再会(一)
懐かしい声だった。
どこで聞いたのか、いつ聞いたのか。それははっきりと思い出せなかった。でも確かに、聞いたことのある声だ。記憶の片隅にあった声だ。
寂しげな声。そう、そのように聞こえた。
誰かを探しているような、そんな声。
何かを諦めているような、そんな声。
頼りを求める、幼子のような、そんな声。
それが堪らなく切なく。それが堪らなく愛おしく。
天を仰ぎ、目を閉じる。心持ちは自然と穏やかになっていた。
「大丈夫」
◇
その報せが飛び込むや否や、睦月は息が切れんばかりの勢いで走っていた。
いや、実際息は切れていた。全速力など遥かに超えてしまうほど、半ば無意識のうちに前へ踏み出し、通路という通路を駆け抜ける。すれ違う艦娘たちを気にも留めない。
辿り着いた先は、海沿いに設けられた工廠だった。すでに海面から随分と離れ、元気に辺りを照らし始めた太陽光の中で、鉄製のドアが橙色に輝く。その前で足を止め、膝に手を置いて息を整えた。
ドアにかける手が震える。その先に待つものへの恐れ、そして渇望。感情がない交ぜになり、逆に頭の中は真っ白になっていた。
ドアを開いた先に、見知った二人の姿があった。ベンチに腰掛けるのは、同室でもある二人の艦娘、吹雪と夕立。音に気づいたのか、二人がこちらを見る。
「吹雪ちゃん、夕立ちゃん!」
「睦月ちゃん!」
ほとんど倒れ込むようにしてベンチに駆け寄った睦月を、二人が抱き留める。わずかに呼吸は落ち着いたが、相変わらず思考はちぐはぐなままだった。
「どこっ!どこにっ!」
「睦月ちゃん、落ちついてっぽい!」
なだめるような夕立の声。けれども、落ち着いてなどいられない、というのが睦月の正直なところだった。
「今、中で明石さんが検査をしてる、って」
肩に手を添えたまま、吹雪が木製扉の向こう側を目線で示す。艤装調整室と書かれたそこは、出撃後の艦娘や艤装の状態を確認する部屋だ。
「検査、って」
「大丈夫っぽい。念のためっぽい」
睦月の不安を察したのか、夕立が説明してくれた。ドロップした艦娘は、誰しもが受けるのだそうだ。
何度か深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻した睦月は、勧められるまま、ベンチに腰を下ろす。それからのたった数分間が、まるで永遠のようにすら感じられた。
早く会いたい。その想いだけが、時を経るにつれて積もっていく。
ガチャリ。木製の扉は、全くの唐突に開いた。三人分の眼がその方向を見る。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、工廠を取り仕切る工作艦明石だった。喜色を滲ませた笑みをこちらへ向けている。
「終わりましたよ。もう大丈夫」
そう言って一杯まで開かれた扉から出てきたのは、一人の少女だった。
睦月は息を飲む。
腰まで届くかという長い髪。艶を秘めた愛らしい瞳。透き通るように白く滑らかな肌。華奢でありながら包容力のある体つき。そしてこちらを窺う儚げな仕種。それらが差し込む太陽の光に照らされ、幻想的に輝いていた。
喉まで出かかっていた言葉が、出てこなかった。
間違いない。見間違うはずがない。
それは睦月にとって、とてもとても大切な人。
「……如月……ちゃん」
絞り出すようにして、彼女の名前を呼ぶ。如月もまた、睦月を見つめていた。
「睦月……ちゃん?」
少しかすれた声。それでもはっきり聞き取れた声。
これは夢などではないのだ。
震える手を如月へと伸ばす。恐る恐る、その頬に触れる。きめ細かい柔肌が感触を返す。彼女の温もりも感じる。親指で触れた唇は、変わらず薄いピンク色で潤っていた。
されるがままだった如月が、その手を睦月の手に重ねた。よりはっきりと、如月の感触が伝わって来た。
如月が柔らかく微笑む。それはいつか、彼女と初めて出会った時と似た笑顔だった。
「帰って……来た」
こぼれる想いを止めることはできなかった。目もとで溜まった涙が流れだす。それを見られたくなくて、睦月は俯きがちに頷いた。何度も何度も、頷いた。
如月を抱きしめる。ほんの少し高い背。柔らかな感触。お日さまの薫り。
「お帰りなさい……お帰りなさいっ!」
泣き笑いで腕に力を込める睦月を、如月はそっと撫で続けていた。
しばらくして落ち着いた睦月たちに、明石が軽く如月の状態を説明する。
「体は特に異常なし。元気そのものよ。しばらくは経過観察が必要だけど、隔離までするようなレベルじゃないし。如月ちゃんも、睦月ちゃんたちと一緒の方が落ち着くだろうしね」
三人が目を輝かせる。殊更嬉しそうに吹雪が言った。
「よかったね、如月ちゃん!」
その言葉に、如月は困惑した様子で眉を下げる。
「あの……あなたたちは……?」
今度は吹雪と夕立が困惑する番だった。
フォローをするのは明石。
「如月さん、記憶が完全じゃないみたい。でも一時的なものだと思うから、心配しないで」
「そう、なんですか……」
どこか寂しそうに、吹雪と夕立が頷く。如月も申し訳なさそうに眉をハの字にしていた。
「大丈夫だよ。睦月のこと、憶えてたんだもん。二人のことも、きっと思い出すよ」
「……うん、そうだよね」
睦月の言葉でいつもの明るさを取り戻し、吹雪が笑った。
「改めて、わたしは駆逐艦吹雪。よろしくね、如月ちゃん!」
「夕立っぽい!よろしくっぽい!」
そう言って差し出された手に、如月は嬉しそうに応えていた。
艦娘寮(といっても、コテージのような平屋の建物だが)に如月を案内するべく、三人は工廠の出口へと向かった。丁度その時、工廠の扉が開かれる。入ってきたのは、赤城と加賀、二人の空母艦娘だった。
二人が如月を認める。
「お久しぶりね、如月さん」
赤城が微笑む。如月の表情を覗き込むようにした彼女は、満足げに頷いた。
「顔色もいいし、元気そうね。何よりです」
加賀の表情は相変わらず変化に乏しいが、どこか安堵した雰囲気で肩を落としていた。
「赤城さんたちは、どうして工廠へ?」
尋ねた吹雪に赤城が答える。
「明石さんを呼びに来たの」
そう言われた明石は、何かを準備するのか、工廠の奥へと駆けていく。その様子を見て、赤城が苦笑した。それから如月に向き直る。
「今日はしっかり休みなさい、如月さん。案内をよろしくね、睦月さん」
そう言ってピッと敬礼を決める。凛々しい立ち姿だが、目元だけが柔らかく微笑んでいた。
「駆逐艦如月の帰還を、心より歓迎します」
目を真ん丸に見開いていた如月は、患者着のまま踵を合わせ、敬礼を返す。それを確認した赤城の表情は、ますます柔くなっていた。
ただ一人、加賀の表情が晴れないことに、その場の誰も気づいていなかった。