目に、長門は海図の広げられた机に戻り、陸奥の向かい側に腰かけた。
「長門はこれでよかったの?」
陸奥が尋ねてくる。質問を長門に限定するあたり、頭のいい訊き方だ。これは答えざるを得ない。
「当然だ」
頷き、しばらく思考する。思い出しているのは、サーモン海域での吹雪の報告だ。あの光の柱の内側で、吹雪が出会ったものの報告だ。
興味深いものはいくつもあった。だが長門にとって一番大切だったのは、吹雪が吹雪一人になったことで、艦娘と深海棲艦の繰り返しに終わりが見えたことだ。フブキの言を信じるなら、艦娘が深海棲艦になることは最早ない。
しかし、裏を返せば、轟沈した艦娘が深海棲艦となり、そして再び艦娘となることはなくなったということだ。艦娘は、深海棲艦という過程を経ない限り、艦娘に戻れないのだから。
「吹雪からの報告は辻褄が合っている。私自身、納得もしている。深海棲艦も、艦娘も、記憶の片鱗に過ぎず、所詮は形を持った亡者、幽霊と同じだ。過去を生きた者が、いつまでもこの世に留まるものじゃない。それは未練というものだ」
忘れられたくない。歴史の果てに消えたくない。それは誰もが同じ想いだろう。艦娘や深海棲艦は、その想いの、なれの果てだ。
それを間違いだとは言えないし、思いたくもないが、だからといって艦娘と深海棲艦の在り方が正しいものとは言えない。
「『帰還』作戦は、我々が自らの存在を否定する作戦でもある」
「まるで自殺よね。深海棲艦と艦娘、どちらかがこの海からいなくなった時点で、もう片方も消える。そういう運命なら、なぜ生まれたのかしら。なぜ相争う在り方を選んだのかしら」
溜め息混じりに陸奥が感想を漏らす。
「だからこそだ。深海棲艦という未練、艦娘という未練。それを自ら断ち切れなければ、我々はいつまでたっても彷徨う亡霊をやめられない」
だから、艦娘は戦い続ける。その先に待つものが、変えようのない消滅だとしても。艦娘と深海棲艦の、どちらが先に滅びようとも。
未練を否定しなければ、きっと永遠に、安寧の時は訪れない。
「これは私たちの問題だ。私たちの手で解決しなければならない。そして全てが終われば、大人しく消え去るのも、美しい在り方さ」
「随分とまあ、達観した言い方をするのね」
両手をひらひらと揺らし、呆れたように陸奥は言う。
「なんにせよ、戦争に終わりを見出せたことは、いいことさ。終わりの見えない戦いほど、虚しく、辛いものはない。私たちは、それをどこか本能的に知っている」
あるいはそれが、それこそが、在りし日の軍艦から受け継がれた記憶なのかもしれない。
「彼女たちの表情を見ただろう。以前とは明らかに違う。先の見えない戦争の中で、鬱屈した空気が流れていた。皆、どこか無理をして、笑っていた。今は心からの笑みがある。終わりを見出せたからだ。目指すべき場所を見つけたからだ。例えそれが、自らの消滅と引き換えだとしても」
「……そう」
陸奥は諦めたように溜め息を一つ。それから、机の上で組んだ手に顎を乗せ、うっすらと笑った。
「長門の気の済むようにしたらいいわ。私はずっと、いつか消えてしまうその日まで、あなたの側にいるから」
大真面目にこれを言っているのだから。この同型艦は、本当に困ったものだ。
「そういうことは、男にでも言ってやるといいさ」
「誰に言えばいいっていうのよ。鎮守府は艦娘と妖精ばっかりだし、提督はああ見えて女だし」
……ちょっと待て。
「提督は女だったのか!?」
「……えっ」
嘘でしょ?そんな目で陸奥が長門を見る。
「なん……だと……」
思わず頭を抱えてしまう。この世界は、未だ長門の与り知らぬことが多すぎる。
「長門もまだまだねえ」
クスクスと笑う陸奥の前で轟沈し、長門は何とも言えない気分で息を吐き出した。
*
出撃の順番が迫っていた。
作戦指揮室の大淀から、艤装装着シークエンス開始の指示が入れば、吹雪は出撃レーンに足を踏み入れる。
ただ、もうしばらくは時間がありそうだ。
――吹雪。
と、どこからか声が呼びかける。最近出会った声。どこか懐かしい声。胸の内から聞こえてくるその声に、吹雪は目を閉じて答えた。
「どうしたの?」
問いかけに対して、しばらくフブキは黙っていた。
――……いえ、なんでもないわ。
結局問いかけを取り下げ、フブキは再び胸の奥に引きこもろうとする。
「海に出るのは、怖い?」
吹雪の言葉に、ピクリとフブキが反応する。
――……うん、少し。
何かを悩むような沈黙。
――ワタシはずっと、海の底で過ごしてきた。海の上なんて知らなかった。そこにある光が怖くて、ずっとずっと、閉じこもってた。
だから、今でも怖い。フブキはそう語る。
――ワタシにとって、海の上は、死の思い出でしかない。朧げな記憶の底にある、かつてのワタシが、アナタが沈んだ場所だから。また暗い水底に引き戻されそうで、とても、怖い。
フブキの震えが伝わる。記憶は同じだ。たまたま二つの人格を持っただけで、根幹にある〔吹雪〕の部分は変わらない。そう遠くはない昔、記憶の彼方にある、轟沈の感覚。本能的な恐怖があることは間違いない。
でも。
「それだけじゃないよ」
それだけじゃない。目の前に広がる海は、死の記憶を象徴するのみの存在ではない。それを教えてくれたのは、この鎮守府で共に過ごす、仲間たちだった。
「どこまでも蒼い海。潮の香り。風の音。飛び交う鳥。足元を泳ぐ魚。それだけじゃない、もっともっと、たくさんのものがある。そこはとてもとても、美しい世界だから」
両の手を胸元で重ね、微笑む。そこにいるフブキが、少しでも安心できるように。
「わたしが一緒にいる。いつでも、いつまでも、貴女と一緒にいる。だから大丈夫だよ」
吹雪の言葉に、胸の内で、フブキが微笑んだ気がした。
――連れて行って。ワタシを、アナタの見てきた世界に。静かな海の、その向こうまで。
時間だ。大淀が出撃と艤装の装着を命じる。出撃する艦娘たちがその命令を復唱し、出撃レーンへと飛び出した。
吹雪もまた、大きく息を吸い込む。
目を見開き、前を見据える。出撃レーンの先、無限の蒼を湛えた、母なる海を。
「第一基幹艦隊付き第三水雷群所属、駆逐艦吹雪、艤装装着に入ります!」
一歩を踏み出す。
行こう。
これは、わたしたちの、終わりへの船出だ。
(完)
これにて完結です!
劇場版はもう、好きなシーンが多すぎて語りつくせないのですが…どちらかというと、戦闘メインで進めてまいりました。
あの一時間四十分の映画の中では語りきれなかったことが、きっとまだまだたくさんあったはず…そう思いながら、妄想を膨らませた次第です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。